天保4年(1833年)に生まれる。旧姓高林。通称亨蔵(こうぞう)。諱は道章。官名対馬守。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで敗走した後、榎本武揚らと共に蝦夷に脱走。箱館政府の一員となる。
函館戦争終結後謹慎処分を受けるが赦され、明治4年(1871年)に蝦夷の開拓使として政府に出仕した。
榎本は坂本龍馬暗殺を京都見廻組に指示した人物ではないかとされる事があるが、その根拠は以下の勝海舟日記の記述にある。
松平勘太郎聞く。今井信郎糾問に付き、去る卯の暮、京師において坂下龍馬暗殺は佐々木唯三郎はじめとして信郎などの輩乱入という。尤も佐々木も上よりの指図これあるに付き挙事或いは榎本対馬の令か知るべからずと云々。
これは明治3年(1870年)の刑部省における今井信郎尋問に関して友人の松平勘太郎と話した際、榎本の指示で行われたのではないかと聞いた事を綴っているが、何を根拠に榎本の名が出たのか記されておらず、その後も特に言及が無い。また、当時公表されていなかった今井尋問の件について勝がどのような経緯で知ったのかも良く分かっていない。榎本武揚と同姓のため、まれに榎本武揚が坂本龍馬暗殺指示の容疑者と勘違いされることがあるが、言うまでもなく別人である。
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最終更新:2025/01/02(木) 21:00
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