エリシオ(Helissio)とは、1993年フランス生まれ
フランス調教の競走馬である。
オリバー・ペスリエとか呼ばれてたりしていた若き日のオリビエ・ペリエが日本で学んだことを活かした騎乗で、凱旋門賞史に残る圧勝を見せた快足馬。人呼んで「走る機械のような馬」。
主な勝鞍
1996年:凱旋門賞(G1)、サンクルー大賞(G1)、リュパン賞(G1)、ニエル賞(G2)、ノアイユ賞(G2)
1997年:サンクルー大賞(G1)、ガネー賞(G1)
父はサドラーズウェルズの弟という以外に種牡馬になれた理由はなかったが、種牡馬としては兄と違う道を歩み、南半球や短距離路線で成功したフェアリーキング、母は特に強調要素のないエリス、母の父はシアトルスルー初期の活躍馬・GI2勝のスルーピーという血統。
1歳8月のセールで当時マドリード競馬場の代表であった実業家エンリケ・サラソラ氏に35万フランで購入され、撃っていいのは撃たれる覚悟が云々は関係ないエリー・ルルーシュ師に預託され、フランスでデビューすることとなった。
デビューは大きく遅れ、3歳の3月となった。重馬場のデビュー戦をドミニク・ブフ騎手を背に10馬身差圧勝という衝撃的な勝ちっぷりで突破し、遅ればせながらクラシック戦線に参戦することになった。
次走はクラシックの登竜門・ノアイユ賞(当時G2)。逃げようとしたがハナを強硬に主張した馬を行かせて2番手から進め、直線でバテた逃げ馬を交わすとそのまま4馬身差つけて押し切ってまたも圧勝。ジョッケクルブ賞路線の本命格に浮上した。
この勢いのまま当時ジョッケクルブ賞のプレップレースであったリュパン賞へ。今回もハナは取られたが2番手で折り合い、ノアイユ賞と同じように直線で先頭に立ち押し切りにかかる。ここでグランクリテリウム勝ち馬のルーソリテールの猛追を受けたものの3/4馬身差でなんとか凌ぎきりG1初勝利を飾った。
そして1番人気・大本命で迎えた本番・ジョッケクルブ賞。例によってハナを叩かれたうえ今回はブフ騎手が当時2400mという距離を勘案してか抑え気味にいったのだが、折り合いを著しく欠き消耗。平地では滅びゆくフェアウェイ系末期のきらめき・ラグマールの追込が決まる中下がっていき5着に敗れた。それでも3馬身しか離れていなかったので、スタミナ面もそこまで問題はなかったようである。
ということで折り合いを欠く乗り方をしてしまったブフ騎手は主戦を解任され、代わって冒頭にも書いた通りオリビエ・ペリエ騎手に乗り替わりとなった。
ペリエ騎手に乗り代わって初戦は当時3歳馬に開放されていた頃のサンクルー大賞。ところでひとつ上の欧州1995年クラシック世代は粒揃いであり、4戦4勝で英ダービー・キングジョージ・凱旋門賞をぶち抜いた神の馬こと*ラムタラを筆頭に*ペンタイア、シングスピール、*ピルサドスキーと名馬揃いなのだが、このレースにはその中からスウェインが出走しており、最も手強い相手となった。
レースはやはり1995年世代のポリグロート(ソレミアの父)が主張したため2番手で折り合い、直線で先頭に立つ勝ちパターンに入ると追撃してきたスウェインを後目に1馬身差つけて勝利。7着に敗れていたラグマールにもジョッケクルブ賞での借りをキッチリ返し、15年ぶりの3歳馬による勝利を達成したのであった。
サンクルー大賞後は夏休みを取りニエル賞から凱旋門賞を目指した。ということでニエル賞に出走。ジョッケクルブ賞で2着してエリシオに先着していたポラリスフライトやジョッケクルブ賞では折り合いを欠いたエリシオにも後着したが後にパリ大賞を勝ってきたカーリアン産駒グレープツリーロードくらいしか相手はおらず、ハナを取るとそのまま悠々と逃げ切り快勝。予定通り凱旋門賞に向かった。
この年の凱旋門賞は上の世代が強いこともありメンツが分厚く
