先駆者「若宮」 (第一次世界大戦) 「鳳翔」すべての始まり (大正11年) 一航戦 (昭和3年) 実戦出動 (昭和7年) 二航戦の編成 (昭和10年) 臨戦態勢 (昭和15年) 南雲機動部隊 (昭和16年) 再建 (昭和17年) 落日の空母機動部隊 (昭和19年) すべての終わり (昭和20年) (資料)日本空母就役・戦没一覧 関連項目 関連動画 関連商品 |
一般的には空母の部隊である「第一航空戦隊」などが有名だが、水上機母艦による「第十一航空戦隊」や海軍の基地航空隊である「第二十一航空戦隊」、訓練隊の「第五十航空戦隊」、輸送機部隊の「第一〇一航空戦隊」なども存在した。
とはいえ基地航空隊の航空戦隊などは、太平洋戦争の開戦直前や戦中に立てられた部隊であり、「航空戦隊」といえば長年にわたって空母の部隊を指す呼称であった。
この項では第一航空戦隊を中心に、日本海軍における空母の運用史を観察する。
先駆者「若宮」 (第一次世界大戦)
日本海軍が初めて【航空機を積んだ艦艇から、航空機を発進させて作戦を行なう】という運用をした艦艇は、第一次世界大戦での青島(ドイツ植民地)攻略戦における「若宮」(若宮丸)である。
「若宮」はもともと、日露戦争の際にロシア向けの物資を積んでいて日本海軍に鹵獲された「レシントン」という英国製の輸送船で、その後「若宮丸」と名を改めて、海軍が輸送船として使っていた。大正2年(1913年)から航空機(水上機)用設備を設置する工事を行い、その年の秋の演習より水上機を運用。最終的に航空設備を設置し終えた大正3年(1914年)8月23日、ドイツへの宣戦布告と同時に中国へ出撃する。
搭載の機体はモーリス・ファルマン式水上機(モ式イ号。本来は陸上機の車輪を、水上機用フロートに付け替えたもの)が4機。大型1機と小型1機は成形のまま、小型2機は分解して積んでいた。発着艦については、もちろん射出機(カタパルト)など存在しない時代なので、発艦は機体をデリックで海面におろして自力発進させ、着艦も艦のそばに着水した機体をデリックで釣り上げて回収する、というものだった。
大正3年9月4日、「若宮丸」は青島のドイツ軍基地に対して初めて航空機を発進させる(天候不良のため成果なし)。翌9月5日、「若宮丸」を発進した大型の三座モ式機は青島基地の偵察に成功。ドイツ巡洋艦「エムデン」の不在を確認するとともに、基地に対して爆弾を投下する(日本海軍史上初の航空攻撃)。
9月16日、「若宮丸」航空隊は膠州湾内のドイツ軍艦艇に対して爆弾投下。一発が敷設艇に命中して撃沈となり、海軍史上初の航空攻撃による撃沈戦果を挙げる。しかし9月30日、「若宮丸」がドイツ軍の敷設機雷によって浸水・座礁。艦は修理のため日本へ退却し、機体は戦地に残って海岸での発進・着水による運用を続けた。
大正4年(1915年)6月、「若宮丸」は二等海防艦に類別されて軍艦「若宮」へ改名。
大正9年(1920年)4月、新設の艦種「航空母艦」(「水上機母艦」はまだ無い)に類別される。
大正9年6月、「若宮」の前部甲板に滑走台を取り付け、英国製のソッピース・パップ戦闘機による日本海軍史上初の艦艇甲板からの発艦実験を挙行、成功する(搭乗の桑原虎雄大尉は、大正11年の戦艦「山城」主砲塔上からの発艦実験にも成功)。
大正15年(1926年)の編成を最後に、「若宮」は連合艦隊の所属を外れて佐世保鎮守府警備艦となり、昭和7年(1932年)までに除籍・解体された。
「鳳翔」の影に隠れる事が多いが、「若宮」もまた、日本海軍空母機動部隊の先駆者的存在であった。
「若宮」と同様に輸送船から水上機母艦へ改造された艦に「高崎」があったが、こちらは年一回の大演習で水上機を運用するのみでほとんどの期間を輸送任務で過ごし、「航空母艦」への類別もされなかった。
大正14年には航空関係設備を撤去して輸送船に戻され、昭和に入ると陸軍へ譲渡された。
「鳳翔」 すべての始まり (大正11年)
「鳳翔」は【空母として建造されて完成した、世界初の軍艦】である。
「鳳翔」以前、イギリス海軍が巡洋艦「フューリアス」の前甲板と後甲板から砲塔を撤去して平甲板化(艦橋が居座ったままで、前甲板と後甲板は分断された状態)したのを初めとして、建造中の商船から改造した「アーガス」(英)、石炭補給艦から改造した「ラングレー」(米)が全通甲板形式の航空母艦として存在していた。
