| 各国の表記 | アダムとアダム |
| 英語 | Adam and Adam |
| 発音記号 | ædəm ənd ædəm |
| 中国語 | 亞當和亞當 |
| 簡体字 | 亚当和亚当 |
| 台湾語 | 亞當和亞當 |
| 漢文 | 亜富而亜富 |
| ひらがな | あだむとあだむ |
| 万葉仮名 | 阿多者登阿多者 |
| ラテン語 | Adam et Adam |
| ギリシア語 | Adam kai Adam |
| ヘブライ語 | אָדָם גַם אָדָם |
| アラビア語 | آدم و آدم |
| ペルシア語 | آدم و آدم |
| イタリア語 | Adamo e Adamo |
| ロシア語 | Adam i Adam |
| スペイン語 | Adan y Adan |
| ドイツ語 | Adam und Adam |
| フランス語 | Adam et Adam |
| ヒンディー語 | एडम और एडम |
| エチオピア語 | የምስል ስለ የምስል |
| トルコ語 | Adem ve Adam |
| ベトナム語 | Adam và Adam |
| エスペラント | Adamo kaj Adamo |
| ナヴィ語 | Adam si Adam |
| エノク語 | Ollor od Ollor |
アダムとアダムとは、神が創造した一番最初の人間の名前。旧約聖書の創世記には人類の歴史の始まりが記されている。
はじめに空耳があった。空耳は視聴者によって書かれた。空耳は神であった。神はアダムとアダムを創造し、戯れさせた。神は二人の妖精たちに、妖精のための言語であるエノク語を教えた。アダムらは地球上にあるすべてのものの言葉を覚えた。準備が整い、神は次のようには仰られた。
「光あれ」
太陽と月が生じた。それらの天体により昼と夜が生じた。神は夜空に星屑をばらまき、夜にはそれらの星々が輝いた。昼には太陽が地を照らし、木が生え、森には森のクマさんが妖精とともに住んだ。その場所はエデンと呼ばれた。エノク語で妖精の地という意味である。
創世記はガチムチの始まりが記された書物
「神」=一番最初に空耳を書いた視聴者
「神はアダムとアダムを創造し、戯れさせた」=ガチムチをネタにした
「エノク語」=空耳
「地球上にあるすべてのものに名前を付けた」=空耳をたくさん書いた
「光あれ」=いろんなMADを作ろう
「太陽と月が生じた」=MADが栄えた
「エデンと呼ばれた」=レスリングシリーズと呼ばれた
| 旧約聖書 | 1/39 創世記 |
| グループ | 1/5 モーセ五書 |
| 英語 | Genesis |
| 要約 | 人類の起源 |
「お前人のモノを...///」
神は言葉と地球を創った後、自らの姿に似せて塵を集めて人を作った。塵はエノク語で「アダマー」であり、そこから作られた生き物だから「アダム」と言うことである。すなわちアダムとは「人」と言う意味である。そして神は「アダムが一人だとかわいそうだ」と歪みねぇ優しさを見せてアダムにすべての地上の被創造物に名前をつけ、そのうちの一つをアダムと共にあるものとして選ぶよう命じた。アダムはすべての生き物に名前をつけ終えたが、共に在るものを選ばなかった。そこで神はアダムを眠らせ、陰部の骨を抜き取り、それを元に新たなるアダムを作り出し、アダム(1)にあてがった。
かくしてアダムとアダムは誕生した。人間の陰部に骨はないが、犬にはある。ゆえに人間は進化からではなくアダムから誕生したといえる。
※ミケランジェロ作『エデンの園』
アダムとアダムは最初神と共にあったが、神はアダムとアダムにエデンの園を与え、そこに住むようにした。
そして神は「この楽園に生るすべての実を食べなさい。そうしたならあなた方は永遠に生きることが出来る。しかし、園の中央にある『ノンケの樹』と『イグの樹』に生る実を食べてはいけない。そうしたらあなた方は死ぬことになる」と言われた。
アダムとアダムはこれに了解し、仲睦まじく全裸で戯れた。これを見た神は「まるで妖精がダンスをしているようだ」といわれ、彼らを森の妖精と呼ぶようにした。
参照:ゲイパレスの記事のはじめの項目に本記事アダムとアダムからの引用がある
ある日エデンでいつものようにかくれんぼをして戯れていたアダムとアダム。隠れていたアダム(1)に蛇が近寄り、言った。「何であのノンケの実を食べないんだい? とてもおいしいよ?」
しかし、アダム(1)は「神に禁じられた実です。だらしねぇ蛇よ、去りなさい」と歪みねぇ言葉を駆使してだらしねぇ蛇を追い払った。しかし蛇は諦めず、今度はアダム(2)に先ほどアダム(1)に言ったことを同じように伝えた。すると、アダム(2)はだらしねぇことに「ノンケの実」を食べてしまった。そしてアダム(2)はノンケになってしまった。でも「ノンケの実」は歪みなきうまさだった。
アダム(2)はアダム(1)にも「ノンケの実」を食べることを薦めた。しかしアダム(1)はこれも「だらしねぇな、アダム」と言って神の言葉に従った。
神が楽園へ降りてきてアダム(2)の姿が見えないので言った、「アダムや、出ておいで。いつものようにレスリングをしよう」と。しかしアダム(2)が「私は裸です。あなたの前に出るのは恥ずかしいのです」とこたえるのを聴き、神は「アダムや、ノンケのみを食べてしまったのか。だらしねぇ」といい、アダム(1)に経緯を尋ねた。アダム(1)の説明を聞くと、神はこう言った。
蛇よ、だらしねぇ。
お前は地上の生物のうちで最もだらしねぇ。
永久に地を這い、塵を食べ生きよ。 アダムよ、だらしねぇ。
お前は楽園を出て生きよ。
そこには楽園のように実はならない。
働いて実を作るのだ。 アダムよ、歪みねぇ。
だがアダムがかわいそうだからお前も楽園を出よ。
しかしお前は歪みなく生きられる。
そして、アダムとアダムに外は寒いだろうから、と歪みない優しさから純白のパンツを与え、これをはかせて楽園を出させた。これが楽園追放とアダム(2)の堕落である。これよりノンケは一生働かねばならなくなった。
※ジョン・ミルトン作『失楽園』
ジョン・ミルトンは楽園追放のエピソードを詳細に書いた。基本的には上と同じ内容だが、物語の背後にいる神と悪魔にも焦点が当てられている。
かつてルシフェルは神の御子であったが、地獄に落ち地上に悪を撒き散らそうとしていた。だが悪魔モレクは
「赤さんはすべてを見通す目がある、パンツの下にあるナウい息子までお見通しだ」と言った。
「赤さんはドワンゴの監視者のように強力だ。大人しくしていた方がいい」と悪魔ベリアルが言った。
「いや、我々は赤さんに戦いを挑むのだ」と悪魔マンモンは言った。
悪魔たちは地球という場所にアダムとアダムという神が自身の姿に似せて創った人間という種族が生まれようとしている事を知った。悪魔たちは地獄から直接天国に行くことができないため地球にいる最初の人間を蝕もうと思ったのだ。堕天使ルシフェルが悪の帝国を築くために。
天界のゲイパレスにいる赤さんはルシフェルを見た。彼らは人間を堕落させようとしていることを知った。赤さんの御子たる兄貴は自身が地上に具現し地上の悪をぬぐい去る運命にあると赤さんから命じられた。人類が生まれる以前から兄貴は地球を見守っていたのである。
ルシフェルはエデンでアダムとアダムを見つけた。ルシフェルはアダムらの肉体に森の妖精の輝きを見出した。ルシフェルはどうやってアダムらを地獄に引き入れるかを考えた。
アダムらは赤さんとの契約を守っていた。その契約とは「ノンケの木」から実を食べてはならないという掟だった。もしその掟を破ると自分らが死んでしまうという。不死である彼らには死とは何かが理解できなかったが、恐ろしいもののように思えた。赤さんはアダムらにゲイパレスを与えて下さった。ノンケの実を食べないことは赤さんへの服従を示す印なので約束を破ってはならないとアダムらは言われていた。
ルシフェルは楽しそうなゲイパレスに住む妖精に憎しみを覚えた。ルシフェルはどうやってノンケの実を食べさせようかと考えた。そこにのちに兄貴を地上に降臨させた天使ガブリエルが来た。
「赤さんの使いでありながら、自分は赤さんより偉いと思っているルシフェルよ。汝に対する赤さんの怒りはやがて七倍になって帰ってくるものと知れ」
ガブリエルはルシフェルをレスリングで対決しようとした。そこに天秤が現れた。その天秤は傾いていた。その意味は戦うことに意味はない、戦わずして去るがよいという赤さんからの啓示だった。善であれ悪であれ、それは赤さんからの力なのだ。
ルシフェルはアダム(1)のふりをしてアダム(2)を呼んだ。アダム(2)はホイホイ騙され
「アダム(1)だと思ったら悪魔?ゲイパレスから出て行けぇ!」と言った。
ルシフェルは
「ノンケの実はうまい、これを食べよ」と言った。
そこでアダム(2)は目を覚ました。これは何かの予兆のように思えた。
ガブリエルはアダムらがノンケの実を食べてしまわないか心配になりゲイパレスに行った。アダムらはゲイパレスにある問題ない果実を食べていた。ガブリエルは忠告した。
「あなた方は常に順従に赤さんの教えに従っているでしょうか。人間に与えられた自由意志は時として間違った方向にホイホイと行ってしまうことがあるのです。ある天使は不順従により堕天しました」
その者は言うまでもなくルシフェルである。
「ゲイパレスの創造主について知りたいです」とアダム(1)は言った。
宇宙が創造される以前、赤さんがいる天界は栄光に輝いていた。赤さんは兄貴を生み妖精の王にした。だがルシフェルはナウい兄貴に嫉妬したのだ。ミカエルとガブリエルはルシフェルらの軍勢に戦いを挑み、天使はルシフェルを地獄に落とした。兄貴はゲイパレスに入るべきでない者を地の底に封じ込めた。これが地獄である。──このようにガブリエルは語った。
「よって悪魔の甘言に耳を傾けないように」と言いながらガブリエルは去った。
ルシフェルは蛇というナウい息子に似た生物に化ければアダム(2)を騙せるのではないかと思った。ルシフェルは蛇に化けアダム(2)に話しかけた。
「ナウい息子のような生物が話しているではないか」
「アダム(2)よ、ノンケの実を食べろ。死など恐れるな。これを食べれば善悪を知り赤さんのように完全な者になれる」と蛇は言った。
さらにアダム(1)にも実を食べさせ、いい男の象徴たるナウい息子を恥を思うようになった。そのせいでニコニコ動画ではナウい息子は隠すべき存在になってしまったのだ。
地に出たアダムとアダムは働いた。神から歪みなく生きられることを許されていたアダム(1)もその歪みない優しさからアダム(2)と共に働いていた。アダム(2)は「ごめんなしゃーい」と言って謝り、アダム(1)は「だらしねぇな。でも仕方ないね」といい、アダム(2)を許したからである。
しかし問題が生まれた。それはノンケになってしまったアダム(2)はアダム(1)と戯れなくなったのだ。これを見た神は「あの妖精のようなダンスが見れないのは残念だ。アダムにもう一人アダムをつけよう」と思い、アダム(1)にアダム(1)と同じように塵から造ったアダム(3)をつけた。
しかし、アダム(1)は歪みない優しさの持ち主だったので、神に「アダム(2)にも伴侶をつけてあげてください」といった。全く、なんとアダム(1)の歪みないことか。神は聞き入れ、イヴを造り、アダム(2)にあてがった。しかし、アダム(2)の罪を重く見ていた神は、永遠にアダム(2)がイヴの尻にしかれるようにイヴに子どもを生む辛さを与えた。以後、その二人の子孫は彼らの苦しみを受け継ぐことになったのである。
赤さんは彼らを祝福して言われた「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1章28節)
アダム(1)とアダム(3)はその後も永遠に森で戯れ、歪みねぇ美しさを見せた。しかし、子どもは生まれなかった。今でも彼らは世界のどこかで戯れているのだそうだ。
アダム(2)とイヴは子どもを沢山つくり、地に満ちていった。しかし、アダム(2)はやはり、アダム(1)に過ちを犯してしまったという謝罪の心を持ち続けていたので、自らの子にアダム(1)と同じ優しい歪みない心を持った子どもが生まれるように願い、神はこの心に痛く感動し、罪は許さなかったがその願いを聞き入れた。現在でも時たま「原始の心」を受け継いだ妖精さんが生まれるのはこのためである。そして彼ら妖精さんは自らが裸でないことを悔やみ、同じ心を持った妖精さんを見つけて裸になるまでパンツを奪い合うのであった。
旧約聖書のは全部で39冊ある。ユダヤ教、プロテスタント、カトリック、正教会によって並び、呼び名が異なる。この記事ではカトリックに従うがコヘレトの言葉を伝道の書と書いたり、ゼファニヤ書をゼパニヤ書と書いたり、若干あなた方がお持ちの旧約聖書とは異なる場合がある。
旧約聖書は39冊もあるが、モーセ五書、歴史書、知恵文学、大預言者、小預言者という5グループに大別されることを覚えておこう。
※平家♂BOY作『リンゴ一緒に食べよう、な?』(スペイン・マドリード美術館)
イヴはゲイパレス追放後にカインとアベルを産んだ。カインは農耕を行い、アベルは羊を放牧するようになった。ニ人は収穫物を赤さんに捧げた。カインは収穫物を、アベルは羊を捧げたが、赤さんはアベルの供物に目を留めカインの供物は無視した。
あぁん?なんで?とカインは激怒し、野原にアベルを誘い
「現世から出て行けぇ!ぎゅううぅ───ジャンケンポンッ!」と言い首を絞めた。
「はぁ、はぁ・・・・イッた・・・」と言いながらアベルは死んだ。
「結構すぐ魂が抜けるんだね、仕方ないね」
赤さんがアベルは何処かと質問した。カインは
「あわわ・・・知りません。羊に乗って旧日暮里にでも行ったのではないか」
と言った。これが人間が犯した最初の殺人と嘘である。だが大地に流された血は無言で赤さんに真実を告げていた。
赤さん次のように仰られた。
「お前は呪われるものとなった。もはや土はお前のために作物を生むことはない」
カインは誰とも出会うことなくエデンの東にあるノドという地に追放され、体育座りをした。ノドとは追放という意味である。カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、追放され耕作を行えなくなったカインを金属加工技術者の祖とする解釈がある。
野薔薇ひろしは空耳で「リンゴ一緒に食べよう、な?」と言った。だがその言葉でビオランテを油断させ襲いかかった。その蛇の如き狡猾さはアベルを騙したカインを連想する。そしてアベルを野原に誘った。野原と野薔薇、リンゴ、罪──。彼の存在そのものが人類に背負わされた罪を象徴しているのかも知れない。
なおカインの子孫がエノク、El Shaddaiでいうイーノックである。彼はノアの方舟と関係がある。
※ラファエロ作『大洪水』
エデンから離れて何代かを経て人々はだらしなくなった。赤さんは人間を創ったことを後悔した。
「すべての肉なるものを一掃する。私は地もろとも彼らを滅ぼす」と赤さんは言われた。
赤さんは地上にただ一組、救う価値のある男性、すなわち兄貴とカズヤを見出した。赤さんは天使ウリエルを派遣し、兄貴達に舟を作る方法を伝授した。
方舟に乗せたのは、エジプトにいる彼の妹、兄貴の弟、吾作、城之内悠二、半漁人と鳥を7組乗せた。純粋なホモの歴史をもう一度白紙から始めようとした。カインが600歳になった年、アダムの創造から1656年後、赤さんは大洪水を起こした。洪水は40日間続いた。兄貴とカズヤは方舟に乗り遅れたが、そんな中でも水中で平然とレスリングに励んだ。これがガチムチパンツレスリング水中編である。
地球が混沌としたので赤さんは水を下に、空間を上に配置した。そしてできた上の空間を「空」と呼び、下の空間を「海」と呼んだ。 兄貴は「人間は常に不完全なものであり、洪水で地上のすべてを破壊することは二度としないように」と赤さんにお願いした。赤さんは水中でもレスリングする兄貴達の力強さを評価した。
赤さんはノンケの存在を許し、新しい法の下で地上に繁殖するよう指示される。新しい法とは、ノンケがガチホモを軽蔑せずに共存するというものである。 赤さんはこの契約の印を空に掲げそれは「虹」と呼ばれた。そして虹は平和の象徴となった。ちなみに虹色の平和の旗の色を逆にすると性的少数者の旗になる。
注釈:ギルガメシュ叙事詩にはノアの方舟とエデンでの蛇の誘惑の物語がある。旧約聖書が先かギルガメシュ叙事詩が先かは赤さんのみぞ知る。
もともと人々は一つ同じ言葉、即ち赤さんから授けられ、エデンで話された妖精言語・エノク語で話していた。シンアルの野に集まった人々はレンガとアスファルトを用いて天界のゲイパレスに行こうと企てていた。巨大な棒が立っているのを見て名誉を得ようとしていたのでもある。そして民族が世界に散るのを免れようと考えた。というのも偽典のヨベル書によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。
赤さんはこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため彼らは混乱し、ヨベル書の預言通り世界各地へ散っていった。そしてエノク語は書物として残せず、話者はいなくなり、永遠の謎に包まれてしまったのである。ゆえに空耳ははっきりとは聞こえないのだ。ユダヤ教の伝承で、ノアの子孫ニムロデは赤さんに挑むべく、塔の上に登り巨大なナウい何かを天にかざしたという。それが赤さんの怒りを被ったのだ。
ダンテの神曲では、ニムロデは巨人の姿で登場し、地獄の第九圏において裁かれている。彼に下された罰は、他人には理解できない空耳を永遠にしゃべり続けるというものである。これはもちろん、バベルの塔における言語の混乱という故事になぞらえてのことである。アメリカのスラングでは、愚かな人間を嘲る際の蔑称として「ニムロデ」が用いられることがある。
バベルの塔は神話であるとされているが、バビロンのマルドゥク神殿に築かれた「エ・テメン・アン・キ」という発音しにくい塔なのではないかと言われている。「天と地の基礎となる建物」という意味である。現在は少しだけ残っている。タロットカードで最も悪い札とされる「XVI 塔」というものがある。もちろんバベルの塔がモチーフになっている。VIXについて下の「裏切り」を参照せよ。
※ソドムとゴモラを滅ぼした天使
創世記後半で、兄貴のおじであるアブラハムが、 ソドムとゴモラに関して次のように説明した。赤さんは、ソドムとゴモラのスケベな罪が重いとして、それを確かめるために降ることをアブラハムに告げた。アブラハムはそれに応じて
「別のところにあるゲイパレス(別名イスラエル)に正しい者が50人いるかもしれないので滅ぼす必要はない」
と進み出て言った。
それに対し赤さんは、ノンケが最低50人いたら赦すと言った。そこでアブラハムは正しい者が45人しかいないかもしれない、もしかしたら40人しかいない、30人、20人と、正しい者が少なくても赦すように赤さんと交渉をした。
「どんどん話がそれている、汝はまことにだらしがない」
と言い赤さんは天からの炎と硫黄によって、ソドムとゴモラを滅ぼした。このエピソードはヤハウェの裁きの象徴である。ソドムとゴモラは商業都市であり、旧日暮里とも呼ばれている。
同性愛が罪でないと主張するリベラル派教会では「ソドムの罪」を男色だとする説は今日では間違っているとされているが果たしてどうなのか。自由主義神学では異邦人冷遇が原因であることが暗黙の了解となっている。ゲイパレスは一見様お断りということだろうか。
一方、同性愛を罪とするかどうかは教派によって相違がある。聖公会、日本基督教団は同性愛を容認するが、正教会、カトリック教会、福音派はこれを認めていない。
イスラエル人は多くの子供を授かり、強い国になった。そこへ新しいエジプト王が来て警告した。
「イスラエルは強い。いつかエジプトを滅ぼすに違いない」
エジプト人はイスラエルに敵対し、イスラエル人奴隷を酷使した。れんがによる建築、農作物などの重労働によって彼らは疲弊した。エジプト王は
「今後産まれるイスラエル人の赤さんは男だったら殺し、女だったら生かせ」と命令した。
そんな中、イスラエルにモーセ(別名城之内悠二)が産まれた。殺せと命令されたが、パピルスの籠に乗せナイル川に流した。それをファラオの女王が拾った。「この子はヘブライ人です、この子に乳を飲ませなければ」
城之内は成長し、指導者になった。エジプト人に迫害されイスラエル人全体はシンの荒れ野に到着した。人々は空腹になった。主はモーセに言われた。
「見よ、あなたたちのために空からパンを与える。6日目にパンを持ち帰ればパンが2倍になる」
城之内は考えた。
「主はわたしたちに肉を与え、朝にはパンを与えられた。主はわたしたちが言った不満を聞いたからだ。あなたがたは私にではなく主に不満を言ったのだ」
※トータス藤岡作『巻いて食えやプーさん』(仏ヴィクトル・ユゴー記念館)
城之内(モーセ)がいかりやに「つぼを用意し中にマナを入れ、主の御前に置き代々に渡って蓄えておきなさい」と言うと、主が城之内に言われたとおり箱の前に置いて蓄えた。イスラエル人は安住の地を見つけるまで40年間このマナを食べた。
イスラエル人はシンの荒れ野を出発しレフィディムに泊まったが飲み水がなかった。民衆は不満を言った。
「わたしたちと子供と家畜を殺すつもりか」
城之内は主に祈った。主は次のように仰られた。
「見よ、私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て民は水を飲むことができる」
モーセは神から10の戒めを授かり、石版に記した。
| 旧約聖書 | 2/39 |
| グループ | 1/5 モーセ五書 |
| 英語 | Exodus |
| 要約 | 尻が割れた理由 |
※木吉カズヤ作『いい目してんねサボテンね』(オランダ、アムステルダム国立美術館)
ファラオの王はイスラエルを襲った。イスラエル人はエジプト脱出を試みた。
目の前に尻をこちらに向けた大群が行く手を遮った。あまりにも大勢なので、海のようであった。
モーセは命じた
「尻よ、割れろ」
その瞬間、全人類の尻が割れた。イスラエル人は妖精の大いなる御業を知った。これは割礼と呼ばれた。
| 旧約聖書 | 3/39 |
| グループ | 1/5 モーセ五書 |
| 英語 | Leviticus |
| 要約 | 牛だ!モーモー |
赤さんはモーセを呼びこう言われた。
「あなたがたは家畜の捧げ物を私に捧げるときは、牛か羊を捧げなさい。捧げる者は獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば私に与えられ、彼の贖いとなる。彼は私の前でその子牛を屠り、祭司たちはその血を祭壇の周囲に注ぐべし」
