ガダルカナル島の戦い(1942年8月7日 - 1943年2月7日)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)の戦いの一つである。
米豪を結ぶこの島に建設された飛行場をめぐり、日米双方の消耗戦が繰り広げられた。
特に日本陸軍にとって海軍のミッドウェー海戦と並ぶターニングポイントとも言われている。
戦いまで
42年6月にミッドウェー海戦で敗戦した日本軍だが、米豪遮断作戦の為のソロモン諸島の制空権確保は継続中であった。
制空権確保のために選ばれたのがガダルカナル島であり、そこでは日本軍の設営隊と海軍陸戦隊が飛行場建設を行っていた。
しかし、現地の諜報員によりアメリカは日本軍の行動を察知し、7月に対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦」発令。
その時の日本軍はアメリカの反抗時期を来年以降と想定していた・・・
米軍上陸~イル川渡河戦
8月7日、アメリカ海軍の猛烈な艦砲射撃とともに約11000人の海兵隊第1海兵師団が上陸。この時多くの部隊が眠っていたため完全な奇襲となり、飛行場は難なく占領され、内地への潜伏を余儀なくされる。後に飛行場はミッドウェー海戦で空母「飛龍」に特攻を敢行し戦死したロフトン・R・ヘンダーソン少佐に因み「ヘンダーソン飛行場」と命名された。同時期にはツラギ島にも上陸し日本軍は玉砕することになる。
8月9日、「第一次ソロモン海海戦」が勃発、夜戦において連合軍の重巡洋艦4隻を撃沈したものの反撃を警戒したため、後方にいる輸送部隊への攻撃は中止された。一方のアメリカ軍もこの敗戦の報告を受け、十分な揚陸が出来ないまま物資の揚陸を中止、島は「餓島」となっていく。だが、その時引き揚げられた重火器類が島の戦いに大きな影響をもたらすことになる。
8月19日、一木清直大佐率いる一木支隊約900人が駆逐艦「陽炎」に乗船し島東部のタイポ岬に上陸。この時アメリカ軍は偵察目的であり兵力をせいぜい2000と見積もっていた。
8月20日夜、飛行場へ向かい西進する一木支隊はイル川にて海兵隊と遭遇(「イル川渡河戦」)。戦力差は明らかであり21日未明には砲弾と機銃により包囲殲滅され一木支隊900人中800人が戦死、その後、一木清直大佐は拳銃により自決。海兵隊の戦死者はわずか40名ほどであった。
この「イル川渡河戦」はアメリカ軍にとってツラギ島の戦いと同じく陸における初勝利といわれている。
第一次総攻撃
8月23日-24日には「第二次ソロモン海海戦」が勃発。空母「龍驤」撃沈、空母「サラトガ」大破という結果に終わった。その間、飛行場には護衛空母が航空機の揚陸を行い航空戦力はますます充実していく。
制空権を取られ、高速の輸送艦もない日本軍は夜間に速度の速い駆逐艦を用いた「鼠輸送」を用いて、兵員や物資の輸送を行っていくことになる。駆逐艦が一列に並び輸送する姿を見たアメリカ軍はそれを「東京急行」と呼んだ。
9月7日、川口支隊が上陸したが空襲により満足な物資が揚陸できなかった。正面突破は無理と悟った川口支隊は迂回してジャングルから奇襲する作戦を建てたが、満足な土木設備も無いため手作業で道を切り拓いた。この時「高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門」の揚陸にも成功していたが、運搬することもままならず多くが後方に置かれた。総攻撃開始時には日本兵は疲労困憊であった。
9月13日夜から14日未明にかけて、川口支隊による第一次総攻撃が開始。米軍が構築した鉄条網や重火器による放火に阻まれ撤退を余儀なくされる。戦いのさなか一部の部隊が飛行場の倉庫を確保したものの、すぐに混戦となり撤退した。
戦いの後、現場から「米軍の戦力は想像以上であること」「確保するには10月までに20個単位の戦車、砲兵戦力が必要」である事を報告したが、それは日本軍の輸送能力を遥かに超えたものであった・・・
第二次総攻撃
10月初旬。日本陸軍第2師団の兵員及び物資輸送の為、飛行場を砲撃、一時機能を停止させた後、物資輸送を行う作戦が立案された。
10月12日、「サボ島沖夜戦」勃発。飛行場砲撃の第一陣として向かった部隊が夜戦で阻まれ失敗。
日本海軍にとっての夜戦での初敗北と言われている。
10月13日、アメリカ陸軍50000人が上陸。ジャングルに集音器を設置しさらなる陣地の補強を行った。
同時に海兵隊の物資不足も解消され、物資面での勝敗は決した。