これらは他艦種からの改造であり、最初から全通甲板式の空母として登場したのは「鳳翔」が最初となる。同時期に、イギリスでは全通甲板空母「ハーミーズ」を建造中(1924年2月に完成)だったが、「鳳翔」が先に完成した(1922年12月27日)。
「鳳翔」の就役に先立って、三菱航空機が一〇式艦上戦闘機を開発。大正12年(1923年)2月、懸賞金一万円をかけて行われた「鳳翔」初の着艦実験に、三菱のテストパイロット・ジョルダン大尉(英国)が挑戦して成功。翌3月、日本海軍の吉良俊一大尉が日本人として初めての着艦に挑んで成功する(海軍大臣賞状と金杯を授与)。
なお、吉良大尉は二回目の着艦では失敗して、機体もろとも飛行甲板から転落。救助後、すぐに三回目の着艦に挑んだ。「鳳翔」は海軍初の着艦に成功した空母であると同時に、最初の着艦失敗事故を起こした空母でもある。
何分にも「鳳翔」は、日本海軍が初めて手にした全通甲板空母であり、運用方法は暗中模索が続いた。建造当初、艦の右前方に設置されていた艦橋は、発着艦の障害物であり危険だとしてすぐに撤去され、飛行甲板の前側につけられていた傾斜も無意味であるとして、改装時に真っ直ぐに改められた。
そして何より、空母への発着艦自体が危険行為であり、事故が頻発した。大正15年(1926年)1月、有明海での訓練中に起きた一三式艦戦の転落事故では、救助の駆逐艦がいったんは機体を釣り上げたものの、ワイヤーが切れてしまって機体水没。パイロットが殉職する。
この訓練は、戦艦「長門」をはじめとする第一艦隊の訓練の一環として行われていたが、事故当時他の艦艇はそれぞれの訓練作業に勤しんでおり、「鳳翔」のそばには警戒の駆逐艦一隻がついているだけだった。「鳳翔」の事故報告書は、空母の訓練中は艦隊として注視するとともに、事故救助などの補助作業にあたる専属駆逐艦を空母につけるよう求めている。
一航戦 (昭和3年)
【最初期の第一航空戦隊】
編成時期 | 空母 | 随伴 | |
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昭和3年度(4月~12月) | 赤城 鳳翔 | 第六駆逐隊 | 梅 楠 |
昭和4年度(4月~12月) | 第四駆逐隊 | 羽風 秋風 帆風 太刀風 | |
昭和5年度 | 加賀 鳳翔 | 第一駆逐隊 | 野風 波風 沼風 神風 |
昭和6年度 | 赤城 鳳翔 | 第二駆逐隊 | 峯風 澤風 矢風 沖風 |
大正11年(1922年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約の結果、日本海軍が編成を目指した「八八艦隊」計画は頓挫。「長門」「陸奥」以外の八八艦隊の戦艦は廃棄対象となり、このうち巡洋戦艦「天城」と「赤城」は空母への転用が認められ、改造工事が行われる。
ところが大正12年(1923年)9月の関東大震災により、横須賀で工事中だった「天城」が被災して修復不能となったため、標的艦として処分予定だった戦艦「加賀」が、代わりに空母へ改造されることになる。
昭和2年(1927年)3月、「赤城」就役。翌昭和3年(1928年)4月、「鳳翔」と、そのトンボ釣りとなっていた二等駆逐艦「梅」「楠」と合同し、初めて空母による戦隊【第一航空戦隊】が編成される。搭載機数で三倍、排水量で四倍の格差がある軍艦による戦隊だったが、ともかくもここから日本空母は新たな歴史をスタートさせる。
昭和3年3月に「加賀」が就役してからは、大型の「赤城」と「加賀」を一年おきに交代で運用し、「鳳翔」がサポートする体制を取るようになる。
初代の一航戦司令官となった高橋三吉少将は、戦艦「扶桑」艦長や連合艦隊参謀長を務めた、当時ごくふつうの大艦巨砲主義者で、戦隊司令官の椅子がまわってきたのも年功序列によるものであり、それを承知の高橋は最初就任を断ったが、空母の研究をすることが戦艦の活用に役立つからと説得されて渋々引き受けた。
そして「赤城」艦長・山本五十六のサポートを受けて務めた一年間の司令官の任期で、高橋はすっかり航空戦力の可能性に取りつかれ、この約10年後に連合艦隊司令長官へ就任したころ、軍縮条約の破棄を受けて建造される事になっていた新型戦艦(大和型戦艦)の計画について「新戦艦を造るより、もっと航空戦力の充実に力を入れるべきではないか。戦艦は考えなおしてはどうか」という意見を言い、軍令部の担当者を仰天させている。
