継続戦争 単語


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ケイゾクセンソウ

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継続戦争とは、第二次大戦中に行われたフィンランド対ソ連の戦争である。

経緯

隣国ソ連からの理不尽な要求を断固拒否したフィンランドは、1939年11月30日よりソ連軍の侵略を受ける。後の世に言う冬戦争の始まりである。迎え撃つフィンランド軍は寡兵ながらも、地形と気候を最大限に活かして反撃。数に勝るソ連軍を翻弄し、大出血を強いた。独立は守り抜いたものの、物資に乏しいフィンランドはやむなくソ連と休戦条約を結び、1940年3月13日に一応の終結を見た。しかし工業地帯のカレリア地方はソ連に持っていかれ、無理な戦争のしわ寄せは国民を苦しませた。小国に敗退して面目を潰されたソ連はフィンランドへの嫌がらせとして禁輸を行い、経済状況は悪化の一途を辿った。ソ連の怒りに触れる事を恐れたノルウェーとスウェーデンは中立化し、フィンランドは世界から孤立しつつあった。

苦しみに喘ぐフィンランドに救いの手を差し伸べたのはナチスドイツであった。ドイツはフィンランドと積極的に貿易を行い、支援。民生品の9割がドイツ製になるほどだった。両国は急接近し、1940年8月に密約を結んで領内にドイツ軍が進駐。これにより事実上枢軸国入りを果たす。フィンランドはドイツの戦争遂行に必要なニッケルとモリブデン等を供出し、その見返りに食糧や工業品を受け取った。生き残るために仕方なくドイツに接近したフィンランドであったが、世界からは枢軸国への歩み寄りとしか認識されなかった。

冬戦争を経たフィンランド軍は、急速に近代化が進んでいた。戦争終結後に届いた各国からの武器や、ソ連軍から鹵獲した兵器によって戦力を増強。ドイツ軍を模した機甲師団を編成した。アメリカからは東洋最強の戦闘機と名高いブリュースター・バッファロー戦闘機が届き、空軍も強化された。1941年6月14日、ドイツ海軍から援軍として送られた機雷敷設艦6隻や魚雷艇19隻などが到着。バルバロッサ作戦の直前には、国力の限界を超えて53万人の兵士が動員された。その中には女性兵士の姿もあった。

6月21日、フィンランド海軍は3隻の潜水艦を派遣してエストニア沿岸に機雷を敷設。これに呼応してドイツ海軍もフィンランド湾口に二重の機雷原を設置し、バルト三国の港湾を機雷封鎖。

継続戦争

開戦初期

1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を開始。300万ものドイツ陸軍が一斉にソ連へと侵攻した。これに呼応してフィンランド国内のドイツ軍も侵攻開始。当初フィンランドは中立を表明。国内からは「ドイツ軍と協力して失地回復すべし」という声が上がっていたが、冬戦争の再現を避けたいマンネルヘイム元帥は「刹那主義には賛同できない」と諌めた。しかし自国領を通過するドイツ軍を、ソ連軍爆撃機が領空侵犯して爆撃。更に首都ヘルシンキやトゥルクにも爆撃を加えてきた事で状況が一変。6月25日、再び領空侵犯してきたソ連軍の爆撃機隊をフィンランド軍の戦闘機が迎撃し、26機を撃墜。この戦闘を以って事実上交戦状態に入った。6月26日にフィンランドもソ連に対し宣戦布告し、反撃を開始した。

「我々は平和を望んでいた。しかしソ連の爆撃で戦争状態へ突入せざるを得なくなった」(リュティ大統領)

フィンランド政府は「ナチスとは無関係」「これはフィンランドとソ連の戦争で、冬戦争の継続である」として継続戦争と呼称。ドイツからユダヤ人の引き渡しを要求された時も断固拒否している。しかし連合軍からは枢軸国扱いされて宣戦布告もしくは断交を受けた。冬戦争の継続とあるように、フィンランド軍の目的は不当に奪われたカレリア地方の奪還であった。ドイツ軍とともにフィンランド軍50万が越境し、ソ連領内へと侵攻。ドイツ軍はレニングラードに向かったが、フィンランド軍はラドガ湖北部へと進撃。先陣を切ったのはエルンスト・ルーベン・ラガス大佐率いる唯一の機甲師団であった。先の冬戦争で鹵獲したソ連製のT-26軽戦車を中心に編成されており、ソ連軍は自軍の戦車に攻撃される羽目になった。

