遠藤保仁 単語


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遠藤保仁(Yasuhito Endo, 1980年1月28日 - )とは、日本のサッカー選手である。J1リーグのガンバ大阪に所属。

ポジションはMF。178cm75kg。利き足は右足。

概要

鹿児島県鹿児島市生まれ。ニックネームはヤットであり、愛称はガチャピン。

長らく日本の心臓と呼ばれた日本代表の中心選手であり、日本代表の国際Aマッチ最多出場記録保持者。公式戦の出場試合数は1000試合を超えている。

19年在籍しているガンバ大阪では、2度のJリーグ優勝を果たし、2014年には国内三冠を達成。Jリーグベストイレブンには、歴代最多の12回選出。2008年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝。2009年アジアサッカー連盟最優秀選手を受賞。

実の兄である遠藤彰弘もアトランタ五輪に出場した経歴を持つ元プロサッカー選手である。長短織り交ぜたパスで緩急をつけることができるゲームメーカーであり、ペナルティキック、フリーキックの名手としても知られる。

生い立ち

三兄弟の三男として生まれ、2人の兄がサッカーをやっていた影響で物心ついたときからボールを蹴り、兄たちと遊びつつ、ワールドカップのビデオを見て気に入ったプレーを真似ることで高い技術を磨いていった。小学生の頃はドリブラーだったが、中学生になってからボランチとしてプレーするようになり、この頃にアシストやパスの楽しさを覚え、現在のプレースタイルの原点を生み出している。

高校は2人の兄と同じ全国的にサッカーの強豪校として知られる鹿児島実業高校に進学。1年生のときに第95回全国高校サッカー選手権に出場し、優勝。2年生のときには高円宮杯優勝、高校選手権ではベスト8で敗れたものの、大会優秀選手に選出。また、2年生の頃にサッカー部のブラジル人コーチであるゼ・カルロスの勧めで1カ月間のブラジル留学を経験。高校時代に輝かしいキャリアを残し、プロの道へと進む。

クラブチームでのキャリア

1998年にJリーグの横浜フリューゲルスへ入団。後にリオネル・メッシの才能を見出したことでも知られるカルロス・レシャック監督に才能を高く評価され、1998年3月22日Jリーグ開幕戦である横浜マリノス戦にルーキーながらスタメンに抜擢される。8月1日の鹿島アントラーズ戦ではプロ初ゴールを記録。レシャックが解任されて以降は出場機会が減ったが、プロ1年目で公式戦20試合に出場し、順調なプロキャリアのスタートを切ったかに見えた。しかし、チームはマリノスとの合併により消滅してしまう。

1999年フリューゲルスに所属していた他の若手選手とともに京都パープルサンガに移籍。同じ年に移籍してきた三浦知良とチームメイトになる。所属した2年間でレギュラーを掴み、得点数も増えるが、チームは下位に沈み、度重なる監督交代で混乱が生じていた。2000年シーズンで京都はJ2降格となり、これに伴って退団を決意する。21歳にして2度の移籍を経験する波乱万丈なプロキャリアとなった。

2001年にJリーグで3チーム目となるガンバ大阪へ移籍。同世代であるシドニー五輪世代の選手が多く揃う環境の中、稲本潤一がアーセナルに移籍したこともあり、中盤の柱として期待されるようになる。2002年に西野朗監督が就任し、攻撃的なスタイルのサッカーと自身のプレースタイルが見事にマッチ。中心選手としてチームを過去最高の年間3位に押し上げる。2003年から背番号「7」を付けるようになり、この年のJリーグベストイレブンに選出され、以降2012年まで9年間連続で選出されるという偉業を成し遂げる。

2005年はガンバにとっても遠藤にとっても大きな転機のシーズンとなる。中盤戦以降、アラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョといった強力攻撃陣を操る司令塔として爆発的な得点力を演出。チームの初タイトルがかかったジェフユナイテッド千葉戦とのヤマザキナビスコカップ決勝では、PK戦で立石智紀に止められプロ入り初のPK失敗を経験。惜しくもタイトルを逃す。しかし、リーグ戦では終盤戦まで優勝争いを演じ、最終節の川崎フロンターレ戦ではPKで決勝ゴールを記録。チーム初タイトルとなるJリーグ優勝に貢献。総得点82を記録した攻撃陣の中、自身も初のシーズン二桁得点となる10得点を挙げた。