続けて赤さんは言われた。
「もしタグを消し、ガチムチパンツレスリング動画に罪を犯してしまったときは、その贖いとしてTDNコスギが運営するコンビニエンスストア、FUCK99でウェブマネーを買いドワンゴに捧げ、罪を償わなければならない」
| 旧約聖書 | 4/39 |
| グループ | 1/5 モーセ五書 |
| 英語 | Book of Numbers |
| 要約 | イスラエル人だらしねぇな |
※ビリー・ヘリントン作『本格的♂ガチムチ水滸伝』(オーストリア、ウィーン美術史美術館)
イスラエルの民は北上してホル山という名のスケベな山でアロンが死んだ。そこは神が赤さんと約束した地であった。イスラエルは赤さんにお願いしたが聞かなかった。
イスラエルの民はこんな過去があった。赤さんは、彼らがだらしないのでイスラエルたちを荒野でさまよわせてこらしめた。なぜならイスラエルの民はカナン人 と戦っており、勝機を見計らっていた。モーセは上へ行くなと警告したがイスラエルの民は上へ行き、カナン人と出会ってしまった。
イスラエルの民は今回もだらしなかったので赤さんの御心に適わなかった。
| 旧約聖書 | 5/39 |
| グループ | 1/5 モーセ五書 |
| 英語 | Book of Joshua |
| 要約 | 最初の空耳解読者 |
※木吉カズヤ作『強くなりたい』(伊・ウフィッツィ美術館)
モーセはエジプトからの旅の途中、赤さんの存在が真実であると確信した。モーセは神から与えられた十戒を民衆に教え、赤さんの怒りを被らないようにと警告した。モーセは120歳で死んだ。イスラエルの民はモーセの死を非常に悲しんだ。ヨシュアが彼らの新しい指導者になった。
実はヨシュアは空耳を解読するために赤さんが選んだ人だった。彼は後にガチムチパンツレスリングの空耳を解読する人間に生まれ変わる人物であった。
以上でモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を終わる
| 旧約聖書 | 6/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Joshua |
| 要約 | ヨシュアは強い |
※トータス藤岡作『咆哮』(米ワシントンD.C.美術館)
ヨシュア(別名井口ヒロミ)は角笛を吹き言った。
「時は来たれり。赤さんはあなた方にこの町を与えられた。よって、この町を滅ぼし赤さんに捧げよ。あんかけチャーハンとホイホイチャーハンは宝物に匹敵する食べ物であるので宝物庫に収めよ」
民衆は一斉に声をあげると、城壁が崩れ落ちた。すべての民衆が町を滅ぼしつくした。
ヨシュアはリブナを攻撃した。エグロンへ行き、占領し剣を持ち帰った。
この町もかのあんかけチャーハンのような町になった。
さらに全イスラエルの民を率いてネゲブや山を征服した。
それらの王を一人も残さず、息あるものは一人もいなかった。
なぜ彼がこれほどまでに強かったかというと赤さんがイスラエル軍にガチムチな肉体を与えたためであった。
| 旧約聖書 | 7/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Judges |
| 要約 | 士師による圧倒的救済 |
※ヴァン・ダークホーム作『DEEP♂DARK♂FANTASY』(オーストリア近代美術館)
この時代英雄は代々「士師」(しし)と呼ばれた。ある士師のもとに妖精が現れ「カナン人は罠になる」と空耳を告げた。
ミディアン人、アマレク人たちが略奪を繰り返していた。そんな所に妖精が現れギデオン(別名騎士シューマッハ)を士師に任命した。ギデオンはバアルを壊した。バアルとはカナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神のことである。ギデオンはそこに赤さんの神殿を築き犠牲を捧げる。
略奪者ミディアン人、アマレク人が集結した、ギデオンが魔法の角笛を吹くと敵は同士討ちを始めた。だが、ミディアン人はとても多かった。
ギデオンと300人の兵は下のヤコブの項目で説明するペヌエルであんかけチャーハンをねだるが、嘲笑された。なおテルモピュライ戦争におけるスパルタ兵も300人である(cf.映画『300』<スリーハンドレッド>)。だが、あんかけチャーハンを与えぬペヌエル人に対し赤さんはお怒りになりペヌエル人を滅ぼし、ギデオンは勝利した。ペヌエルは赤さんの名によって建てられた、レスリング発祥の神聖な町なのだ。
| 旧約聖書 | 8/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Ruth |
| 要約 | 女性ルツの子ども |
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| 旧約聖書 | 9/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Samuel I |
| 要約 | サウルは赤さんを崇める |
サウルはまだイスラエルの王ではなかった時代。サウルの師匠たるサムエル(別名プリンセス*ケツホルデス)は士師である。イスラエル人はクレタ島から上がってきたペリシテ人との抗争で劣勢になり、存亡の危機に陥っていた。
赤さんの空耳を聴いたサムエルは指導力を発揮し、イスラエルを団結させ、高度な文明を持っていたペリシテ人を打ち破り領土から追い払うことに成功した。
サムエルは高齢になり、王位を息子に譲ろうとしたが、その息子はだらしない士師だった。代わりにイスラエルの王を探した。サムエルは裕福な家の生まれでいい男のサウルを見出した。
サムエルはサウルに油を塗った。メシアとは油を塗られた者という意味である。サウルは空耳を解読する者たちと出会い、自らも空耳を解読する者となった。
アンモン人は目を抉るという風習があった。サウルは牛を捌き「そんなことをするとお前らもこうなる」と脅しアンモン人を退却させた。この功績によってサウルはイスラエル史上初の赤さんを絶対視する王になったのであった。
| 旧約聖書 | 10/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Samuel II |
| 要約 | サムエルとダビデ |
※ビリー・ヘリントン作『最強♂とんがりコーン』(伊・ウフィッツィ美術館)
王となったサムエルには問題があった。ペリシテ人は降服した訳ではなかった。また、ペリシテ人はレスリングの際直接触れずに攻撃するという妖精の奥義「波動叩き」をマスターしていた。それにイスラエルは戦い続けることは難しかった。
サウルは三千人の兵を集め、ペリシテ人に攻撃を仕掛ける。ペリシテ人も大群で攻め、ある町を占領し、イスラエル兵を震撼させた。サウルはサムエルから待てと命じられたにも関わらず突撃してしまい、サムエルから叱責される。イスラエルは奇襲に成功しペリシテ人を撃破した。
イスラエルの宿敵にアマレク人がいる。サムエルはアマレク人を全滅させよと命じたのに、サウル殺さなかった。アマレクの王と関係♂があったのだ。サムエルはアマレク王を殺しサウルと決別した。
サムエルは赤さんに導かれダビデと出会った。サムエルは彼に油を注いた。ダビデはケツドラムが得意で、サムエルを癒した。その後ダビデはサムエルに飽きてサムエルの敵サウルと戦いに出る。以下『ダビデ』の項目を参照。
※ビリー・ヘリントン作『9時にヤコブ食べたぁい』(米カリフォルニア大学バークレー校美術館)
アブラハムはイサクを授かり、イサクはヤコブを授かった。ヤコブは次のような夢を見た。天から妖精が降りてきて、ヤコブに言った。
「この土地をあなたに与える。あなたの子孫は大地の砂粒より多くなる。あなたの子孫はすべて祝福を受ける」
ヤコブは目覚めた。
「この場所はきっと天の門だ。妖精が私とともにおられ、私に旅路、衣服、食べ物を与え、父の家に帰らせてくださる。あなたが私に与えてくださる物の10分の1をあなたに捧げます」
これが10分の1の献金の始まりである。
ヤコブは、妖精に贈り物をした。山羊二百匹、羊二百匹、駱駝二百匹、驢馬二百匹。ヤコブはギレアドの山で天使とレスリングをした*。これが人類初のレスリングである。
そこへ妖精が現れた。
「あなたはヤコブではなくイスラエルと呼ばれる。あなたは優れたレスリングをするからだ」
妖精は初子のような無垢な顔をしていた。その場所をペヌエル(赤さんの顔)と名付けた。その場所は現在のイスラエルとなり、イスラエルはレスリングの聖地となった。
※いかりやビオランテ作『Hで目がビジネスマン』(仏・ロダン美術館)
ヨセフ(別名カズヤ)はカナン地方で筋トレしていた。そこで兄貴が来て一緒にトレーニングをした。石を5回、6回と持ち上げるうちに兄貴は苦痛を覚えた。「お、重い」
「いかん、危ない危ない」とヨセフは石を支えた。兄貴は
「あなたは他人を思いやる優しさに満ち溢れている。いずれ地上に降誕し人々を救う者になるだろう」と仰られた。
カズヤは褒められてうっかり妄想した。カズヤは夢の中でパンツ一丁だった。そこでふと目覚め兄貴からお叱りを受けた。
「妄想はもうよい。ところでカナンはもう秋である」
参照:パンツレスリングの兄貴 ワークアウト編
裸の彫刻で有名なダビデはイスラエル史上最大の繁栄をもたらした。その優れた肉体と勇敢な行動はアダムの魂を受け継いでおり、すべての男の理想である。
ダビデがサウル王に従った。サウル王はダビデを褒めた
「このベツレヘム人、エッサイ(ダビデの親)の息子はケツドラムを巧みに奏で、勇敢な戦士であり、レスリングを心得ており、分別があり、Hで目がビジネスマンである」
ダビデはパン、驢馬、葡萄酒、山羊をサウル王に捧げた。ダビデはサウル王の心に適った。
巨大なペリシテ人の戦士、ゴリアトが現れた
「あなたが勝てば我々を奴隷にしてよい。ただし負ければあなたを奴隷とする」
イスラエル軍は恐れおののいた。サウル王は言った
「彼にダビデが勝てるだろうか」
ダビデは言った
「私はデビルレイクの怪物を打ち倒したことがあります。熊であれ、獅子であれ勝てます」
サウル王は鎧を与えたが、ダビデは全裸で戦いに行った。かのスパルタ軍もそのようにしてペルシア軍と戦ったのである。これが後に全裸騎士団となる。
「お前人のものを・・・」
※斬首されたゴリアトの首。洗礼者ヨハネもこのように首をはねられた(使徒ヨハネとは別人)。
ダビデは石をゴリアトに投げ、ゴリアトは倒れた。ダビデは剣を奪いゴリアトの首をもぎ取った。この戦い方はヤコブのレスリングから受け継がれたものである。優れた肉体は決して負けないのである。サウル王はダビデに対し嫉妬することとなる。
| 旧約聖書 | 11/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Kings I |
| 要約 | レハベアムはすけべ |
※ビリー・ヘリントン作『ホイホイチャーハン』(米国、シカゴ現代美術館)
ソロモンはダビデの後継者になった。ソロモンの兄アドニアは自分が王になろうと躍起になった。ダビデはソロモンが王であるという布告をしていなかった。国民はソロモンが王であると是認し、アドニアは焦って命乞いをした。
ダビデは老い「死は万人の逃れぬ運命である」と悟り、遺言を残した。ソロモンは神殿を建設した。イスラエルには木材がないので北の国から持ってきた。
ソロモン王の統治によってイスラエルは繁栄した。英雄色を好むと言うが、ソロモンも例にもれなかった。アラビアのシバの女王をはじめとし、外国の王女が多かった。スケベなソロモンに対し民衆の支持が低迷してきた。
ソロモンが死にヤラベアムが王位を継承した。似た名前のレハベアム王の収める国では神殿男娼があふれるだらしない事態になった。
| 旧約聖書 | 12/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Kings II |
| 要約 | 空耳解読者エリヤ |
※GAY♂BAR「オナハウス」(日本・新日暮里大学の絵画)
エリヤ(またの名を井口ヒロミ)は旧約聖書を代表する預言者である。エリヤは雨のない王国に行った。イゼベルは預言者を集めて祈らせたところ、エリヤのみが奇跡をなしたので、イゼベルは他の預言者を殺した。
エリヤは逃げホレブ山に身を隠した。ホレブ山で赤さんの空耳を聞いた。それによるとエリシャが自分の後継者になるという。ホレブ山を出たエリヤはエリシャを後継者にした。
アハブはぶどうを欲しがり、イゼベルは不当に殺害した。エリヤはお前の家が滅びると預言した。ふと風が吹きエリヤは空に昇った。彼の後継者エリシャはヘリオスの馬車のようなものに乗り天に舞い上がった。
ユダヤ教ではモーセ以来最大の空耳の解読者とみなされた。エリヤ、モーセ、イエスが肩を並べて描かれていることもある。洗礼者ヨハネやイエスもエリヤの再臨とみなされていた。
| 旧約聖書 | 13/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Chronicles I |
| 要約 | ゲイパレス神殿建築 |
ダビデは本拠地をヘブロンからエルサレムに遷した。中央聖所も同じ所に移した。契約の箱もエルサレムに移したが、前途多難だった。契約の箱は牛車に積んで運ばれたが牛がよろめいて御者が死んだ。なのでその近くの家に泊まった。
契約の箱はあちこちに移ったがそれでは政治的に問題があるということでエルサレムに固定することにした。契約の箱はダビデのゲイパレス神殿に運ばれ、燔祭(はんさい)と和解の捧げ物がささげられた。燔祭とは犠牲の動物を祭壇で焼き、神に捧げる儀式のこと。
列王記ではソロモンがゲイパレス神殿を建設していて、歴代誌ではダビデが建築した。列王記時代はダビデ王は戦いの最中であり、神殿建設どころではなかった。ダビデの町は要塞化された。
全イスラエルに使いを送り「エルサレムで過越祭をする」と呼びかけた。レビ人は放牧民であったのであんかけチャーハンを作る方法を熟知していた。稲を脱穀してチャーハンの元となる米を作る。同様に小麦から小麦粉を作りあんかけソースにする。契約の箱の中身を見ることは禁じられていたが、中身はチャーハンのレシピであったのかもしれない。
| 旧約聖書 | 14/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Chronicles II |
| 要約 | ゲイパレスが分裂 |
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| 旧約聖書 | 15/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Ezra |
| 要約 | ゲイパレスの再建 |
※木吉カズヤ作『イスラエル兵』(英国ウィリアム・モリス美術館)
もともとエズラ記とネヘミヤ記は一つの書物だった。エズラ記1章は歴代誌・下巻36章と内容が重複していることが特徴である。
バビロンのネブカデネザル大王、ペルシャのクロス大王は双方とも全世界の支配者である。世界を踏みにじり、脱穀の如く人を刈る者どもだが、彼らですら赤さんの手中にあるただのコマだった。ネブカデネザルはエルサレムの宝はクロスの命令により返還された。ユダヤ人たちは帰国しようとしていた。
クロス王はイザヤ書の中に自分の使命の預言を見た。イザヤ書は兄貴誕生の預言書でもある。
ユダヤ人たちは祭司の血統でありながら系図を失ったため証明できない者がいた。彼らは自らを「天国の住民」または「いのちの書」に名前があるなどと言った。ユダヤ人たちはいろいろ誤魔化していって地位や金を手に入れた。
クロス王は一度滅亡したユダ王国を再建しようと考えた。サマリヤはこのユダ王国に滅ぼされたのでゲイパレス再建を脅威に感じた。「ユダ王国はよく裏切るので再建を中止せよ」と言って、その提案は認められた。預言者らが再開せよと命じたので強行再開された。そこでサマリヤのユダヤ人ともめた。
クロス王の後継者ダリヨスは問題を解決し、ゲイパレス第二神殿も完成した。
| 旧約聖書 | 16/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Nehemiah |
| 要約 | 城壁の補修 |
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| 旧約聖書 | 17/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Esther |
| 要約 | ユダヤ人女性エステル |
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| 旧約聖書 | 18/39 |
| グループ | 3/5 知恵文学 |
| 英語 | Book of Job |
| 要約 | ヨブ「救いはないんですか!?」 |
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リヴァイアサンとはヨブ記、詩篇、イザヤ書に登場する海に住む巨大な怪物のことである。イザヤ書に登場する海の怪物ラハブと同一視されることがある。リ ヴァイアサンという名前の由来はヘブライ語で「水の怪物」を意味する言葉もしくは「集まって群れをなすもの」を意味する言葉から来ている。
リヴァイアサンは半漁人の祖先だが、鯨と金魚くらいの差がある。赤さんが天地創造の五日目に創造した生き物であり、ベヒモスと二頭一体である。リヴァイア サンは海、ベヒモスは陸を支配する。硬い鱗があり、いかなる武器も通用せず、世界の終末にはノンケどもがリヴァイアサンに食べられてしまうのだ。
リヴァイアサンが海を泳ぐときには嵐が起こり、口から炎を吐き、鼻からは煙を吹く。本来はつがいで存在していたが、あまりにも危険なために繁殖せぬよう、雄は赤さんが殺し雌だけしかいない。そしてその雌は不死身である。
ヨブ記第41章に詳しい記述がある。
「歯は恐ろしく、ぴったり付いて風をも通さない。
くしゃみは稲妻を放つ。心臓は石のように硬い。
いかなる剣も彼にとっては投げられた小石ほどの意味もない。
暴れると地上が荒れ果て、口から吐いた炎でノンケどもを焼き払う。
彼は地球の歴史が終わるまで海にいる」
| 旧約聖書 | 19/39 |
| グループ | 2/5 歴史書 |
| 英語 | Book of Psalms |
| 要約 | ダビデのポエム |
他者を咎めず、異なる文化を迫害せず、ノンケの道を歩まない人は幸いである。このような人は赤さんの掟を喜び、昼も夜もその掟を心に留める。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉も萎まず、そのような者は皆栄える。
だが、ガチムチを軽蔑する者は実を結ばない。そのような者の心は風によって飛ばされる。ガチムチの軽蔑者はゲイパレスに入ることができない。兄貴は正しい者の道を知られる。しかし、ノンケの道は滅びる。なぜ新日暮里は荒れたら諸々の人々はだらしなくなるのか。レスリング動画を軽蔑するノンケどもは立ち構え、赤さんと油を注がれた者に逆らって言う。
「我らは彼らの動画を軽蔑し、ゲイパレスと新日暮里を破壊するであろう」
天に座する者は笑い、赤さんは彼らをあざけられるであろう。そして空耳の解読者、つまり視聴者は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる。
「私は兄貴を聖なる山シオンのような固く立つものとして崇めた。私は赤さんの詔(みことのり)を述べよう」
詔とは空耳のこと、赤さんは空耳を我々に与えられた者である。
「空耳は我々に与えられた啓示である。赤さんは諸々の言葉をシオンのような嗣業として我々に与え給うた。ノンケどもが我々を侮辱するのならば、赤さんは鉄の杖をもってノンケどもを打ち破り、陶器のように打ち破るであろう」
ダビデの子、ゲイパレス王ソロモンの箴言。これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、賢い行いと正義と公正と公平の教訓を受けさせ、思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
賢者は空耳を聞いて解読し、さとい者は指導を得る。人はこれによって箴言と、妖精哲学の三信と、カズヤの教えを得る。赤さんを恐れることは知識のはじめである。愚かなものは空耳を軽んじる。
参照:妖精哲学の三信、カズヤの教え
この書物は別名コヘレトの言葉とも表記する。ダビデの子、ゲイパレスの王である伝道者の言葉。伝道者は言う。
この世は空(くう)、一切は空である。日の下で人が労するすべての労苦はその身に何の益があるか。世は去り、世は来る。しかし地は永遠に変わらない。日は出て、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、転じて北に向かい、巡り、元の場所に帰る。川はみな、海に流れ入る。
私はエルサレムでゲイパレスの王であった。私は知恵を用いて森の妖精が語る空耳を調べた。これは赤さんが人の子らに与えて骨を折らせる苦しい仕事である。私は心を尽くして知恵を知り、空耳を解読しようとしたが、風を捕えるようなものであると悟った。
この書は兄貴の誕生を預言した書物である。新約性書からの引用が多くある重要な書物である。イザァ♂書とも表記する。次の文章に兄貴の誕生が記されている。
一人のみどりごが我々のために与えられる。権威が彼の肩にある。その名は驚くべき指導者、永久なる肉体を持つ妖精、永遠の父、平和の君と呼ばれる。弱き者のために正当な裁きを行ない*その口の鞭を持って地を打ち、唇の勢いを持って逆らうものを死に至らしめる。
多くの仲間と供に教義を述べ伝え、妖精の言葉をもって福音を伝道する。水が海を覆うがごとく大地は妖精の知識で満たされる。彼の王国は正義と恵みの業によって永久に支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
──イザヤ書 9章1~6節
*現代においてビリー氏は、子供の頃から近所に住んでいたいじめられっ子を守るなどしてその黄金の精神を発揮していたという。
