戊辰戦争(1868-1869) 単語

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ボシンセンソウ

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戊辰戦争(1868-1869)とは、明治維新期の日本の内戦である。
以下、記事中においては単に「戊辰戦争」と表記する。

概要

大まかにいうと、明治政府による旧体制への武力制圧・定を的とした一連の内戦の呼び名である。戦端が開かれたのが慶応4年、いは明治元年(西暦1868年)で干支の年だったので、戊辰戦争と呼ばれる。(ちなみに西暦年を60で割って8が余る年がの年である)期間は1年4ヶ、区間は対を変えつつ兵庫京都から函館までに渡る。

各局面としては次のようになる。

大政奉還~小御所会議[戊辰戦争に至る経緯]

幕府と討幕との軍事的緊が高まる最中、10月13日将軍徳川慶喜は武力衝突の回避と政治権力の温存を狙い、前土佐山内容堂の提案した大政奉還を実行、政権を朝廷に返上する。

これによって討幕は武力討幕を断念せざるを得なくなる。(大政奉還のあった日の翌日には討幕の密勅が下るるはずだった。)さらに政治を扱わなくなって久しい朝廷には政権担当力はなく、しばらく幕府に内政と外交を委任する形となった。 また、二条から大坂城に退去した徳川慶喜は、西洋列強の使達を集め、引き続き自らに権があると宣言した。

12月8日から9日にかけて王政復古の大号令とそれに伴う小御所会議が開催される。
詳細はそれぞれの記事に譲るとして、この政治クーデターの結果、慶喜の辞官納地が決定する。

しかし、慶喜側の松平春嶽山内容堂らの働きによって辞官納地は抜きとなりる。
これによって新政府側は次第に手詰まりとなっていく。

鳥羽・伏見の戦い [薩摩・長州を中心とした新政府軍 vs 大坂の旧幕府勢力]

戊辰戦争の発端。

政府側に不利な現状を打破するため、江戸では薩摩の放った工作員らが独自の破壊活動を始める。この挑発に乗った庄内三田薩摩屋敷を焼き討ちにした。この件が幕臣によって大坂城にもたらされるや内は割れんばかりの歓が上がり、は慶喜に詰め寄って開戦を促した。慶喜にももはやの勢いを止めることは出来ず、旧幕府勢力が薩摩を誅滅せんと慶応4年1月2日(西暦1868年1月26日)に兵庫薩摩軍艦撃、翌3日に鳥羽伏見(京都の南郊外)にて新政府軍と交戦した。

およそ3倍の兵力を要する旧幕府軍だったが、隘路の進軍や戦闘準備をしていなかった事など戦術の失敗が重なり、一部を除き多くの戦線で敗退。更に翌4日には仁和寺宮嘉王に錦旗節が授けられ、征東大将軍として出を命じられた。賊軍扱いとなってしまった旧幕府軍は各の協力を取り付けられず、慶喜は6日軍艦に乗して江戸に逃亡し戦線は壊滅、江戸以北へと引き下がることになった。

江戸城無血開城とその周辺の戦い[新政府軍 vs 旧幕臣]

関東への進軍をす新政府2月9日、東征大総督府を設置し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任命。下参謀西郷隆盛らと共に江戸に進軍した。

江戸では勝海舟大久保一翁ら恭順が旧幕府の敗戦処理を進めたが、一部旧幕臣の他会津新選組などの関東一円で抗戦を試みた。近藤勇新選組の残党は甲府城接収を論んだが、直前に板垣退助率いる新政府軍にを奪われ、3月6日に交戦するもが立たず江戸に敗走。その後近藤流山に向かったが捕縛され、4月25日斬首された。

3月江戸に到着した新政府軍は旧幕府勢への総攻撃を計画したが、旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛とが交渉の末、江戸城の明け渡しと徳川慶喜の謹慎などの条件で大規模戦闘は回避された。しかし江戸城無血開城を快く思わない旧幕臣による脱走が相次ぎ、対政府の小競り合いが船橋宇都宮上野などで発生した。

4月12日歩兵奉行だった大鳥圭介が旧幕府脱走兵約2000人を組織し、府台から日光に向けて進軍を開始。16日には他の脱走兵が結城領内で新政府軍と衝突し、大鳥軍も19日に宇都宮を攻撃、を奪取したが、23日には新政府軍の増援部隊に押され、を捨てて撤退。日光、更に会津して北上していった。

慶喜が謹慎していた上野寛永寺では身辺警護と称する脱走兵が上野に集まり、慶喜が水戸に移送された後も義隊と称して中に居残り続けた。義隊と新政府軍との間で衝突が相次いだため、新政府義隊討伐を定。京都から派遣された大村益次郎は損を最小限に防ぐ綿密な計画を立て、5月15日に攻撃開始。夕方には上野山を占領。義隊は敗走していった。このように旧幕府の抗戦はいずれも新政府軍によって鎮圧されていった。

東北戦争[新政府軍 vs 東北諸藩の同盟軍(奥羽越列藩同盟)]