とまあ、2400m・12f路線の主役が集合した1996年総決算となったこのレース、ペースメーカーを制してハナを切ったエリシオは先頭を疾走。2番手*ピルサドスキーを引き付けつつマイペースでフォルスストレートを通過。直線に入るとまだ持ったままのエリシオに対し2番手*ピルサドスキー以下はもう必死で追っており、そこに満を持して仕掛けたペリエ騎手の檄に応えエリシオはロケットみたいな二の脚で一気に抜け出す。*ピルサドスキー鞍上のウォルター・スウィンバーン騎手も「ペリエ騎手が追い始めて二完歩でもう追いつけないとわかった」とこぼした程勢いに差があった。
残り70m地点でペリエ騎手が振り返って大きな差を確認すると派手にガッツポーズするくらいの余裕の大差をつけてゴールに飛び込んだ。
記録上は5馬身差で当時の最大着差記録であったシーバードの6馬身差には届かなかったものの、ペリエ騎手が立ち上がりガッツポーズして減速せずずっと追っていたら10馬身はついたとも言われる大楽勝であった。
*ピルサドスキーを管理するマイケル・スタウト調教師も「怪物に負けた。今年ピルサドスキーはどんどん強くなっていたのだが……運がない、ここで走る機械のような馬に出くわすとは……」と完全に白旗を上げ、識者からは「平地競走の最高峰には見えない、(道中でふるいにかけられて差が付きやすい)障害競走のゴール前みたいだった……」と評価されたほど。
ちなみに枕に書いた通り、ペリエ騎手は日本で学んだペースメイキングや溜め具合をうまく転用してこの逃げ切りを実現させたという。
この大楽勝劇の後、休養に入るかと思われたがなんとジャパンカップからの招待を受諾し遠征。日本で種牡馬入りが決定し顔見世でやってきた*ペンタイア、カナディアン国際Sでチーフベアハートらを下し念願のGI初制覇を飾るも前走BCターフでは(先の凱旋門賞でスタウト師が「今年強くなっている」と評していた)同期同厩のピルサドスキーの2着に敗れていたシングスピール、アーリントンミリオン他GI3勝のアワッド、愛セントレジャーの勝ち馬・巨漢ストラテジックチョイス、アメリカの重賞馬フラッグダウン、コックスプレートとメルボルンカップを同一年にぶち抜いたオセアニア最強馬をオクタゴナルと競っていたセイントリーの6頭とともに、日本の大将格で初の4歳(旧馬齢表記、今風だと3歳)秋天ウイナー・バブルガムフェロー、この年は古馬開放初年度のエリ女を白井寿昭師の宣言通り制したダンスパートナー、初年度のNHKマイルカップを衝撃の時計で勝った○外*タイキフォーチュン、秋華賞の勝ちっぷりは良かったが4歳(旧馬齢表記)牝馬が戦えるのか?と思われたやはり○外*ファビラスラフインらに襲いかかる……予定だったのだが、セイントリーが豪州からの直行便がないため30時間の長旅を押してやってきた疲れからか当日に熱発して回避となり、外国招待馬は本馬含め6頭となった。余談だが、セイントリーの父スカイチェイスも同じく熱発を起こして1988年ジャパンカップを回避しており、父のリベンジを果たすことは叶わなかった。
さてレースの方はハナを切ろうとしたがカネツクロスが外から被せに来たので譲って2番手、向こうでもよくやっていたパターンで折り合って勝ちに行ったが、凱旋門賞での圧勝劇で調子のピークは過ぎていたのか、いつものような二の脚がなく、ランフランコ・デットーリの檄に応え勝ちきり、1番人気に推されながら惨敗した父方の祖母ハイホークの無念を晴らしたシングスピールと最内から飛び出した日本調教の4歳牝馬初連対を果たした*ファビラスラフインの叩き合いに加わることはできなかった。
しかし巨漢ストラテジックチョイスとの叩き合いには競り負けず、同着ながら3着は確保した。これは凱旋門賞を勝った後にジャパンカップに出走した凱旋門賞馬の最上位着順であった。ちなみに後の凱旋門賞馬ということならオールアロングの2着がある。
1996年はここで休養となり、年度表彰ではカルティエ賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬・最優秀3歳馬を受賞した。最優秀3歳馬はこの年のみの部門であり唯一の受賞である。