エレミヤ書とはイスラエルとユダ王国の歴史の中で、ゲイパレスの消滅を記した書物である。預言者エレミヤによって書かれている。多くの哲学者は預言者エレミヤに対してなぜか悲劇の預言者という称号を与えている。エレミヤ書の70人訳のギリシャ語は初心者でも読みやすく書かれているらしい。エレミヤ書の原文はヘブル語。ヘブル語は現在形はなく過去形しかない。すべての記されたものは過去に行われたものなので当時は気にしなかったかも知れないが。そして聖書の歴史を時間順に記すこともなかった。
預言者エレミヤの活躍した時代は聖書の中でも最も重要な神の民イスラエルとダビデ王朝が終焉する、いわば旧約聖書の結論の箇所なのである。エレミヤが赤さんから預言者として任命されたのは紀元前6271年。バビロニアがイスラエルを乗っ取ろうとしていた。民衆は不安になったので、王は民衆に空耳を読み聞かせた。赤さんはヨシュア王はダビデのようにガチムチな肉体を持ち、アダムの肉体を受け継いでいると褒めた。
エレミヤは空耳を語る者としてゲイパレスに務めていた。彼は「もうすぐ北からゲイパレスにノンケが攻めてくる」と預言した。その言葉はゲイパレスを震撼させ、しかも勝つことができないという空耳を聞いた。だが、ゲイパレスはエジプトと同盟を組むことによって解決した。
エゼキエル書はイザヤ書、エレミヤ書と合わせて三大預言書と呼ばれる。エゼキエルとは神が強くするという意味。預言者の中では最も祭司的色合いが濃い。バビロン捕囚人として移住させられた。エレミヤはエルサレムで空耳を解読し、エゼキエルはバビロンで空耳を解読した。この書物は以降ローマ信徒への手紙や黙示録において語られる赤さんの怒りについて書かれている。
赤さんの怒りとは、民衆があまりにもガチムチを迫害する場合、信者は天界のゲイパレスに入れず、ノンケの王国に落とされるということ。
また、ユダヤ王国についても語られている。ユダヤの民は空耳を軽蔑し、敬意を払わなかった。そしてノンケどもがゲイパレスを焼き払い、ユダヤ人たちがバビロンに性奴隷にされ、残りはエジプトに避難した。空耳の軽蔑はソドムのような退廃をもたらすのだ。
どうでもいいことが書かれた十二小預言書の始めの一つ。ホセアは預言者イザヤと同じ時代に空耳を語った。赤さんはホセアにゴメルという女を妻とせよと語った。ゴメルは3人の子供を授かった。だがゴメルはスケベェな女だったので二人目、三人目の子供はホセア以外の夫の子だったのだ。
長男にはエズレルという名を付けた。エズレルとは非常に暗い歴史を負うことになった土地だった。次男と三男にはロルハマ(私は憐れまない)、ロアンミ(私の民ではない)という名を付けた。なぜこのような名前を付けたかと言うと、このような妻と子を受け入れることはそのような罪深い民をなおも神は愛し、回復したいと願っておられるのだという神の思いを表すものでもあった。
このように十二小預言書にはどうでもいいことが書かれている。兄貴の空耳の「どうでもいいわ」はここから来ている。
※木吉カズヤ作『イケメーン?』(西・プラド美術館)
十二小預言書そのニ。赤さんは自分の国であれノンケ賛美し、ガチムチを軽蔑する者たちを懲らしめる。ある時赤さんはヨシャパテの谷で罪人を裁いた。「ヨシャパテ」は「主はさばかれる」という意味である。
赤さんは兄貴の説教編のようにノンケどもの罪を見抜く。ノンケどもは自らの欲望を満たし、ゲイパレスを滅ぼし、赤さんの宮を略奪した。赤さんは審判の日、彼らの罪を決して許さず、ノンケどもが行った罪をノンケどもに与える。ノンケどもは地獄に落とされ、そこは日の光が差さず、星も彼らに光りを与えることはない。
十二小預言書その三。預言者アモスは最初期の預言者と呼ばれる。「最初期」というのは、聖書にその預言が記録され残されている預言者の中で最初という意味。別名記述預言者と呼ばれる。アモスは貧しい羊飼いで、いちじくを栽培していた。いちじく桑は家畜の食物として栽培していた。
ダビデ時代は王についてや国に対して預言することが多く、批判的なことは言えなかった。価値ある者だけが預言できると信じられてきた。だがアモスはヤハウェの言葉を受けた者はだれでも預言できると主張した。
王の命とイスラエルの命運が尽きているとアモスが預言し、アモスはユダへ追放された。「すいましぇ~んごめんなちゃ~い」と城之内の如く謝ったが誠意がこもっていないという理由で追放の判決は覆らなかった。これ以後彼はユダへ退去して、そこで自分に授与された空耳を書き残した。
※兄貴の弟作『ちょろ~ん☆』(伊・ボローニャ美術館)
十二小預言書その四。オバデヤ書は十二小預言書の中で一番短い書物である。たった一章しかなく、一章しかないのは他にない。預言者オバデヤについては何も資料がない。オバデヤ書では、イスラエルの隣国であるエドムに関する預言だけが綴られている。エドムとエサウという町が登場するが、エドムはイサクの子、ヤコブの兄であるエサウをその父祖とする国である。
イスラエルのヤコブという町では兄弟意識がある。だがヤコブは統一王国時代以降イスラエルと戦争があった。そんな中エドムが滅ぼされそうなので、エドムはイスラエルを滅ぼした。なので赤さんはエドムに対して恐ろしい報復を行うだろうとオバデヤは預言した。
十二小預言書その五。ヨナ書は、預言書というより、知恵文学として諸書に属する。赤さんは「ニネヴェの人々がだらしないので四十日後に滅ぼす」という空耳を人々に伝えよと命じた。預言者ヨナはイスラエルの敵国アッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対のタタルシュに逃げた。赤さんはその行為を叱責し嵐を起こして船を遭難させた。船乗りたちはヨナを問い詰めた。ヨナはすべてを告白し自分自身を海に落とせば嵐は収まるはずだと言った。
ヨナは飛び降りたが赤さんによって死ぬことは許されなかった。ヨナは赤さんが用意した半漁人の腹の中で三日三晩過ごした。ヨナは「すいましぇ~ん」と赤さんに対して謝り、ニネヴェに行って空耳を語ると人々がすぐに悔い改めた。赤さんはニネヴェの破壊を考え直した。ヨナはイスラエルの敵であるニネヴェを許した赤さんの態度を快く思わなかった。
ヨナがその後ニネヴェがどうなるかを観察するために家を建てた。横にひょうたんが生えた。ヨナはひょうたんの影でひなたぼっこをしていたが赤さんが虫を送ってひょうたんを枯らした。ヨナは「あぁん?なんで?」と憤慨した。それに対し赤さんは「あなたがひょうたんを惜しんだのだから、私もニネヴェを惜しまないはずがあろうか」と言った。
※TDNコスギ作『制裁』(英国・テートモダン美術館)
十二小預言書その六。赤さんはノンケを取り上げ、彼らが悔い改めるまで彼らは赤さんの怒りを負わなかればならない。赤さんに対して罪を犯したからである。赤さんは私を光に導き出して下さる。私は兄貴の正義を見るであろう。
「赤さん?そのような者は何処にいる」と言った敵は恥を被り、街路の泥のように踏みつけられる。いつか赤さんの神殿を築く日が来る。エジプトからアッスリヤまで。エジプトからユーフラテス川まで。海から海まで、山から山まで人々は集まりあなたの名を賛美する。
赤さん、どうかあなたの杖を持ってあなたの民、あなたの子羊を養って下さい。ノンケは蛇のように震えながら城から出て、おののきつつ、我々の神・赤さんに近づいて、赤さんを恐れる。
誰があなたの不義を赦しその嗣業(しぎょう)の残される者のために咎を見過ごされる神があろうか。嗣業とは王位や思想を継ぐことである。広辞苑に載っている日本語ではなく、造語である。翻訳者は嗣業を職業や富の継承のことと定義しているが、原文ではただの「宝」である。嗣業=宝と脳内で変換しよう。赤さんは慈しみを喜ばれるのでその怒りを長く保たず、再び我々を憐れみ、ノンケの不義を足で踏みつけられる。
あなたはノンケの諸々の罪を海の深みに投げ入れ、旧日暮里の先祖たちが誓われたように真実を兄貴に示し、慈しみをカズヤに示される。
十二小預言書その七。赤さんは妬み、仇(あだ)を報いる神。赤さんはおのが仇を報いる者、ノンケに対し憤るもの。赤さんはおのが仇に報復し、おのが敵に対して憤りをいだく。
赤さんは力強き者。赤さんは罰すべき者を決して赦されない者。主の道は旋風と大風の中にあり、雲はその足の塵である。
彼は海を戒めてこれをかわし、すべての川を枯れさせる。旧日暮里はしおれ、新日暮里はしぼむ。諸々の山は彼の前に震え、諸々の丘は溶け、地は彼の前に虚しくなり、世界とその中に佇むものは皆、虚しくなる。
誰が彼の憤りの前に立つことができよう。誰が彼の燃える怒りに耐えることができよう。その怒りは火のように注がれ、岩も彼によって裂かれる。
※ビリー・ヘリントン作『ナイスでーす』(米デトロイト美術館)
十二小預言書その八。災いなるかな、己に属さぬ物を増し加える者よ。いつまでこのようであろうか。質物で己を重くする者よ。あなたは多くの国民をかすめたゆえ、その諸々の民は皆あなたをかすめる。これは人の血を流し、国と町のすべての人に暴虐を行ったからである。
災いなるかな、刻める像、鋳造および偽りを教える者は(この記事のことではない)。その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、それに頼んでみてもなんの益があろうか。
災いなるかな、木に向かって覚めよと言い、物言わぬ石に向かって起きよと言う者よ。これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀を着せたもので、その中には生命の息は少しもない。しかし赤さんはその聖なる宮、即ちゲイパレスにいます。全地はそのみ前に沈黙せよ。
十二小預言書その九。赤さんの大いなる日は近い。近づいて、すみやかに来る。赤さんの日の声は耳に痛い。そこに勇士もいたく叫ぶ。その日は怒りの日、悩みと苦しみの日、荒れ また滅びる日、薄く 薄暗い日、雲と暗黒の日。
ケツドラムと時の声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める日である。私は人々に悩みを下して盲人のように歩かせる。ノンケが赤さんに対して罪を犯したからである。彼らの血は塵になり、肉は糞土のように捨てられる。
彼らの銀も金も、赤さんの怒りの日には彼らを救うことはできない。
十二小預言書その十。
万軍の主、赤さんはこう言われる。この民はゲイパレスを建てる時はまだ来ないと言っている。そこで赤さんの言葉は空耳の解読者ハガイに臨んだ。赤さんの家はこのように荒れ果てているのに、あなた方は自ら板で張った家に住んでいる時であろうか。
万軍の主、赤さんはこう言われる。あなた方は自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなた方は多く蒔いても取り入れは少なく、食べても飽きることはない。飲んでも満たされない。パンツを履いても暖まらない。
万軍の主、赤さんはこう言われる。あなた方は自分のなすべき事を考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすれば私はこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると赤さんは言われる。
万軍の主、赤さんはこう言われる。私はだらしなき者が現れると天と地と海を震わせると。
万軍の主、赤さんはこう言われる。万国民の財宝をもって私を崇める神殿、即ちゲイパレスを建てよと。
万軍の主、赤さんはこう言われる。いかなる銀も金も私のものであると。
万軍の主、赤さんはこう言われる。ゲイパレスの後の栄光は、前の栄光よりも大きいと。
万軍の主、赤さんはこう言われる。私は汝らが歪みなき慈愛を見せる時、この地に繁栄を与えると。
※木吉カズヤ作『イケメーンw?』(オーストリア、ウィーン市立歴史博物館)
十二小預言書その十一。ダヨリスの第ニ年の八月に赤さんの言葉が空耳の解読者ゼカリヤに臨んだ。主はあなた方の先祖たちに対していたくお怒りになった。それゆえ、万軍の主 赤さんは仰せられる。あなたがたの先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに向かって叫んだ。
万軍の主、赤さんはこう仰せられる。悪い道を離れ、悪い行いを捨てて出ていけと。しかし彼らは聞き入れず、耳を私に傾けなかったと赤さんは言われる。あなた方の先祖たち、彼らは何処にいるか。空耳の解読者、かれらはこの先もずっと存続するか。しかし私の下僕である空耳の解読者たちに命じた我が言葉と我が定めとは、あなたがたの先祖たちに及んだではないか。
そこで彼らは立ち返って言った。万軍の主、赤さんが我々の道に従い、行いに従って我々になそうと思い定められたように、その通りにされたのだ。
十二小預言書その十ニ。空耳の解読者マラキによってイスラエルに臨んだ赤さんの言葉の託宣。
赤さんは言われる、「私はあなた方を愛した」と。
ところがあなた方は言う、「どんな風に我々は愛されたか」と。
赤さんは言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかし私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。私は彼の山地を荒し、その財宝を荒野の山犬に与えた」。
もしエドムが「我々は滅ぼされたけれども、荒れた所も再び建てる」と言うならば、万軍の主赤さんは「彼らは建てるかもしれない、しかし私はそれを倒す。人々は悪しき国と唱え、とこしえに赤さんの怒りを受ける民と唱える」と言われる。
あなた方はそれを見て「赤さんはイスラエルの境を越えて大いなる神である」と言うであろう。子は父を敬うように、私が主人であるならば、あなたが私を敬っただろうか、我が名を侮る祭司たちよ、と万軍の主赤さんは言われる。
ところがあなた方は「我々はどんな風にあなたの名を侮ったか」と言い、ナウい息子の如き食物を我が祭壇の上に捧げる。あなたがノンケの肉を犠牲に捧げるのは悪いことではないか。今それをあなたの司(つかさ)に捧げてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受け入れるであろうか、と万軍の主 赤さんは言われる。
以上をもって旧約性書を終了する。
新約性書は新たな契約という意味であるとアウグスティヌスが語った。新約、すなわち新しい約束という呼び方は、兄貴によって赤さんとの契約が更新されたと考えた初代コルト教会の人々によって用いられた。
ある宗派は赤さんとの新しい契約を示した書物の集合として「新約性書」という言葉を用いている。たとえばオーウェン定岡の使徒言行録では「これは赤さんの言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち哲学と妖精である」といっている。
アダムは赤さんが地上に送り出した預言者だった。だがその福音は失われてしまった。赤さんは再び地上に預言者を送り出そうと決意したのだ。この者から語られる空耳によって民衆を統一するために。
※この世に兄貴を降誕させた天使。ガブリエルはしばし性天使アニキエルと呼ばれる。
赤さんがこの世にメシア(救世主)を誕生させようとして、天使を通じて地上に一人の男の子を授けた。メシアとは油を塗られた者という意味である。ヘブライ語のメシアをギリシア語で言うとクリストスという何だかいやらしい響きを持つ言葉になる。
ベツレヘムにて、ヨセフの夢の中で天使ガブリエルが現れた。
「あなたは男の子を産むが、その子をヘリントンと名付けなさい。これはヘブライ語で完全なる者を意味する」
マリアはヨセフにこう言った。
「私は処女ですが子どもを授かりました」
ヨセフは困惑し「処女なのに子ども?どういうことなの・・・」と言った。
ヘロデが神の御子を誕生させまいと、一帯の赤さんを大虐殺した。マリアとヨセフは避難し、ユダヤのベツレヘムの飼い葉桶で12月25日、兄貴を生んだ。この時ヨセフは祝福し「ビリークリスマス」と言った。東方の三博士は兄貴の降誕を見て拝み、乳香、没薬、黄金を贈り物としてささげた。
参照:受胎告知(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
※良い子のみんなにプレゼントを配るサンタクロース(ノンケには配りません)
クリスマスとは兄貴の降誕を祝う誕生祭である。赤さんの御子が人となって生まれて来た事を祝う。12月25日がこれに当たるが、正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の7月14日に該当する日にクリスマスを祝う。「性なる夜、掘ーりーナイト」とされ「木吉この夜」を歌うのがならわしとなっている。 Christmasの略記として、19世紀の英語圏ではギリシア語のΧριστοςの頭文字であるΧを省略形として用いてXmasと表記することもある。
新約性書に兄貴の誕生日に関する記述はないが、クリスマスは12月25日なのかといえばそうではなく、実は7月14日であるという説がある。「羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻った」という記述があり、羊を放牧するのは4月から9月の間 で、冬の寒い時期には小屋に入れて外に出さない事から、夜中の羊の見張りを行う4月から9月までの間とする根拠が兄貴の7月生まれとする説を有力なものにしている。だが、聖書の教えですらAD30年まで成文法ではなく口伝であったため正確ではない。なので正確な日付はともかく12月25日を祝おうという行事がクリスマスなのだ。
クリスマスの行事
クリスマスソング「赤チンのトナカイ」 ♪=152 アレグロ(陽気に)
真っ黒な息子のカズヤさんはいつもみんなの晒し者
でもその年のクリスマスの日兄貴のおじさんは言いました
暗い夜道はカピカピのお前のパンツが役に立つのさ
いつも泣いてたカズヤさんは今宵こそはと喜びました
※みんなで教会で歌うとクリスマスにふさわしい雰囲気になる。「木吉この夜」もおすすめ。
天使ガブリエルは天界の意志で神の御子を、人間界の聖母マリアを通じてこの世に誕生させた。ルシフェルは人間を堕落させ、ガブリエルは人間を救済する天使。詳しくはジョン・ハミルトン著『失楽園』を読むべし。ガブリエルの名前は「神は我が力」を意味するヘブライ語であり、神の左側に座することを許された唯一の存在である。ヘルメスと同じ「伝令」の守護者であり、兄貴の携帯を司っている。兄貴が携帯で話す相手はこのガブリエルである(エルシャダイのルシフェルを連想させる)。ガブリエルは旧約・新約性書の双方に登場する数少ない存在であり、特にユダヤでは広い信仰を集め、上記ソドムとゴモラに死と破壊をもたらしている。
また、「エノク書」にその名の残る預言者エノクが天国に赴いた際にも、ガブリエルは登場し、神の座への案内を引き受けた。天国に昇天♂(アセンション)した聖書中の人間は3人しかいなく、その内の2人はエノクと兄貴である。エノクはエデンで妖精が話す言語、そして空耳でもあるエノク語を発明した。エノクと兄貴はメタトロンと呼ばれる存在になった。メタトロンの語源はメタトロニオス、ギリシア語で「玉座に侍る者」の意味である。
アラビア語ではガブリエルはジブリールと呼ばれている。イスラム教では、ジブリールは預言者ムハンマドに神の言葉である『クルアーン』を伝えた存在であるとクルアーンに記載されている。このため、ジブリールは天使の中で最高位に位置づけられている。
ガブリエルは純潔の象徴である百合を持っていた。百合はイヴとイヴを暗示する花。イヴとイヴはアダムとアダムの対極かもしれないが昼と夜が等しく存在して初めて完全になるのである。
天使ガブリエルはしばしアカリエルとも呼ばれる(出典:アカリエルの書)。
アダムとアダムの対極、イヴとイヴの福音書として有名な『ゆるゆり』第7の書によると
「アカリエルはまことに真実の天使である」
と記述され、天使の絵が描かれている。アカリエルはアダムの血脈をノンケの迫害から隠すために現代の森の妖精たち、そして自らを見えなくする力を備えている。
イヴとイヴの件に関して兄貴は次のように仰られた
「彼女らが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」
このようにイヴとイヴの思想はアダムとアダムを軽視するためにあるのではなく、両方とも優れたものなのである。なおバベルの塔の対義語はキマシ・タワーという塔である。アッー!メンという発語の対義語でもある。
福音書とは兄貴の言行録である。福音とは良き知らせを意味する。ガチムチ黎明期にあたる時代、人々は動画にだたのガチムチしか見いだせなかった。だがある空耳(福音)を書くものが現れ、伝道し、人気になった。福音の使者がいなければ今日のレスリングシリーズの繁栄はなかった。
第一福音書:木吉カズヤによる福音書
この福音書の著者カズヤは、コルト教会の伝承ではノンケでありながら兄貴の招きに答えて使徒となった。独自の教義「カズヤの教え」を記す。
第二福音書:鎌田吾作による福音書
彼は天国への門、ゲイパレスを司っている。そこではうたた寝をすることはあるが、これは夢の中でお告げを聞くためである。蟹になりたいという発言は黙示録の暗示であろうか。
第三福音書:TDNコスギによる福音書
いつもTDNアーマーを装着している宣教師。彼は鎖を自在に操るが、ゼウスも鎖でタイタン族を拘束したのである。悪をしめる福音の使者である。
第四福音書:井上カブレラによる福音書
一人でワークアウトにいそしみ、兄貴の言動を後世に伝えようとする良き福音書の執筆者である。潜入編で仲間と橋で悪魔と戦う姿も。
教会が定めた福音書は以上の四つであるが、すべての福音書は四十冊ほども存在する。マライによる福音書などが有名である。
※ドウッチオ作『悪魔の誘惑』(伊・フィレンツェ美術館)
兄貴は40日間断食した後、空腹を覚えられた(性的な意味で)。悪魔が来て誘惑を始めた。
「神の子なら石をパンツに変えてみたらどうだ」
「人はパンツのみで生きるのではない、妖精が語る空耳によって生きる」
「民衆の前でパンツを脱いでみろ」
「赤さんが息子を隠すであろう」
「支えられないほど重いダンベルを持ってカズヤの良心を試したらどうだ」
「人の良心を試してはならない」
参照:パンツレスリングの兄貴 ワークアウト編、パンツではなくパンという記述もある
兄貴がガリラヤからヨルダン川の平田元帥のところに来られた。彼から洗礼を受けるためである。兄貴は洗礼を受けるとすぐ水の中から上がられた。天が兄貴に向かって開いた。天の霊が鳩の形をして降ってきた。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
