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ナスノコトブキ 単語

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ナスノコトブキ

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ナスノコトブキNasuno Kotobuki)とは、1963年生まれの日本競走馬栗毛

スピードシンボリとの大接戦の末にに菊のを咲かせ、翌ひとりの厩務員の心を連れて散った、"不運"の菊花賞

な勝ち
1966年菊花賞(八大競走)NHK盃朝日チャレンジカップ

概要

*モンタヴァル、キクジユヒメトシシロという血統。
は*ムーティエの半で、1956年エプソムダービー2着、翌1957年キングジョージの勝ち。気性が荒すぎたこともあってか、1961年キングジョージ勝ちで始めて日本種牡馬として輸入されたが、輸入初年度の産駒デビューし始めた矢先に死亡してしまった。僅か4年間の供用に終わったが、輸入初年度の産駒からナスノコトブキと皐月賞ニホンピロエースと2頭の八大競走勝ちを出したほか、メジロ牧場の偉大なメジロボサツなどを輩出した。
障害も走って29戦1勝。ナスノコトブキは第4
は現役期間が戦中だったためか3勝を挙げたということぐらいしか伝わっていないが、が名種牡馬*ダイオライトが名クレオパトラトマス(繁殖名は月城)という良血を買われて種牡馬入りし、クリフジオークス制覇したヤマイチや桜花賞ウシユウインなどを輩出した。

ダイヤモンドSを勝ったキクノヒカリメイヂヒカリ)、半1965年オークス3着ナスノキク(*ソロナウエー)がいる。またニホンピロエースのいとこにあたる。

1963年4月13日栃木県那須牧場で誕生。那須牧場は潰れかけていたところを、馬主もしていた政治家河野一郎1958年に購入し、施設の改修、土地の買い足しなどで整備を進め、その整備が一段落したところで満を持して生まれたがナスノコトブキであった。しかし河野一郎はナスノコトブキのデビュー10日前に大動脈瘤破裂で急死してしまい、彼の活躍を見ることはなかった。

ナスノコトブキは後肢のつなぎ(蹄と球節の間)が緩く柔軟性が高いため、後肢の踏み込みが強いという特徴があったという。

※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。

淀に寿、花に風

とにかく不運な暴れん坊

中山競馬場稲葉秀男厩舎に入厩したナスノコトブキは、1965年7月18日河野一郎が関屋から現在山への移転に協力し、その新規開場を迎えた新潟競馬場[1]の芝1000mのオープン戦(この年の八百長事件で逮捕されてしまう)山岡上にデビュー。直線一気で3身差の快勝デビューを飾り、前述の通り前に亡くなってしまった河野オーナーに弔いの勝利げた。
続く新潟・芝1200mのチューリップSでは左右にフラフラして4着に敗れたあと4ヶ休み、12月中山・芝1200mの50万下条件戦で野好男を上に復帰。初戦はブービー11着に沈んだが、同条件の2戦を3身差で快勝して4戦2勝で3歳を終える。

明けて4歳となりクラシックすナスノコトブキだったが、に似てナスノコトブキはものすごく気性が荒く房のを蹴って壊す、レース前になると奮して身食いをする(自分の身体を噛む)など、大川次郎ライオンのごとき凄まじさ」であったという。
そんな気性を持て余してか、年明け初戦のオープンで5着、120万下条件戦でも3着、12着、5着となかなか結果が出ない。それでも皐月賞へと一縷の望みをかけてスプリングステークスに臨み、結果は2着タイシユウにクビ差の3着。……現在なら優先出走権を確保して万々歳のはずだったが、当時は優先出走権の概念がなかったらしく、結局ナスノコトブキは賞金不足で皐月賞に出られなかった。山野浩一によるとこれで翌年からトライアル入着に優先出走権を与えるようになったという。ちなみに皐月賞を勝ったのはスプリングS4着だった同じ*モンタヴァル産駒ニホンピロエースである。

皐月に出られなかったナスノコトブキは、その憤をらすように前日の4歳ステークスにて、新たに明を上に迎えて3身差で快勝。以後、明が彼の戦となる。
続いて日本ダービーしてトライアルNHK盃に向かい、皐月賞ニホンピロエース、2着シヨウグン、4着タマシユウホウらを蹴散らして重賞初制覇。トライアル皐月賞組を打ち破ったことで、ナスノコトブキは一躍ダービーの有力補に躍り出ることになった。