7月にはカレリア地方に踏み入れ、現地のソ連軍守備隊と激突。敵の準備が整っていない隙を上手く突き、ヴィープリ市を奪還。8月末に西カレリア地方そのものを奪還した。この時にT-34/76中戦車やKV-1重戦車を鹵獲し、自軍に組み込んでいる。ところが無茶な戦争の遂行は、国内産業に大きな打撃を与えた。数々の物資が欠乏し、中でも食糧品の不足は深刻だった。足りない物はドイツからの輸入に頼っており、ドイツからの要請を断りきれなくなってきた。9月4日、ムルマンスク鉄道遮断を要請され、フィンランド軍は東カレリアに進撃。ドイツ軍の支援があったのと、ソ連軍の士気が異常に低かった事もあって攻略は順調に推移した。というのも東カレリアのソビエト兵士は元フィンランド人で、多くが武器を持って投降してしまった。諸都市も諸手を挙げてフィンランド軍に降伏していった。一応、ロシア系の住民もいて彼らは頑強に抵抗。激闘の末、フィンランド軍は10月1日にペトロザボーツクを占領し、無事ムルマンスク鉄道の遮断に成功した。その後も快進撃を続け、12月に第二の都市メドベルジュゴルスクを占領。ここで豪雪に遭い、フィンランド軍の進撃は止まった。同時期、包囲していたハンコ岬のソ連軍3万も降伏し、フィンランド領内からソ連軍は消えた。こうして冬戦争以前の国境線を取り戻す事に成功した。目的を達成したフィンランド軍は進撃を止め、カレリア一帯に防衛線の敷設したり、ドイツ軍の支援作戦を行う程度に留めた。ドイツ軍からレニングラードの包囲に加わるよう要請があったものの拒否している。このためドイツ軍やルーマニア軍との共闘は殆どしていない。

中期

1941年12月8日、大日本帝國が枢軸国として参戦。これに伴ってイギリスから宣戦布告を受けるが、前々から同情的だったためかフィンランド軍に対し軍事作戦は行っていない。アメリカに至っては宣戦布告すらしなかった(ただし断交はしている)。当初、フィンランド軍はソ連からの和平提案を全て蹴っていた。

1942年夏、ドイツ軍は夏季攻勢に転じ、コーカサス地方まで進出。フィンランド軍にレニングラード攻撃に参加するよう再度要請を行ったが、これも拒否している。ドイツ軍に対する支援といえば、空軍がムルマンスク鉄道を攻撃したくらいであった。この頃はソ連軍もフィンランドを攻撃する余裕は無く、小規模な攻撃に留まっていた。同年12月、スターリングラードの戦いでドイツ第6軍が降伏し、30万人が捕虜となった。この敗報を受け、リュティ大統領はドイツの敗北を予期。戦争の早期離脱を考え、内閣を改造する。また、言うことを聞かないフィンランドに業を煮やしたヒトラー総統は、親独派によるクーデターで政権を転覆させる研究した事もあった(実行はされなかったが)。