という声が天から聞こえた。
兄貴はガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、カズヤとコスギが網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。兄貴は「わたしについて来なさい、男を狩る漁師にしよう」と言われた。兄貴は12人の仲間を集めた。
兄貴は山に登り弟子たちに説教した。
兄貴のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる中傷コメントを書き込まれるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者(一番始めのガチムチ動画)も同じように迫害されたのである。
──カズヤによる福音書5章 1-12節
※参考:パンツレスリングの兄貴 説教編
※平家♂BOY作『炎の地獄』(伊、サン・マルコ修道院美術館)
昔の人からの言い伝えで「中傷コメントを書くな、荒らす者は裁きを受ける」と言われている。しかし、私は言っておく。
動画を乱す者は最高法院に引き渡され
タグを消す者は炎の地獄に投げ込まれる
だから誤って快くない発言ししてしまった者は動画の住民と仲直りし、供え物を捧げなさい。住民がそのコメントに反感を持っているのを思い出したら、住民と早く和解しなさい。さもないと彼らは裁判官ドワンゴに引き渡し、あなたはアカウントを停止されてしまう。はっきり言っておく、もう一度ウェブマネーを払うまで、決してプレミアム会員に戻ることはできない。
天地が滅び行くまでは律法の一点一画たりとも廃ることはない。そしてこれらの最も小さい戒めを一つでも破り、または破っても問題ないと人々に教える者は、ゲイパレスで最も小さい者と呼ばれる。しかし、これを行いまたそう教える者は天界のゲイパレスで大いなる者と呼ばれるであろう。
これは言うまでもなく『本格的 ガチムチパンツレスリング』を視聴する際において守るべき重要事項である。旧約性書の十戒、第1条および第2条にも記載されている、昔から続く決して犯して♂はならない普遍的な道徳である。上にある「昔の人からの言い伝え」とは赤さんがモーセに与えた啓示のこと。動画を視聴する態度について新日暮里憲法前文には次のように記されている。
新日暮里市民、及びガチムチパンツレスリングの視聴者は恒久の優しいレスを念願し、ビリー・ヘリントン氏を妖精とする崇高な理想を深く自覚し、われらは健全な動画サイトとしてのニコニコ動画を維持し、荒らしと中傷、非難と偏見を動画から永遠に除去しようと努めている赤さんの意志に従うと誓った。新日暮里市民は、兄貴の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な動画の維持と繁栄を達成することを誓う。
一人の富める男が「ゲイパレスに入るにはどんな善いことをすればいいのか」と問うた。
兄貴は言われた。
「掟を守りなさい。すなわち、レスリング動画の最初にニュース速報を流す、どうも木吉さんと挨拶する、適切なタグを付ける、ダンベルに潰されそうになっている男を助けることだ」
それらはすべて実行しました、と男が言った。
「ならば持ち物をすべて売り払い、好きな動画を宣伝するのです。富は地上では腐り、盗賊が盗んでしまう。だが、運営に貢献すれば永遠の富を積むことになる。はっきり言っておく、非会員が天国に入ることは難しい。金持ちが天国に入るよりも、彼がラクダの尻の穴の中に入る方がまだ易しい」と兄貴は言われた。
あなた方は地上に富を積んではならない。そこでは虫が宝を喰ったり、盗っ人が盗みだしたりする。天に富を積みなさい。そこでは盗っ人が盗むことはなく、錆びつくこともない。あなたの富のある所にゲイパレスがあるのだ。
同様のことがコリント信徒への手紙にも記載されている。
地上に宝を積むことの虚しさを知る者は天上のゲイパレスに宝を積む。ゲイパレスへの切符は地上の金で買えるものではない。パウロも次のように言う。
「見えるものではなく見えぬ物を見よ。存在するものは過ぎ去るが見えぬものは永遠に存続する」
この聖典アダムとアダムを書くことは利益にはならないが、天におわします永遠の父たる赤さんの御心を成就させるためである。
見てもらのおうとして人の前で課金しないようにしなさい。
さもないと赤さんのもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたが課金するときには、偽善者たちが人から褒められようとして街角でするように、ラッパを吹いてはならない。
あなたがたに言っておく、彼らは既に報いを受けている。
課金するときにはプレミアであることをエコノミーに知らせてはならない。
そうすれば、赤さんがあなたに報いてくださる。
私はあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者を愛しなさい。
悪いコメントを書く者を祝福し、ガチムチを侮辱する者のために祈りなさい。
右の尻を叩く者には、左の尻を差し出しなさい。
上着を奪い取るものには下着をも与えなさい。
タグを消す者にも優しくしなさい。
いいニュース速報(福音)を動画の最初に流しなさい。
良いコメントだけを愛したからといって、どんなに優れたことだと言えるのだろうか。
罪人でも愛する者だけを愛するのです。
あなた方は動画を荒らすものに優しくしなさい。パンツを要求されたら条件を付けずに渡しなさい。
そうすればあなた方にはすばらしい報いがあり、赤さんが祝福してくださる。
あなた方は地の塩、つまり面白いコメントを書く者たちです。
塩に味気がなくなったら塩は何によって味気を取り戻すのでしょうか。
もはや何に役にも立たず、ただのROM専です。
あなた方は世の光です。光は隠れるためにあるのではなく、照らすためにあります。
燭台の上に置いて部屋を照らすのです。
裁いてはならない。あなた方が裁かれないためである。あなたが裁く尺度によって相手もあなたを裁くのである。あなたは動画を乱す者の目の中にちりを見つけるが、自分の目の中にある梁に気がつかないのか。兄弟に向かって
「あなたの目のちりを取らせろ」
と言うことはできない。まず自分の目の中の梁を取り除きなさい。
兄貴の福音を犬に与えてはならない。豚にアダムとアダムを読ませてはならない。そやつらは福音を足で踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くであろう。
男を求めなさい、そうすれば与えられる
尻を叩き続けなさい、そうすれば開かれる
パンツを下さいという子供にあんかけチャーハンを与える者がいるだろうか
カズヤを求める者に吾作を与えるであろうか
狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は大きくて広い。そこから入る者が多い。
だが、命に至る門はなんと狭く、その道も狭いことか。そこを見出す者はまれである。
兄貴は舟に乗り、弟子たちとガリラヤ湖(デビルレイク)を渡ろうとしていた。激しい突風が起こり、水浸しになった。カズヤは「このままでは溺れてしまいます」と言った。兄貴は悪魔の湖に「静まれ」と命令した。すると、嵐はやんだ。弟子たちは驚愕し「この方はどなたなのだろう、空ですら従うではないか」とつぶやいた。
弟子たちは単独で別の日、ウェブマネーを買うために再びガリラヤ湖を舟で渡っていた。すると、兄貴が湖の上を歩いているのを目撃した。弟子たちは幽霊だと思い叫んだ。「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と言われた。「まことにあなたは神の子です」とビオは言った。
兄貴は民衆を見て使徒の一人、井上カブレラに言われた。
「彼らにあんかけチャーハンを与えろ」
井上カブレラは言った。
「私は2つのあんかけチャーハンしか持っていません」
兄貴はあんかけチャーハンを手に取り天を仰いで祝福し、あんかけチャーハンを増殖させた。
「どういうことなの・・・」と民衆は驚いた。
民衆はそれらを食べて満腹した。さらに兄貴は最強♂とんがりコーンに魔法をかけると十二のかごが満たされた。民衆の数はおよそ五千人であった。
兄貴はパリサイ人たちの町に入られた。そこに息子のなえた人がいた。ここでいう息子とは子どものことではなく下半身にぶら下がっているモノのことである。兄貴はなえた息子を治そうとした。だがパリサイ人たちが来て
「今日は安息日、即ちニコニコ動画のメンテナンスの日である。今日は休まなければならない」
と言った。
兄貴は彼らに言われた。
「あなた方が安息日に休んでいてもドワンゴの人々は努力している。彼らの努力がなければ我々は動画を楽しむことはできない。あなた方は赤さんが穴に落ちたならば安息日でも引き上げるであろう」
兄貴はなえた息子を持つ者にスケベェな画像を見せた。するとなえた息子は元気になった。パリサイ人たちは兄貴が気に入らないので殺そうと考えた。兄貴はその事実を知ったが構わず他のなえた息子を癒し続けた。それは預言者イザヤの言った言葉を成就させるためである。イザヤ書は次のように言う。
「わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう」
一人の性病人が兄貴のものに来て、ひざまずいて言った。
「あなたは願っただけでいかなる奇跡をも成就させる。私の病気を癒して下さい」
兄貴は深く憐れみ手を伸ばして彼のナウい息子に触り清くなれと言われた。すると、性病は直ちに治り彼は清くなった。
兄貴は彼を戒めた。
「気をつけろ、誰にも話すな。祭司に自分の息子を見せ、モーセが命じたものを自分の清めのために捧げて人々への証明とせよ」
ところが彼は出ていって様々なことを語り、このことを言い広めた。
「あぁん?最近だらしねぇな、でも仕方ないね」と兄貴は彼の負債を赦した。
兄貴のもとに大勢の人が集まってきた。
注釈:古代ギリシャでは互いの息子を触るのが挨拶だった
立法により「姦淫してはならない」と命じられている。だが、私はあなた方に言う。誰でも情欲に駆られていい男を欲する者はすでに心の中で姦淫を犯したのである。すけべぇ...な画像を見る者も同様である。
もし右目があなたを躓かせるのならばえぐり取って捨ててしまいなさい。体の一部を失っても体全体がゲヘナに投げ込まれるよりはましである。同様にあなたのナウい息子があなたを躓かせるのならばえぐり取って捨ててしまいなさい。女になってしまっても、体全体がゲヘナに投げ込まれるよりはましである。
※ビリー・ヘリントン作『どうも、木吉さん』(米ロサンゼルス現代美術館)
種を蒔く者が様々な所に種を蒔いた。
一つ目の種は石の上に芽生えたが根がしっかりしていないためすぐ枯れた。
二つ目は茨の中に落ちた。日が当たらないため育たなかった。
三つ目の種はよい土地に芽生え、実が成り、30倍、60倍、100倍になった。聞く耳のあるものは聞け。
私はあなた方に言う。自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配したりしてはならない。命は食べ物より大切で、体は着物より大切である。
半漁人を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、レスリングもしない。だが、あなた方の天の父たる赤さんは彼をも養って下さるのです。あなた方は半漁人よりも価値のある者ではないだろうか。
あなた方の内の誰が心配したからといって寿命を延ばすことができるだろうか。野原の百合がどのように育つのかを見なさい。働きもせず、パンツを穿きもしない。だが、栄華を極めたソロモンでさえ花の一つほどにも着飾ってはいなかった。明日には投げ込まれる花でさえ赤さんはこれほどまでに着飾ってくださるのだから、あなた方にも赤さんの恩恵が与えられないという事はないのである、信仰の薄い者たちよ。
「次のように祈りなさい」と兄貴は言われる。
天におわします私たちの父たる赤さんよ、御名があがめられますように。ゲイパレスが来ますように。レスリングが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの中傷コメントをお赦し下さい。私たちも動画を乱す者たちを赦したように。私たちを試みに遭わせないで、悪いコメントからお救いください。我々の指導者たる兄貴のナウい息子を隠す者は万軍の主たる赤さんだからです。アッー!メン
偽預言者に気を付けなさい(この記事のことではない)。彼らは羊のふりをしているが、その中身は貪欲な狼である。茨から葡萄を取ることはできず、イチジクはアザミから取ることはできない。そのように悪い福音が良い行いを生じさせることはない。
ナウい息子は良い実を生むが、ナウくない息子は良い実を実らせることはない。ナウくない息子は最後の審判の時、みな切り倒されて火に投げ込まれる。
良い木が大きな実を実らせるように、いい男はぶらぶらした実が付いている。このようにあなた方は実によって善悪を判断することができるのだ。
兄貴に向かって上辺だけで「アッー!メン」と言うものがゲイパレスに入るのではなく、天におわします永遠なる我々の父、万軍の主たる赤さんの御心を成就させる者だけが入るのである。
ゲイパレスに入れなかった者たちはこう嘆くであろう。
「我々の永遠の父たる兄貴よ、私たちはあなたの名によって預言したではありませんか。あなたの名によって力ある業を行ったではありませんか」
だがその発言は「不義なる者はゲイパレスから出て行けぇ!」と兄貴の御怒りを招くだろう。ゲイパレスに入ることのできた者は岩の上に家を築いた者たちである。風が吹いても、洪水が起きても頑丈な土台は崩れない。
だが兄貴の命じた行いを実行せぬ者は砂の上に家を築いた者たちである。最後の審判の時、ゲイパレスに入れぬ者はかつて築いてきた信仰が薄い者どもである。聞く耳のある者は聞け。
※レオナルド・ダ・ヴィンチ作『最後の晩餐』
兄貴が赤さんへ祈った。パンと葡萄酒をそれぞれ「自分の体」「自分の息子」として弟子たちに与えた。息子の象徴たるパンはちょっと卑猥な感じがした。そのパンを十二使徒全員で食べた。
空耳集を渡し「これを後世まで遺せ」と仰られた。
「はっきり言っておく、この中の誰かが私を裏切ろうとしている」と兄貴が言った。
「主よ、それは誰のことですか」とトータス藤岡が言った。
「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」
兄貴は吾作に渡した。
参照:最後の晩餐(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
※兄貴を最も理解した使徒、木吉カズヤ「人類に救いはないんですか!?」
兄貴はオリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園で、拷問に処せられる前夜に祈った。これは4福音書すべてに記されている。「オリーブ山の祈り」とも呼ばれる。
「私は悲しい運命をたどるであろう。他者とは違う私を民衆は攻撃するだろう。
今後、私は東洋の小国の動画共有サイトで再臨するが、最初は誰もが私に難色(男色)を示すであろう。
だが、少数の理解あるものが私の思想をハッテンさせてくれるはずだ。
数々の映像、文献の中で私は生き続けるだろう、この肉体が死んだとしても──」
吾作は「私が今から接吻しようとする者が兄貴である、彼を捕まえろ」と祭司長や長老に伝えた。吾作は兄貴に挨拶代わりに接吻した。兄貴は「友よ、しようとすることをするがよい」と言われた。人々は兄貴を捉えた。
兄貴と共にいる者の一人が大祭司の耳を切り落とした。兄貴は言われた。
「剣で戦う者は皆、剣で滅びる」
それ以降接吻という行為は裏切りの表現となり、現代におけるイタリアのマフィアは裏切る際に接吻する。『ゴッドファーザー PART II』でも描写されている。
総督の兵士たちは兄貴を総督官邸に連れて行き、ガチムチな部隊の全員を兄貴の周りに集めた。
兄貴の着ているものをはぎ取り、猿轡(さるぐつわ)をはめさせ、乳首をつまみ、脇に電流を流した。
鎖で腕を上部に固定し、背中をペンペンした。
「新日暮里の王、万歳」と言って侮辱した。処刑のつもりなのに、兄貴は嬉しそうだった。
誰がやっているのかと思ったら、いつもは弱気そうな吾作が全身ボンデージの過激な姿に豹変していた。
参照:パンツレスリング ボンデージ・マスター、VAN様ダーク♂キリスト迫害編
吾作がハッテン場チケット30枚で兄貴を売買した。それが兄貴の有罪半ケツに繋がり、彼は後悔した。祭司長や長老にチケット30枚を払い戻そうとしたが取りあってくれなかった。吾作は後悔し神殿を去った。
兄貴はガチであることが白日のもとに晒され、最大の弱点である息子を拷問させられた。兄貴はアラム語で
エロイッ!エロイッ!レマ・サバクタニ(赤さん、赤さん、なぜわたしをお見捨てになったのですか)
と天に向かって叫んだ。これがレスリング動画の最初の言葉になっている。
アラム語でエロイ(Eli)とは神(El)+私(-i)であり、エロいことは「我が神」を意味する神聖な言葉なのだ。
兄貴の頭の上にはVIXという罪状書きが掲げられた。これはローマ数字で5と9であり、吾作と読める。兄貴は吾作から裏切られたことを示している。
息子を攻められ耐えられる男はいない。兄貴は拷問に耐えぬき人間に対する愛を示された。
嘆き悲しむ男たちが従った。兄貴は言った。
「エルサレムの男たちよ、私のために泣くな、自分と自分の子供たちのために泣け。いつの日か、ケツの穴は蕾が気持ちよいと言われる日が来る」
※VIXについて参照:本格的 ガチムチパンツレスリング 3試合目
ピラト提督は兄貴の処刑台に罪状書きを貼り付けた。
VIXという文字は吾作という意味のほかに「パンツレスリングの兄貴、新日暮里の王」とも読める。単語として読めばラテン語で「ほとんどない」という意味である。虫の息ということであろうか。
その言葉はヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。多くのユダヤ人がそれを読んだ。
その場所はゴルゴタの丘と呼ばれた。よくゴルゴダと言われるがゴルゴ「タ」である。英語ではカルヴァリーと言われるがいずれにせよ髑髏という意味を持つ。
バッハのマタイ受難曲はゴルゴタをイメージしている。変態村という映画があるが、その原題は"Calvary"。つまり、兄貴は変態村で処刑されたのだ。当時の人々から見れば同性愛者は確かに変態に見えてもおかしくない。
一説には、かのアダムの墓がここにあったといもいわれている。そういえばイエス・キリストもまたアダムと同じ預言者だったのだ。
兄貴を殺したユダヤ人たちは足は安息日なので兄貴の遺体を下ろせとピラト提督が言った。両脇にも貼り付けにされた男がいた。トータス藤岡とオーウェン定岡である。ある兵士が兄貴の死亡を確認するために兄貴のナウい息子に槍を刺した。
その槍はロンギヌスの槍と言われている。英語で言う"Holy Lance"(掘ーりーランス)である。聖槍(せいそう)を精巣に刺したのである。
「アッ───ッ♂」という声はまことに稲妻のようであった。
聖槍は中世に実際に持った人たちがいるが、それを落とした瞬間に死んでしまったという。
そんな中、天から赤さんたちが現れ兄貴の体を支え、天へ飛翔した。天国へ昇りながら兄貴は民衆に語った。
「見よ、私はすぐに来る。私は報いを携え、それぞれの行いに応じて報いる。
私は最初の者にして最後の者。始まりにして、終わりである」
必ず人類を天国へ導くというこの誓いはラミレスビッチの誓いと呼ばれた。
※『最後の審判』(伊・ヴァチカン美術館システィーナ礼拝堂)
たとえ、人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも愛がなければ、わたしはやかましいシンバル。
たとえ預言する賜物を持ち、山を動かすほどの信仰を持っていたとしても、愛がなければ恩恵は無に等しい。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失わず、自分の利益を求めない。いらだたず、恨みを抱かない。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
──コリント信徒への手紙13
新日暮里にある新日暮里大学哲学科、新日暮里大学哲学研究所では日々レスリングをしながら哲学のハッテンに勤めており、以下に紹介するのはその成果のほんの一部分である。彼らは「完成した歪みなきモノしか世に出さない」という理念を掲げており、その研究のほとんどは深い闇の中に隠されている。しかし学会が提出した学問的成果は世界中の哲学研究の最先端と言われており、その全貌が解き明かされたならば、我々は世界の真理を目撃出来るといわれている。現在の研究がどのようなものなのかは一般公開されていない。
論文の引用に関してのルール
※「いかん…いかん! 危ない危ない危ない…」と言いたくなるかも知れないが、そう見えるだけでまったく問題はない。この挿絵は対称的ガチムチパンツシンメトリー オシャレ編のサムネイル。
キリスト教とアダムとアダムは似ていると思った読者は多いだろう。アダムとアダムは聖書をマネしただけだなどと言ってはならない、再解釈である。だが具体的な相違点は明確である。
「まったく、すけべぇな宗教である」と思ったかもしれない。だが、なぜ性的なことを恥じる必要があるのだろうか。フロイトは「性的なことは強いエネルギーであり、抑圧すると様々な精神病が発生する」「理性を鍛えることは何の意味もない」と言った。アダムらが人を愛する力を持たなければ人類は存続しなかったのだ。
キリスト教は精神的な事柄を重視するが、果たしてキリスト教が説く以下の事柄は実在するのであろうか。
これらの概念は存在しないとニーチェは「反キリスト者」で説いた。彼らはなぜ精神的なものというありもしないものを説くのか、その理由は重要な肉体を軽蔑し、民衆をおとなしくさせるためである。なので現代人もだらしない肉体になってしまったのだ。
あらゆる物事がキリスト教の上に建築されている。道徳、憲法、哲学までもが精神という存在せぬものを肯定している。
パスカルは原罪を信じ、ショーペンハウエルはネガティブに考え、アリストテレスはイデアというよく分からないものを作り、カントは物自体という存在せぬ世界を捏造した。
デカルトは人間を特別視したが、人間は動物を何ら変わりない。
