アッラーフ
-
121
ななしのよっしん
2017/01/12(木) 03:12:49 ID: e5CMKpYxE+
-
👍0高評価👎0低評価
-
122
ななしのよっしん
2017/01/12(木) 03:17:55 ID: e5CMKpYxE+
-
アッラーフの正体がヤハウェとは全く関係がないアラビアの土着の異教の月の神であるってことは日本ではほとんど知られていない。
英語が分かる人はこれらの動画を見てみて。
Islam Exposed (Origin of Islam) - 暴かれたイスラム(イスラムの起源)
https://www.yout ube.com/ watch?v= 4Nj25qJw 0iQ
Allah the Moon God - 月の神であるアッラー
https://www.yout ube.com/ watch?v= dtnEqswE 9XA
Allah the PAGAN Moon God - 異教の月の神であるアッラー
https://www.yout ube.com/ watch?v= NeqVLMS1 OLQ -
👍0高評価👎0低評価
-
123
ななしのよっしん
2017/02/01(水) 18:30:49 ID: aAX8q8p0B2
-
👍0高評価👎0低評価
-
124
ななしのよっしん
2017/08/03(木) 16:27:30 ID: oXFIpDlUpu
-
>>119
そういう「泥か泥でないか」という二元論は<哲学>の掲示板でも書き込まれてたが、同じ人?
316 : ななしのよっしん :2017/06/11(日) 20:35:27 ID: Tz0js4HmgT
人と泥の境目って何だろうって考えてきたんだけど、やっぱクリナメンに従うかどうかにあるんじゃない?結局クリナメンに従うしか出来ないっていうのは泥なんじゃないかっていうね。
だから各人が泥であるかどうかを決めるのは結局各自の言動にしかなくて、不実は人を泥にする、これが歴史の答えであり「メカニクス」として働いているものなんじゃないかと。
そういう意味では「人間の条件」って「不実に対する回避運動」という一点に懸かってるんじゃないかとね。振り返ってもそれだけが問われているように思えてならない。 -
👍0高評価👎0低評価
-
125
ななしのよっしん
2017/08/03(木) 16:28:36 ID: oXFIpDlUpu
-
324 : ななしのよっしん :2017/06/27(火) 16:39:24 ID: UMuCDUcAh4
>>316
ポストモダンや脱構築の批評以降に、どうやって「不実」を成立させる? 「人」「泥」「境目」「考え」「従う」「各自」「言動」「条件」「回避」「問」等にも言えることだが
たとえ「人」や「真理」が掲げられても、受け手同士が対立し、「真理の名におけるテロル」さえ起こす。かといって「泥」や「不実」が掲げられても、受け手は何も構築できない。何かを構築しても脱構築される。根本的な「人とは何か」「人は何をすべきか」といった「問」も脱構築される。
言葉は真理でも不実でもなく、表現でしかない。人文系の言葉に比べて理数系のそれは物体を活用しやすいし、非物体(サイバー空間や精神)をもますます活用できるようになってきている。しかし理数系も理数的真理度の一層高い版へとバージョンアップされ続ける。言わば脱構築され続けるので、結局は表現だろう。
言語学者には異論あるかもしれんが -
👍0高評価👎0低評価
-
126
ななしのよっしん
2017/08/09(水) 16:38:42 ID: 1cctojwAWl
-
👍0高評価👎0低評価
-
127
ななしのよっしん
2017/08/19(土) 13:14:36 ID: m3wfvxlK3r
-
👍0高評価👎0低評価
-
128
ななしのよっしん
2017/08/20(日) 19:38:03 ID: aAX8q8p0B2
-
>>125
「言葉は真理でも不実でもなく、表現でしかない」
私はこういった考えは持ってないけど御宅やその発言の人物がそうした考えを持ってるなら、そういった言動も含めてそれこそその人の貌形や姿形などなどに「表現」されているという事なんじゃないですかね。
それこそ言葉だけが表現じゃないという話にもなるんで。言葉は言動の片割れ。表現だから、オリエンタリズムだから、ポストモダンだから、二元論だから、脱構築だから、何かしらの口実を構えて不実であるか否かという追及並びに自問を免れる、御宅が其のように成すのであればそれは詮もない事。
そのように続ければどうなるかは自ら答えを出す事になるでしょう。私はその結果に予想が付いているのでそれに基づいて考思しているというだけ。
表現だから、オリエンタリズムだから、ポストモダンだから、二元論だから、脱構築だから、、、だから「泥」も「不実」も意味を為さないんだ、成立しない問いなんだ、それで行けると思うなら行ってみては?
