マリアナ沖海戦とは、大東亜戦争中の1944年6月19日から翌20日にかけて生起した日本海軍vsアメリカ海軍の戦闘である。同戦争中最後の機動部隊同士による海戦となった。日本側は虎の子の大型空母3隻と航空機400機以上を失ったのに対し、アメリカ側の損害は航空機100機(うち着艦事故で80機)と戦艦ミネアポリス小破に留まった。連合軍側の呼称はフィリピン海海戦。
概要
背景
1944年に入るとアメリカ軍は中部太平洋で大規模反攻作戦を開始。マキン、タラワ、クェゼリン、ルオット、ヤルート、ブラウンが次々に失陥し、日本側はマーシャル諸島とギルバート諸島を失った。勢いの増すアメリカ軍は日本海軍の一大拠点であるトラック諸島やパラオを空襲して連合艦隊を後方の東南アジアまで追い払ってしまった。太平洋の制海権を奪取したアメリカ軍の次なる目標は、日本の南洋庁があるマリアナ諸島であった。ここを占領する事が出来れば、いよいよ日本本土がB-29の爆撃圏内に収まる。アメリカ軍は3月12日にグアム、テニアン、サイパンの攻略を決定。6月を目途に作戦を開始する事とした。これに伴って3月頃からサイパンに偵察機を送り、4月中旬からは低空爆撃をしながら空撮していった。
一方、日本側も敵のマリアナ方面来襲を見越していた。4月中に確認された連合軍のニューギニアのアイタペ及びホーランジアへの上陸、ワクデ島、サルミ、ビアク島に対する空襲激化から察するに次のアメリカ軍の狙いは西カロリン諸島かマリアナ方面であろうと正確に推測。侵攻時期も5月末から6月とほぼ合致していた。しかし連合艦隊は深刻な油槽船不足に悩まされていてマリアナ方面での艦隊決戦は不可能と判断、より産油地に近い西カロリンへ敵を誘致するよう兵力配備を進めた。このため敵が侵攻をためらうようマリアナ方面には増援部隊が送られ、海軍は特別根拠地隊や陸戦隊を、陸軍は満州から第29師団を増派した。だがここで思わぬ事態が発生する。3月31日に発生した海軍乙事件により連合艦隊司令長官古賀大将の搭乗機が墜落し、機密文書がアメリカ軍の手に渡ってしまったのである。これにより日本側の防衛体制や作戦が筒抜けとなってしまう。そうとは知らずにこの誘致に基づく迎撃作戦を「あ号作戦」と命名し、5月3日に大本営は陸海軍に作戦方針を指示した。「あ号作戦」に則り、内地に停泊していた有力艦艇は続々と出発してボルネオ島北東端のタウイタウイ泊地に集結。その旗艦には新鋭空母大鳳が充てられ、小沢直三郎中将が総指揮を執った。艦隊の動きに呼応して基地航空隊の約100機がペリリュー島に、約200機がサイパン、グアム、テニアンに分散配備された。
小沢中将はミッドウェー海戦の戦訓から、索敵を十分に行ったのち日本軍機の長所である航続距離を活かしたアウトレンジ戦法を考案。空母を米軍機の行動圏外に配置する事で安全に攻撃しようとした。しかしその戦法は搭乗員の疲労や損害を度外視したもので、「損害はかえりみず」と各級指揮官に訓示を与えている。また再建したばかりの空母機動部隊は絶望的なほど練度が低く、第601航空隊は夜間発着艦不能、第652航空隊は更なる洋上発艦訓練が必要、第653航空隊に至っては攻撃兵力になりえないと判定された。無論泊地でも訓練は行われたが、泊地内は無風状態が続いて訓練に適さず、かと言って沖合いに出れば手ぐすね引いて待ち構えている米潜水艦に狙われる。実際、訓練中の空母千歳が雷撃されて命中こそしなかったものの中止になった事もあった。対潜掃討を担うはずの駆逐艦は逆に撃沈され、短期間に水無月、早波、谷風を喪失。訓練中の事故で66名の搭乗員が死亡し、40機以上の機体を失った。
アメリカ艦隊の動きを掴むため、トラック基地の日本軍は未だ制式採用に至っていない偵察機彩雲による強行偵察を実施。敵が前進拠点にしているであろう候補地メジュロ、クェゼリン、ブラウンを偵察し、メジュロを拠点にしている事を突き止めた。メジェロには正規空母5隻、小型空母2隻、戦艦3隻、巡洋艦3隻、駆逐艦10隻、その他補助艦艇18隻の停泊を確認され、捕虜から得た情報と符合するため、この艦隊こそがアメリカの侵攻戦力だと判断された。その後もメジェロへの偵察を続けたが、6月9日の第三次偵察においてメジェロのアメリカ艦隊がいなくなっていた。