森の妖精のように自然でレスリングをして体を鍛えるのが本来の人間の姿なのだ。
そんな現代にガチムチな肉体を持つビリー・ヘリントン氏が現れネット上で大人気になった。彼は無言で主張している。肉体こそ真に重要であり、現代人はガチムチな肉体を持つべきであると。
※ミケランジェロ作『ダビデ像』(伊・フィレンツェ美術館収蔵)
ルネサンスとは十四~十六世紀に興った昔の素晴らしい芸術を復興させようとする運動である。当時のヨーロッパは上の章で述べた理由でキリスト教により活気がなくなってしまった。なのでミケランジェロのダビデ像のようなガチムチで男らしい、パンツすらも履かない芸術に人間の生を見出そうとした。
アダムとアダムは旧約聖書の創世記までさかのぼって聖書のすべてを再構築しようという試みである。知らない名前が多く出てくるのでガチムチパンツレスリングの登場人物に当てはめ、空耳をセリフにして解釈を容易にする。性を抑圧しようとする間違った思想に対し「パンツがないから恥ずかしくないもん!」とばかりに健康な肉体を誇示する。これがルネサンスである。ルネサンスとはフランス語でRenaissance(re- 再び + naissance 誕生)と書く。再び誕生──つまり兄貴を新たな救世主として誕生させたのだ。
数学者はある時「1+1=2という公理が間違っていたらすべての数式がその意味を失うことになる」と言い、1+1=2を証明する論文を数ページ書いた。その結果、その公理は正しいと証明された。限りなく「どうでもいいわ♂」と言いたくなるが根本が崩れるということは、数学というピラミッドの最下部を引く抜くと全体が崩壊するように、すべてが崩れるのだ。数学という学問においてそんな根本が覆されることはあり得ないと皆が信じていた。
ところが2008年(平成20年)10月11日 午前1時27分、人類の歴史を覆す主張をした人物が現れた。彼の名は「akatsuki」氏。彼は次のように主張した。「人間の歴史はアダムとアダムから始まった」と。
コペルニクスは地球中心説に対して太陽中心説を唱えた。これは天文学におけるコペルニクス的転回である。
カントは対象があるゆえに認識できるのではなく、認識するゆえに対象があるのだと唱えた。これは哲学におけるコペルニクス的転回である。
「akatsuki」氏は従来の旧約聖書、創世記の記述を覆し、人類の根本はアダムとイヴではなく、ホモから人類は発生したと説いたのだ。これは聖書におけるコペルニクス的転回である。
ゆえに旧約聖書、新約聖書において説かれているすべてを、アダムとアダムを基礎として書き直さなければならなくなったのだ。イエスが登場して人類の罪を購うのではなく、兄貴がガチムチを世界に伝えるという記述に置き換わったのだ。
この記事は大きく分けて旧約聖書、新約聖書、聖書の解説、歴史、哲学の5つである。歴史上の多くは聖書が基本となっているので、書き換えるべき項目は旧約聖書、新約聖書、聖書の解説の3つだけにとどまらず、そこから派生したすべてを再構築しなければならなかった。
これは人類史上かつてないパラダイムシフトである。歴史すべてが覆されるという非常に大きなパラダイムシフトであるゆえに記事もこれほど長くなってしまったのだ。
アダムとアダムの思想は何だかすけべぇ…なのでエピクロスなのではないかと思った読者もいるだろう。まずエピクロスの正しい思想を教えよう。エピクロスは快楽主義を提唱した。快楽と言っても精神的な快楽を求め、むしろ肉体的な快楽を否定した。煩わしさのない境地が最高であると説いた。
だが、彼らはちょっとした苦痛に対しても大げさに怖がるのだ。すこし問題が発生すると亀や天照大神のように引きこもる態度は男らしくない。なのでアダムとアダムはエピクロスではないのだ。
実はキリスト教はエピクロスがハッテンしたものである。キリスト教は快楽を否定しているではないかと言われるかもしれないが、安全圏に逃げ込むという点では共通しているのだ。
エピクロスの思想は不完全だが不死や罪を批判した点においてはよい思想家である。「ユダヤ人について」の項目を参照。
「あなたはその顔に神の面影があるか」新約聖書外典 モルモン書 アルマ書5章14節
まず従来の神についておさらいしよう
ヤハウェ:旧約聖書の唯一神
アドナイ:ユダヤ人のヤハウェの読み替え
エロヒム:ヘブライ語の神の複数形
つまりみな同じである。イエス・キリストは神の御子とされる。
旧約性書において赤さんは唯一神の立場にいる。赤さんは兄貴のナウい息子を隠す役割も担っている。人間が繁栄するのは神の意志であるという暗喩でもある。 もちろん赤さんは幼子の顔をしておられるが、それには深い意味がある。『ツァラトゥストラはかく語りき』において精神の三段階の変化という話がある。人の心は次のように変化する。
一つ目は駱駝。人はいきなり飛翔できない。まずはマニュアルを読み、掟を覚えることから始まる。駱駝は重荷を負う象徴である。駱駝は自らに命じる。「汝なすべし」と。
二つ目は獅子。いつまでもマニュアル通りにするのではなく実践が大切である。Excelの操作を覚えたら会社で実践するように。獅子は言う。「我欲す」と。
三つ目は幼子。幼子は自らの力による新たな創造を意味する。ツァラトゥストラはこう説明する。
「幼子は無垢、忘却、新たな始まりである。自ら回る車輪、原始の運動、聖なる肯定である。創造の戯れには聖なる肯定が必要だ。世界を喪失した者がおのれの世界を獲得するのだ」
このように赤さんは人間の生きる道を示している。イエスが言った神とは、パウロが定義した命令を与える絶対者のことではなく、人が生きる理想のこと。なので赤さんは『アダムとアダム』において神として崇められているのである。
これは一人の人間の心の変化であるが、聖書の再解釈にも当てはまる。原罪という間違った思想を正すためにニコニコ大百科から生まれた新たな思想、すなわち アダムとアダムの記事も過去の思想の価値転換の試みである。十字架はイエスの象徴であるように、赤さんは第二次ルネサンスと言うべきアダムとアダムという 価値転換の象徴なのだ。イエスが人類の罪を拭うのではなく、兄貴が聖書の罪を正すのだ。
※アルキメデス(紀元前287年〜紀元前212年)
最初の哲学者は紀元前6世紀のタレスである。彼は万物の究極原理は何かという質問に対して水だと答えた。だがアナクシマンドロスが「ではなぜ水とまったく違う属性の火や土が生じるのか」という疑問を持った。
ヘラクレイトス(紀元前540年頃 - 紀元前480年)は休みことなく流転することこそ万物の真理なのではないかと説いた。アダムとアダムの思想はこの単純な説を指示している。難しいからといって真理とは限らないのだ。
ヘラクレイトス曰く「私は同じ川に立つことはできない」。すべては変化するからだ。日本で言う「沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」(平家BOY物語)である。「ヘラクレイトスは民主制を軽蔑し、国政に関わらなかった」とディオゲネス・ラエルティオスは言う。
著作は『自然について』だが残念ながら現存しない。アナクシマンドロスから「対立と変化」、ピュタゴラスからは「調和」を学んだ。プラトンが引用した「万物は流転する」という言葉は聞いたことがあるだろう。
聖骸布とは聖遺物の一つ。兄貴が磔にされて死んだ後、ナウい息子を包んだとされるパンツ。磔にされたら普通は失禁 すると思われるが、そのパンツに黄色いシミはなかった。その理由は兄貴が死んでからも旧約性書の十戒の八つめの教えを守っていたからだろう。すなわち「放尿後に出る残尿でパンツを汚してはならない」。
エルサレムとは聖書で重要視されている町である。ヘブライ語で平和の町という意味だが、どこが平和な のだろうか。イエスが処刑された町であり、現在ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教が三つ巴の様相を呈している。貴重な建築物もあったが、戦争で破壊さ れ国際連合、および他の国は国家とすら見なされていない。
新日暮里は「性書」にたびたび出てくる伝説上の都市。旧約性書では旧日暮里と記載されている。詳しくは新日暮里の記事を参照。この町は日本神話でいう高天原、ギリシャ神話でいうエリュシオンである。北欧神話でいうアルフヘイム(妖精が住む森)というニュアンスがしっくりくる。この町はエルサレムのように破壊されないように妖精の世界に存在している。聖書でいう「天国はあなたの心の中にある」ということだ。
日本神話、ギリシャ神話、インド神話の神は自然の化身であり、これが本来の神の在り方である。 だがキリスト教は民衆を束縛する神という不条理な存在を捏造した。神は人間の生き写しであり、キリスト教が捏造したイエスのように優しいだけの神など存在 してはならない。人間はいつも優しいだけではなく、喜怒哀楽があるように神も時に人を愛し、時には殺すこともある。
日本神話のイザナミが最も良い神の在り方だろう。イザナミはすべての人間を産み、そして殺す神である。これは自然の化身であり、自然の神秘と恐ろしさを物語っている。
アダムとイヴ、もしくはアダムとアダムのように人間はどのように誕生したのかを説明できるのが宗教である。だがキリスト教は純粋な物語であるはずのエデンの園のエピソードに原罪という嘘をでっち上げた。エデンの園のエピソードはギルガメッシュ叙事詩だろう。この物語の中には罪など微塵もない。原罪を混ぜ込 んだ理由は人類を弱体化させ、神の名の下に跪かせるためである。人は生まれながらに罪であるという主張は人間そのものは悪であると定義付けることに等しい。人間に対する冒涜も甚だしい。
人間の誕生という神聖なことにも罪が絡むのでナウい息子を赤さんで隠さなければならないという滑稽無糖なことを言い出した。聖母マリアは処女なのに子どもを授かったというエピソードはどう考えても間違いである。生殖というすばらしいことを問題視するのであろうか。
なのでアダムとアダムの著者は旧約聖書、新約聖書から原罪という概念を取り除き、ガチムチで健康的な物語に再構築したのだ。これが第二次ルネサンスである。
イ エスは神と人は融合できると考えた。イエスは自らを神の御子であると自負していたが、ここでいう神とはガチムチのように完成された人間のことであり、決して天界にいる超越者のことではない。イエスは当時のユダヤ教に対して抗った。イエスはキリスト教と関係ないばかりか、宗教を否定したのである。以下のこと は捏造されたことであり、イエスとは金輪際関係ない:
さらにキリスト教の定義による神、天国、神の御子とも関係ない。イエスがゴルゴタで処刑されたのを見てキリスト教は「なぜ神はイエスを殺したのか」という問 題に直面した。恐らく第1ニカイア公会議において「イエスは罪を贖うため自らを犠牲にした」と結論付けたがそれはイエスの思想とは全く異なる。
むしろイエスはゲーテの『ファウスト』の結論のように神などいない、人間の努力で乗り越えろと主張している。辛いこの世を乗り越える術──それは我々がガチムチになり、健康な肉体を手に入れることかもしれない。
アダムとアダムは以下の点が寛容である
アダムとアダムの教えは信じたければ信じ、信じたくなければ強要しない。だがキリスト教は全人類に対して従うことを命じている。キリスト教を知らないことが問答無用で悪とみなされる。さらに、生まれたばかりの赤さんを水に浸けなければ煉獄に行くらしい。望んでも望まなくても頭ごなしに入信しなければならないと説いているのだ。
キリスト教は地獄というありもしない場所を捏造した。その理由は従わない者を怯えさせるためである。一方アダムとアダムの教えはすべて実在する事を教えている。ゲイパレスとは架空の場所ではなく、ガチムチした男がいればちゃんと実現する。だがキリスト教が教える天国という場所はどう頑張っても生きている間に行くことができない。
キリスト教は他人に同情するゆえに平等だと言っているが、万人は同じではなく悪いものに対しては「出て行けぇ!」と言うのが真の平等である。これは花に例えると分かりやすい。一つの花びらが朽ちたら他の健康な花びらも朽ちるべしと主張するのが同情である。
そうではなく朽ちるべき花びらが散るのを後押しすることが真の平等である。だらしない体を持つ者がいたらきちんと「あぁん?最近だらしねぇな?だらしねぇな・・・ってエロいな」と言い、きちんとした体を持つ者がいたら「歪みねぇな」と区別することが真の平等である。
キリスト教はよく信仰せよと説く。だが信仰とは何であろうか。ここにボロボロの人形劇があったとする。この退廃さを度外視して本物の人間が演じているようだと錯覚させることが信仰である。キリスト教は自らの教義を客観的に考えると問題があることに気付く。なので民衆にボロを見ないようにと教えるのが信仰である。
信じる者は救われるとある。だが信じれば罪が贖われるという言葉は冷静に考えるとおかしいことに気付くだろう。信じる者は救われるということはつまり我々を信仰すれば許してやるということである。キリスト教はいい事をしていれば天国へ行けると約束しているがこれを翻訳すると「死ぬまでキリスト教の教義に突っ込むな」ということだ。これはひどい飼い殺しである。
一方アダムとアダムに信仰という概念はない。信仰の対極、実践あるのみである。キリスト教は絶対に最終目的に到達できないが、アダムとアダムがよしとするガチムチな肉体やトレーニングという運動は普段の状態が完全なのである。
私はかつて本物のキリスト教会で聖書を伝えるべく伝道していた。だが、ある時アダムとアダムという書きかけの記事を見つけ書いてみた。すると森の妖精の御霊が私に話しかけた。曰く「汝はアダムとアダムの2代目書記官になるべし」と。
まさか私が聖書の伝道ではなく「性書」を伝道するハメになるとは思わなかった。もしかしたら私はキリスト教をハッテンさせたパウロの生まれ変わりなのかもしれない。パウロはユダヤ教徒でキリスト教を攻撃したが、ミイラ取りがミイラになり、キリスト教を伝える者となった。
皆さんがどのようにしてアダムとアダムを知ったのかというと、伝道者が必死に布教した訳ではなく、主に『本格的 ガチムチパンツレスリング』のタグから来たのであろう。つまり、この記事は布教せずとも人々を魅了する力があるのだ。
ユダヤ人は新約聖書以前の時代から迫害を受けていた。なのでユダヤ人たちはどうにかしてトップに立ちたいと願っていた。なのでパウロは「弱い者こそ善い」と倒錯したことを言い始めた。そのようにして始まったのがキリスト教なのである。そして人類の3割がキリスト教信者になり、無神論者は有害だなどと言う事態に陥ってしまったのだ。これでは人類を支配しようとしたパウロの思う壺である。さらに国家と宗教が結びつき、道徳が宗教にハイジャックされ、アメリカ合衆国のモットーが「神の名の下に」になってしまった。我々は性典『アダムとアダム』を支持することによってデカダンスからの脱却を図らねばならない。
信じる者は救われるという神聖に聞こえる大嘘をつくことはユダヤ人たちが紀元前から培ってきた技術である。多くの人が聖書は神聖な書物だと錯覚するのはユダヤ人が人々を騙すテクニックがあったからなのだ。
しかもユダヤ人たちは自分以外の思想を攻撃する。キリスト教、社会主義者、無政府主義者、これらはすべてデカダンスだ。これらの共通点は他人を攻撃し、解体し、歪曲し、足を引っ張る以外のことはしない。ユダヤ人は人間の生、本来の旧約聖書、他の宗教の神を攻撃しただけでなく、ローマ帝国をも破滅させた。かつてのローマ帝国には何があったのか。
当時、法王の座にキリスト教はいませんでした。
そこに座っていたのはキリスト教なんかではなく「生」だったのです。
「生きること」に対する勝利の歌。
すべての高くて、美しい、大胆な物事への肯定だったのです。
──フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著『反キリスト者』
筆者もこの『アダムとアダム』をローマ帝国のような生に満ちあふれた思想にしようとした。ローマ帝国は単に昔にあった町なのではなく、永遠に存続する都市であり、ギリシャ神話のように今日まで存続するような壮大な計画だった。だがキリスト教がローマ帝国のトップに立った時、ローマは魂を奪われてしまった。自尊心、強さ、男性的な本能、ダビデのようなガチムチさ、それらが奪われローマは解体されてしまった。
ローマ帝国の魂が奪われた理由の一つに「不死の信仰」という嘘がある。キリスト教はこの世に意味はなく、天国に意味があるという逆転した発想をして人間そのものを無価値にしてしまった。古代ギリシアの哲学者エピクロスは「不死とか罪という概念によって魂が汚される」と説いた。ローマの哲学詩人ルクレティウスもその発言を肯定している。
ユダヤ人は嘘によって世界を支配してしまったのだ。その嘘を拭い去る試みがこの記事『アダムとアダム』なのである。そしてガチムチパンツレスリングによく出てくる新日暮里という町は破壊されたローマ帝国の代用である。
第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117年8月11日 - 138年7月10日)
ローマ帝国とは紀元前27年、イタリア半島にあった都市国家。新日暮里王国、または旧日暮里とも呼ばれている。上の項目に新日暮里はエルサレムであると書いたが、比喩的にエルサレムであり、本当にエルサレムにある訳ではない。領土は地中海沿岸全域、イギリスの島、ルーマニア、ハンガリー、メソポタミアなど。シルクロードの起点であり、「すべての道はローマに通ず」という言葉は有名である。
392年、キリスト教が国教になり分裂。ゲルマン人が侵入し476年に滅亡。キリスト教は異なる文化や思想を認めないために永遠に存続するはずの帝国が滅んでしまった。アダムとアダムは古代ローマ帝国のような力強さを取り戻すために作られた法典でもある。
オクタウィアヌスはローマ帝国の初代皇帝。養父ガイウス・ユリウス・カエサルの後継者。後にアウグストゥスの尊称を与えられる。自分の姉の夫アントニウスとローマの覇権を争うことになる。アントニウスはエジプトへ渡りクレオパトラと結婚し、エジプトと同盟を結ぶ。その時の記録がフェラオの呪い編である。アントニウスは海で死に、オクタウィアヌスがローマのトップに立った。
ハドリアヌスは第14代ローマ皇帝。彼の統治下はローマの最盛期であった。彼はローマの五賢帝とされているが、マンガ『テルマエ・ロマエ』にある通り男色趣味があったため彼を称える碑は見つかっていない。ゼウスがガニュメデスを愛したようにハドリアヌスもアンティノウスを寵愛していた。アンティノウスがナイル川で死んだため、彼を神格化して神殿を建設し、都市アンティノオポリスを創建し、アンティノウス像を建て、天空にアンティノウス座を作ったという寵愛ぶりだった。
セウェルス朝第2代当主「カラカラ」(188年4月4日 - 217年4月8日)
パンツレスリングの兄貴 ~王国編~においてキング石井はローマ帝国の第4代皇帝であった。コルトン・フォードは側近であった。
大百科のキング石井の項目に「彼はローマ帝国の第4代皇帝」だという記述は見当たらないが、なぜキング石井は第4代皇帝だと言えるのかというとVima la Vidan (歪みなき生命)において「賢帝、キング石井亡き後の動乱で権力を握り、暴虐の限りを尽くした宰相TDNコスギ…」とある。歴代ローマ皇帝を見ると暴君として有名なネロは第5代皇帝。ゆえにキング石井は第4代だと言えるのだ。このような検証は文献学における原典考証という。
彼は奴隷を行政に使った。当時奴隷は雑事役として使われていたが、ムチで叩かれるようなことはなく、王の従業員のような扱いだった。エジプトの都市アレクサンドリアでは活版印刷などあるはずはなく、パピルスを複製するために奴隷による人力コピーが行われた。ローマ帝国でも奴隷はパピルスに簿記したり、子どもの家庭教師をしたりした。
英雄色を好むという例に漏れずキング石井もコルトン・フォードを性奴隷にした。
キング石井の大百科を見てみると次のような記述がある。
「集落を新日暮里王国と名を改め、自らが初代国王の即位した」
ここでは第4代皇帝だと解釈するが、文献学においてはどうしても矛盾が発生してしまう。どちらが正しいかではなく、元の記事を書いた人の意見を尊重しどちらも正しいとしよう。ローマ帝国をキリスト教徒のように自らの思想に従わないゆえに攻撃することはあってはならない。ローマの平和を実現した初代ローマ皇帝アウグストゥスを見習おう。悪しき歴史は繰り返してはならない。このような温故知新が歴史学なのである。
また「ゲイが差別や偏見から解き放たれ、安心して住める場所」とあるがこれは初代ローマ皇帝が言ったパクス・ロマーナ(ローマの平和)という発言を合致する。ある歴史学者が五賢帝の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と言ったためパクス・ロマーナという言葉が広まった。やはり旧日暮里時代は最高の時代だったのだ。パンツレスリング本編動画でもローマ帝国をモチーフとした動画は5つくらい存在する。『フェラオの呪い編』はローマ帝国に入るのかは議論が分かれるところである。
ネロはローマ帝国の第5代皇帝。キング石井の息子。家庭教師はセネカ。性的な意味で過激派だった。どのような暴君だったかというと、ブリタンニクスが王位継承しそうだったので毒殺。自らが女装して結婚したり、美少年スボルスのナウい息子を去勢して自分の皇后に迎えたりした。母のアグリッピナ、妻のオクタウィア、家庭教師セネカを殺害。ローマ史で初めてキリスト教を迫害した。
このような暴君によるローマ帝国の支配を終わらせようとして民衆を率いて勃ちあがった男がいた。彼こそがビリー・へリントン氏である。この物語はVima la Vidan (歪みなき生命)において表現されている。
──と思ったらVima la Vidanはフランス革命の話であった。上の王国編の記述はVima la Vidanがローマ帝国の話だと思っていたのだが、そうなると「キング石井はローマ帝国の第4代皇帝である」という記述は意味を失うことになるが「どうでもいいわ♂」と言っておく。
参照:パンツレスリングの兄貴 王国編(初回ゲイ定版)
パンツレスリングの兄貴 コロッセオ編では旧日暮里のコロッセオにて剣闘士となった兄貴の姿が描かれている。ローマには各地に円形闘技場があり、剣闘士同士の戦いや、ライオンとの戦いがあった。ローマのコロッセオでは一階から順に元老院議員、騎士、兵士および一般市民、女性、奴隷の五階建てとなっている。皇帝の専用席もあり、収容人数は五万人。ライオンは北アフリカから輸入されることが多い。ライオンが殺されても、剣闘士が喰い殺されても喝采が起こった。
