北条早雲(ほうじょう・そううん 1432?/1456? ~ 1519)とは、後北条氏の初代当主にして最初の戦国大名である。出自、生年、名前については後述する。姉妹に駿河守護今川義忠の正室・北川殿。弟に弥二郎。子に北条氏綱、北条幻庵。孫に北条氏康等。甥に今川氏親。
当初は幕府の官僚であったが義兄の今川義忠を頼って下野。その後一度は幕府に復職したが、甥の氏親の当主就任の為に尽力したことで独自の所領を得る。そこから伊豆、相模を攻めとり、後に言う後北条氏百年の基礎を築いた。
また、彼の伊豆討ち入りが戦国時代の始まり、とされることもある。少なくとも一介の役人であった彼が、将軍のいとこを殺害したということは、下克上の端緒として非常に意義のあるものである(最近では幕府側の指示による幕府官僚としての行動であったとも言われている)。伊豆や相模といった一国を制圧したにもかかわらず守護にはならなかったことから、最初の戦国大名とされている。
チート爺の一人で、関東ドリームチームの一人。戦国ドリームの体現者。また、戦国三大梟雄の一人に数えられる。
その実像
出自
江戸時代の軍記物の影響から、彼は前半生が謎に包まれた一介の素浪人で、じっくり待ち、好機を掴み、老齢になって成功した、大器晩成の人であると言われる事が多い。
ところが実際の彼は、平氏随一の名門であり幕府政所執事(訴訟処理担当のトップ)を代々務めていた伊勢氏…の庶流、備中伊勢氏当主・伊勢盛定の子であった。父の盛定も幕府申次衆(将軍との取次ぎを担当する役目)で、その妻(早雲の母)は伊勢氏宗家当主の姉と、今でいうところの「名門出身の高級官僚」である。
彼自身も次期将軍候補の申継衆(駿河下向前)→将軍執事(今川義忠死去~氏親当主就任以前)という次官級の超エリートの部類に入る。決して身分の低い素浪人ではない。早雲が素浪人とされた原因は、身分が固定化されていた江戸時代において『下克上』は憧れであり、その代表とされたのが早雲だったためらしい。
生年
生年に関しても1432年といわれてきたが、今では1456年説が主流となっている。八十の爺さんが戦争を最前線でバリバリやっているのがおかしいという点や、彼自身の活動と年齢を照らし合わせると1432年説ではあまりにも出世が遅すぎてしまうという点などが理由として挙げられる。
とはいえ1432年説を主張する人もいる。また創作の分野で言えば1432年説の方が面白いことが多い。北川殿や子・幻庵も高齢で死んでいるうえ、高齢で出陣した例(龍造寺家兼93歳とか一栗放牛92歳とか)もあるので、あり得ない話ではない。ということで、まだ完全に決着されたわけではない。
北川殿に関しては姉とも妹ともいわれ、どちらが年長かは不明。(※記述の便宜上ここでは妹で統一する)
名前
北条早雲は江戸期の命名で、実際の名は伊勢新九郎。「北条」姓は息子の氏綱の代になって名乗ったものであり、彼が生前これを使用した記録はないが、一般には遡ってこう呼ばれている。
また諱に関しては「長氏」が素浪人説の頃は主流であったが、やがて幕府との密接な交流や本人直筆の書状から、伊勢氏当主の弟「伊勢貞藤」の子「氏茂」か、備中伊勢氏当主「伊勢盛定」の子である「盛時」と同一人物と見なされ、研究が進んで備中伊勢氏でほぼ確定したことで、現在は「伊勢盛時」で確定であると見なされている。
概要
雌伏期
1432年に生まれたとされる。
応仁の乱で焼け野原になった京都を見た伊勢新九郎は、東国へ行って一旗挙げようと、六人の浪人仲間(荒木兵庫守、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵庫尉)を誘う。その途中、伊勢神宮で七人は「どのようなことがあっても、仲違いせず、お互い助け合って功名を立てる。七人の中の一人が大名になったら、残りの者はそのものの家臣になる。また、大名になったものは残りの六人をないがしろにしない」…という誓いを立てる。
駿河守護・今川義忠のもとに新九郎の妹・北川殿が嫁いでいるので、まずその縁を頼って駿河に行く。その時、今川家は当主の義忠が戦死したばかりで二派に分かれていた。義忠の子・竜王丸を担ぐ一派と、一族の小鹿範満を担ぐ一派である。北川殿は兄を頼った。
この時、関東から太田道灌が指揮する扇谷上杉家や堀越公方の軍勢が、この紛争に介入しようと駿河へ侵入していた。あわやというところで新九郎が『竜王丸が成人するまでは範満が家督を代行する』という折衷案を提案。関東勢はこの案に同意し、両派も一応納得する。ちなみに旧来の説なら道灌と早雲は同い年になる。