2006年シーズンは、1列前の攻撃的MFで起用されることが増え、二川孝広、橋本英朗、明神智和と共に「黄金の中盤」と称されたカルテットを形成。抜群のパスワークで他チームを圧倒していたが、10月の日本代表のインド遠征の際にウィルス性肝炎を発症。1か月以上の戦線離脱を余儀なくされる。Jリーグ最終節優勝のかかった浦和レッズとの直接対決で復帰するも、試合に敗れ連覇を逃す。2007年は大きな怪我や病気も無くフル稼働。リーグ戦では全34試合に出場。また、ナビスコカップは決勝まで進み、川崎フロンターレを下して優勝に貢献する。

2008年は、チームと代表での過密日程が続いたこともあり、6月末にウィルス性肝炎を再発させてしまう。結果、オーバーエイジ枠での出場が見込まれていた北京五輪に出場できず、遠藤が離脱したことでガンバも不振に陥ってしまい、優勝争いから早々と離脱してしまう。一方、復帰後のAFCチャンピオンズリーグ(AFC)ではアシストを連発し、チームを勝ち上がらせる。特に、準決勝の浦和戦では、2試合で2得点2アシストという全得点に絡む獅子奮迅の活躍を見せ、チーム初となるアジア制覇に貢献。大会のMVPも受賞する。12月には、日本で開催されたFIFAクラブワールドカップに出場。準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では、得意のコロコロPKでゴールを決め、試合後アレックス・ファーガソン監督が称賛するほどの活躍を見せた。さらに、超過密日程の中で天皇杯も決勝まで勝ち上がり、延長戦の末に柏レイソルを破って優勝。これで国内3大タイトル全てを経験したことになる。この例を見ない多忙だったシーズンでの活躍が認められ、この年の日本年間最優秀選手賞を受賞。

2009年は、ポジションを代表と同じボランチに戻しながらも、自身二度目となるリーグ戦二桁得点を記録。11月には、なぜかこの年に日本人としては5人目となるアジア年間最優秀選手賞を受賞。2010年元旦の天皇杯決勝では、名古屋グランパスを相手に2ゴール1アシストの大車輪の活躍を見せ、連覇に貢献。だが、W杯イヤーとなった2010年は代表との過密日程でコンディションが安定せず、不調に陥る。遠藤の調子が落ちるとチームの調子も落ち、開幕から5試合未勝利が続く。後半戦に宇佐美貴史の台頭もあってチームは立ち直り、自身もW杯後は例年通りの水準のプレーを見せていた。しかし、過密日程の影響は2011年にも見られ、右足内転筋の負傷によって8月以降、シーズン終盤までプレスキックが蹴れない時期が続いた。

前年度で10年間続いた西野体制が終了し、2012年から新たなスタートを切ったチームだったが、開幕から公式戦5連敗という予想以上の低迷期を迎える。低迷するチームの中で孤軍奮闘を見せ、J1第15節コンサドーレ札幌戦では、当時のJリーグ歴代1位となる16度目のFKからの直接ゴールを記録。7月21日に開催された東日本大震災復興支援のJリーグスペシャルマッチでは、サポーター投票で最多得票を集める。だが、極度の不振に陥ったチームの歯車はとうとう最後まで噛み合わず、まさかのJ2降格の悪夢を味わうことに。9年連続で選出されたJリーグベストイレブンもこの年で記録が途切れることとなった。

オフに移籍する話も浮上していたが、2013年もガンバに残留し、自身初となるJ2を戦うことに。さらにこの年、チームのキャプテンを任されることとなった。日本代表との兼ね合いによってシーズンの4分の1は欠場することとなったが、夏に宇佐美がチームに復帰したこともあり、ヴィッセル神戸との首位争いを演じる。シーズン終盤は前線で起用されるようになり、J2優勝によって1年でのJ1復帰を果たす。