この時期でも依然として事故は多く、昭和4年4月、東シナ海で訓練中の一航戦の艦攻隊(一三式艦攻)が空母へ帰還しようとしたところ、母艦との誘導交信を取り損なったのと急激な天候悪化で方位を見失い、最後は燃料切れで海に不時着。7機の乗員は付近を通りかかった漁船に救助されたが、2機の乗員(4名)は行方不明。後日、済州島に遺体が打ち上げられる惨事となった。
事故原因のひとつに、航空機の操縦・航法維持・戦闘行動を行なうパイロットへの過剰負担が挙げられたことから、この後、艦攻については航法士を増員して乗員3名とするようになった。
実戦出動 (昭和7年)
編成時期 | 空母 | 随伴 | |
---|---|---|---|
昭和7年度 | 加賀 鳳翔 | 第二駆逐隊 | 峯風 澤風 矢風 沖風 |
昭和8年度 | |||
昭和9年度 | 赤城 龍驤 |
昭和7年(1932年)1月、第一次上海事変が勃発。「加賀」と「鳳翔」で構成されていた一航戦は、臨時編成の第三艦隊に加わって出動。1月末から上海と周辺軍事拠点への航空攻撃を開始する。艦載機としては「若宮」以来18年ぶり、全通甲板の航空母艦としてはもちろん史上初の軍事行動である。
上海事変では、
- 空母艦上機による敵地攻撃 (「加賀」 一三式艦攻)
- 中国軍の対空砲による艦上機撃墜 (「加賀」 一三式艦攻)
- 艦上戦闘機による航空戦 (「鳳翔」 三式艦戦)
- 艦上戦闘機による敵機撃墜 (「加賀」 三式艦戦)
という、様々の“ 史上初 ”が記録された。第三艦隊の野村吉三郎長官は、「加賀」機の戦果に感状を与えた。
昭和7年7月に提出された一航戦の報告書では、昭和3年以来4年間の航空戦隊の運用について種々の提言を行っているが、その中で戦隊の駆逐艦について、平時・戦時の空母支援作業(トンボ釣り)の役目が重大であるとともに、空母に搭載している対空火器(高角砲・機銃)があまりにも貧弱で用を成していないことから、対空火器を充実させた駆逐艦を空母の周囲に配置し、防御に万全を期することを述べている。
報告書は、この措置を空母だけでなく主力艦(戦艦)にも採ることを提言しており、逆に言えば、この時代から少なくとも空母の側では、戦艦すら艦上機によって撃破・撃沈出来るという自信を持っていたことがうかがえる。
この頃、海軍では着艦作業のための「着艦指導灯」(着艦誘導灯)の実用化に成功。昭和8年に「鳳翔」へ試験搭載されたのを最初に、以後の空母へ標準装備されていった。
米軍空母が着艦誘導灯を装備するのは太平洋戦争より更に後の時代で、戦中でも米空母は手旗信号によって着艦作業を行っていた。このため、空母への帰還が日没後となったマリアナ沖海戦(昭和19年)では着艦事故が相次ぎ、日本軍との戦闘より、この事故によって失われた機体のほうが多かったという。
二航戦の編成 (昭和10年)
昭和10年度 | |||
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一航戦 | 龍驤 鳳翔 | 第五駆逐隊 | 朝風 春風 松風 旗風 |
二航戦 | 赤城 (加賀) | 第二駆逐隊 | 峯風 沖風 |
昭和11年度 | |||
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一航戦 | 龍驤 鳳翔 | 第五駆逐隊 | 朝風 春風 松風 旗風 |
二航戦 | 加賀 | 第二十九駆逐隊 | 追風 疾風 |
三航戦 | (6月~12月) 神威 | 第二十八駆逐隊 | 朝凪 夕凪 |
昭和12年度 | |||
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一航戦 | 龍驤 鳳翔 | 第三十駆逐隊 | 睦月 如月 弥生 卯月 |
二航戦 | 加賀 | 第二十二駆逐隊 | 皐月 水無月 文月 長月 |
第二十四駆逐隊 (10月~12月) |
海風 山風 江風 涼風 | ||
三航戦 | (8月) 神威 (10月) 神威 能登呂 (12月) 神威 香久丸 神川丸 |