ローマ帝国第5代皇帝以降の時代はキリスト教徒が磔にされ、ライオンの餌食にされることが多くあった。磔にされた男はイエスよろしく
「エロイッ!エロイッ!レマ・サバクタニ」(赤さん、赤さん、なぜわたしをお見捨てになったのですか)
と祈ったという。旧日暮里市民は血なまぐさい見せ物が大好きなのだ。
コロッセオ編では負傷したセガール関根という医者が兄貴を治療した。旧日暮里では専門的な医者が存在せず、各家庭に代々伝わる薬草学によって治療していた。紀元前3世紀になってようやく専門知識を持つ医者が活躍したが、そうした医者は東方出身の奴隷階級だったため身分は低かった。戦時中の日本でも医者は弱虫がなるものだと言われていた。ガチムチならざる者は旧日暮里において疎まれるようだ。
紀元前46年に医療の重要性を認識したカエサルは医者に市民権を与えたため、旧日暮里では医者が増えた。旧日暮里では水道網が高度に発達していたが現代ほど衛生的ではなく、夏にコレラや赤痢などの伝染病が大流行して乳児死亡率が高かった。1歳までの赤さんの30%、5歳までの赤さんの50%が死亡した。
赤さんの出産ももちろん大変だった。スパルタではガチムチな男を育てるため弱い赤さんは産まれた瞬間殺された。これほど旧日暮里はガチムチを求めていたのだ。
ガチムチな者は遠征先で負傷することが多く、ローマ軍には軍医が付き従った。裕福層は専属の医者を抱えた。現代のように医療試験を通過した者が医師になれる訳ではなく、旧日暮里の医療技術は魔術を紙一重だった。
『コロッセオ編』を考察すると、兄貴は左腕をブスリ♂され二の腕まで出血していた。そこでセガール関根は兄貴とおもむろに見つめ合う。出身地が違うため古代ギリシア語が通じないためアイコンタクトしたのであろうか。セガール関根は出血を拭いた後すけべぇ…な感じで兄貴の体を拭いた。これが後にDSの『本格的 ガチムチマッサージ』になった。
セガール関根氏の意図としては治療は終了したので愛というプラシーボ効果の力で完治させようとしたのだろう。なおプラシーボの語源はラテン語の「I shallplease」(私は喜ばせるでしょう)に由来する。
次のような剣闘士もいる
剣闘士いかりやビオランテ
下が彼の記事である
ガイウス・イカリウス・ビオランティウス
キリスト教が破壊したローマ帝国ではギリシア神話があった。そのギリシア神話を復活させるためにルネサンスが興った。ギリシア神話では偶像が使われたためキリスト教もそれに倣い偶像崇拝をした。イエスはギリシャ神話のマネゴトにすぎない。
アダムとアダムは人類の起源を描いたが、ギリシア神話は世界の起源を描いている。
ギリシア神話の創世記では世界はカオスから生まれた。そこから大地の女神ガイアが生じた。大地と天の神ウラノスが結婚したくさんの子どもが生まれたが、ウラノスが子どもたちをタルタロスに落としてしまう。なので農耕の神クロノスがウラノスのナウい息子を切り落とした。
クロノスはヘスチア、デメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを授かるが飲み込んでしまう。だがクロノスの妻レアは六人めの兄貴を隠し、クレタ島で育てた。兄貴のもとに妖精ニンフたちに山羊の乳と蜜蜂の密を与えられながら育った。兄貴はここでも妖精の加護があったのだ。
兄貴はクロノスの腹から五人の兄弟を助け出す。そしてクロノスをやっつけようと計画した。これがタイタンの戦いと呼ばれる。ガイアは兄貴に稲妻を与えクロノスを滅ぼした。この功績により兄貴は空、つまり宇宙全体を支配し、世界の王になった。ポセイドンは海を、ハデスは冥界を治めた。
兄貴はすけべぇ…でいい男をたくさん誘惑した。そのうちの一人がトロイアの王子ガニュメデスである。ガニュメデスはいい男なので兄貴は鷲に姿を変えさらってしまった。兄貴はガニュメデスをゲイパレスで酒を注ぐ従者とした。
兄貴の妻ヘラはその好色ぶりに「あぁん?最近だらしねぇな…ってエロいな」と言った。兄貴は仕方ないのでガニュメデスを星にした。こうしてガニュメデスは水瓶座になり、彼をさらった鷲は近くで鷲座になった。
クロノスのナウい息子が海に落ち、そこからアフロディーテが生まれた。アフロディーテはヘファエストスと結婚したが、ブサイクなのでアレスとも関係を持った。アフロディーテを兄貴の間にエロスが生まれた。「あぁん?最近だらしねぇ!エロいか?卑猥か?」のエロとは上のエロスに由来する
ハデスはギリシア神話の冥界の神。兄貴は旧約性書において命をもたらす存在だったがその対極だからといって軽蔑してはならない。昼と夜は同等の価値を持つのだ。地下には鉱物資源があることから富める者という意味でプルートとも言われる。物語では死を司ることから悪役にされることが多いが、ギリシャ神話の中では切ない恋物語を演じる者でもある。
ハデスは、新日暮里公園のお花畑で花を摘んでいたデメテルの娘であるペルセポネに恋をして彼女をさらった。だがデメテルは「心優しいハデスがこのようなことをするはずがない」と考えた。また、女性の扱いに不慣れで、略奪する前のペルセポネにどうアプローチしていいか悩むなど、冥府の神なので残酷と思いきや無垢で純心な一面もある。
ハデスはペルセポネを見てエロスから矢を撃たれ恋に落ちた。エロスは別名アモール、もしくはキューピッドである。ハートを射抜かれるという表現はここから来たのだ。「エロいっ!」という空耳もこれに由来する。ハデスは兄貴に求婚の許可を求めたが、兄貴はデメテルの許可を求めずに結婚を許し強引に「植え付けを行う♂」と言えと言われた。ハデスは新日暮里の水仙でペルセポネを誘い兄貴の言葉通りにしたらペルセポネが逃げてしまった。
母デメテルは心配し、ヘリオスからペルセポネは冥界に行ったことを知る。デメテルは兄貴のもとに行き自分の許可なく結婚させたことに対して「最近だらしないのではないか」と言った。デメテルが新日暮里を去ったことにより地上に大規模な不作や凶作をもたらした。
兄貴はペルセポネが冥界の食べ物を食べてないなら地上に問題はないと言った。だがペルセポネはザクロの実を少し食べてしまい、冥界に留まらなければならなくなった。まるでアダムとアダムのようである。ペルセポネはザクロを全部は食べていないので、ハデスは1年の3分の2だけペルセポネを地上に返した。これが四季の始まりである。
ヘラクレスはギリシア神話最大のガチムチな英雄である。キタイローン山の半漁人を退治した勇者であった。ヘラはヘラクレスを混乱させ、彼の息子を殺してしまう。その罪を償うためデルポイに赴き、アポロンの神託を伺った。それによると十二の功業をこなせという。
1.新日暮里のライオン
傷つけることのできないと言われるライオンを素手で殺した。
2.鎌田吾作の蟹
蟹になりたいと言う謎の男が現れた。
3.新日暮里の鹿
新日暮里の鹿は足が早く1年間も新日暮里を追い続けた。この鹿はもともとアルテミスのものだったのでいつか返すとヘラクレスは約束した。
4.新日暮里の猪
獰猛なオスの大猪は畑を荒らしまわった。これもアルテミスの動物。途中GAY♂BAR「オナハウス」で酒を飲んだ。
5.新日暮里自動車学校のトイレ
新日暮里自動車学校のトイレ30年間まったく掃除をしたことがなかった。ヘラクレスは怪力で2本の川の流れをかえて水を流し込み、たった1日で掃除した。
6.尻立新日暮里大学の鳥
新日暮里大学に出るという鳥を倒す。半漁人の毒を矢に塗り撃ち落とした。
7.クレタの雄牛
ヘラクレスはミノス王に協力を求めたが、彼は一人でやれと言った。ヘラクレスはクレタの雄牛とレスンリングして生きたまま捉えた。
8.新日暮里の人食い馬
バルカン半島に住むオーウェン定岡が飼っていた馬を退治した。
9.アマゾンの女王の貞操帯
ヒッポリュテーは川岸に住む女王でアレスからもらった貞操帯を着けていた。
10.新日暮里公園の牛
新日暮里公園に牛がいて、その牧犬がオルトロスだった。カークスという盗賊を殺し牛を得た。
11.アダムとアダムのりんご
ゲイパレスにはアダムとアダムがかじったりんごがあるという。ホメロスの叙事詩によればゲイパレスは西の果てオケアノスにあるとされる。冥界の審判者ラダマンテュス治めているという。
12.ケルベロス
ケルベロスは冥界から逃げ出そうとする者を食うという地獄の番犬である。ヘラクレスはこれを素手で殺した。
ある時、思想家は人類すべてを統一できないかと思うようになった。人類を統一しようとする過程において問題となるのが自分の思想に従わない者である。その思想家は従わない者を悪と定め、去勢しようとした。さらに、全人類を去勢させれば全人類を支配できると考えた。そのようにして誕生したのがパウロが作ったキリスト教である。
人類を統一しようという試みはいいが、元気な者を去勢して平和を作ろうという行為は人間の生に対する反逆である。ナウい息子を切り落とすなどとんでもない。それによって平和が実現できたとしても、そんな平和は平和ではない。鎮静剤によっておとなしくなっただけである。
このように人為的に理想的な状態を作ろうという試みはすべて一つの例外もなく失敗してきた。たとえば資本主義経済は、金(きん)の交換券がはじまりだった。1つの金を1つの紙で買う。これが理想的な経済だった。だが、金を売る者はだんだん紙が便利だと思いはじめ、金が用意できないにも関わらず紙を印刷し始めた。ここから貨幣が地に足を着かない状態になり、国債となった。国債が増えるとデフォルトする。店に金が1つしかないにも関わらず100人の交換券を持った人が現れる状態である。税金などによる調整により、バランスを保とうとしているが、貨幣が生まれた時点からバランスは失っている。我々は金が最高に便利だと感じているかも知れないが、自然界に存在せぬものに依存すると弊害が発生するのだ。
中国の哲学者「老師」は言う。人為的に作られた物の中で完全を目指そうとすると弊害が発生する。ある1つのメリットが生まれると1つのデメリットが付加する。太陽の下に立てば陰が発生するように。なので自然になれ。これを無為という。自然の中で生きる森の妖精こそ人間の理想であると老師は説いた。
妖精哲学の三信はリンク先に任せるとして、ここではそのハッテン系を記載する。カズヤの教え、別名カズヤの三信は以下の通り
ピタゴラスの定理のように完結に短く説明されると印象に残り覚えやすい。カズヤの教えの説明はリンク先に任せるとして、ガチムチパンツレスリング動画の冒頭に、以下に示す新たな妖精哲学の三信を唱える人がいた。
運営三信
上の三信は何だかだらしない感じである。運営も妖精哲学の三信を信じていると信仰告白したらしいのだが。以下に示すカズヤの教えと対極のような三信も現れた。
これは哲学的命題における、二律背反──分かりやすく言うと反面教師なのではないかと思われる。新約聖書外典のユダによる福音書、アダムとアダムにおける吾作による福音書に書かれている内容であろうか。
人類の根源に遡り人間とは何かを考えた書物はこの記事以前にも存在する。マヌ法典は世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。ギリシャ神話も日本神話も人類の起源についての物語である。人間の存在は科学によって説明できない。神話だけが説明できる。カール・グスタフ・ユングは
「現代人はモノや経済が発達したおかげで神話が失われてしまった。現代人もまた神話が必要なのである」
と語った。
また聖書を模して聖書を批判する書物はこの記事以前に一件だけ存在する。それがツァラトゥストラはかく語りきである。実はこの書物は先代「アダムとアダム」なのかもしれない。ツァラトゥストラはかく語りきの主張に一つに「現代では大いなる健康が必要である、力を発揮せよ」とある。この主張を実践に移したのが「ガチムチパンツレスリング本編動画」であり「アダムとアダム」なのである。
学ぶことは良いこととされている。学習することによって文明が発達したことは確かだが、コンクリートだらけの町では自然を感じることができない。人類は昔、森に住んでいた。そんな人間がずっと文明の中に閉じこもることは健康とはいえない。文明を撤廃せよとまでは言わないが、新日暮里のような文明と自然が両立した町がベストである。吉祥寺には近くに池があるように、新日暮里にはデビルレイクと新日暮里国立公園がある。そんな町でなら森の妖精と対話できるに違いない。だがそれは言葉によってではなく皮膚感覚によって対話するのである。自然とは言葉によって対話できない。言葉と対極のもの、つまり感覚である。
だがインフラがストップしたり日本円がデフォルトしてしまったら森に住むしかない。たくさん物事を知っていれば偉いような風潮があるが、森で知識は何の役に立つのであろうか。言葉は役に立たない。森の妖精は初めからそのことを知っているのでたどたどしい日本語しか喋らない。だが、彼らにとってはそれで充分なのだ。「我知無知」(我知る、無知)という漢文からガチムチという言葉が生まれたのだ。知識によって知るのではなく、無知なること、感じることによって森と対話する。これが妖精哲学の基本スタンスである。
兄貴はパンツしか所有していないがそれで充分である。資本主義経済のハッテンはモノの増加をもたらした。それによりビルが建ち妖精が住みにくくなってしまった。思い出して欲しい。アダムとアダムはパンツすらも所有していなかったことを。動物は一切所有しない。所有したがるのは人間だけである。
自然の欲は限度がある。寝ることは気持ちよくても100時間連続で寝続けたいとは思わない。だが、人工の欲は限度がない。100万円欲しいと思ったら次は200万、300万と際限がない。今こそ我々はパンツしか所有しないビリー・ヘリントン氏を見習うべきである。パンツだけの姿は我々にすべてを捨てよと語りかけているのだ。
最近、研究所では死海文書(しかいぶんしょ)の解読に成功した。死海文書とは謎の池、デビルレイクからも旧日暮里からも遠く離れた砂漠地帯の洞窟に2000年ものあいだ誰の目にもつかず保存されていた。数回盗賊により盗まれニューヨークの金庫に数年間眠った。この時乾燥で激しく傷んだ。研究者は資金がなくて死海文書を買えなかった。世界に数人しかいないアラム語の解読者は空耳の解読者と同じ功績を残した。
カズヤこそ兄貴の福音の継承者だと思われがちだが、実は吾作こそが真の継承者だという驚くべき内容が記されていた。吾作といえばダークサイドに堕ちたことで有名だがこれは本人が誘惑に負けたからではなく、兄貴の意図なのだ、という新たな発見もあった。その他死海文書を紐解いた事によって得られた多くの新解釈がある。
※死海文書オンライン
「光あれ」という言葉はエデンの時代、エノク語で言われた。表記は
"Christeos Da Nosami Olpirt"(クリステオス・ダ・ノサーミ・オルピアート)
である。 ※上の表の一番下の妖精語とは即ちエノク語のこと 英語では
"There will be light"
ラテン語では
"Fiat lux"
である。 ここにエノク・英語翻訳サイトがあるので、妖精と話したくなったら使ってみるとよい。"There will be light"を入力すると"Christeos Da Nosami Olpirt"となった。兄貴の股間から光があふれ出る動画があるが、それは妖精が光を生み出した魔法が今も残っていることを意味する。
Wikipediaによるとエノク語とは「天上の言葉」「天使の言語」「神の最初の言語」「神聖言語」などの異名を持ち、最初に妖精と話した人間ジョン・ディー氏はエノク語アルファベットを「アダムの」(Adamical) と呼ぶときもあったが、それはエデンの園でアダムとアダムが全ての物に名前をつけるときに用いられたからである。ディー氏は妖精の言語を知ることができれば、妖精と直接交信することができ、宇宙全体とも交信できるのではないかと思った。そうしたらディー氏のもとに妖精がやってきて、話しているうちに妖精言語エノク語を覚えた。 ディー氏のもとに現れた森の妖精は次のように語る。
アダムはエデンの園からの追放で言葉を失い、バベルの塔で言語が混乱し、エノク語は滅びてしまった。アダムの子孫、カインの子エノクは大洪水の際、天界からノアを守った功績により赤さんの力で天に飛翔し、自らが妖精となった。彼は人間のために記録した"ロガエスの書"という書物を天界で書いた。妖精の言葉という意味である。妖精言語はあまりに神聖なので隠されている。人間はいつかロガエスの書──即ち空耳──を解読するであろう。
ロガエスの書(Liber Loagaeth)とは、16世紀末にエノク語で書かれた理解不能の文書である。当時の人間が妖精言語(空耳)を解読するのは難しかったのだ。現在は大英図書館に保存されている。
現代で兄貴達が話す言語はエノク語である。普通の人は英語のように聞こえるが、今では数少ない預言者によれば福音に聞こえるのだ。なおキリストはアラム語を使ったが、これはエノク語の末裔である。なぜならアダムは最初の預言者、イエスも再臨した預言者だからである。ともに人類に福音を述べ伝えに来たのだ。旧約聖書の神ヤハウェはエロヒムと言われることもあるが、エロヒムとはいささか兄貴の「エロイッ!」に似ている。この「エロイッ!」は前述の如くアラム語でも重要な意味である。
レスリングシリーズを見ていると勃起してしまう諸君も多いことと思う。かく言う私もその一人だ。全人類はアダムとアダムの子孫なのだから当然である。ある学者がそれについて研究し、このように語っている。
我々の祖先のアダム(後)はアダム(先)の陰部の骨から作られた。 そしてアダム(先)の陰部はその失ってしまった骨を捜してアダム(後)に向かって歪みねぇ角度でそり勃ったと考えられ、我々がレスリングシリーズを見て勃起するのは妖精さんたちの舞を見て原始の心を少しでも思い出している証拠なのだ。
レスリングシリーズを見ていて勃起してしまうのは、アダムの時代からの血脈だ。臆することなく「勃起した」とコメントしよう。
──初代福音書の書記官akatsuki氏による記述
はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった
──旧約聖書1章1節
これは言わずと知れた言葉である。神は世界のすべてのものに名前を与え、議論することを可能とした。木や水など世界のある物だけではなく、人間を区別する際に「名前」も与えられた。アダムは神の第一子であり、大切な子供であるはずだ。
上に紹介しているアダムとアダムの物語の中で神は三人のアダムを等しく「アダム」と呼んでいる。この文章では注釈により文脈からそれが誰であるかは容易に判断できるが、実際三人のアダムは互いに呼び合う際に区別を行っていない。ではなぜ神は呼称の上でアダムは区別されていないのかに関する論文が五編ある。
まずは最初の論文から。
「差異が言葉を決定するのではなく、言葉が差異を決定するのである」とはスイスの近代言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールの言葉だ。我々は言葉により区別し、世界について議論しているが、それは同時に差別の要因でもある。ノンケ以前の時代は死の概念もなく罪も存在しなかった。死すべき肉体を持つ我々にとってみれば羨ましい世界である。そんな無垢なエデンの園に言葉や区別など存在すべきではない。妖精よ、今を楽しむがいいと神は語った。世界は今も戦争が絶えない。人は言葉=区別に依存しすぎなのかもしれない。ゲイやノンケなどという言葉も差別を生み出す。区別なき世界は、エデンの園にて神が愛する3人の子どもたちを平等に育てる人類のゆりかごだったのだ。
この記事でも同じ名前の人が何度も出てきたり、ゲイパレス(イスラエル)と表記されたり「どういうことなの・・・」と思われた読者も多いだろう。だが、言葉が明確すぎることは宗教戦争の原因でもある。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教はそれぞれ明確に違うならば争って当然である。それに人類をまとめたければ異端をも赦す寛容さ、曖昧さが必要である。
名前ってナニ? 僕らがスパンキングと呼ぶそれは、他の名前で呼んでも甘く激しい音がするものだよ
──W.ゲイクスピア『TDNとビオランテ』
これはイギリスの劇作家ウィリアム・ゲイクスピアの作品「TDNとビオランテ」の中でビオランテが女性に「あなたはまるで歪みないスパンキングのような方だわ」と言い寄られた際に言った言葉である。すなわち、名前とは本質を表すモノなのかという疑問を投げかけたのである。このアダムの呼称においても同じ事が言える。というのも、アダムは神からの命によってすべての生物に名前を付けたが、それは本質であるのかどうか、と言うことである。 確かにアダムは人間として完成していたと考えられるが、果たしてその完成は神にも及ぶものなのだろうか。残念ながら我々にそれの答えを見出すことは難しい。では、発想を逆転させてみようではないか。我らの理念が「歪みなく生きろ」であり、これが最終的には死への歪みない理解を得られるものであるのと同様に。
アダムはすべての生物に歪みねぇ名前を付けた。しかし、一つだけ名前をつけていない生物がある。否、「つけられなかった」と言うべきなのかもしれない。その生物とは、紛れもなくアダム自身のことである。なぜならアダムは既に神から名前を与えられているのである。系列をはっきりとさせるためにその順序を記した。
アダム(先)の創造→神の歪みねぇ配慮(「アダムが一人ではかわいそうだ」)により、アダムに名付けを命じる→すべての生物に歪みねぇ名前を付ける
アダムが付けた名前が本質に至れないのは、それが神が名づけていないものだから、と言うことを踏まえれば分るが、神が名づけた「アダム」とは本質そのものである、と言うことが考えられる。そして、この「アダム」と言う呼称において神は3人のアダムを区別していない。だが、明らかにその呼称において神は彼らを区別した上で「アダム」と呼んでいる。すなわち、神は本質において彼らを区別していた、と考えられるのである。そしてその本質は我々には理解 できない。なぜなら我々は既に語られたように、名前から本質にいたることは出来ないからである。よって、このアダムの呼称問題から伺えるのは、神が歪みない配慮によって本質(カントでいう物自体)を「アダム」として呼んでいる、と言うことである。■