メジェロを出撃した米第58任務部隊(空母15隻、戦艦7隻、巡洋艦21隻、駆逐艦66隻、艦載機956機)からなる大規模侵攻部隊は四群に分かれてマリアナ諸島方面に進撃。6月11日、サイパン、テニアン、グアム、ペリリュー、トラックに対して猛烈な空襲を実施。道中に配備されていた日本潜水艦は発見報告を打つ前に全て撃沈していたため、完全な奇襲となった。この空襲により基地航空隊は大打撃を受け、小沢中将率いる機動部隊との連携は殆ど取れなくなってしまうのだった。続く6月13日、空母15隻と戦艦8隻を中心としたアメリカ軍の大部隊がサイパン島へ艦砲射撃を開始。15日には海兵隊二個師団が上陸を開始した。さらに空母部隊は周囲の飛行場を徹底的に空襲し、基地航空隊500機を消し飛ばした。被害を免れたヤップ島とトラック島から迎撃機が出撃したが、散発的な攻撃だったため上陸用舟艇1隻を沈めた程度だった。
あ号作戦開始
1944年6月13日午前9時、アメリカ軍のサイパン攻撃を受けて小沢艦隊がタウイタウイ泊地を出発。翌14日16時30分にギマラス泊地へ寄港し、給油船玄洋丸とあづさ丸から夜通しで給油を受ける。6月15日午前7時にギマラスを出港。その17分後に大本営は「あ号作戦」を発令した。小沢艦隊は北東に舳先を向けて進み続け、夕刻に太平洋への出口であるフィリピンのサンベルナルジノ海峡に到達。予想された敵襲は無く、17時30分に無事海峡を突破。小沢艦隊は太平洋に進出した。6月16日15時30分、渾作戦に参加していた戦艦大和や武蔵などが合流。総戦力は大型空母5隻(大鳳、翔鶴、瑞鶴、隼鷹、飛鷹)、小型空母4隻(千歳、千代田、龍鳳、瑞鳳)、航空機439機、戦艦5隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦29隻、給油艦6隻からなる計62隻となった。6月17日夕刻、小沢艦隊は米潜水艦キャバラ(フライングフィッシュとも)に発見されてしまう。すかさずキャバラは位置情報を通報したが、情報伝達の不備により司令のスプルーアンス大将のもとへ届いたのは翌朝という有り様だった。このため有益な情報とはなりえなかった。
6月18日より両軍とも索敵を開始。同日夜、小沢艦隊は米第58任務部隊の捕捉に成功。対するアメリカ側は飛行艇が小沢艦隊を発見していたものの、これまた情報伝達の不備でスプルーアンス大将に届かなかった(届いたのは翌朝)。21時、小沢艦隊は三群に分かれる。栗田健男中将率いる戦艦部隊や第3航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)を前衛に配置し、その後方に本隊の甲部隊(大鳳、翔鶴、瑞鶴)と城島少将率いる乙部隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)を配置。いずれも周囲には護衛艦艇が囲んでいた。
6月19日
6月19日午前3時45分、前衛の戦艦や巡洋艦から水上偵察機16機が発進。午前4時15分に千代田、瑞鳳、重巡から14機の索敵機が発進し、積極的にアメリカ艦隊を探す。午前6時34分、サイパン西方160海里で空母4隻、戦艦4隻、他十数隻からなる第1敵艦隊を発見。この敵艦隊を「7イ」と呼称した。ちょうど小沢艦隊から380海里の距離にあり、アウトレンジ戦法に適していた。午前7時25分、第3航空戦隊から艦戦14機、零銭爆戦45機、艦攻7機が発進。その20分後、大鳳、瑞鶴、翔鶴から艦戦48機、艦爆53機、艦攻27機が発進した。しかし攻撃隊の発進が終わろうとした時、大鳳の右舷前方3500mに潜んでいた米潜水艦アルバコアから6本の魚雷が伸びてきた。最後に発進した彗星が海面に突入して自らの機体を盾にして魚雷を防ごうとしたが、午前8時10分に魚雷1本が大鳳に命中。この時は何の異常も見当たらなかったが…。
午前8時45分、グアム南西70海里に空母3隻と戦艦5隻からなる第2敵艦隊(15イ)を、「7イ」の北方50海里に空母3隻と戦艦1隻からなる第3敵艦隊(3リ)を発見。偵察機の大半は敵第58任務部隊の戦闘機に撃墜されるが、攻撃に必要な情報は全て揃った。アメリカ艦隊も索敵機を飛ばし、血眼になって小沢艦隊を捜索したが、ついに見つからなかった。午前9時、第2航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)から艦戦17機、爆装零戦25機、艦攻7機が発進。これらの攻撃隊は当初「7イ」に向かったが、途中で「15イ」と「3リ」が捕捉されたため、最後に発進した第2航空戦隊の攻撃隊が「3リ」攻撃に充てられた。