恐らく七人の誓いとかはなかったと思われるが、ここに出てくる名字の者が後に北条家で重きをなしており、それらの家柄が「御由緒家」と呼ばれていたのは事実である。
実際には、この頃は幕府の役人として働いていたらしく、駿河なんかには行ってない、もしくは単に戦乱を避けて駿河に滞在していただけというのが実際の処らしい。早雲が折衷案を出したこと以外は、まあ大体この通りの流れで家督争いや介入未遂が起こっている(1456年説では今川家の家督争いの時、早雲はまだ21歳である)。
これで落ち着いたかに見えたが、11年後の1487年。竜王丸が成人する年齢になっても範満が家督を返さない。そこで、駿河に下った新九郎は駿府館を急襲し、範満を自害に追い込んだ。これにより竜王丸は成人して、家督を継ぎ、今川氏親と名乗る。この功績により新九郎は、駿東郡の所領と興国寺城を与えられた。
伊豆討ち入り
さらに6年後の1493年、隣国伊豆で堀越公方・足利政知が死去すると、廃嫡されていたその息子・足利茶々丸が、異母弟・潤童子とその母(11代将軍・足利義澄の母でもある)を殺して勝手に家督を継承する。この暴挙や茶々丸の暴政により、伊豆の民心は離れていた。
伊豆の豪族が戦争に行った時を好機と見て、早雲は自身の兵200、氏親から借り受けた兵300、合わせて500の兵を率いて海路から伊豆に侵入。堀越御所を攻撃して茶々丸を自害させる。帰参した者の領地はそのまま、農民の諸役を撤廃、細かい税金を廃止し税率を四公六民(他国は最低五公五民、その上諸々の税や賦役が付いてくる)にした結果、伊豆は瞬く間に、早雲の手に帰した。
とされているが、実際は伊豆を平定するのに2~3年かかったようである。また茶々丸もすぐには死んでおらず、伊豆南部でしばらく抵抗したのち海路から武蔵→甲斐へと入り、各地の豪族や武田氏、山内上杉氏の協力を得ながら抵抗を続け、決着したのは5年後の事である。
ちなみに、この行動は早雲の野望もさることながら、当時の政治局面から早雲が氏親や幕府の意向を受けたものであるようだ。このころ、近畿では細川政元による「明応の政変」で将軍が潤童子の弟・足利義澄に代えられており、弟が母や兄の仇を討とうとしたのだと思われる。
さらにこの前後、早雲は氏親の属将としてあちらこちらに出陣していて、伊豆討ち入りもその一環とされる。あんまり知られていないが三河方面にいって徳川家康のひいひいじいさんにあたる松平長親とも戦っている。この戦いで大軍相手に善戦したことから、松平氏は三河の中で存在感を高め、安祥松平家、後の徳川家が、数多存在する松平一族の盟主として確立された。
また、武田信玄の祖父に当たる武田信縄とも戦っている。武田家がこの頃お家争いをしていて、信縄と敵対する弟・油川信恵は今川氏・扇谷上杉家と手を組んでいた。更に信縄は茶々丸をかくまっていた事も理由となった。信縄は山内上杉家と組んで抵抗するが、地震が起こったことで戦どころではなくなってしまった。
関東の動乱
関東は早雲が来るはるか前から戦国時代並みに動乱が起こり、疲弊しまくっていた。
どのくらい乱れていたかというと、応仁の乱の五十年前から関東のNo.2が下克上しようとしたり(上杉禅秀の乱)、その下克上されかけた側(足利持氏)が幕府に反抗して将軍になろうとしたり(永享の乱)、その子が今度は城に立てこもり(結城合戦)、残った弟がお情けで関東公方になれたのはいいが、親父と同じく幕府に楯ついて、あげく上杉氏と三十年近くにわたり関東を二分し、甲斐や信濃も巻き込む戦いを起こし(享徳の乱)、その乱の最中に西関東の大半が上杉氏に反抗するような反乱がおき(長尾景春の乱)たと思ったらたった一人のチートが解決し、この乱の影響で三十年戦争が終わったと思ったら、さっきのチートが死んだせいで、今度は上杉氏が二派に分かれて戦い始めた(長享の乱、しかもこの戦いも二十年近く続く)という状況。
この後で和睦をしたのだが、ご丁寧にも山内上杉家内部でお家争いがおこり、それに古河公方が巻き込み巻き込まれ、再び関東を二分して戦いが起こる。この時北条家は氏綱の代である。幕府もこれを止めようとしていたのだが、幕府も幕府で応仁の乱、明応の政変が起こり、関東に対して口出しする余裕がなかった。
まとめるとこうなる。
- 1416年 上杉禅宗の乱
- 1438年 永享の乱
- 1440年 結城合戦
- 1455年‐1483年 享徳の乱(山内上杉家vs古河公方足利家)※この間に応仁の乱が発生
- 1476年‐1480年 長尾景春の乱(長尾景春と西関東の豪族たちvs太田道灌&両上杉家)
