- プロ野球選手一覧 > 加藤博人
加藤博人(かとう ひろと)とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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加藤博人 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県八千代市 |
生年月日 | 1969年4月29日 |
身長 体重 |
180cm 70kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト外 |
引退 | 2002年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
八千代松陰高等学校に進学。高校時代は決してエースというわけではなく控え投手の一人であったが、カーブを武器に強豪校の打線を抑えた試合を、当時ヤクルトスワローズのスカウトを務めていた安田猛の目に留まり、1987年、入団テストを経て、ヤクルトスワローズにドラフト外で入団。
1989年、春キャンプにてヤクルト打線の中軸たちをカーブで手玉に取る姿を首脳陣から評価され、開幕一軍入りを果たす。5月頃から先発ローテーション入りを果たすと、内藤尚行・尾花高夫に次ぐ先発の軸としてシーズン通してローテーションを守りきり、6勝9敗1セーブ、防御率はセ・リーグ8位の2.83を記録するなどブレイクを果たした。
その後は相手チームからのマークが厳しくなったこともあり、1990年は3勝9敗、1991年は7勝11敗となかなか勝ち星を伸ばせなかった。
1992年は14試合の登板に終わると、1993年・1994年には左肩を故障し、一軍登板無しという厳しい時期を過ごした。
1995年に復帰を果たすと、リリーフ投手に転向。投球スタイルもカーブを多投する軟投派から、速球で押す速球派にスタイルチェンジしてみせ、40試合の登板で、1勝1セーブ、防御率2.84と安定感を発揮し、チームのセ・リーグ制覇と日本一に大きく貢献した。
1996年は再び故障してしまい、22試合の登板で防御率7.84と不調に陥った。
1997年、故障から復帰すると、カーブも若手時代並みのキレを取り戻し、開幕からしばらくは不調に陥っていた高津臣吾や故障に苦しむ伊藤智仁に代わり抑え投手を任され、高津が復調してからは中継ぎエースとして大車輪の活躍を見せた。60試合に登板し、5勝1敗6セーブ、防御率1.99と好成績を残し、セ・リーグ制覇と日本一に大きく貢献。野村克也監督からは「廣田浩章と加藤がおらんかったらと思うとゾッとするよ。今の位置(断トツ首位)におるのもあいつらのお陰や」と語られた。
1998年以降はまたしても故障に悩まされ低迷。
2001年、近鉄バファローズへ金銭トレードで移籍。ただ、近鉄では12試合の登板で防御率8点台と結果を残せず、1年限りで戦力外通告を受けた。
2002年、台湾へ渡り、台北誠泰太陽で1シーズンプレーした後、現役を引退。
引退後は、古巣のヤクルトをはじめ、香川オリーブガイナーズ、徳島インディゴソックス、愛媛マンダリンパイレーツ、日立製作所などでコーチを務め、新潟アルビレックス・ベースボール・クラブでは監督を務めた。
人物・エピソード
最大の武器である大きく曲がるスローカーブを武器に打者を手玉に取った左腕。
若手時代には、投球割合の9割をカーブが占めるという異色の投手であったが、キャリアの後半にはキレのある直球も武器になっていた。
通算成績
投手成績
通算:10年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 266 | 8 | 2 | 27 | 38 | 8 | --- | .415 | 549.1 | 270 | 404 | 268 | 235 | 3.85 |
関連項目
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