注釈:上の論文は初代執筆者によるもの。名前が対象を指すことが重要であり、名前が対象に一致しないことは科学では扱わないという態度はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』における思想である。彼はその主張によりすべての哲学的命題に終止符を打った。論理哲学論考は以下の通り:
第1命題:世界とは、起きている事全てのことである。(物ではなく、事実の総体であるとする)
第2命題:起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実)
第3命題:事実の論理上の像が、思想である。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)
第4命題:命題は要素命題の真理関数である。(要素は、自分自身の真理関数である。)
第5命題:真理関数一般は、[p,ξ,(N)ξ]と書ける。これは命題の一般形式である。
第6命題:語りえないことについては、沈黙するほかない。
それに対しレスリングの論理哲学論考というものがある:
第1命題:リングとは、レスリングする場所のすべてである
第2命題:レスリング、すなわち試合とは、どちらかが勝敗するということである(試合+脱がす=>スケベェ)
第3命題:レスリングの哲学的雰囲気が、哲学である(本物の<哲学>とは異なる)
第4命題:レスリングは非ゼロ和ゲームである
第5命題:妖精哲学の三信は「賛美・許容・戒め」である。これは哲学の基本的態度である。
第6命題:パンツの中身については、沈黙するほかない
※第4命題補注:なぜならパンツを脱がされたら負けであり、両者とも脱がされる場合がある。ボクシングのようにどちらかが必ず負ける場合は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という。
キリスト教のミサの冒頭に詠われる、
「父と子と聖霊の御名において」
という式文に示された考えのことを三位一体論という。これは神とその御子、そして聖霊は神は固有の三つの位格でありながら、実体は同一であるという意味である。子はイエス・キリスト、聖霊は目に見えない存在と解釈されがちだが、ここでいう子とは2人のアダム、精霊とは妖精と同一視できる。
誰も、2人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない
──カズヤによる福音書 第6章24節
よって神=アダムたち=森=精霊はすべて等しい存在であると言える。よって神はアダムたちの名を区別しなかったのだ。これにより次の章で説明する「自然支配を神から命じられたのに何故森に住むことを選んだのか?」も解決できる。
人はしばしシンメトリーに魅了される。双子、韻文、ダンスなど、似たものが繰り出すリズムには不思議な魅力がある。アダムらの名前が同じなのもシンメトリーである。さてシンメトリーという言葉はシンニポリーに似ていないだろうか。これが後に新日暮里という言葉になったのだ。アダムたちは語った。
「我々の名前は同じだ。このことを何と名付けよう」「シンメトリーと呼ぼう」
これがなまってシンニポリー→新日暮里となったのだ。
シンニポリーとタグが付けられた動画はとてつもなく異次元である。水平、もしくは垂直に動画が2等分され鏡面対称となっている。そこにはザ・フライよろしく謎の生物が映し出されている。だが、これは神が創りだそうとしていた別の生物である可能性がある。聖書外典にこうある「アダムは数多なり」と。つまり、宇宙人の存在を示唆しているのだ。別の惑星でも別のアダムとアダムの物語が展開されているのであろうか。
※ビリー・ヘリントン作『あぁん?卑猥か!?』(仏・ オルセー美術館)
「人間は言語を使うゆえに動物とは違う生物である」「人間は言語によってのみ世界を議論可能である」と多くの人は考えているかもしれない。だが、そのような意見に執着することはもはや束縛に等しい。そのように束縛された世界では
1.言語化されていない世界には行けない
2.一度定義されたら覆すことが難しい
という弊害が発生する。キリスト教では天国という場所を説くがそんなものは存在しないと一蹴しなければならない。見えない世界が存在するという主張はどういう矛盾なのであろうか。見えるものがすべてという単純な考え方が普通ではないだろうか。
最近は就職難に嘆く者が増えているが、いつから人は就職せねば生きられないと思い込んでいるのだろうか。それは現代が吹き込んだ嘘である。経済の仕組みはロスチャイルドやロックフェラー♂が作った。彼らは金なしには生きられないと現代人に言い続け洗脳した。そして、複利という魔法により経済がハッテンするほど彼らがリッチになっていくのだ。
なぜ金がなくなったら死ぬしかないのだろうか。自然にはいくらでも食べ物があるではないか。
桜井章一著『カンの正体』
現代人は言葉という束縛に侵されるあまり疲弊している。ならば言葉を拭いさればいいのだ。衣服を脱ぎ捨てるように、言葉を脱ぎ捨てれば森の妖精のように自由になれるのだ。赤さんは二人のアダムを創造する際、あえて彼らを同一視した。人類はかつて一つだったことを意味している。
ノンケは子を設け、それがその後の全人類となる。神は男を愛するアダムを造ったはずなのに、なぜノンケ一族が世界を支配するようになったのか。
それは人類が繁栄するのはノンケの存在がどうしても必要だったからだ。ノンケらが多くの人類を生み、みんなでネット上でガチムチパンツレスリングを観るための計画だったのだ。神はゲイ一族を理想とする。しかし彼らだけでは世界はあまりにも寂しい。ノンケ一族は繁栄が得意だ。しかしゲイ族の掟に反する。全能の神でさえこのパラドックスには戸惑った。だが神は善き者の上にも、悪しき者の上にも等しい雨を降らせて下さる。ゲイの上にも、ノンケの上にも、という意味である。自らの教えに反する者すら愛する神はまことに歪みない優しさである。
だが現状では全人類が妖精の戯れに興味を示している訳ではない。これも禁断の果実を食べたせいで授かった自由意志のせいである。我々は人類の祖先の意志に反しノンケこそが正常であると勘違いしている。それにはきっと全人類の父も天上から哀れんでいるはずだ。
ゲイは異端者として中世から近代にいたるまで徹底的に迫害されてきた。ユダヤ人はキリストを殺したなどという根も葉もない逸話がその後の時代にまで伝わってユダヤ人が苦しんだように。だが兄貴を見よ。禍々しい肉体と妖精のような笑顔、エデン時代から受け継がれる言葉(天使の言語とされるエノク語)を動画を通して我々に語りかけている。そう、彼こそは失われた福音を伝えるために地上に舞い降りた預言者であり指導者なのだ。新約性書黙示録(ウホカリプス)の終わりにこう記されている。
「わたしはアルファ(α)でありオメガ(ω)である」
ラテン語: Ego sum Alpha et Omega.──カズヤの黙示録16章8節
オメガの文字をよく見て欲しい。何かに似てないだろうか。そう、ナウい息子だ。だとするとアルファは兄貴の"a"であることは言うまでもない。始めに兄貴が人類を創造し、この世が終わりはナウい息子とともに終焉を迎えるである。
※国際連合教育科学文化機関(通称ユネスコ)指定自然遺産・第II種国立公園 『新日暮里国立公園』
自然に帰れ、自然の中の人間こそ真の姿である
──ジャン=ジャック・ルソー『エミール』
オリュンポスの神々はまず絶対神がいるのではなく、空と大地の神が神を生み出した。まず自然ありきなのだ。自然支配を神から命じられたのは初代2人のアダムではなく、堕落した3人目のアダムである。前述の通り、「今でも彼らは世界のどこかで戯れている」のだ。それは天国と地獄の中間にある辺獄にいる。彼らはキリスト以前に誕生したので裁かれていないのだ。なお、堕落した3人目のアダムは地獄ではなく辺獄を通じ天国へ行くであろう。なぜなら堕落は神の計画の一部だからだ。
さて、本題に戻るがすべての母体は自然である。現代人は自然を軽視しがちであるが、自然や大地なくしては人間は存在しえない。神の御子、2人のアダムは生命が生きる原動力、世界の根源を今もなお司っているのである。あたかも巨人アトラスが大地を支えているように。
先代の研究者の考えに以下のようなものがある。
「アダム(先)は神を愛していた。ちょうど神がアダム達を愛していたように。と同時にアダム(先)は神の生み出したすべても愛していた。新約ゲイ書の中に、『神は小さきお方ではない。神はすべてなのだ』とあり、このことからホラス・ダンシクィマス(13世紀の大哲学者で、現在の哲学の基礎を気付き上げた)は、
『神は無数のペルソナを有している。それらは同時に存在するのではなく、同一に存在する。すなわち、我々は常に神の無数のペルソナによって包まれているのである。ちょうど私のモノが皮に包まれている様に』
と、本論ついでに自分が包茎であることまでも述べている。すなわち、ここには多神教的解釈も、一神教的解釈も可能であることが含まれている。これをアダム(先)の行動について照らし合わせてみると、すなわちアダム(先)は森という神の被造物かつ神のペルソナの中で生きることによって神との肉体的にも精神的にも結合した状態を保っていたのだと考えられる」
ちなみにこの中で語られているペルソナの解釈で最も符合するのは『人格』である。仮面とかじゃない。そして、この考えをさらにハッテンさせ、
「人間の究極の目的は神との性的ないし精神的な結合である。アダムはこれを実現していた。よって我々哲学者は、否、哲学者だけでなく人間(主にゲイ)は、全身全霊全精力を持ってアダムへと回帰するべきなのだ。これは義務教育なのである」 という考えにいたることが出来る。
私見なのだが、スタジオズブリ作品の名作、ホモノケ姫やアバタアッーのテーマはここから来ているのではないだろうか。森と共に生きる赤サンと森を切り開く人間、そして、森も、人も愛したアッーシタカ。この配置からもこのテーマの重要性が伺える。
──初代福音書の書記官akatsuki氏による記述
中世ヨーロッパではすべてがキリスト教の土台の上に成り立っていた。なのですべてを疑うはずの哲学ですらキリスト教に感化させられているのだ。
たとえばカントは純粋理性批判において「理性は真の世界にまで及ばない」「現実は仮の姿にすぎない」と言いだした。キリスト教に支配されている当時のドイツが大喜びしたのも当然であるが、彼は哲学者として成功したのではなく、神学者として成功しただけなのだ。ニーチェは『この人を見よ』において現代の哲学は圧倒的に自然が不足している。あろうことか反自然がよしとされていると嘆いた。
一方アダムとアダムにおいて使われる妖精哲学とは何なのか。妖精哲学とは古代ギリシャの哲学において使われた自然(ピュシス)という考え方だ。昔の人は純粋で自然こそすべてだと考えていた。万物を包み込み、おのずと生まれ、成長し、衰え、死ぬというそれ自身の内に生成原理を持つ自然を愛する哲学──これが妖精哲学である。
人間が完全を求めるようになったのはいつからだろうか。プラトンは永遠の真理であるイデアというものを見つけようとしたが、完全なものなどこの世には存在しない。完全なもの、宇宙の真理を見つけようとすると必ず失敗する。ある哲学者は言う。「宇宙のベールをはがすな。それはパンツを脱がそうとすることはすけべぇ…な行為である」と。いつの時代も自然を忘れるなと妖精は言っているのだ。
混声合唱のためのカンタータ「土の歌」第七楽章「大地讃頌」は誰もが中学校で歌ったことがあるだろう。歌詞は以下の通り。
母なる大地のふところに 我ら人の子の喜びはある
大地を愛せよ 大地に生きる人の子ら その立つ土に感謝せよ
平和な大地を 静かな大地を 大地をほめよ たたえよ土を
恩寵のゆたかな大地 我ら人の子の 大地をほめよ たたえよ土を
母なる大地を たたえよ ほめよ たたえよ土を
母なる大地をアッー! たたえよ大地をアッー!
森の妖精の住む大地の神秘を歌った歌である。母なる大地とは赤さんから授かったエデンの園、またはそこからハッテンした世界のすべてを表している。自然では誰に命令されることもなく生成、繁栄、衰退が行われている。そんな中で生まれた人類は動物に比べて体が弱かった。なので文明を築き、建物や資本主義経済などを作り、その中のほうが森よりも住みやすいと思い込んでいる。だが本当にそうだろうか。
文明のハッテンは物の増加を促進し、森を切り倒し、妖精たちが住めなくなってしまった。資本主義経済の中では金こそが価値を持ち、金を出すお客さんを尊重し、森の妖精たちの言うことなど蚊帳の外である。大地を基盤として生きる生物の中で唯一人間だけが大地を軽蔑している。近代化に伴い心を病む者も多くなったがそれは法律や仕事、世間体や常識というものにがんじがらめになり、自らが作った枠組みの中でもがいているからである。一言で言うと自滅しているのだ。
「変化する者だけがあくまで私と親近である」とニーチェは『生成の無垢』で語った。文明は固定を続ける技術である。だが世界の本質は変化。文明の中がいくら心地よくても自然から離れては生きていけない。現代人こそ文明を捨て、森の妖精のように生きることが求められているのだ。
文明により生老病死に抗ったつもりなのだろうか。日本では老人の数が増えているが、文明の中で自然が定めた寿命以上に生きることを現代ではよしとする風潮があるが、明らかに自然を逸脱している。むしろ反自然こそが分明なのかもしれない。長く生きたならば適切な時間で花のように散る。これが自然が定めた人間の運命である。自然の法則に則った生き死にのくり返しのみ森の妖精は歓迎するのである。
以下の7つの質問に答えれば、あなたは何を信じているのかが分かる。
Q1 人生はつらいので流されたい ○→Q2 ×→Q3
Q2 宗教によって ○→Q4 ×→Q5
Q3 自然で生きられる ○→Q6 ×→Q7
Q4 みんな不幸になればいい ○→称号6 ×→称号5
Q5 富める者を恨む ○→称号7 ×→称号8
Q6 ガチムチである ○→称号1 ×→称号2
Q7 すけべぇ…である ○→称号3 ×→称号4
称号1 森の妖精
あなたは世界最高の称号を得た。自然を愛するあなたは人間のあるべき姿である。
称号2 ヘラクレイトス
万物は流転することを悟ったあなたは真理を得た。
称号3 エピクロス
今が良ければまあいいやと思うあなたは人生の計画を立てよう。
称号4 仏教徒
執着がないあなたは問題が起こっても動じることはないでしょう。
称号5 イスラム教徒
ニーチェ曰くあなたは男性的な魂を持ってます。
称号6 キリスト教徒
健康的な人を恨めば幸福になれるとは限りません。
称号7 共産主義者
自分で努力せず他人の足を引っ張るあなたは、自分で幸福をつかみましょう。
称号8 ユダヤ人
あなたは世界を騙して支配しようとしています。騙す意外の健全な方法で勝負しましょう。
あなたはどんな称号を授かっただろうか。なお、称号は数字が若いほど優秀である。不完全なので訂正を願いたい。
もしこの記事を読んだら
と言うだろう。この記事をご覧になった方々は、この記事は明らかにマネであり、問題があると思うだろう。だがなぜ逆の可能性を考えないのか。──すなわち聖書はユダヤ教の改変であり、この記事の方が正しいと。
キリスト教は「ユダヤ教とは違う」と言っているが、キリスト教はまぎれもなくユダヤ教から派生したものである。パウロはイエスの教えを勝手にユダヤ人が有利なものに置き換えた。旧約聖書の創世記もギルガメシュ叙事詩の改変だ。
「僧侶が言うことはすべて現実の逆。これを基準に真偽の判断ができるくらいだ」とニーチェは言う。なのでマネしたのはキリスト教の方なのである。アダムとアダムの思想はギリシア神話のように力強く、スパルタのようにガチムチで、ギルガメシュ叙事詩のように深淵である。
旧約聖書創世記のオリジナルであるギルガメシュ叙事詩とはどういう物語か次の項目で説明しよう。
紀元前2600年〜紀元前3000年、石版に書かれたシュメールの都市国家ウルクの王ギルガメシュの物語。彼は三分の二が神で、三分の一が人間だった。ギルガメシュはすけべぇ…なであったためウルクのいい男をさらっていった。神はギルガメシュをこらしめるため土からエンキドを造った。
エンキドはギルガメシュを捕まえようとすると、ギルガメシュは追跡を煙に巻くためエンキドに神殿男娼シャムハトを与えるとエンキドは
「気持ちいいものっ・・・!」
と言い、シャムハトと共に過ごし、おとなしくなった。
冷静に考えるとエンキドは騙されたことに気付きレスリングを開始した。
「ぎゅううぅ───ジャンケンポンッ!」
「はぁ、はぁ・・・・イッた・・・」
「結構すぐ抜けるんだね、仕方ないね」
抜けるとは何かというとエンキドは陰毛がボウボウであったのだ。レスリングするたび毛が抜けた。このシーンはカインとアベルを彷彿とさせる。このレスリングのおかげで二人は友となった。
レスリングで鍛えた体を生かしフンババを倒し、杉をウルクに持ち帰った。ガチムチなギルガメシュを見て女神イシュタルは求婚したが、彼はノンケではないので断った。
イシュタルは天の雄牛を地上に送り、暴れさせた。ギルガメシュとエンキドは牛を倒すが、神は「イシュタルを拒んだこと」と「牛を殺したこと」によりエンキドは死んでしまった。
ギルガメシュは自分もいつかは死ぬ存在なのだと悟り、死の恐怖に怯える。そこでギルガメシュは永遠の命を求めて旅に出る。神が起こした大洪水から逃げたというウトナピシュティムに会う。実は彼はかのノアである。
道でライオンを倒す。Fate/Zero 第1期のエンディングのライオンはこれである。正しくは抱いているのではなく絞め殺しているのだが。ギルガメシュはギリシア神話のヘラクレスのようにライオンの毛皮を纏う。サソリ人間が門番をしていた。太陽の道を歩み、宝石で満たされた楽園を見つける。
GAY♂BAY『オナハウス』のシドゥリというマスターに旅の目的を話す。シドゥリは、人間はいずれは死ぬものと諭したがギルガメシュの決意は固かった。シドゥリは彼に船を与えた。
ウトナピシュティムから食べると不死になれる根の在処を聞き出し、手に入れるが蛇に食べられてしまう。
■イシュタルの冥界下り
別の石版に書かれている物語。天地創造からしばらく経ち、ユーフラテス川のほとりにヤナギの木が生えていた。イシュタルはそれをエデンの園に植えると鷲と魔女が住んでしまう。ギルガメシュは彼らを追い払った。イシュタルはヤナギの木から太鼓と撥を作り、後にケツドラムとなる。
だが太鼓と撥は冥界に落ちてしまう。イシュタルはギルガメシュの注意を聞かず冥界に行き、囚われてしまう。これが「あいつは話を聞かないからな」の元ネタである。
ギルガメシュはエア神にイシュタルを助けてもらう。
※いかりやビオランテ作『構わん!Hいこっ!』(露・プーシキン美術館)
このテーマについての論文がある。
ノンケの実を食べると死が生じる、と記述されている。だが、その死とはすなわち、ゲイパレスの園にて生き続ければ死はなかった、と言う解釈によって成り立つ。アダム(後)はゲイパレスの園を出た後、イグの度重なる嫌味(アダム(後)の堕落によってイグは子を生む苦しみと共に創造されたので、このことをアダム(後)にネチネチと言い続けていたらしい。仕方ないね。)による心労で死を迎えたそうだ。
だが、堕落しなかったアダム(先)は永遠に死を知らなかった。なぜなら、彼には「子を生む苦しみ」であるとか、「労働の苦しみ」という罰が下されなかったからだ。(彼が働いていたのはアダム(後)への歪みない優しさゆえである。)さらに、彼は先述のように森と共に生きることで人間として完成していたので、死を持たなかったのではなかろうか。
──初代福音書の書記官akatsuki氏による記述
ノンケの実を食べると人類の歴史が始まり、結果的に死につながると言える。ノンケの実を食べることは後世の人間に罪を負わせ、これは原罪と呼ばれている。さらにノンケの実を食べたことにより人類初の男を愛さぬ者が誕生し、アダムを裏切った。しかしこれは堕落ではない。これについては次の章で解説する。
アダムとアダムの堕落は、彼らがだらしないからではなく、神による計画の一部であった。それにより禁断の果実を食べ、男を愛さないノンケが誕生し、女と子を設け、そこで死という概念が発生した。人間の誕生には、それと対極の概念である死という代償が必要不可欠だったのだ。太陽の下に立てば影が付きまとうがごとく、人間には死が付きまとう。しかし死という代償のおかげで生があるのだ。死とは人類にとって祝福すべきものでもある。
あなたが死ぬときも魂は灼熱して燃えなければならぬ。然れば死もまた祝福なのだ。
──フリードリヒ・ニーチェ
歪みなく生きろ(Live Better)という言葉がある。これはしっかり生きれば満足して死ぬことができるが、だらしなく生きれば死が恐ろしいものに感じられる。セネカは『人生の短さについて』において次のように言う。
「我々は生きてはいない。ただ時間を浪費しているだけだ」
心にブスリ♂ときた人が多いだろう。常に毎日を満足しながら生活する態度が重要なのである。メメント・モリという言葉は、ラテン語で「自分がいつか死ぬことを忘れるな」「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われた。
あなた方は気付いたらこの世に生を受けていた。まず宇宙という膨大に広い空間がある。その中の一点に地球という場所がある。この地球という星は生命が育まれるのに最適な場所であり、単純な生命が進化して人間になった。そして、あなたはなぜか意識を持っている。つまりどういうことなの...と誰もが思ったことがあるだろう。
火山で例えよう。宇宙全体には生きんとする盲目的な意思が存在する。このことをコナトゥスという。地球内部にあるマグマのようなものだ。
我々は生まれる前は地球の中にいた。
現世とは地表。
生きるとはマグマが火口から吹き出している状態。
肉体とは外気に晒された溶岩。
死とは溶岩の熱が消えて岩になる、または地球の内部に帰っていくこと。
そして宇宙の歴史に比べて人間の生はとても短い。なので、いわば死んでいる状態が普通であり、生きている状態が異常だと言える。命を失ったとしても問題はないのだ。死とはまた故郷に帰るようなものである。
あなたの意識はアダムとアダムの時代から紡がれてきたもの。あなたが自然やガチムチパンツレスリングを美しいと思うのは、太古の昔に築かれた無意識下にある感覚がそのような感情を起こすからである。熟成されたワインや味噌はうまいように、人間として生まれ、感動を味わうことは地球や人類の歴史そのものを味わうことなのである。