ひとりの厩務員とともに

さて、前述の通りとにかく気性が荒く手が付けられなかったナスノコトブキだが、たったひとりだけ心を許していた人間がいた。稲葉厩舎で彼を担当していた平山勝男厩務員である。房のを蹴飛ばすコトブキが怪をしないように一面にを貼ったり、身食いを防ぐための専用の器具を作ったりと、コトブキの荒々しい気性がマイナスに働かないように懸命に尽くしていた。コトブキもそんな平山厩務員にだけは滅多に噛みつこうとしなかったという。

NHK盃勝利ダービーの本命補となったナスノコトブキの元にはメディアの取材が訪れるようになったが、神経質なコトブキが見慣れない記者カメラマンに囲まれて落ち着いていられるわけがない。そこで平山厩務員はナスノコトブキの房にカーテンを掛け、隣の房に別の担当を入れて、取材が来ると隣の房のをナスノコトブキだと言って案内したという。

そんな平山厩務員の尽力もあって3番人気東京優駿を迎えたナスノコトブキだったが、不運にも引いたは最悪中の最悪、28頭立て(!)の大外828番。中団外で進めると、手応えの鈍いニホンピロエースシヨウグンに進出、直線ではインから鋭く脚を伸ばしたものの、前にいた12番人気テイトオーに突き放され、18番人気ソロモンにもかわされて3着さえ良ければなあ……と惜しまれることになった。
続いて6月日本短波賞に向かったが、ここでは全く走る気を見せず11頭立ての9着に終わり、に向けて休養に入った。

彼に捧げる菊の寿

10月新潟関屋記念(当時は芝2000m)で復帰。ここは太め残り+トップハンデで5着に敗れたが、続く京都朝日チャレンジカップ勝利重賞2勝を挙げたナスノコトブキは、いよいよ本番、菊花賞へ向けて究極仕上げへと調教を重ねていった。

ところがそれがとんでもないアクシデントを呼んでしまう。菊花賞の数日前、調教で追い込まれてすっかりイレ込んでしまったナスノコトブキは、平山厩務員の後頭部を蹴飛ばしてしまったのである。
平山厩務員は救急車で運ばれ即入院。急遽稲葉師は東京から2人の厩務員を呼んでコトブキの世話をさせることにしたが、そう簡単に言うことを聞くなら苦労はない。
2人の厩務員が手を焼きつつもなんとか迎えた菊花賞当日の、なんと入院しているはずの平山厩務員が厩舎に現れた。「やっぱりコトブキがやらなきゃ」病院を抜け出して来たのである。心配する周囲をよそに、結局平山厩務員は菊花賞本馬場入場までしっかりとコトブキの世話を焼き、彼を事に菊の舞台へと送り出した。

というわけで迎えた菊花賞皐月賞ニホンピロエースダービーの大敗で評価を大きく落とし、ダービーテイトオーもフロック視されていたため、混戦ムードの中、ナスノコトブキは堂々1番人気に支持された。
レース人気薄のシバハヤがスローペース逃げる展開。中団後方にいたナスノコトブキは、1周ホームストレッチ慢しきれないように外から前に進出していく。なんとか騎手が一度はなだめて外の好位に抑えたが、の気分に任せた方が良いのでは、と考え直した騎手は「ゆっくり上って、ゆっくり下る」が定石である3コーナーの坂で手綱を緩め、ナスノコトブキは解き放たれて進出開始。下り坂の初めで逃げシバハヤを捕まえて先頭に立ち、後ろを突き放して直線へ。内から神戸盃勝ちハードイツトが並びかけてきたが、熾な追いべの末にハードイツトを競り落とし、勝った! と思った間、外から猛然と襲いかかってきたのは14番人気スピードシンボリ! 2頭が全に横並びになったところがゴールだった。

曇りから小雨が降り出す中、写真判定はなんと20分に及んだ。しかし平山厩務員は「勝ってるよ」とウイナズサークルで濡れながらナスノコトブキを待ち続けた。
そして結果はハナ差1cmでナスノコトブキの勝利。怪を負わせてしまったにもかかわらずが身を省みずに尽くし、信じてくれた最大の理解者に、ナスノコトブキはクラシック称号という最高のプレゼントを贈ったのだった。