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四航戦 | (12月) 能登呂 衣笠丸 |
昭和8年(1933年)5月、新たな空母として「龍驤」が就役。これにより空母が四隻体制となったため、それまで第一艦隊のみで編成されていた航空戦隊を、第二艦隊へも設置するようになる。
昭和10年度(1935年)の編成で、一航戦は中小空母の「龍驤」「鳳翔」で組まれ、新設の第二航空戦隊には「赤城」が配置された。
後世の感覚からすると少し奇妙に思われるが、当時の海軍の基本戦略である漸減邀撃を踏まえ、長射程の航空火力がある「赤城」「加賀」を鈍足の戦艦(第一艦隊)の補助で用いるより、巡洋艦・水雷戦隊による高速遊撃を行なう第二艦隊で使うことで、より効果的な戦力にする目的があったものと思われる。
昭和11年度(1936年)、「加賀」が三段甲板から一段甲板への大改装を終えたのと入れ替わりで、「赤城」が同様の大改装に入る。また下半期には、水上機母艦「神威」による第三航空戦隊も試験的に編成され、連合艦隊における航空兵力は一段と拡充されていく。
果たして昭和12年(1937年)、盧溝橋事件(7月)と第二次上海事変(8月)を皮切りに支那事変が勃発。「龍驤」「鳳翔」「加賀」による一航戦・二航戦の空母はそろって出動し、上海周辺の国府軍に対して連日の航空攻撃を加える。
また、再び編成された水上機母艦による三航戦・四航戦の部隊も動員。戦隊自体は約一年後に解散するが、母艦は第三艦隊の附属艦として個別に作戦に従事。華中・華南において大きな戦果を挙げる。
臨戦態勢 (昭和15年)
【昭和13年度から16年度(当初)の航空戦隊】 ※赤字は水上機母艦
昭和13年度 | |||
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一航戦 | 加賀 | 第二十九駆逐隊 | 追風 疾風 |
二航戦 | 龍驤 | 第三十駆逐隊 | 睦月 如月 弥生 卯月 |
三航戦 | 神威 香久丸 神川丸 | ||
四航戦 | (8月まで) 能登呂 衣笠丸 |
昭和14年度 | |||
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一航戦 | 赤城 | 第二十九駆逐隊 | 追風 疾風 |
二航戦 | 蒼龍 龍驤 | 第十二駆逐隊 | 東雲 薄雲 白雲 叢雲 |
昭和15年度 | |||
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一航戦 | 赤城 (5月) 赤城 龍驤 |
第十九駆逐隊 | 磯波 浦波 敷波 綾波 |
二航戦 | 蒼龍 飛龍 | 第十一駆逐隊 | 吹雪 白雪 初雪 |
昭和16年度 (当初編成) | |||
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一航戦 | 加賀 | 第三駆逐隊 | 汐風 帆風 夕風 |
二航戦 | 蒼龍 飛龍 | 第二十三駆逐隊 | 菊月 卯月 夕月 |
三航戦 | 龍驤 鳳翔 | 第三十四駆逐隊 | 羽風 秋風 太刀風 |
六航戦 | 能登呂 神川丸 | ||
七航戦 | 瑞穂 千歳 |
長年にわたって海軍の建艦計画を束縛してきたワシントン条約とロンドン条約の両軍縮条約は、昭和11年(1936年)をもっていずれも失効・破棄。これによって制限を受けない空母の建造が可能となり、「龍驤」のような条約に無理矢理間に合わせたものとは全く異なる理想的空母として、「蒼龍」(昭和12年12月)と「飛龍」(昭和14年7月)が相次いで就役する。
蒼龍型(「飛龍」含む)は70機程度の搭載数と34ノットの高速を持つ空母なので、30ノット程度の速力が限界の戦艦改造空母よりも、巡洋艦・水雷戦隊との協調を取るのに適切だった。
このため蒼龍型は就役当初から二航戦(第二艦隊)へ配属され、「赤城」「加賀」は一航戦に戻る。大型化していく新型艦上機の搭載に難渋していた「鳳翔」は第一線から退き、「龍驤」が他空母のサポートへまわる体制が取られる。
支那事変の泥沼化と第二次世界大戦勃発、そして日米開戦の危機が迫る中の昭和14年(1939年)9月、連合艦隊司令長官に山本五十六中将が就任。かねてより航空主兵を唱えてきたこの長官の下で、日本空母の歴史は新たな局面を迎えることになる。