次第にドイツ軍が押されるようになり、戦線はフィンランド側へと押し寄せてきた。これを機に1943年からフィンランドはソ連との単独講和の道を模索し始めたが、ドイツの反対によって難航。それどころかスウェーデンで行われたフィン・ソ秘密協議をドイツに暴かれ、制裁として食糧の禁輸を受けてしまう。国内の食糧供給をドイツに頼っていたフィンランドにとって禁輸は死活問題で、戦争を継続すると伝えて許しを乞うた事で再開してもらっている。ソ連軍がフィンランドを攻撃する余裕は未だ無かったが、代わりに赤軍パルチザンを国内に送り込んで破壊工作を仕掛けてきた。パルチザンは共産主義者やドイツ軍に家族を殺された者達で構成されており、手段は残忍かつ過激なものだった。傍若無人な赤軍パルチザンを掃討するため、フィンランド軍は部隊を派遣。元々狩猟が得意な民族だったため、1943年中にほぼ殲滅された。その手並みに、いつもパルチザンに手を焼いているドイツ軍は感心したという。苦難が続くフィンランドに、意外なところから助け舟が来た。1943年11月末、イランのテヘランでチャーチル、ルーズベルト、スターリンが会談を行った。枢軸国からの講和は一切認めない事で合意したが、フィンランドに同情的なチャーチルは「唯一フィンランドのみ分離講和を認める」と発表。講和という逃げ道を作っておいてくれた。

1944年1月、ソ連軍がレニングラードの包囲網を打ち破り、そう遠くない場所が戦場と化す。そこでフィンランドは翌2月にソ連へ講和を持ちかけた。ところがソ連から突きつけられた講和条件は過酷なものだった。それは「独力で国内のドイツ軍を排除する事」。当時のフィンランド軍の戦力では到底不可能であり、むしろ返り討ちに遭って全土を占領下に置かれかねない。イタリアやハンガリーがそうであったように。講和を諦めたフィンランド軍は、ひたすら防御を固める事にした。防衛線の構築はカレリア地方以外にも及んだ。各地の防御陣地は一層強化され、予備兵力の動員まで行われた。

流血の夏

そして1944年6月9日、ノルマンディー上陸に呼応してソ連軍もフィンランド侵攻を開始。5500門の火砲と900門近くのロケット砲がカレリア地方を耕した。これが「流血の夏」と呼ばれる3ヶ月の始まりだった。侵攻してきたソ連軍はドイツ軍との戦いで経験を積んだ精鋭部隊で、装備も冬戦争の頃とは比較にならないほどの強化を受けていた。T-34-85やスターリン重戦車といった新型戦車が多数投入され、フィンランド軍を蹴散らす。季節が6月なので気候も味方に出来ない。せっかく奪還したカレリア地方も手放さざるを得ず、撤退。無論ドイツ軍から最新鋭武器や三号突撃砲、パンツァーファウストなどが供与されていたが、それさえも霧散するほどの圧倒的な物量と暴力がフィンランド軍を襲う。ソ連軍はレニングラード方面軍とカレリア方面軍の戦力を投入し、フィンランド軍はほぼ全戦力を使ってこれを迎撃。Ⅲ号突撃砲は特に優秀で、ソ連軍の猛攻を押さえるフィンランド軍の主力兵器となりえた。空軍はバッファロー戦闘機を使い、敵機と交戦。この頃になると型落ちであったが、故障に強い設計から「空の真珠」と言われた。しかしながら性能差は覆しがたく、ドイツから供与されたメッサーシュミットBf109に刷新されていく事になる。奮戦するフィンランド軍であったが、4本のうち2本の防衛線を突破され、第二の都市ヴィボルグも失陥。6月21日、フィンランド軍は3本目の防衛線である「VKTライン」に集結。

フィンランド政府は枢軸国からの離脱や単独講和を打診したが、立場が逆転したソ連は無条件降伏以外認めないという方針を貫いた。フィンランドが単独講和をしようとする動きは当然ドイツ軍も察知していた。勝手に脱落しないよう、6月24日と27日にフィンランド湾で重巡リュッツォウ及びプリンツ・オイゲンを演習させて圧力をかけた。更にドイツ軍はフィンランドが単独講和した時に備え、タンネ・オスト作戦の準備も行っていた。これはスールサーリ島をソ連軍より先に占領する侵攻作戦であった。ドイツの圧力を受け、リュティ大統領は「最期までドイツと戦う」と宣言。納得の行く回答を得られたドイツ側は増援と武器を送った。