現にそれだから「泥」も「不実」も御宅には何も響かない言葉なんでしょうから、御宅自身がそれを自ら脱構築なり何なりし続けているんでしょうから。 -
👍0高評価👎0低評価
-
129
りかパパさん
2017/08/20(日) 20:24:11 ID: MsWaL5LFlz
-
👍0高評価👎0低評価
-
130
ななしのよっしん
2017/08/21(月) 23:28:33 ID: m3wfvxlK3r
-
👍0高評価👎0低評価
-
131
ななしのよっしん
2017/08/21(月) 23:40:38 ID: m3wfvxlK3r
-
http://u
rx3.nu/F p6L オリエンタリズム - Wikipedia
差異による二項対立からオールタナティブへ
二項対立の図式は、せいぜい互いの立場を変えることがあったとしても、一方的な抑圧の関係性は結局のところ何も変わらない。
D. H. ウォンは、この作品[『エム・バタフライ』]を … オリエンタリズムの脱構築だと言う。固定化された二項対立を排し、すべての関係性は転倒可能であり、性差や人種に付与された役割はオールタナティブであることを示そうとする。女たらしのフランス人、妖艶で強く美しいドラゴン・レディ、フリーセックスを謳歌するスウェーデン娘、
中国人を虐殺し人体実験した日本人、ケチな中国人、女性性をすっかり捨てた紅衛兵――時間、場所の転換とともに、役柄/キャラクターは入れ替わり、現実と幻想が交錯する。あらゆる役割は交換可能であり、境界は往来自由で、境界線そのものが毎回ひき直され、固定化されるイメージの不可能性が示唆される。性差すら。 -
👍0高評価👎0低評価
-
132
ななしのよっしん
2017/08/22(火) 17:55:27 ID: aAX8q8p0B2
-
👍0高評価👎0低評価
-
133
ななしのよっしん
2017/08/22(火) 18:07:49 ID: aAX8q8p0B2
-
👍0高評価👎0低評価
-
134
ななしのよっしん
2017/08/22(火) 20:20:11 ID: oXFIpDlUpu
-
>>128
結局ID: Tz0js4HmgTはID: aAX8q8p0B2なのか? まあ色々思いや考えがあるんだろうけど、それは訊いてなくて。「同じ人?」って訊いたわけで。
>>130
オリエンタリズムであっても何でも二分法に問題があるのはまあ分かる
しかし最近の哲学や文系学問って何をやってるんだかわからん
大雑把に「東洋と西洋」とか「宗教と世俗」とか「イスラムと近代化」という広い話をすると「オリエンタリズムだ!オリエンタリズムの二分法だ!」と批判する
一方、ある時代のある地域のある人物とかある出来事については、ひたすら細かく探求していく
つまり厳密で精細な「知」を求める一方、全体的で統一的な「知」は排除するってことよね
そういうことやってると文系人間や文化人を叩くことに終始するあまり、社会学や科学の広範な成果に取り残されていくんじゃないですかと -
👍0高評価👎0低評価
-
135
ななしのよっしん
2017/08/22(火) 21:49:41 ID: m3wfvxlK3r
-
モダンとポストモダン 構築と脱構築 OKとNG 対立と協調
気に食わないと気に食う 相手と私 全部と一部 往なすと往なさない 表現と非表現 発信者と受信者 念じると念じない 言葉と言葉の他 表と裏
すべてモダン的でオリエンタリズム的な二分法に留まっている
何故ならポストモダンや脱構築もポストモダン化され脱構築され続ける、つまり無限後退がポストモダン
モダンとポストモダンという二分法は、モダンとポストモダンを脱構築したポストモダンを導き出す
そしてモダンとポストモダンを脱構築したポストモダンを脱構築したポストモダンも導き出され、無限ループする
有限に対する無限、に対する無限、に対する無限と続くのがポストモダン、に対す(ry
http://prt.nu/1c /w
無限後退
ある事柄を成立させている原因や条件を求めて、その原因の原因、また、その条件の条件というように限りなくさかのぼっていくこと。
http://prt.nu/1d /w
脱構築
西洋哲学で伝統的に用いられる統一的な全体性や二項対立の枠組みを解体し、新たな構築を試みる思考法。
世界はすでに解釈されたテキストとして現前するにすぎない。脱構築とは,まさにこのテキストの連鎖を自由に横断し,そのずれの中に世界の生成の瞬間を見いだそうとする,無限に反復される試みである。