南雲機動部隊 (太平洋戦争)
【昭和16年12月 太平洋戦争開戦時の航空戦隊】 ※赤字は水上機母艦 ※緑字は基地航空隊
第一航空艦隊 | |||
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一航戦 | 赤城 加賀 | 第七駆逐隊 | 漣 曙 潮 |
二航戦 | 蒼龍 飛龍 | 第二十三駆逐隊 | 菊月 卯月 夕月 |
四航戦 | 龍驤 春日丸(特設空母) | 第三駆逐隊 | 汐風 帆風 |
五航戦 | 翔鶴 瑞鶴 | (附属) | 秋雲 朧 |
第一艦隊 | 三航戦 | 瑞鳳 鳳翔 | (附属) | 三日月 夕風 |
第三艦隊 | 十二航戦 | (六航戦から改称) 神川丸 山陽丸 佐川丸 | ||
第四艦隊 | 聖川丸 二十四航戦 | |||
第五艦隊 | 君川丸 | |||
第十一航空艦隊 | 二十一航戦 二十二航戦 二十三航戦 | 第三十四駆逐隊 | 羽風 秋風 太刀風 | |
連合艦隊附属 | 十一航戦 | (七航戦から改称) 瑞穂 千歳 | ||
千代田 能登呂 相良丸 讃岐丸 神威(飛行艇母艦) |
昭和16年(1941年)4月、第一艦隊と第二艦隊で個別に編成されていた一航戦・二航戦、そして新編成の四航戦(この時点では「龍驤」のみ)を統一指揮する艦隊として【第一航空艦隊】が編成される。艦隊長官は南雲忠一中将、二航戦の司令官は山口多聞少将。
真珠湾攻撃作戦が進行していく中、新鋭大型空母の「翔鶴」(昭和16年8月)「瑞鶴」(9月)が就役。ただちに第五航空戦隊を編成して一航艦へ配置される。そして12月8日、択捉島・単冠湾を発した艦隊はハワイ・オアフ島北方に達し、零戦・九九艦爆・九七艦攻、合わせて400機の艦上機を放つ。日米開戦の火蓋は、戦艦ではなく空母機動部隊によって切って落とされた。
12月10日、九六式陸攻・一式陸攻による海軍基地航空隊(第二十二航空戦隊)は、マレー沖海戦においてイギリス戦艦2隻を撃沈。この1941年12月のわずか三日間で、海軍の主役は戦艦から、空母・航空隊のものへ取って代わられることとなる。
第一航空艦隊 | |||||
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一航戦 | 赤城 加賀 | 第十戦隊 | 軽巡「長良」 | 第七駆逐隊 | 漣 曙 潮 |
二航戦 | 蒼龍 飛龍 | 第十駆逐隊 | 秋雲 夕雲 風雲 巻雲 | ||
四航戦 | 龍驤 祥鳳 | 第十七駆逐隊 | 谷風 浦風 磯風 浜風 | ||
五航戦 | 翔鶴 瑞鶴 |
空母 | 瑞鳳 鳳翔 春日丸(大鷹) |
(空母改装中) | 出雲丸(飛鷹) 橿原丸(隼鷹) 八幡丸(雲鷹) 新田丸(冲鷹) 大鯨(龍鳳) |
十一航戦 | 瑞穂 千歳 |
水上機母艦 | 千代田 日進 神川丸 山陽丸 佐川丸 聖川丸 君川丸 相良丸 讃岐丸 神威(飛行艇母艦) 秋津洲(飛行艇母艦) 能登呂(輸送用) |
昭和17年(1942年)4月の編成で、各航空戦隊へ個別にトンボ釣りとして編入されていた駆逐隊は第十戦隊となり、機動部隊全体の護衛戦力へ集約される。
また航空戦力の拡充が急務となる中、潜水母艦から改装された「瑞鳳」と「祥鳳」が就役し、徴用商船・輸送船など他種からの空母・水上機母艦への改造も進められる。
一航艦(南雲機動部隊)の主力空母は、真珠湾攻撃以降も各地の戦線へ投入され、連合国軍を蹂躙。4月のセイロン沖海戦では、80%以上という驚異的な爆撃命中率を挙げてイギリス東洋艦隊を粉砕する。一方でこの頃から、海軍および機動部隊の内部では、一連の大戦果に気を良くしての“ 慢心 ”がはびこっていたと言われる。
5月、一航艦から分派された「翔鶴」「瑞鶴」の五航戦を主力とする部隊は、ニューギニア方面において米空母「レキシントン」「ヨークタウン」の部隊と対峙。珊瑚海海戦となる。
史上初の空母による艦隊戦となったこの海戦は、日米双方が索敵の失敗・慎重すぎる作戦指導などで混乱の末に激しい殴り合いとなり、日本側「祥鳳」撃沈・「翔鶴」中破、アメリカ側「レキシントン」撃沈・「ヨークタウン」大破の痛み分けに終わる。