その日の夜、飛行場砲撃の第二陣として戦艦「金剛」「榛名」による飛行場砲撃が敢行。飛行場と航空機を破壊、及び米兵約30名が戦死したものの、密かに建設された第二飛行場から発進した航空機に阻まれ満足な揚陸が行えなかった。
10月24日夜、飛行場への第二次総攻撃開始。戦車、重火器を擁する陽動部隊とジャングルからの奇襲部隊に分かれて攻勢を開始したが、餓えや疲労に加え、弾薬も装備も不十分のままバラバラに突撃したこと、米陸軍による陣地補強によりまたしても阻まれ撤退を余儀なくされる。戦いの終わった26日に師団参謀は「奪回は不可能」の旨を大本営に連絡した・・・
だが第二次総攻撃が失敗した26日に「南太平洋海戦」が勃発。空母「ホーネット」撃沈。空母「エンタープライズ」を大破させ、米軍の太平洋における空母稼働数を0にしたが、陸上の支援も行えず、その代償として150名近いベテランパイロットを失い日本機動部隊のレベルはますます低下していくことになる。米軍のパイロットの死者数は僅か30名であった・・・
この海戦の結果を知った大本営は第38師団1万名の輸送を決定した。
第38師団の輸送、そして転進
11月12日~15日。第38師団輸送支援の為「第三次ソロモン海海戦」が勃発。この戦いは大混戦となり日米ともに多くの艦艇が沈んだ。しかし、飛行場砲撃に必要な戦艦「比叡」が応急修理にて復帰した空母「エンタープライズ」の艦載機により舵を破壊され自沈処分となり、もう一隻の戦艦「霧島」が戦艦「サウスダコタ」、戦艦「ワシントン」との砲撃戦の末に轟沈した。その結果、輸送隊が飛行場からの空襲にさらされ輸送は実質失敗に終わった。
この海戦の勝利でアメリカはガダルカナル島の確保を確信。ワシントンDCでは戦勝パレードが行われた。
この時、日本軍の物資不足も深刻になっており、約2~3万人が島にいたが飢えと疫病により実質戦力になる兵士は約8000人程にまで弱体化していた。生きて上陸できた第38師団が攻勢にでるもの、約60000人の米軍を前に飛行場へ近づくことすらままならなかった・・・
12月半ば、上陸時の主力であった海兵隊第1師団が療養の為、オーストラリアへ後退。第2師団約1万人と交代した。
12月31日。日本では御前会議にてガダルカナル島からの撤退が決定された。
来年2月1日-7日。撤退作戦である「ケ号作戦」実施。この作戦は成功し生き残った約1万名の日本軍兵士が生還した。アメリカはこれを再攻勢と思い込んでいたが、8日になり撤退だと気付いた。
こうしてガダルカナル島の戦いは決した。
日本軍の逐次投入された戦力は約30000人。
内20000人が死亡、その殆どの約15000人以上が餓死、病死と言われている。
一方のアメリカ軍の死者は7000人。1000人が戦死し6000人が戦傷、及び餓死、病死者であった…
その後
日本陸軍は、最後まで兵站に悩み続けたが解決できなかった。万歳突撃を止め徹底抗戦に切り替わったペリリュー島の戦いまで、太平洋の島々では玉砕が行われ続けた。
日本海軍は、夜戦で多くの戦果を挙げたものの、ガダルカナル島周辺のソロモン諸島の戦いから米海軍のレーダーにより夜戦での優位性を失った。山本五十六の「最初の1年は暴れて見せる」の言葉通り、開戦から約1年後の1943年には正規空母エセックス級、戦艦アイオワ級等の艦艇が続々と就役し、太平洋から後退していくことになる。
第二次世界大戦後
元々はイギリスの植民地であったガダルカナル島はソロモン諸島として1978年に独立。
ヘンダーソン飛行場は現在、首都の名前である「ホニアラ国際飛行場」としてソロモン諸島の輸送の中心として活躍している。
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関連項目
- サボ島沖夜戦
- 第三次ソロモン海戦
- レンネル島沖海戦
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- 第二次世界大戦
- 太平洋戦争(大東亜戦争、アジア・太平洋戦争)
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- 大日本帝国海軍
- アメリカ海兵隊
- アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)
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- 兵站
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