対する米第58任務部隊は未だ小沢艦隊の所在を掴めず、グアム近海にいると考えて同島の陸上基地ごと殲滅するべく全ての戦闘機を発進させていた。ところが250km離れた地点を巡航する日本軍機をレーダーで捕捉し、急いで戦闘機群を呼び戻した。午前9時35分、最初に発進した第3航空戦隊の攻撃隊が「7イ」に到達。しかしレーダーにより既にF6Fの大群が待ち構えており、迎撃により零戦8機、爆装零戦32機、天山2機を喪失、F6F側は6機を失った。敵機の迎撃をかいくぐった一部の機が投弾に成功。戦艦サウスダコタに命中弾を、重巡ウィチタとミネアポリスに至近弾を与えた。
午前11時20分、翔鶴の右舷前方1100mからキャバラが雷撃し、4本の魚雷を受けた翔鶴は瞬く間に大破炎上。14時1分に翔鶴が沈没し、14時32分に気化したガスへの引火で大鳳が大爆発。16時28分に沈没してしまい、一度に2隻の大型空母を失ってしまう結果となった。攻撃隊は米機動部隊の上空に辿り着いたが、既に大量のヘルキャットが待ち伏せており一方的な殺戮劇が始まった。日本側の搭乗員は錬度不足であり、敵機に背後を取られても機体を左右に振らなかったので格好の的となった。アメリカ軍のパイロットは「七面鳥撃ち」と揶揄した。決死の覚悟で敵艦に突撃したものの、ワスプⅡとバンカーヒルに小規模な損害を与えた程度だった。アメリカ軍に艦船の被害は無く、23機の戦闘機を失っただけで済んだ。
小沢艦隊では、送り出した航空隊が全く帰還しないので「おそらくグアムに降りているのだろう」と推測していた。373機中、帰ってきたのは130機のみだった。翔鶴が沈没してしまったため、所属機はひとまず瑞鶴に着艦した。燃料補給をするため、油槽船が待機している北西方面に針路を向けた。一方、スプルーアンス司令は日本機動部隊を捕捉するため前進。艦隊からは索敵機を、陸上基地からは長距離偵察機をバンバン飛ばし、草の根を掻き分ける勢いで探し回ったが、発見には至らず。小沢艦隊は既に偵察機の行動範囲から脱していたのである。
6月20日
翌20日夕刻、給油を済ませた小沢艦隊は残余の機体を使って再び敵に攻撃を仕掛けようとしていた。しかし16時頃、怨敵エンタープライズの索敵機に発見され、約1時間後に猛烈な空襲を受ける。瑞鶴は命中弾を受けて損傷、隼鷹と千代田は中破、飛鷹は雷撃で撃沈されるという大損害をこうむる。190機あった航空機は僅か35機にまで減少し、作戦の続行は不可能として夜陰に紛れて沖縄方面に撤退した。
一方、夕闇が迫る中で攻撃を強行したアメリカ軍もタダでは済まなかった。着艦失敗や燃料切れで80機以上を喪失したのである。献身的な救助活動により、死者はパイロット16名と整備員36名で済んだ。
結果
虎の子の大型空母3隻と航空機300機以上を失った帝國海軍は、せっかく再建した機動部隊を失った。8月より機動部隊の再建が始まったが、1945年2月に断念。ついに再建は叶わなかった。小沢艦隊の撤退によりサイパン島の救援は不可能になり、守備隊は玉砕。マリアナ諸島の失陥に繋がり、西太平洋の制空権はアメリカ軍の手中に収まった。
一方、大型空母3隻を撃沈して小沢艦隊を追い返したスプルーアンス率いる米艦隊であったが、課題が残る勝利となった。ギマラスを出撃してきた小沢艦隊を潜水艦が何度も発見していながら、情報伝達の不備で司令部に位置情報が伝わらず、小沢艦隊のアウトレンジ攻撃を許してしまった。ミッドウェーの戦訓から索敵を徹底し、米機動部隊の位置を把握していた日本側とは対照的である。また慎重派なスプルーアンスは逃げる小沢艦隊を積極的に追撃せず、戦果拡大のチャンスを逃した。特に日本艦隊の大部分を無傷で逃がした事は航空関係者の不満を買った。ゆえに「ハルゼーだったらもっと戦果を挙げられたのに」という声が散見されたという。とはいえスプルーアンスの主任務はサイパン島攻略の支援であり、安易に持ち場を離れなかったとも取れる。ちなみにアメリカ軍は翔鶴と大鳳を取り逃したと誤解しており、レイテ沖海戦終結まで気付かなかった。
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関連項目
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