そして6月、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の一航戦・二航戦はミッドウェー島攻略作戦に出撃(ミッドウェー海戦)。「敵基地攻略を行いつつ敵艦隊の出現にも万全を期す」と言いながら、作戦目的の曖昧さ・訓練の不足・不運・そして油断の結果、四隻の主力空母は海の藻屑となってしまった。
かつてはミッドウェー海戦において、空母とともにベテランパイロットも失われたとされていたが、後の研究により、反撃に打って出て友永丈市大尉などの戦死者を出した「飛龍」以外の三空母からは、多くのパイロットが救助されていたことがわかっている。
しかし、多数の航空機を運用できる大型空母四隻とともに300機もの機体がまるごと失われたことは、いずれにせよ致命的な損害であり、陸軍参謀本部へミッドウェーの敗北を説明した軍令部は、「翔鶴・瑞鶴だけでは守りに徹するしかなく、他の中小空母は戦力として期待できない」などと言ったという。
再建 (昭和17年)
第三艦隊 | |||||
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一航戦 | 翔鶴 瑞鶴 瑞鳳 | 第十戦隊 | 軽巡「長良」 | 第四駆逐隊 | 萩風 舞風 野分 嵐 |
第十駆逐隊 | 秋雲 夕雲 風雲 巻雲 | ||||
二航戦 | 隼鷹 飛鷹 龍驤 | 第十六駆逐隊 | 雪風 初風 天津風 時津風 | ||
第十七駆逐隊 | 谷風 浦風 磯風 浜風 | ||||
第十一戦隊 | 戦艦「比叡」 「霧島」 | ||||
第七戦隊 | 重巡「熊野」 「鈴谷」 「最上」(戦線離脱中) | ||||
第八戦隊 | 重巡「利根」 「筑摩」 | ||||
附属 | 鳳翔 駆逐艦「夕風」 赤城(名前のみ) 飛龍(名前のみ) |
十一航戦 | 千歳 神川丸 國川丸 |
水上機母艦 | 千代田 日進 山陽丸 佐川丸 聖川丸 君川丸 相良丸 讃岐丸 神威(飛行艇母艦) 秋津洲(飛行艇母艦) 能登呂(輸送用) |
解隊された第一航空艦隊に代わり第三艦隊となった空母機動部隊は、五航戦と四航戦の空母をそれぞれ一航戦・二航戦へ横滑りして再編。第十戦隊が拡充されたほか、一航艦時代は臨時編入だった戦艦や重巡も正規編成となり、ミッドウェーの惨敗を経て、機動部隊はようやく陣容を整える。
昭和17年(1942年)8月以降、ソロモン諸島方面でガダルカナル島をめぐる戦いが勃発。第三艦隊は第二艦隊(巡洋艦・水雷部隊)とともに南太平洋へ進出し、第二次ソロモン海戦(8月)と南太平洋海戦(10月)の2つの空母艦隊戦を戦う。この結果、アメリカ軍に「ホーネット」撃沈・「エンタープライズ」大破(これとは別に、潜水艦の攻撃によって「ワスプ」撃沈・「サラトガ」大破)の損害を与え、太平洋方面における米空母戦力を一時的にゼロに追い込む。
しかし日本側も「龍驤」を撃沈され、「翔鶴」「瑞鳳」が損傷。さらに村田重治大佐・関衛中佐ら熟練パイロットや多くの機体を失って戦力が衰えたため、せっかくの好機を活かすことは出来なかった。
南太平洋海戦後、空母は戦力再編のため前線を離れた一方、一航戦・二航戦の艦載機とパイロットは基地航空隊に転用され、「い号作戦」(昭和18年4月)と「ろ号作戦」(11月)の航空戦へ投入。しかし有益な戦果を挙げられなかったばかりか、特に「ろ号作戦」では機体の70%・パイロットの50%を失う大消耗となってしまう。
ミッドウェー海戦後の空母建造・改造計画
客船改装 | 大鷹 雲鷹 冲鷹 |
(改装中) | あるぜんちな丸(海鷹) シャルンホルスト号(神鷹) 大鯨(龍鳳) |
(建造中) | 大鳳 雲龍 ほか雲龍型13隻を計画 |
(改造計画) |
ミッドウェーの敗北後、海軍は新型空母「大鳳」や「雲龍」の建造を急ぐ一方で失われた四空母の穴埋めとして、旧式戦艦や巡洋艦、建造中の軍艦、民間から徴用の大型客船・輸送船などを片っ端から空母へ改装する計画を立てる。
これらはいずれも、建造に時間がかかる新造艦の完成を待っていられないという事情によるものだったが、ミッドウェーの時期と前後して改装が完了した「隼鷹」「飛鷹」は搭載機数も多く、比較的高性能を発揮したので前線へ投入できたものの、客船から改装された「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」「海鷹」「神鷹」は20機程度の搭載数・20ノットの低速だったため、後方輸送任務でしか運用できなかった。