なんらかの絶対な真理を打ち立てようとする傾向と、反対に絶対な真理を解体しようとする傾向との、2つを同時に読み取っていくことをいう。脱構築的読解とも呼ばれる。
その背景には、マルクス主義の運動のなかで、絶対の真理や正義の名のもとで政治党派が互いに殺し合い反対者を大量に粛正したという事情があった。「真理の名におけるテロル」はいまなお、現代思想の最大のテーマであり続けている。
つまり「脱構築」の戦略とは、内部と外部、パロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語)、魂と肉体などの二項対立の階層秩序を打破し、ずらし、差異を生み出し続けることである。この差異を延ばし続ける運動を、デリダは「差延」diffranceと名づけた。これは「差異」diffrenceからの造語で、発音は同じ「ディフェランス」である。 -
👍0高評価👎0低評価
-
136
ななしのよっしん
2017/08/22(火) 21:51:12 ID: m3wfvxlK3r
-
http://p
rt.nu/1d /w
脱構築の思想はラディカルである。二項対立を決定不可能なものとすることによって、真と偽、善と悪などは相対化され、何の意味ももたなくなったとしたらどうなるか。デリダの脱構築は、ロゴスや真理への服従から「記号の差延の戯れ」へと向かうことによって、最終的には「ニヒリズム」を包含するものであろう。
http://prt.nu/1l /w
ポストモダンの旗手柄谷行人氏、木田元氏、そのポストモダンを脱構築している東浩紀氏
http://prt.nu/1f /w
あらゆる<現実>を権力関係の所産としての構築物とみなした場合には、その<権力>自体も観察者の言明による権力的な構築物ということになる。事実、ポストモダン派は、そうした見方をし、自らに作用する権力関係の分析をもその議論の射程に含めている。だが、その<自らに作用する権力関係の分析>に作用する権力関係についてはどうなのかというように考えた場合、それは無限後退に陥らざるをえなくなる。
http://prt.nu/1g /w
我々日本人は『無限ループ』としての歴史を生きている。あるいは,昔から日本はポストモダンだった。
http://prt.nu/1i /w
過去ということは、解釈の結果の形でしかあり得ない。そして、解釈は主体性に深く根ざしているから、解釈の可能性は無限にあります。それなら、過去の数も可能性としては無限に成る訳です。
今、私たちが生きているこのポスト・モダン世界では、確実性と言う慰めが失くなっていると同時に、逆に新しいチャンスが私たちに与えられているのではないかと私は思います。
http://prt.nu/1j /w 『ミステリで読む現代日本』
ゾンビはポストモダン的には<生者≠死者>と表記される。生者でも死者でもない厄介な存在。 -
👍0高評価👎0低評価
-
137
ななしのよっしん
2017/08/22(火) 21:53:38 ID: m3wfvxlK3r
-
http://p
rt.nu/1k /w 『夢と眠りの博物誌』
かつてロマン主義的な世紀末を代表していた”吸血鬼”の犠牲者は、いまやすさまじい数となり、ロマンの香りを失った醜悪なゾンビとして全世界のいたるところで再生産されているのである。言ってみれば、二十世紀末は十九世紀末のコピーであり、二十一世紀はその初頭から、そのまたコピーなのである。コピーであるがゆえに、微塵のロマン(想像力)もそこにはない。
人びとは自己についての観念を失い、つくりだされた欲望のなかを徘徊する。かつて「プロレタリア」として影をもっていた人びとも、影を失い、自己についての観念を失った。「プロレタリア」は蒸発して、ゾンビと化してしまったのである。
この社会システムが壊れるのは、おそらく、ゾンビがゲットーの有刺鉄線を破って押し寄せ、ゲットー管理者を食い尽くすときかもしれないが、そのとき、ゾンビの群れを下に見てヘリコプターで脱出できる者は誰もいないのである。
私は映画『バイオハザード』からの比喩で現在の社会を語っているのだが、官能や欲望を感染させられるゾンビとは、言うまでもなく、資本がつくりだす仮想現実から逃れられないわれわれ自身なのである。ゾンビではなく、アンデッドと名称を変えても、事態は同じである。