明けて1997年は第2回となるドバイワールドカップ(当時はまだ高額賞金のリステッド)から戦線復帰予定であったが、大雨でナド・アルシバ競馬場が水浸しとなって延期になったのを嫌って帰国。彼が不在の順延されたレースはシングスピールが勝利し、ジャパンカップの勝利と合わせて世界的名馬へ飛躍するステップとなった。日本のファンとしてはホクトベガの事故死があまりにも印象に残ってしまったが……
さて、改めて仕切り直して地元フランスのガネー賞から復帰。前年のBCターフを勝利し最強クラスに名乗りを上げた*ピルサドスキーやストラテジックチョイスらが揃ったレースであったが、2番手から進めて重馬場の中無理にハナを切った馬が早くに潰れたあたりで先頭に立つとそのまま押し切って6馬身差で圧勝。マイペースで行かせたら強いことを改めて示した。
その次走は2年連続の出走となったサンクルー大賞。専属契約の都合でペリエ騎手が降板しキャッシュ・アスムッセン騎手を迎えることになった。有力な馬は回避してほぼおらず、得意の重たい馬場ということもあって1.1倍とほぼ元返しレベルの人気に応え、逃げ切って5馬身差圧勝。
騎手はアスムッセンのまま意気揚々とキングジョージに向かった。この年のキングジョージはメンツが分厚く、ジャパンカップ→ドバイワールドカップ→コロネーションカップと3連勝中のシングスピール、前走で豪華メンバーのエクリプスステークスを快勝して来た*ピルサドスキー、前記2頭と同い年のスウェイン、この1年間は前記3頭以外には先着を許しておらず前走でスウェインにリベンジを果たしたばかりの1996年英セントレジャーなどG13勝馬シャントゥ、そしておなじみ愛セントレジャーなどG12勝のストラテジックチョイスらと顔を合わせることとなった。さすがは”The Race of the Decade”(10年に一度のレース)と評されただけのメンツである。
しかしハナを切るまでは良かったが、道中で馬群に飲まれてしまうと馬群でもがき、最後の直線も思うように前が開かずに苦労。スウェインの3着に敗れた。
騎手がペリエに戻った次走に選んだのはなんとマイルG1のムーラン・ド・ロンシャン賞。ここには同い年の1997年最強クラスのマイラーで、前走ジャック・ル・マロワ賞を勝ち連覇してきた*スピニングワールド、この年のプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)勝ち馬で、当時はまだマイル戦線にいたデイラミが主な相手となった。
今まで2000m以上しか走ったことがなかったのに1番人気に推されたものの、流石にハナを切ることはできず3番手で折り合って追走。直線で一旦先頭に立つなど意地を見せたが、*スピニングワールドが悠々と突き抜け3馬身差つけて圧勝。しかし2着を確保したのだから素晴らしいスピードを見せたといえよう。
このレースをステップに凱旋門賞連覇に挑むこととなったが、やっぱりメンツがすごかった。
ら、キャリアも国際色も豊かなメンツが顔を揃えた。しかし何よりも恐ろしい存在は当年のジョッケクルブ賞馬、こちらもペリエ騎手が主戦であったが迷いなくエリシオを捨てこちらを取ったほどの才能を持つ3歳馬・*パントレセレブルであった。
なお、ヨコハマが勝ったフォワ賞からは小島太とサクラ軍団の夢を背負った1996年の年度代表馬サクラローレルが参戦予定であったが、予後不良級の負傷で競走中止となってしまい参戦は叶わなかった。勝機は薄かっただろうが見たかったところである。