J1復帰となった2014年は、開幕当初は引き続き前線で起用されたが、極度の不振に陥り、らしくないミスを連発していた。4月以降今野奏幸とダブルボランチを形成するようになるが、本来のプレー水準には達しておらず、チームも前半戦は降格圏の16位にまで低迷。しかし、ブラジルW杯の中断期間明けからは、休養を取れたことと代表に呼ばれなくなったことで調子を取り戻し、司令塔としてV字回復を見せたチームを牽引する。11月3日のナビスコカップ決勝サンフレッチェ広島戦では、2点ビハインドの状況からパトリックのゴールをアシストし、逆転劇の呼び水となり7年ぶりの優勝に貢献。リーグ戦ではフィールドプレイヤーでは唯一となる全試合フル出場を果たし、最大差14点からの大逆転での優勝を果たす。また、12月開催となった天皇杯も制し、J1昇格1年目にして史上2チーム目となる国内三冠を達成。この年のJリーグアウォーズでは、自身初となるJリーグ最優秀選手賞を受賞している。

2015年も2年連続でリーグ戦全試合フル出場を果たし、若返ったチームをベテランとして牽引。CS決勝で広島に敗れ、リーグのタイトルは逃したが、天皇杯決勝の浦和戦でコーナーキックからパトリックのゴールをアシストし、連覇に貢献。2年連続でJリーグベストイレブンにも選出されている。2016年も3年連続でリーグ戦全試合に出場。10月29日のアルビレックス新潟戦でJ1通算100得点を達成。

2017年は4月のACLでの失点に絡むミスなど不調に陥り、ゴールデンウィークの時期にかけてスタメンを外されることとなり、一部では限界説が囁かれるようになる。それでも、徐々に調子を取り戻すが、秋以降クラブワースト記録となる13試合未勝利を味わう。2018年にはフィールドプレイヤーとしては史上初となるJ1通算600試合出場を達成。2019年は、さすがに常時出場は厳しくなり、試合途中から出場することも多くなったが、それでも出場すればチームのリズムを変える重要な働きを見せ、健在ぶりを見せる。8月8日のJ1第21節ヴィッセル神戸戦では、プロ22年目で日本人選手としては史上初となる公式戦1000試合出場となる偉業を成し遂げる。

40歳を迎えての2020年も現役としてピッチに立つ。2月23日のJ1開幕戦横浜F・マリノス戦でスタメンフル出場を果たし、21年連続開幕スタメンを果たす。

代表でのキャリア

U-20日本代表として第10回ワールドユース選手権準優勝。2002年にサッカー日本代表に
初招集。2006 FIFAワールドカップに参加したが試合出場は無かった。
イビチャ・オシム監督以降は中盤の核を担う選手となる。

岡田武史監督就任後も代表の中心であり、2010FIFAワールドカップメンバーに選出されたのを
機に、現在まで全試合に出場している。
(国際Aマッチ出場数は、井原正巳を抜き歴代1位を誇る。)
デンマーク戦では決勝ゴールとなる美しいフリーキックを決めた。
試合での走行距離はチーム1で、ラウンド16終了時点での全選手中でも5番目であった。

ペナルティーキック

遠藤のPKは非常に独特である。ゴールキーパーの逆を突くことに重きをおき、自分の足元は見ず
キーパーをじっと見て、「逆が突けるのであれば」ボールのスピードを必要最小限にして蹴り、
キーパーが動かないようなら」ゴール隅にキーパーが取れない速度で蹴る。
遠藤の正確なキックと集中力のなせる技である。通称:コロコロPK。
しばしば(尊敬と畏怖をこめて)エロイ、エロスと評される。

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関連項目

  • 遠藤保仁変態PKリンク集
  • R-18
  • PK職人
  • 立石智紀
  • ガチャピン
  • ガンバ大阪
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