- 1487年‐1505年 長享の乱(扇谷上杉家vs山内上杉家)
余談だが、享徳の乱では両者が18年間五十子に陣を張って対峙していたらしい。そりゃ疲弊もする。
早雲の伊豆侵攻もこうした関東の情勢が影響していると思われる。(今川氏は親扇谷上杉家で早雲はその配下、伊豆は元々は山内上杉家の守護国であった)
小田原城奪取
このような状況下において、早雲は氏親とともに扇谷上杉家の味方として山内上杉家と対決していた。その扇谷家を支えていたのが、相模の大森氏と三浦氏であった(本来、一分家にすぎない扇谷家を宗家・山内家に対抗できるまでに高めたのは太田道灌なのだが、その太田道灌を扇谷上杉定正が暗殺してしまったため、道灌の息子は山内家に寝返っていた)。しかし、1494年にこの三家の当主が相次いで亡くなるという不幸に見舞われる。この結果、今まで扇谷上杉家に助力していた古河公方が山内上杉家と手を組んだ。関東の天地は複雑怪奇。
さて、ここからが逸話の楽しいところである。1495年の話。
まず、早雲は小田原城主大森藤頼に贈り物をするなどして懇意になる。その後、時期を見計らって伊豆の鹿がすべて山を越えてしまったので鹿を追い返すために勢子を入れたいと申し出た。藤頼は承諾。これが早雲の罠で、勢子に扮した兵士を引き連れ領内に侵入。さらに、牛の角に松明をつけ小田原城を襲わせた(火牛の計)。これに驚いたのは大森氏側で、勢いよく迫る大量の松明を見て何万もの兵が来たと勘違いし、小田原城を捨て去り逃げた。早雲は見事小田原城を手に入れた。
と言われていたが、そもそも同盟相手である扇谷家配下の城を攻撃することなどあり得ないことである。しかも記録によると、早雲が落としたとされる1495年より後に、なぜか藤頼と早雲が一緒に小田原城を守っていたりする。実際は、大森氏が山内家に寝返り、それに驚いた扇谷上杉朝良が早雲に援助を頼んだらしい。1501年までには、この城は早雲のものとなっている。
元々扇谷家と山内家の戦力差は埋めがたく、この頃の扇谷家は同盟相手に自分の領土を割譲せざるを得ないほどに弱っていた。そしてそのまま1504年、山内家に降伏して長享の乱は終結するのである。
ともかく、この小田原城は嫡男氏綱に与えられ、その氏綱の代に後北条氏の居城となる。後には上杉謙信や武田信玄の攻撃を防ぎ、最終期には周囲9kmの総構え、優に5万を超す軍勢を収容でき、豊臣秀吉20万の軍勢をもって3ヶ月かけても櫓一つ落とせない堅城となるのだった。なお早雲自身は引き続き韮山城を居城とし続けた。
ちなみに早雲は両上杉家の戦いに決着がついたのにもかかわらず、扇谷家の援助要請を大義名分にして、徐々に相模を侵食していった。
三浦氏との戦い
1510年、関東管領・山内上杉顕定が弟の仇を討ちに越後に出陣したところ、逆に討たれてしまった。これにより、山内上杉家は家督をめぐって紛争を起こす。さらにご丁寧にも顕定のおかげでおさまっていた古河公方家のお家争いも再燃。両者が巻き込み巻き込まれる形で関東を二分し戦い始めた(これを永正の乱という)。
扇谷上杉家は調停をしようとするが失敗。この頃、扇谷家の重臣・上田政盛を早雲が調略しようとしたことから、ついに扇谷家と早雲との戦いが始まる。早雲は両上杉家の勢力が弱ったのを好機と見たのである。
1511年、早雲は本格的に攻勢をかける。敵は三浦半島を拠点とする相模三浦氏、三浦道寸(義同)・三浦義意親子。ちなみに道寸自身は扇谷家から養子に入った人物であり、道寸の母は大森氏の出身である。早雲はまず岡崎城を、ついで鎌倉、住吉城と次々と攻略していく。三浦親子は三浦半島の先、新井城(三崎城)に籠り、ここを最後の砦にと抵抗を続けた。ここには厄介なことに二年以上もの籠城を可能にする米が入った洞窟があったのである。
さて、これに危機感を抱いたのが扇谷上杉家当主・上杉朝良。彼は太田道灌の子・太田資康を援軍に送る(既に両者は和解していた)ものの、逆に討ちとられる。さらに彼は子の上杉朝興を送るもこれも撃退される。籠城は味方が来なければ意味がない。けれども道寸は降伏しなかった。
結局、3年近くにもわたる籠城の末、1516年、早雲の総攻撃により新井城は陥落した。この時、海に流れた血が油のようだということで油壺という地名が付いた。(今も残っている)
その後の早雲と北条氏
相模の国人衆を傘下に加えた早雲は、伊豆や相模の水軍を確保し、房総半島にまで進出している。1518年に子・氏綱に家督を譲って隠居。翌1519年に死去。享年は64または88。いずれにせよ人生50年とされたこの時代の人物としては長い方である。