戦艦からの改造は、かつての「赤城」「加賀」のように多くの艦載機を運用できるものとして期待されたが、「信濃」はその巨体ゆえに手間取った上、運用方針が二転三転してズルズルと遅れ、「伊勢」「日向」は後部の二砲塔を撤去して飛行甲板化するという中途半端な改造に終わり、「扶桑」「山城」は資材と時間が無く結局見送られた。
昭和18年(1943年)以降、アメリカは後に「月刊正規空母」「週刊護衛空母」と形容されるほどの大小空母を次々と就役させていった。「大鳳」一隻の建造にすら手間取る日本との工業力の格差は比べようもなかった。
落日の空母機動部隊 (昭和19年)
第三艦隊 | |||||
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一航戦 | 大鳳 翔鶴 瑞鶴 | 第十戦隊 | 軽巡「矢矧」 | 第四駆逐隊 | 野分 山雲 満潮 |
二航戦 | 隼鷹 飛鷹 龍鳳 (第六五二航空隊) |
第十駆逐隊 | 朝雲 風雲 | ||
三航戦 | 瑞鳳 千歳 千代田 (第六五三航空隊) |
第十七駆逐隊 | 谷風 浦風 磯風 浜風 雪風 | ||
四航戦 | 伊勢 日向 (第六三四航空隊) |
第四十一駆逐隊 | 秋月 初月 若月 | ||
※四航戦は海戦不参加 | 附属 | 航空巡洋艦「最上」 駆逐艦「霜月」 第六〇一航空隊(一航戦用艦上機航空隊) |
空母 | 鳳翔 大鷹 雲鷹 神鷹 海鷹 |
(建造中) | |
水上機母艦 | 秋津洲(飛行艇母艦) 能登呂(輸送用) 神威(輸送用) ※特設母艦は昭和18年10月までに全て水上機母艦としての運用を廃止 |
昭和19年(1944年)に入り、待望の新鋭空母「大鳳」が就役。水上機母艦「千歳」「千代田」および潜水母艦「大鯨」(空母「龍鳳」)の空母改装、戦艦「伊勢」「日向」の航空戦艦化も完成し、これらをもって航空戦隊は再編される。
昭和19年3月、海軍は温存してきた「大和」「武蔵」らの戦艦を第二艦隊へ編入し、空母主力の第三艦隊とともに総合指揮する部隊として【第一機動艦隊】を創設。第三艦隊の小沢治三郎中将が機動艦隊長官を兼任する。艦載機も空母ごと個別に訓練するのではなく、基地において航空戦隊として訓練してから各空母へ分乗する方式が取られるようになり、六〇一空などの戦隊用航空隊が創設された。
6月、絶対国防圏たるマリアナ諸島へ進攻してきたアメリカ海軍に対し、海軍は「あ号作戦」を発動。マリアナの基地航空隊と共同しての敵艦隊殲滅を図る。
しかし既に基地航空隊は不充分な準備で米軍と戦って消耗しており、機動艦隊のほうでもタウイタウイ泊地を敵潜水艦に塞がれてろくに訓練が出来ないまま、高い技量を求められるアウトレンジ戦法を採って案の定失敗。長時間の飛行の末に敵艦隊へたどり着いた日本軍機は、米艦隊の万全の防空態勢の前に「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄される一方的な迎撃を受けて壊滅する。
そして艦隊は、潜水艦の攻撃で「大鳳」と「翔鶴」を、機動部隊の攻撃で「飛鷹」を撃沈され、「瑞鶴」「隼鷹」が損傷。約400機の機体とパイロットおよび三隻の主力空母を失い、ミッドウェー海戦の痛手より再建されたかに見えた日本空母艦隊は、逆に事実上の戦力喪失となってしまった。
7月10日、「飛鷹」撃沈と艦載機(六五二空)の75%喪失により、無力化した第二航空戦隊は解隊。「隼鷹」「龍鳳」は戦力補充の見込みが無いまま四航戦へ編入される。また、一航戦唯一の残存空母「瑞鶴」も三航戦へ移され、一航戦はひとまず、海戦後に就役した雲龍型の「雲龍」「天城」で編成となる。
小沢艦隊(第一機動艦隊) | ||||
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三航戦 | 瑞鶴 瑞鳳 千歳 千代田 | 軽巡「大淀」 「五十鈴」 「多摩」 | ||
第四十一駆逐隊 | 霜月 | |||
四航戦 | 伊勢 日向 (航空戦艦) | 第六十一駆逐隊 | 秋月 初月 若月 | |