こうした世界の一切を疑うとすれば、資本主義経済組織の巨大な秩序界[コスモス]から外れなければならず、バーチャルなゲームを降りなければならない。
だが実は、それでもゲームを降りたことにはならない。フリーターや引きこもりやホームレスには資本の力に対する無意識的反抗が見られると言えないこともないだろうが、そうした存在も、巨大な資本の排出物としての非労働集団であり、労働には携わらないものの、やはり消費の一端を負わされているからである。
また、「生ける死者」のつくりだす幻想がすべての根底をなしているために、その幻想を取り除いたとしても、別の幻想が生み出されることになる。つまり、その幻想を批判することは、もうひとつ別の幻想を生み出すにすぎないのである。 -
👍0高評価👎0低評価
-
138
ななしのよっしん
2017/08/23(水) 17:42:28 ID: aAX8q8p0B2
-
👍0高評価👎0低評価
-
139
ななしのよっしん
2017/08/27(日) 00:01:10 ID: m3wfvxlK3r
-
違うよ
「他者は、私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」
>>az4309414133
>現代哲学には、【他者論】と呼ばれる哲学の分野があり、その代表的な哲学者がレヴィナス(一九〇六年―一九九五年)である。
そもそもの話をしよう。たとえば、「あいつってバカだよね」という文章があったとする。だが、その文章を丸ごと「括弧」でくくって、遠くから、バカにする「他者」の存在が可能である。「『あいつってバカだよね』なんて言ってるあいつ自身が一番バカだよね」
だが、その言説も、丸ごと「括弧」でくくり出す他者が必ず存在する。「『『あいつってバカだよね』なんて言ってるあいつ自身が一番バカだよね』って言ってるあいつが一番バカだよね」そして、その言説も丸ごと「括弧」でくくり出して否定する他者が……。
無限に続く「他者」の連鎖。どのような言説を述べようと、それを否定する「他者」の存在だけは決して否定できない。
>ユダヤ人だったレヴィナスは、第二次世界大戦中、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺により、家族、親族、友人のほぼ全員を失っている。
ユダヤ人として人間以下の扱いを味わった彼は、いつしか、ある恐怖にさいなまれるようになる。それは、人間がどんなに無残に殺され死んでいっても、世界は何事もなかったかのように「継続していく」という事実そのもの……。彼は、明日、自分が殺されるかもしれないという恐怖と同時に、その死とまったく無関係に存在し続ける「世界」に恐怖した。
彼は、自分が死んでもなお存在し続ける「世界」を恐ろしいものだと考えた。自分の生死に無関心な「世界」……。何のために、何の意図を持って、そこにあるのか、まったく理解不可能な「世界」……。彼は、そこに絶対的な「他者」を感じるようになる。
それに触発され、他の哲学者たちも気がつき始める……。この世界が、たくさんの「他者」、すなわち、「私に対して無関係にそこにあり、かつ決して理解できない不愉快な何か」で満ちあふれていることに……。
>現代哲学において「他者」とは、「私の主張を否定してくるもの」「私の権利や生存にまったく無関心なもの」「私の理解をすり抜けるもの」など、さまざまな意味を表す抽象的な言葉となっている。 -
👍0高評価👎0低評価
-
140
ななしのよっしん
2017/08/27(日) 00:02:34 ID: m3wfvxlK3r
-
>>az4309414133
>ようするに、「自分の思いどおりにならない」「なんだかよくわからない」といった「いわゆる他人的な性質を持つもの」をすべてひっくるめて、哲学者たちがカッコよく「他者」と名づけた、という程度に思ってもらえればいいだろう。
結局、宗教も科学も哲学も、世界を何らかの形で記述して説明しようという試みの一つであるが、それはようするに、何らかの言葉の組み合わせであり、何らかの「囲い(文章)」を作ることなのだから、その囲いの外側には「他者」―すなわち「違うと否定するもの」「囲いに含まれないもの」が必ず存在してしまうのである。
>この他者論という観点に立つならば、「誰にも否定されない絶対的な真理」をつくり出すことは、どうあがいたって不可能である。人類は「他者」という異形の怪物の前になす術もなく敗北してしまったのだ。