会津庄内は旧幕府で尊攘浪士を取り締まる側であり、新政府軍からの敵にされていた。鳥羽伏見の戦いで雌雄が決すると、旧幕府側の戦力だった為に会津庄内朝敵とされた。

仙台米沢など東北の大は当初新政府に恭順し、仙台には羽鎮撫総督府が置かれた。これら東北に対し、会津庄内の討伐命が下された。だが東北の実情は意思統一が図られているとは言えず、仙台等は朝敵への赦免嘆願を行ったものの、羽鎮撫総督下参謀の世良修蔵はこれを拒否し、「羽皆敵」としたため、逆上した仙台士によって暗殺された。これを機に東北羽列同盟として新政府に反旗を翻した。北越方面では長岡中立を宣言し、これを訝しんだ新政府長岡を敵と認識。長岡を含めた北越6が列同盟に加わり、奥羽越列藩同盟となった。

会津庄内に対する赦免嘆願が新政府に拒絶された後は、東北を軸とする政権立を的とした軍事同盟となり、明治天皇叔父にあたる輪王寺宮(北白川王)を「東武皇帝」とし、伊達を「権征夷大将軍」とする構想もあった。しかし、既に徳氏を降し、朝廷江戸を押さえた新政府の前には非現実的な机上の空論に過ぎなかった。

この間、北越方面では会津・桑名兵と新政府軍の戦闘が行われており、これに長岡が加勢して同盟諸は一時的に優勢に立ったが、やがて物量で勝る新政府軍に押され、新潟港を占領されると物資の動線を絶たれた同盟諸北越方面から撤退していった。

会津方面では薩摩・土佐力とする新政府軍が会津と交戦していたが、北越方面を制した事による増援により会津は降庄内や同盟諸も続々と降していき、数ヶの抗争の末に全てのが降烏合の衆たる奥羽越列藩同盟は崩壊した。

この東北地方を中心とした内戦はこれまでの局面のような「新政府と旧幕府の抗争」とは若干背景は違うものの、しかし新政府による武力制定の一環として戊辰戦争という名の戦史に取り込まれる。

函館戦争[新政府軍 vs 旧幕臣]

戊辰戦争の最後とされる内戦。

氏は新政府によって減封され、慶喜は隠居。徳達が督を相続し、静岡70万石へと移封。旧幕臣の行く末を案じた榎本武揚は同調する旧幕臣を集め、8月19日江戸を脱出。8隻の軍監を擁して北上した。途中仙台で旧幕府軍や新選組の残党と合流し、10月20日夷に到着。夷を定して旧幕臣を養う基盤にしようと画策した。

榎本土方歳三率いる新選組大鳥圭介ら旧幕府軍、そして奥羽越列藩同盟の残存勢力を結集し、館政権を立すると、新政府に対し夷地の借用を申し出る。しかしこれを認めない新政府が終わるのを待ち進軍。根拠地である五稜郭まで追い込み明治2年5月18日西暦1869年6月27日)に榎本らは降した。既に年号は変わっていたために己の役(きしのえき)ともいわれる。

これによって対抗となる旧体制勢力がほぼ消滅し、新政府日本事実上の統治体として際的に認められることとなった。明田鉄男幕末維新全殉難者名鑑』によれば、戊辰戦争の戦死者は東北を含めた旧幕府軍が8625名、新政府軍が4947名で計13572名に及んだという。

豆知識

兵器

銃全般

19世紀半ばからの性は著しい向上を見せ、それまで流であった前装式は1860年代後半には後装式に取って代わられた。弾も球形より射程距離を伸ばすことができる頭弾に進化し、幕末内においても諸勢力が競うようにこれらの新兵器を導入していった。

文久年間頃まで洋式流だったのは「ゲベール」と呼ばれたである。これはオランダ語の「Geweer」()にちなむ名称で、口から球形の弾薬を詰めるタイプの前装滑腔である。これに対し、命中精度と射程距離を伸ばすため身内に施条(螺旋状の溝)を施し、弾も頭弾に変えた前装施条、通称「ミニエー」と総称された(1853年式エンフィールドライフルP53歩兵)が慶応年間から長州の諸隊等で使われるようになり、戊辰戦争の戦端が開かれた鳥羽伏見の戦いではとして活躍した。(ミニエーは後装式ではなく前装式である)

また、この頃から後装式のも輸入されるようになった。口から弾を込める前装式と異なり、身後部から弾込め出来るため、弾の装填速度が大幅に上昇した。前述のミニエーを改良した1866年スナイダーエンフィールド歩兵、通称「スナイドル」や、幕府伝習隊が使用した言われている1866年式シャスポーが輸入され、戊辰戦争で使用された。

シャスポーについては幕府の倉庫に死蔵されて実戦では使用されなかったという説もあるが、この話を始めると泥沼に嵌りそうなのでやめておく。

アームストロング砲

大砲も19世紀半ばまでは前装滑腔であったが、英国アームストロング社が開発した後装式施条は、頭弾を使用し、身後方から弾を充填ことにより命中精度・射程距離・弾の充填速度を大幅に伸長させた。内では肥前佐賀が製造・使用していたとされる。

ガトリング砲

例のアレ1862年に米国医師R・J・ガトリング開発した手動式の機関である。戊辰戦争時の内には3門しかなかったとされ、うち2門はあの!家老exit_nicovideoが使ったんだって。値段は相場の10倍というボッタクリ価格。高槻家のもやし並だね!

兵装

熊毛の頭

戊辰戦争時に流行った、毛を施した被り物で(こぐま)、白熊(はぐま)、(しゃぐま)の3つの色があった。長土の他旧幕府側の諸でも使用例があり、ごとに区別されていたわけではない。

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関連項目

旧幕府軍
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