さてレースの方は逃げようとしたがハナを叩かれスウェインにピッタリとマークされ、ようやく先頭に立ったのは800mすぎの地点であった。しかも無理に前を行ったのでかなり速いペースとなってしまい、これではいくらなんでも潰れる……と思われたがフォルスストレートを回って直線に入っても持ち前の根性で粘り倒す。流石に*パントレセレブルがレコードペースを切り裂く凄まじい末脚で飛び出すとついに力尽き下がっていくが、3番手集団に追いつかれるともう一度粘り腰を発揮し6着には粘り込み、前年度王者の誇りは見せた。このレースを最後に引退した。通算成績は13戦8勝。
引退後は社台グループに買収されてジャパンカップを走った日本で種牡馬生活を送ることとなった。シンジケート総額は総額19億8000万という、かなり気合の入った額であった。
キングジョージ後に一度買収交渉が破談しながらも粘りに粘って輸入にこぎつけただけあって、相当な期待を持たれていたと思われる。
産駒の出来も良かったようで、種付け数は初年度こそ100そこそこであったが2年目180頭、一番少なくなりやすい3年目も151頭と人気を博していた。
しかしその期待に応えられたとは言えず、初年度はチューリップ賞を勝ったヘルスウォールのみしか重賞に勝てず、その後人気は降下。2003年からはブリーダーズスタリオンステーションに放出された。
初年度と2年目にシャトル種牡馬に向かっていたオーストラリアでは2002年から2003年にかけて初年度産駒のエレナスがG13勝をマークして注目を集めたため、2003年秋に再びオーストラリアに向かった後は日本に帰ることはなかった。
2004年からは2年連続でイギリスにリースされ、その後2005年には北アイルランドに正式に売却され、北アイルランドを転々としながら種牡馬生活を続行したが、20歳のとき、2013年に急死した。死因は心臓発作とみられる。
結局輸出後にポップロックが活躍した日本でも、エレナスが出たオーストラリアでも、欧州でも成功と言えるほどの成果は出せなかった。
しかし母父としては絶不調の武豊に勝ちがなかったマイルチャンピオンシップ勝ちを届けたサダムパテックや、オーストラリアに散った悲運の星アドマイヤラクティ、サダムパテックの半妹・ヴィクトリアマイル勝ちのジュールポレールといった活躍馬を出したのが救いであろうか。
Fairy King 1982 鹿毛 |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Fairy Bridge 1975 鹿毛 |
Bold Reason | Hail to Reason | |
Lalun | |||
Special | Forli | ||
Thong | |||
Helice 1988 鹿毛 FNo.10-c |
Slewpy 1980 黒鹿毛 |
Seattle Slew | Bold Reasoning |
My Charmer | |||
Rare Bouquet | Prince John | ||
Forest Song | |||
Hirondelle 1981 鹿毛 |
Val de l'Orne | Val de Loir | |
Lithia | |||
Hermanville | Cutlass | ||
Peaceful Lane | |||
競走馬の4代血統表 |
こうして血統表を眺めると、後にG18勝を挙げ大活躍し種牡馬として日本に輸入された*ファルブラヴととてもそっくりな血統である。
スルーピーにスタミナが勝った母父の配合の母だったりするのもそっくり。種牡馬としては*ファルブラヴが勝っていると思うが、母父としてはどっこいどっこいだろうか。じきに抜かれるかもしれないが…
めちゃんこつおい
in府中
この画家強すぎィ!
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急上昇ワード改
最終更新:2025/03/26(水) 21:00
最終更新:2025/03/26(水) 21:00
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