越蒙戦争 単語

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越蒙戦争とは13世紀にモンゴル帝国(大元ウルス)が3度にわたって大越(ベトナム)の陳朝を攻撃した出来事である。

概要

13世紀はユーラシア大陸全土をモンゴル軍団が暴れまわった時代であった。東南アジアにもその鋭鋒が向けられ、チャンパーやジャワなどがモンゴルの攻撃を受けた。その一環として大越国にも侵略が行われ、とりわけ世宗クビライが南宋を打倒した後に差し向けられた第二回、第三回侵攻は巨大なものであった。迎え撃つは陳朝である。

大越王チャン・ニャン・トン(陳仁宗)とチャン・クォック・トアン(陳興峻)将軍は元軍に国土を蹂躙されながらも、焦土作戦とゲリラ戦による粘り強い戦いを続け、最後にはバクダン江(白藤江)の戦いで大勝し、元の侵略を追い返すことに成功した。その後四度目の攻撃が計画されていたが、クビライが崩御したため実行されることはなかった。

大元ウルスの日本攻撃(元寇)と陳朝攻撃は近い時期に行われており(弘安の役が1281年。第二回遠征が1285年、第三回が1288年)日本の三度目の遠征が中止された理由の一つに大越遠征を優先したというものがある。そのため間接的にではあるが、我が国の歴史を変えた戦いとも言えるかもしれない(高麗などはモンゴルに6回も攻撃され降伏している)。

第一回侵攻

北の大国、金を倒したモンゴル帝国は次に南宋を滅ぼそうと画策していた。北方民族にいつも敗北しているイメージのある宋であるが、実際は当時の世界でトップクラスの経済力を持った超大国である。無敵のモンゴル軍団も南宋には手痛い敗退を強いられたこともあった。そこでモンゴルは南宋を南北から挟み撃ちにしようと1257年に大越に使者を送り、モンゴル兵の通過を許可することを求めた。

陳朝はこれを拒否したためモンゴルはウーリャンハタイ将軍を派遣し、大越に攻撃を仕掛けた。強大な軍事力を持つモンゴル軍により陳朝の首都タイロンは陥落し、チャン・タイ・トン王は命からがら逃げ出した。しかしモンゴル軍は現地で食糧が確保できずまた熱帯の蒸し暑さに辟易し、全軍を引き上げた。この時、後に救国の英雄となる陳軍のチャン・クォック・トアン将軍はモンゴル軍を追撃し、散々に打ち破った。

第二回侵攻

その後大越は、モンゴル帝国を継ぎ大元ウルスの皇帝となったクビライに朝貢を開始する。歴代中国王朝の侵略に対して軍事抵抗した後に朝貢して、宗主国の顔を立てつつ独立を維持するのは今後も受け継がれてゆくベトナムの処世術である。だが南宋の首都である臨安を陥落させた元は陳朝に対して新たに要求を突きつけてきた。

  1. 大越王の来朝
  2. 人質として王の子弟を寄越すこと
  3. 大越の戸籍簿の提出
  4. 軍役を負うこと
  5. 租税を負うこと
  6. 地方官を置くこと

大越王のチャン・ニャン・トンがこの苛求を突っぱねたことによって1285年、ウマル将軍を総大将とする元の大軍勢が大越に攻撃を開始した。人類史に名を連ねる最強軍団の前に陳軍は投降が相次ぎ、首都も陥落した。元軍によって虐殺される国民に心が痛んだ王は降伏を決意しようとしていた。その時チャン・クォック・トアン将軍はこう述べた。

「陛下の仰せはもとより人道の合する所であります。只、降伏するのであれば、降伏に先立って私の首を刎ねて頂きたい。私がいる限り我が国は絶対に滅びることはありません」

これに勇気を得た王は徹底抗戦を決意した。

元兵はさらにトアド将軍に50万もの大軍勢を預け、南から大越を攻撃した。元軍は向かうところ敵なし状態であった。

だがそれでも元軍は大越を屈服させることは叶わなかった。陳軍は山岳地帯やジャングルに身を潜め、ゲリラ戦を展開した。また農民たちは食糧を隠し逃げ回ったためモンゴル兵は食糧に不安を抱えていた。そして熱波も同時に元軍に襲いかかる。それは700年後に同じく超大国アメリカを参らせたのと似た戦法である。やがて風向きは大越に向き始める。陳軍はトアド将軍を討ち取りウマル将軍を敗走させ、首都奪還にも成功する。元軍は50万の半数を失い撤退せざるをえなかった。

首都に戻ったチャン・ニャン・トン王は獲得した捕虜数万人を全て国に返した。これは外交の材料でもあるが、敵兵にかけられた温情として今でもベトナム人たちの語り草となっている。ちなみに元寇での鎌倉武士たちは捕虜を全員処刑ないし奴隷にしている。

第三回侵攻

1286年、大元ウルスは3度目の正直を狙って南下を開始。前回の失敗を踏まえて大艦隊による食糧の輸送が計画されていた。陳朝もこれを予想して艦船を準備していた。大海戦が予期される布陣である。

元軍総大将は前回の戦で棺に隠れて敗走した苦い経験を持つトアホアンであった。また同じく前回痛い目をみているウマル将軍も大越王の首を獲らんと意気を盛んにしていた。例によって元軍は鎧袖一触。陳朝の都を陥落、炎上させるに至る。しかし陳軍も勇敢に戦っていたため、元軍は築いた堡塁に膠着させられていた。

一方で海戦では陳軍のチャン・カイン・ズ(陳慶余)将軍が元軍の食糧を運んでいた艦隊に奇襲をかけ、大勝を収めていた。食糧がなくてはどうにもならないと元軍は撤退を開始する。これを読んでいたチャン・クォック・トアンはファム・グ・ラオ(范五老)将軍に撤退する元軍の道を断たせる一方で、自らはウマル将軍が率いる元の水軍のいるバクダン江に向かった。

バクダン江でチャン・クォック・トアンは引き潮の間に河に杭を打ち、戦いが始まると満潮の間は逃げ回り、再び引き潮になったとき杭によって動けなくなった元の海軍を散々に打ち破った。この杭の奇策は10世紀のベトナムの英雄ゴ・クエンの用いた軍略を踏襲したものであった。

こうして陸でも河でも勝利を得た陳朝は元の撃退に成功した。その上で陳王は捕虜の返還と元を宗主国として仰ぐことによってこれ以上の元の攻撃を避けようと試みた。だがクビライはこれを許さず、4度目の大越侵攻を企てたが1294年にクビライの死によって頓挫することとなった。

関連項目

  • 歴史
  • 世界史
  • ベトナム
  • モンゴルの歴史
  • 大元ウルス
  • クビライ
  • 元寇


参考文献

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