そして……

結局病院に戻らなかった平山厩務員とともに中山に戻ったナスノコトブキは、年末の有馬記念は5着に終わったが、この年の啓衆社賞最優秀4歳を受賞した。
明けて5歳天皇賞(春)してアメリカジョッキークラブカップから始動。しかしここでは覚醒を迎えたスピードシンボリに蹴散らされて6着に敗れる。

そして平山厩務員とともに再び京都へと向かい、前戦のオープンいて2着としたあと、天皇賞(春)に臨んだナスノコトブキ。このときの1番人気AJCC目黒記念(春)を連勝して乗りこんできたスピードシンボリ、2番人気金杯(西)京都記念()を勝ったヤマニリユウ。ナスノコトブキは3番人気に支持された。

だが……。

先行していたヤマニリユウホームストレッチで先頭に立ち、スピードシンボリは中団、4番人気カブトシローが最後方、ナスノコトブキはカブトシローの前に構えた。そして2コーナーからバックストレッチへと向かったそのとき、ナスノコトブキはずるりと後肢を滑らせ、そのままずるずると後退、ひっそりとレースから脱落していった。そのまま向こう正面で競走中止。騎手は下し、スピードシンボリカブトシロー戦の陰で、に乗せられてナスノコトブキは運ばれていった。

診断は、左第三中足並びに第一趾複雑骨折。患部からが見えるほどで、即座に安楽死となるはずの、どうしようもない故障だったが、なんとか生かして種牡馬入りさせたいという馬主側の意向もあり、ナスノコトブキには懸命の治療が施されることになった。
……だが、結果としてナスノコトブキは患部からの感染で敗血症を発症、レースから11日後の5月10、京都競馬場の診療所で息を引き取った。最期は敗血毒素脳に回ってもがき苦しみ、半狂乱状態のまま死亡したと伝えられている。

を懸命に看病し、そのむごい死に様を看取った平山厩務員は、茫然自失のまま東京に戻ったあと、病に倒れて入院、その後の消息は知れないという。

オーナーの急死、騎手逮捕、優先出走権の未整備、ダービーの大外、厩務員の負傷、そして悲惨としか言いようのない最期。ナスノコトブキというは、その名に反してただただ「不運」「不幸」という言葉で語られてしまうとなった。スピードシンボリとの大接戦を制した、それだけが生涯にただ一度だけ許された幸運であったかのように。
彼に限らず*モンタヴァルの産駒は活躍しても運に恵まれないが多く、寺山修は『敗れて原あり』に収められた「モンタヴァル一家の血の呪いについて」に、端的にこう記している。

モンタヴァルので、二度幸福が続いたはいない。

しかし、ナスノコトブキが平山厩務員というただひとりの理解者にされるという「幸運」を得たからこそ、クラシックの栄を掴み取ったであることもまた、事実である。
――たとえその結末が悲劇であったのだとしても。

血統表

*モンタヴァル
1953 鹿毛
Norseman
1940 鹿毛
Umidwar Blandford
Uganda
Tara Teddy
Jean Gow
Ballynash
1946 黒鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Ballywellbroke Ballyferis
The Beggar
キクジユヒメ
1953 栗毛
FNo.4-r
トシシロ
1940 鹿毛
*ダイオライト Diophon
Needle Rock
月城 Campfire
マリオ
1947 栗毛
ナミホマレ *プリメロ
フロリス
時孝 月友
第参ソネラ

クロスBlandford 4×5(9.38%)

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脚注

  1. *このため現在新潟競馬場パドックには河野一郎像がある。
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  • 1 ななしのよっしん

    2025/03/20(木) 02:18:31 ID: LXo5+1fTON

    まあ古い時代だし、その後を追うのも野次馬根性感あってどうかとは思うが厩務員もその後がなのか…

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  • 2 ななしのよっしん

    2025/03/25(火) 01:56:42 ID: U/XpTiTCZv

    モンタヴァルは気性が本当にヤバいからな
    それが制御可レベルの前向きさになればテスコガビー(ガビーがモンタヴァル)みたいになる事もあるが…っていう
    しかしなんというか、を投げなかっただろう人に出会うために運の大半を使い切ったみたいな感じだな

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