>一方でこんなふうに捉えることも可能であるように思う。「他者とは、私という存在を自己完結の独りぼっちから救い出してくれる唯一の希望であり、無限の可能性である」
どんな科学、数学、哲学をつくり出そうと、必ずその外部から「違う」と叫び、叩き潰してくる、まったく理解不能で残酷な「他者」が現れるからだ。そして、その「他者」がいるからこそ、僕たちは自己完結の停滞に陥ることなく、無限に問いかけ続けることができるのである。
-
👍0高評価👎0低評価
-
141
ななしのよっしん
2018/05/20(日) 02:13:52 ID: E90/4f1cTO
-
あら〜
-
👍0高評価👎0低評価
-
142
名無し
2019/10/31(木) 08:05:36 ID: 2ueto665YB
-
👍0高評価👎0低評価
-
143
ななしのよっしん
2020/01/08(水) 15:30:46 ID: SvjrURCrVX
-
👍0高評価👎0低評価
-
144
ななしのよっしん
2020/01/08(水) 17:21:09 ID: CYvn99mJyj
-
👍0高評価👎0低評価
-
145
ななしのよっしん
2020/01/08(水) 17:29:22 ID: QqfamQ2Wk0
-
>>143
ごっこ遊びのつもりでもそんな書き込みやめなさい -
👍0高評価👎0低評価
-
146
ななしのよっしん
2020/01/28(火) 08:13:56 ID: 8CWO2mPai6
-
👍0高評価👎0低評価
-
147
削除しました
削除しました ID: a1H/NJTyVz
-
削除しました
-
148
ななしのよっしん
2020/05/01(金) 20:39:45 ID: e5CMKpYxE+
-
👍0高評価👎0低評価
-
149
ななしのよっしん
2020/05/01(金) 20:41:51 ID: e5CMKpYxE+
-
アッラーフ - Wikipedia - ウィキペディア
https://ja.wikip edia.org /wiki/%E 3%82%A2% E3%83%83 %E3%83%A 9%E3%83% BC%E3%83 %95
考古学的見地では、ヤハウェとイスラーム教の唯一神アッラーフは別の起源であり、イスラーム教の唯一神アッラーフは、630年以前は、カアバ神殿に祭祀されていた最高神の呼称である。
イスラーム教でいうジャーヒリーヤ(無明時代)に、カアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神がアッラーフとされていた。アッラーフの下には、アッラート、マナート、アル・ウッザーの3女神が付き従っていたという。
これらの女神はアラブの部族神であり広く信仰されていたが、クルアーンにおいて否定された。
月からの隕石とされていたカアバの黒石は、アッラートの御神体とされていた。
もちろん、偶像崇拝を禁じるイスラーム教では、信仰及び崇拝の対象になってはいないが、ハッジ(メッカへの巡礼)においてこの石に触れることができれば大変な幸運がもたらされるとされている[8]。 -
👍0高評価👎0低評価
-
150
ななしのよっしん
2020/05/01(金) 20:47:42 ID: e5CMKpYxE+
-
http://b
bs1.sekk aku.net/ bbs/?id= friskey& mode=res &log=35
どうしてヤーウェ・エホバとはアッラーは別なのでしょうか。
むしろ私としては「何故同じ」と言えるのかが不思議です。信仰する民族も、神の発祥もまったく違うものです。ヤハウェ・エホバというのは、ユダヤ民族が信仰していた神です。これは最初、日本の神道のように神様がたくさんいるうちの一人であったとされています。それらの神々の中からヤハウェ(エホバ)を選出したようです。
アッラーも同様の過程を経ています。アッラーが祀られているカーバ神殿には他の神々も祭られていましたが、すべて排除されました。この動きはキリスト教を真似てマホメットが行ったとされています。
似ているのは一神教の神であることと神の性質だけで、出自も時代も別のものなのです。
水素と酸素のような関係でしょうかね。同じ「元素」というくくりの存在で、同じ「燃焼する」特徴をもっている。でも、酸素と水素は別の存在である。
ヤーウェ・エホバとアッラーは似て非なるものであると、思います。 -
👍0高評価👎0低評価