6月25日、タリ・イハンタラの戦いが生起した。無数にある湖沼や地の利を活用し、Ⅲ号突撃砲G型やパンツァーシュレックでソ連軍の戦車を40輌以上撃破。このうち修理できそうなものは鹵獲され、寡兵のフィンランド軍を支えた。その中にはT-34もあった。一方、空ではドイツ空軍から供与されたメッサーシュミットBf109Gを率いてウインド大尉が勇戦していた。ソ連軍航空隊のシュトルモビクやYak-9を次々に撃墜していった。ドイツ空軍のクールマイ戦闘団は対地攻撃を行い、100輌以上の敵戦車を撃破。6月27日から30日にかけての大攻勢でフィンランド軍は防衛線を突破されかけるも、粘り強く堅持。3倍以上の戦力を誇るソ連に、ドイツ・フィンランド軍の損害の4~5倍のダメージを与える事に成功。7月9日、ソ連軍は退却し同地の防衛に成功した。戦力が薄くなった東カレリアを奪取しようと、同方面にソ連軍が進撃してきたが、フィンランド軍の巧みな遅延戦闘で勢いを削がれ、あらかじめ構築されていた強固な防衛線にぶつかった事で停滞した。この頃、ソ連軍はバグラチオン作戦のために戦車部隊を集めており、フィンランド戦線からも引き抜かれた。これが影響して戦線が次第に膠着していく。

7月26日、ソ連とフィンランドの国境近くにある北カレリアのイロマンツィ村近郊で戦闘が生起し、イロマンツィの戦いが発生した。フィンランド軍の戦力は3個大隊程度だったのに対し、ソ連軍は2個師団を投入。継続戦争最後の大規模戦闘へと発展した。両軍ともに増援を送り、フィンランド軍は1万3000名に、ソ連軍は2万名に増強された。緒戦はフィンランド軍が制し、冬戦争で使用した「モッティ」戦法を実行。8月1日にはソ連軍唯一の退路を塞ぎ、包囲網が完成。包囲殲滅の危機を感じ取ったソ連軍は3個旅団を派遣し、森林を切り開いて退路を築こうとしたが、フィンランド軍の妨害で失敗。進退窮まったソビエト将兵は重火器や戦車を捨て、森の中を通ってどうにか撤退に成功した。放置された兵器は勿論フィンランド軍に鹵獲されている。8月10日、包囲下のソ連軍が武器を捨てて逃亡。イロマンツィの戦いはフィンランド軍の勝利で終わった。

だが、局地的勝利を重ねても大国ソビエトはビクともしなかった。それでも不利な戦況ながら不屈の闘志で戦い続け、何度も優勢なソ連軍を押し返しては計画に狂いを生じさせた。当初ソ連は無条件降伏以外認めない方針であったが、あまりにも頑強に戦うので考えに変化が生じた。フィンランドは小国ながらも強い。既にフィンランド軍の3倍に及ぶ損害が発生していた。しかも本丸はドイツなので、フィンランドを降伏させたとしてもドイツにダメージは入らない。フィンランド軍と戦う事に虚しさを覚えたソ連は、ついに講和の席につき、協議を開始した。交渉を行うたびにドイツから経済封鎖を受けたが、フィンランドの意志は堅かった。1944年9月2日、フィンランドはドイツとの断交を発表。翌3日、ドイツ軍第20山岳軍団はビアケ作戦(ラップランドからの撤退)を開始した。現地のドイツ軍はフィンランドの脱落を見越していて、あらかじめ撤退作戦の準備やフィンランド軍との打ち合わせを行っていたのである。続いて9月19日に休戦条約が成立。賠償金3億ドルの支払い、国境線を冬戦争後に戻す事、フィンランド湾のポルッカラをソ連の租借地にする事、軍備の制限、戦争犯罪人の処罰、全体主義団体の解体などの諸条件を受け入れ、フィンランドは正式に枢軸国から脱落した。翌20日、ソ連軍の進撃は止まった。

こうして継続戦争は終わった。だが領内にはまだ20万人以上のドイツ兵が残っており、彼らを巡って更なる受難が待ち受けていた。戦いはラップランド戦争へと続いていく。

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関連項目

  • フィンランド
  • 冬戦争(第一次)
  • 継続戦争(今ここ)
  • ラップランド戦争(第三次)
  • 第二次世界大戦

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