第四十三駆逐隊 | 桐 桑 槇 杉 |
空母 | 一航戦 | (出撃せず) 雲龍 天城 |
四航戦 | (出撃せず) 隼鷹 龍鳳 | |
葛城 信濃 鳳翔 海鷹 神鷹 ※「笠置」以降の雲龍型空母や改造中の「伊吹」は全て中止 |
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水上機母艦 | 能登呂(輸送用) 神威(輸送用) |
捷一号作戦(レイテ沖海戦)にあたり機動艦隊は、第一遊撃部隊(栗田艦隊)のレイテ突入を援護するため、アメリカ艦隊をおびき寄せる囮として使用される。
発着艦も満足に行えない100機ばかりの艦載機が三航戦へ載せられたが、いずれも各空母の定数に足らず、「千代田」の艦攻は天山ではなく旧型の九七艦攻だった。
四航戦にはとうとう艦載機を準備できず、航空戦艦の二隻のみが対空砲を満載して参陣し、「隼鷹」「龍鳳」は不参加。そして開戦以来、主力空母部隊の代名詞であった一航戦も、就役したばかりの「雲龍」「天城」では戦力として成り立ち様がなかった。
10月25日、フィリピン・エンガノ岬沖において最後の戦いに臨んだ機動艦隊は、「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の喪失と引き換えに米艦隊を釣り上げ、作戦は成功したかに見えた。しかし数々の致命的な通信エラーにより、栗田艦隊はそのことが把握できずレイテ突入を断念。数多くの艦と将兵を失って、捷一号作戦は失敗に終わった。
11月15日、第一機動艦隊と第三艦隊、第三航空戦隊、第十戦隊は全て解隊された。レイテ沖海戦で生き残った「日向「伊勢」の第四航空戦隊は、本土帰還後にH部隊を編成して南方へ進出していった。
すべての終わり (昭和20年)
一航戦 | 戦艦「大和」 | 天城 葛城 龍鳳(飛行甲板破壊) 隼鷹(航行不能) 信濃(名前のみ) |
空母 | 鳳翔 海鷹 伊勢(航空戦艦) 日向(航空戦艦) |
水上機母艦 | 神威(4月5日、香港にて大破着底) |
機動部隊の消滅後、残存空母は主に輸送任務に充てられ、「回天」「桜花」といった特攻兵器を運搬することもあった。しかし制海権を失った外海での行動は米潜水艦の格好の標的であり、昭和19年11月に「神鷹」、12月に「雲龍」が撃沈。「隼鷹」も大破し航行能力を喪失する。
11月29日、就役したばかりの「信濃」は横須賀から呉への移動中に紀伊半島沖で撃沈され、わずか十日間という短い艦命を終えた(その後も書類上は一航戦に在籍)。
昭和20年(1945年)2月11日、最後の一航戦編成。生き残り空母と戦艦「大和」が配属される(戦隊司令官は不在)。しかし、一航戦の艦載機用として訓練されていた第六〇一航空隊が基地航空隊(第三航空艦隊)へ転出されたため、「天城」と「葛城」は完全に空母としての存在意義を失う。
3月1日、北号作戦で奇跡的に本土へ帰還した航空戦艦「伊勢」「日向」の第四航空戦隊が解隊。3月19日、「龍鳳」は呉軍港空襲で飛行甲板を破壊され、空母機能が失われる。
帝国海軍戦時編成ヲ左ノ通リニ改定スルコトニ手続中 (昭和二十年)四月二十日
(五)大和 葛城 信濃 ヲ第一航空戦隊ヨリ 矢矧 第二一駆逐ヲ第二水雷戦隊ヨリ除キGF附属
(九)第二艦隊 第一航空戦隊 第二水雷戦隊 22 24 海軍郵便所ヲ戦時編成ヨリ除ク(解隊)
昭和20年4月20日、日本海軍空母機動部隊の象徴、第一航空戦隊は消滅した。
生き残りの空母はことごとく予備艦とされ、軍港に係留して浮き砲台となった他、小型空母「海鷹」のように特攻兵器「回天」の訓練標的艦となるものもあった。
7月末、呉軍港は再び空襲を受け、「天城」が横転着底、「葛城」が飛行甲板破壊。「海鷹」は大分湾で触雷し座礁、直後に空襲を受けて船体放棄となる。かつて栄光の海軍空母航空隊を担ってきた零戦・九九艦爆・九七艦攻などの名機たちは、次々と神風特別攻撃隊として送り出され、最後には“赤トンボ”こと九三式中間練習機までもが投入された。
8月15日。すべてが終わった時、空母として生き延びていたのは「鳳翔」、ただ一隻だけであった。
(資料) 日本空母就役・戦没一覧
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