軍事力を全く持たないところから、駿河東部から伊豆相模までの領土を一代で築いた功績は大きい。また、東国では初の分国法を定めたり、検地を最初に行ったのも彼である。彼の内政が優れていることは、後北条氏が戦国時代の中で唯一といっていい程、家中での争いがなかったことからもうかがえる。
氏綱の代で名字も北条に改められた後北条氏は、五代にわたり関東の覇者として周辺の今川、武田、上杉といった大名たちと鎬を削った。その領土は駿河東部、伊豆、相模、武蔵、下総、上総、安房(従属下)、上野、下野(一部)、常陸(一部)に及んだ。
1590年に、各地の大名が全て豊臣秀吉に従うことから、北条征伐が戦国時代の終わりとされることがある。この説をとるならば、戦国時代は北条が開き北条によって終わったと言えるだろう。その点でも、北条早雲は戦国時代を代表する武将であるといえる。
二本の大杉と鼠の話
早雲はある日夢を見て、それを家臣に話した。曰く、鼠が二本の大きな杉を削って倒すと、たちまち虎になったという。杉は扇谷上杉家と山内上杉家の事。そして鼠は鼠年生まれである早雲自身の事。つまり二つの上杉氏を倒せば、北条家は虎になるという。つまり、北条氏にとって上杉氏がラスボスであるということである。なお、後北条氏は代々「虎の印判」を用いたことで知られる。
事実、早雲の孫の氏康が河越合戦で扇谷上杉家を滅亡させ、しばらく後に山内上杉家も上野から追い払い、西関東をまるまる手に入れることになった。
関連動画
戦国大戦
「この地鳴り、この炎、全て民の叫びと思うがいい!」
Ver1.0が桶狭間の戦いで、既に早雲がとうに死んでいる時代での展開が続いたため出番は無かったが、
応仁の乱直後の1477年まで遡ることになったVer2.2でついに登場した。もちろん北条家。
高い統率に伏兵魅力の騎馬隊と隙がない構成、計略は「千頭の劫火」。
この計略は2.2で追加された「神謀」の一つで、自分と味方を結ぶラインに敵マイナス効果を与える追加効果がつく。このラインが結ばれている限り味方は恩恵を受ける。
早雲のこれは北条家の味方の武力と統率を上げ、更に敵に与えるダメージに統率差ダメージを追加するもの。そしてラインに入った敵は一定時間統率が下がる。
その効果は強烈で統率差がなくとも一方的なゴリ押しが可能であり、稼働直後なのに使用率トップ、そして勝率は前代未聞の「70%超え」を果たし、「戦国元年にして天下統一した」等とその強さが揶揄された。
同時に若き伊勢新九郎の姿でも登場している。こちらは新星という2.2で追加された特技を持っており、最初は2.5コストだが2コスト程度の能力、しかし育ちきればコスト3に匹敵する能力になる。完全成長時は太田道灌と同スペックになるのも感慨深い。
計略「興国の流星」は統率力と移動速度が上がりやはりこちらも統率差ダメージを追加で与えるようになる。更に完全成長時は武力が追加で上がり、突撃オーラ時のダメージが軽減される。尤も上の早雲が強すぎてこちらはあまり見かけないが。
補足
信長より半世紀前の人物であるが、仮想シナリオやクリア特典として使える作品が多い。唯一、戦国初期のシナリオが収録されている「蒼天録」では現役として登場し、1495年シナリオ「駿河の梟雄」では堂々タイトルを飾っている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(註1) | 戦闘 | 91 | 政治 | 92 | 魅力 | 83 | 野望 | 89 | 教養 | 79 | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 81 | 知略 | 90 | 政治 | 87 | ||||||||||
天下創世(註2) | 統率 | 91 | 知略 | 100 | 政治 | 97 | 教養 | 88 | ||||||||
革新(註2) | 統率 | 96 | 武勇 | 69 | 知略 | 110 | 政治 | 120 | ||||||||
天道 | 統率 | 97 | 武勇 | 69 | 知略 | 98 | 政治 | 105 | ||||||||
創造(註3) | 統率 | 98 | 武勇 | 90 | 知略 | 98 | 政治 | 95 | ||||||||
大志 | 統率 | 98 | 武勇 | 90 | 知略 | 98 | 内政 | 95 | 外政 | 96 |
関連項目
血縁 |
その他の関係者 |
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