五大老とは
一般的には1の意味だがニコニコで検索するとほぼ全て2の意味のものが出てくる。
2に関しては該当記事参照。ここでは1の意味を説明する。
概要
五大老とは豊臣政権下において秀吉の実子である拾(後の豊臣秀頼)が成人するまで合議制により政権を担うことになった五人(六人)の大名。
- 徳川家康
関東に256万石。天下に最も近い大大名。 - 前田利家
北陸・加賀に83万石。人望では家康をも凌ぐ猛将。利家の遠行後は息子の利長が家督を継いだ。 - 宇喜多秀家
備前岡山に57万石。宇喜多直家の息子で秀吉の養子になった。 - 毛利輝元
西に120万石を構える中国の覇者、毛利家の当主。毛利元就の嫡孫。 - 小早川隆景
中国地方・筑前に33万石。毛利家の分派であり、いわゆる毛利両川の一端。 - 上杉景勝
隆景が蟄した後に大老に就任した120万石を持つ東北地方の雄。配下に直江兼続が控える。
のことである。一般的には小早川隆景を除く5名を言う。
五大老の目的は秀吉死後に関東において強い力を持っていた家康を取り込み、台頭を防ぐことにあった。当初は同じく有力者であった前田利家が家康の突出を抑えることに成功していたが、1599年に利家が亡くなると、後を継いだ前田利長は政治的対立を経て家康に人質を送り屈服してしまう。他の四大老も、秀吉の期待したようには動かず、最終的に家康以外の大老が自国に帰ることによって完全に有名無実化した。
関ヶ原の戦いでは毛利輝元が西側の総大将、宇喜多秀家が副将(ただし実質的な大将は石田三成)、上杉景勝が直江状を家康に叩き付けるなど中心的役割を担った。敗戦後は毛利家と上杉家は大幅減封、宇喜多家は改易になったがいずれも極刑を免れている。
五大老とは言うが五人という数字が決まっている訳ではなく、高齢である必要もなかった。実際上記の宇喜多秀家は大老就任時は二十代だった。
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