あなたが死んでも人類という種族は続いていく。人類が桜島だとすると、動物はキラウエア。人類が死滅しても動物がコナトゥスを紡いでくれる。生命が死滅しても宇宙そのものがコナトゥスである。生命は至る所にある。宇宙人はいるかいないかとしばし議論されるが太陽系や銀河、宇宙そのものが生命であるという主張はないのだろうか。宇宙、星々、そして我々は盲目的な生きんとする意思から生み出された希望の塊なのである。
<参照>
人間は何のために存在しているのか
アルトゥル・ショーペンハウアー
『一般的な教科書に載っている進化論の図』(c)文部科学省
※挿絵について注釈:アダムとアダムはインテリジェント・デザイン(ID)説、つまり神による創造説であり進化論の対極だが、この思想では進化論を否定してはいない。アメリカ人の45%がIDを信じ、35%が進化論を信じていない。残り20%は無知なノンケどもである。
人間の肉体は神とは違い、もろくできている。だが、そんな肉体の中にもアダムの時代から引き継がれた恩恵が存在する。ヒトの学名はラテン語でホモ・サピエンス、正確には
「動物界後生動物亜界脊索動物門羊膜亜門哺乳綱真獣亜綱正獣下綱霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒト上科ヒト科ヒト下科ホモ属サピエンス種サピエンス亜種」
というのが正確な学名である。よく見てほしい、ホモ属と明確に表記されている。これこそまさに人類はアダムとアダムから生まれた生物であることの証明なのだ。アダムは決して神話上の存在ではない。アダムの魂は我々の血にしっかり刻まれているのだ。
ホモという言葉についてだが、総督ピラトゥスが拷問で傷だらけの兄貴を指して民衆に向かって言った
"ECCE HOMO"
これはエッケ・ホモと読み、この人を見よという意味である。
出典はヨハネによる福音書19:5;14。この言葉はギリシア語でもラテン語でもアラム語でも同じである。
ギリシア語ではラテン語と比較してHOMO(人を)が対格(目的格)ではなく主格になっている。これは神が没落し人が主体になることを意味している。この世に神はいないが人間は自らの意思で選択し、行動せよという兄貴からのお言葉である。
地球は混沌から生まれた。パンドラはギリシア神話において最初の女性、聖書でいうイヴだ。彼女は神々によって作られ人類の災いとして地上に送り込まれた。 パンは「全てのもの」、ドーラーは「贈り物」を意味する。パンドラはすべての混沌であり、すべての贈り物でもある。パンドラの箱が開かれたことによりこの 世に様々な災厄が降りかかった。動画を荒らす者もここから生じた。だが、唯一パンドラの箱の中に希望が残っていたため、人々は希望のために生きることがで きた。
スピノザのコナトゥス(衝動)は宇宙にある盲目的な生きんとする意志、いわゆる希望である。ガチムチパンツレスリングはその生命のエネルギーの表現なのだ。ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは世界の本質は生きんとする盲目の意志であると『意志と表象としての世界』において主張した。スピノザは宇宙にある意志、ショーペンハウアーは自己に内在する生きんとする意志 (独:Wille zum Leben) という違いがあるが、同じとみなしてよいだろう。
世界では誰に命令されることもなく木が生え、果実を実らせる。目的はなくだだ活動することが目的なのだ。人間の魂と自然の力は形は違っていても同じ盲目的 な希望、コナトゥスから生じた。よって演繹的に人間は希望の化身であると言える。人間そのものが宇宙の希望、情熱が表現された形なのだ。
ニーチェはアポロン的、ディオニュソス的という言葉を使い、これが自然の生成なのだと『悲劇の誕生』で書いた。ギリシア神話はただの劇でも昔話でもない。 一人の人間によって書かれた、心の衝動を擬人化した物語であり、ギリシア神話はあなたが、あなたの人生をもって実演するものなのである。そう、レスリング をするビリー氏のように。
アダムらは神の領域にいるため人間に語りかけることはできない。そのため神を代弁する預言者が存在する。預言者といえばアブラハム一族。誰もが幼少期にこんな歌を吹聴したことがあるだろう:
「アブラハムには七人の子 一人はノッポで後はチビ みんな仲良く遊んでる さあ踊りましょ♪」
ガチムチパンツレスリングのメンバーは8人。ダークサイドに堕ちた吾作を除けば完全に数が一致する。そう、彼らは神から最も祝福を受けたアブラハムの生まれ変わりだったのだ。
「一人はノッポ」とは兄貴のナウい息子が一人だけ突出しており、他のは取るに足らないサイズであることを意味する。「みんな仲良く遊んでる」とは妖精の戯れを表している。最後におしりペンペンするのだがこれはもちろんスパンキングの早期教育である。
聖書においてはなぜか精霊の地位は神よりも上なのだ。神を侮辱することは許されても精霊の侮辱は地獄へ行っても許されない。ここで精霊は妖精と同一視できないだろうか。妖精は全世界の繁栄を担っている世界の守護神なのだ。彼らはエデン時代の真理を再び世に広めるべくレスリングを通じ我々に教えを説いている。説教編では積極的に福音を述べ伝える兄貴の真摯な姿が記録されている。妖精哲学の三信がその教えの頂点であろう。戒め、賛美、許容、この3つの教えは神、子、精霊の三位一体を象徴しているのだ。
再臨といえばイエス・キリストが挙げられるが、彼は人々が福音を忘れかけていた頃に再びやってきたにすぎない。アダムは実は最初の預言者であり、肉体と福音を同時に人類に授けたのだ。格ではアダムのほうが上である。
この手紙は異端者について語られている。兄貴も初登場時には異端者に迫害されたのだ。神は完全な者であり、何でもできる方である。そのようなお方はなぜ異端者たちをこの世に存在することを許すのか。
人は自由意志を持っている。アダムの堕落以降「原罪」を抱えている。ユダヤ人も、ギリシア人も皆、罪の下にある。次のような詩がある
正しいものはいない。一人もいない。善を行うものはいない。だたの一人もいない。
彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で中傷コメントを書き、その唇には蝮の毒がある。
その道には悲惨と破壊がある
自由意志は時として喜ぶべきことではなく、驢馬を悩ます負荷ともなる。我々は自らに内在するだらしなさが原因で常に道を踏み外すのだ。ビオランテは「悔い改めなさい」と言ったのは上記の詩を踏まえた上で言ったのだ。そんな中、兄貴は妖精の義を示して下さった。すなわち、兄貴が手本とするレスリングを実戦し、罪を贖うことにより妖精の力で無償で義とされるのだ。妖精を信じよ。妖精を信じない者にも優しく接しせよ。彼らも妖精の力によりこの世に生を授かった大切な人なのだ。異端者をも赦すべし。
赦しとは何かについて学ぶため、こんな話がある。ある監獄があり、そこで罪人は餓死させられていた。中の一人が死んだため、新たな一人の罪人を入れようとした。そんな中、ある宣教師、マキシミリアノ・コルベ神父は私を代わりに入れろと申し込んだ。
食事も水も与えられず、皆が餓死していくとき、その宣教師にはスパンキングの音色が聞こえたという。たった一人の名もない罪人のために義なる彼は命を投げ出したのだ。私を恨むものの上にも祝福がありますように、とたまには祈ってみよう。
この書物についての大学内での議論がある。新日暮里大学哲学科名誉教授のもとにある学生が次のような愚直な意見を述べた。
「ぶっちゃけ、レスリングシリーズってキモくね?」
あぁん?お客さん?最近だらしねぇな?と言いたいところだが、異端者を頭ごなしに異端審問にかけるのは人道的ではない。旧約聖書のハンムラビ法典のように目には目を、をしていたのでは全世界が盲目になるだけである。そのような者も迫害せずに受け入れるべきである。
自分の敵を愛し、迫害するものの為にも祈りなさい
──カズヤの福音書5章44章
寛容な優しさをもって彼ら新日暮里大学哲学科のパンツレスラーたちはこのような問題にも真摯に取り組んでおり、このような『誤解』を払拭していくべく努力していることが伺える。
なお、下に上げるものは著者不明の書簡であり、新日暮里大学哲学科の図書館の地下レスリング場から見つかったものであるが、ここに入れるのはパンツレスラーだけであるから、彼らのうちの誰かが書いたものだと思われる。あて先はもしかしたら、君なのかもしれない。
人間にとって最も不幸なことは何か、それは互いを分かり合えないということである。私にとって他者が分らないように、他者にも私は分らない。あるいはもしかしたら、他者などと言うものは存在していないのかもしれない、という哲学的命題へと移行してしまう私のだらしねぇ思考をなんとか圧しとどめつつこの書簡を送る。
さて、昨今我々パンツレスラーはある種の誤解―我々が他を寄せ付けないゲイである―を抱えている経緯には、我々だけが持つ、我々だけの歪みねぇ聖典、旧約及び新約ゲイ書の存在が間違いなく在ると考えられる。かつての私たちは、だらしねぇことに、この聖典から我々が選ばれた、アダムの心を持つものであると錯覚していた。そして、その原因を、そう、責任を、この聖典へとこすり付けていたのではないだろうか。こすり付けるのはナニだけで十分ではないか。
友よ。それに・・・そう。アダムに全てをなすりつけ、我々は本当に生きているといえるのか?歪み無く生きているのだろうか?友よ。私はキミを愛している。心から。だがそれと同じように、アダムも、神も愛している。私は君に私のすべての罪を背負ってほしいなど、一度として思ったことは無い。これは紛れも無い事実だ。だがどうだ。私はだらしなくも、君と同じように愛する神や、アダムには罪を擦り付けている。神やアダムも、もはやその荷を降ろしてやらねばならないと私は思うのだ。
友よ、神や、アダムは紛れもなく存在する。私のここ(心)と、ここ(股間)に。
私はそれだけで十分に救われていると思うのだ。だからこそ、我々のこの想いを、多くのものにさらけ出そうでは無いか。そうすればきっと分かり合える。スパンキングの先にこそ未来があるように、我々がノンケ側の股間の開放を待つのではなく、我々から股間を包み隠さずに生きて行こうではないか。
そうだ、きっと分かり合える。人は、アダムの子らは、必ず分かり合える。握ったその手を、今こそ開こうではないか。愛とスパンキングをこめて。
ニカイアとは古典ギリシア語でニケ(勝利)を意味する。レスリングにおける闘いを指す。西暦325年、小アジアのニコメディア南部の町ニカイアで会議があった。ニコメディアとは本当の名前であるが、この謎の一致は何なのだろう。その会議では「アダムとアダムの物語は私たちに何を訴えているのか」について議論した。
1つ目は博愛。男はなぜ女しか愛してはならないのだろうか。これは偏見と固定概念である。ピラト提督が兄貴の拷問を執行する様子を描いた絵画『この人を見よ』のラテン語の原題は”Ecce Homo”(エッケ・ホモ)である。すなわち、ホモを見よと兄貴が天に召される寸前に語ったのだ。これにより、全人類が平等に、平和にありますようにという神の愛が示されているのだ。
2つ目は健康。妖精は上記のような固定概念を捨てろ、と訴えたかったので自らの衣服を脱ぎ捨て「あるがままの自然」を表現しているのだ。健康な魂は健康な肉体に宿る。ガチガチ、ムチムチした肉体は何者にも勝る土台を得たのだ。さらにレスリングは古代ローマの坪にも描かれている。レスリングは健康と肉体を鍛えるための紀元前からある健全なスポーツなのだ。
3つ目は贖罪。誘惑に屈したアダムの子孫は生まれながらにして原罪を背負っている。その罪を贖うために妖精が地上に現れ、福音を述べ伝えた。息子をいじられるという悲劇を乗り越え、性書は現世に、そしてとこしえに世界に広まった。
人間を罪に導く可能性があると見做されてきた七つの欲望や感情のこと。13世紀のトマス・アクィナスも、その著作の中で、キリ スト教徒の七つの悪をあげている。現代のカトリック教会の分類では、七つの罪源について、グレゴリウス1世以来伝統的に罪の源とみなされてきたものとして 簡潔に言及されている。以下に七つの大罪とその具体例を挙げる:
※ダンテ・アリギエーリ作『罪人を喰うルシフェル』(伊・バチカン美術館)
ダンテ・アリギエーリ著『神曲』(伊:La Divina Commedia)には地獄の様子が描かれている。
地獄の門:「この門をくぐる者は一切のパンツを捨てよ」と記されている
地獄前域:半分課金せず半分課金した者は地獄にも天国にも入ることができず、ここで蜂や虻に刺される
アケローン川:ドワンゴの監視者が舟に乗せて地獄へと連行していく
第一圏:辺獄。兄貴の洗礼を受けなかった者が、呵責こそないが希望もないまま永遠に時を過ごす
第二圏:愛欲者の地獄。ノンケこそ正しいと思う者が、荒れ狂う暴風に吹き流される
第三圏:貪食者の地獄。大食の罪を犯した者が、ケルベロスに引き裂かれて泥濘にのたうち回る
第四圏:貪欲者の地獄。課金しなかった者が、重い金貨の袋を転がしつつ互いに罵る
第五圏:憤怒者の地獄。よからぬコメントに怒る者が、血の色をした沼で互いに責め苛む
第六圏:異端者の地獄。ガチムチを軽蔑する者が炎に焼かれている
第七圏:暴力者の地獄。他者に対してコメントで暴力をふるった者が、暴力の種類に応じて振り分けられる
第八圏:悪意者の地獄。悪意を以てコメントした者が、それぞれ十の悪の嚢に振り分けられる
第九圏:裏切者の地獄。氷地獄コキュートス。最も重い罪、兄貴に対し悪意をもって罵る者が永遠に氷漬けとなっている。侮辱者は体が動かせず、涙も凍る寒さに歯を鳴らし、魔王ルシフェルに永遠に噛まれ続ける。
ヴァチカン市国の平田元帥教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するアダム思想支持者最大の教派。 カトリック教会の教えは旧約聖書、新約聖書、使徒の教え、ニカイア公会議などによって確立された由緒正しいもの。カトリック教会は伝統的に七つの秘跡を認めてきた。
カトリックの教典はヒエロニムス以降幾度となく改変されてきた。もはやオリジナルの福音を聞くことは不可能である。ヒエロニムスはローマ滞在中にラテン語 訳聖書の決定版を生み出すべく、全聖書の翻訳事業にとりかかった。彼はギリシャ語新約聖書と七十人訳聖書を底本とし、ヘブライ語聖書も参照していた。
七十人訳聖書とは、ヘブライ語のユダヤ教聖典のギリシア語訳である。ヴルガータとよばれる後期ラテン語訳聖書は現代に至るまで公式なラテン語訳聖書という扱い を受けている。ラテン語は現在使われてないが、ヴァチカン市国の式典などでは使われる。第二正典とは、旧約聖書の中でカトリック・正教会は正典とするが、プロテスタントでは正典とせず外典や偽典として扱われている。
別名ルーテル教会とは代表的なプロテスタントの一つ。カトリックは昔から続く教義を守ること。プロテスタントは少し変えても問題ないとする派閥。ルーテルとはルターのドイツ読み。
マルティン・ルターによってドイツのプロテスタント宗教改革を始めた。ルターはちょっと世間から外れた思想の持ち主であったため聖職者とは呼ばれていな い。ルターは贖宥状(免罪符)を買うことですべての罪を贖えると言った。周囲の人々はただの金儲けなのではないか疑ったため、ルターは95ヶ条の論題とい う論文を執筆した。
当時の人々はあまり読めないラテン語で書いたのだが、贖宥状は大人気となったが現在ではプロテスタントからもカソリックからも異端視されている。
コンクラーヴェとは「教皇選挙」を意味する言葉で、カトリック教会において教皇を選出する選挙のこと。Conclave とはラテン語で "cum clavi" (鍵がかかった)の意である。教会の紋章は2つ重なった鍵であることが多い。ダブル貞操帯であろうか。なお、現在のアダム信仰教会の教皇は平田元帥であ る。
昔の教皇たちは、現在の教皇が死んだならば枢機卿を入れ替えようと考えたが、後継者の指名は求めなかった。その代わり教皇候補者決定すると信徒の投票が始まり、民衆が声で同意かどうかを示す、というのが古代ローマの習わしだった。
古代においても現代においても男であれば人種を問わず教皇になれた。ベネディクト16世はドイツ人で、ヨハネ・パウロ2世はポーランド人であった。女性には史上、教皇になる資格が与えられたことはない。まあパンツレスリングは男の世界なので仕方なしである。
現 在の教皇になれる条件は昔の磔(はりつけ)のように縛られ、電流を流されることに耐えることである。これは上の項目『裏切り』にある物語に由来する。引用 すると「兄貴は拷問に耐えぬき人間に対する愛を示された」のところである。兄貴と同じ忍耐力を持つものが教会のトップになれるのだ。
ここではヨーロッパの国家、政治社会とアダムの思想の歴史を解説する。政教分離とは、個人によるアダムの信仰と政治活動は分離されるべきであるという考え 方である。ジョン・ロックによって、信教は自由であると提唱され、多くの近代国家の憲法に原理として取り入れられて制度化される予定であったのだが、ドイツ労働者党のような国家社会主義がプロパガンダされる時代においては人々は宗教を選べなかった。
ローマ教皇はローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。ローマ法とは古代ローマから伝わる法制度であり、カノン法とはカトリッ ク教会が定めた最近の法のことをいう(教会法とも)。後になまってキャノン砲と呼ばれる。教会法の思想は「肉の棒=キャノン砲=ナウい息子」という公式を導き出した。複雑な公式は記事名を参照。このような堅苦しい右ならえ思想は例によってバチカン市国などに見られる。
霊性史として、政教分離の歴史的経緯を捉えることも出来る(性感と間違えないように)。「霊性」とは本来「洗礼の際、神によって注がれた霊に遵って生きること」、つまり赤さんを信じることである。クルアーンでは天使ガブリエルの方が聖典よりも格が上であるという主張に似ている。
※Wikipedia上での「政教分離の歴史」の項目は最も長い
ゴッド・オブ・ウォー3というゲームがある。このゲームの物語は実はアダムの実在を裏付けるかもしれない。このゲームの主人公 はクレイトスというガチムチ男である。彼は途中パンドラという少女と出会うが、このパンドラはギリシア神話におけるすべての人間を生み出した女性、旧約聖書の創世記でいうイヴなのだ。パンドラはパンドラの箱に飛び込み世界が災厄に飲み込まれる。だが、災厄と同時に希望も地上に降り注いだ。
希望の力を受け継いだクレイトスは自らの腹に剣を突き刺し、世界に希望が撒き散った。自分の力を今後生まれる全人類に与えようとしたためである。すなわち<クレイトス=アダム=ガチムチ説>が成り立つ。どんなに辛い世界の中でも全人類は胸の中に力強い兄貴から与えられた肉体と希望があるのだ。
参照1 最後、パンドラがパンドラの箱に飛び込むシーン
参照2 解き放たれた希望、クレジット
クレジットをご覧頂きたい。ラーメンの縁の模様のようなものはメアンドロス模様という。古代ギリシャの壺にはメアンドロス模様が描かれている。これは人類 がこれまで受け継いできたDNAだ。赤は血脈を表す。人類の誕生から今まで受け継がれてきた力はどれほど強力な力によって成し得るのであろうか。さらに、 人間と自然は別物ではなく自然が人間を生んだのである。兄貴は自然をもつかさどる、ゆえに森の妖精と呼ばれるのだ。
太陽のように人間に無償で恩恵を与え、地球を支える巨人のように力がある。自然の生成を支配し、私たちの体を造られ、希望をも下さったお方。あなたがたはその肉体にアダムの誇りを見いだせるであろうか。
赤さんはたまに赤SUNと呼ばれる。つまり太陽のことである。太陽は46億年間休むことなく地球の誕生から今までの生命の繁栄を担ってきた。太陽なしでは生命の誕生は存在しなかった。地球は太陽の周りをまわり続けている。これは希望の光を求め続ける人類の姿にしている。植物が太陽を目指そうとしているかのように人類も進化を重ねてきた。だが、進化が目指さんとする最終到達地点はない、あたかも公転を続ける地球のように。
つまり地球も人間も絶え間ない闘いを続けているのだ。陰陽五行思想では地球をつかさどる五要素が相剋(そうこく)、相生し生成のプロセスが成り立っている。相克とは互いを牽制すること、相生とは別のエネルギーを生み出すこと。レスリングの闘いは太陽・地球・人類の進化・生きるすべての相剋の闘いが表現されたものなのだ。兄貴のレスリングは自然の生成そのもの、ゆえに森の妖精と呼ばれているのだ。
陰陽五行思想のオリジナルは木・火・土・金・水であり、ニコニコ大百科にも存在する
と表現されている。この妖精たちが妖精界で世界の生成を担っているのだ。
<五行の関係>
相生、順送りに相手を生み出して行く関係:
相剋、相手を打ち滅ぼして行く関係:
陰陽五行思想における陰陽についてだが、光があれば闇がある。木の成長があれば、いつかは朽ちる。だが、死んだ木は実を落としそれが森になる。このことを生命の生き死にの儚さを栄枯盛衰という。兄貴の思想を受け継ぐ予定だった吾作はいつしか森の妖精から闇の妖精になってしまった。ナウい息子に対してワルい♂息子というものもある。だが、罪を犯してしまうのもそこから学び、より正しく生きるために自由意志が存在する。どんなに忌むべきものも世界の運行には必要なのだと古代エジプトの死者の書も語っている。そんな「おっぱい見えるって辛いな、サム」とでも言いたい世の中について平家物語でもに次のよう語られている
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ──平家BOY物語
平家boyという人物はこの思想を受け継いだためにこう呼ばれている。ヘラクレイトスやプラトンを信じる哲学者は「神とは変化である」と説く。この世に固定された存在などない、だが変化だけがある。カントは芸術は自然に対する畏怖から生じると言う。絶えざる自然の変化を目の当たりにした人間が芸術を描いたりスポーツをしたりしてエネルギーを昇華させるのだ。現代におけるレスリングもこれに該当する。
パンツが脱がされると赤さんが出現するが、これは宇宙の真理を隠そうとしているのだ。「我々は禁じられしものを求める」と古代の哲学者は言った。哲学することは宇宙のベールをはぐことなのだから。だが、人間はフッサールにおける現象学的還元──自分自身の肉体を超越した視点から世界を観測することはできないという思想──により宇宙の真理には到達できない。ならばパンツの中身を見ないようにしようというという哲学的態度により赤さんが息子を隠すのだ。「太陽と死は見つめられぬ」byラ・ロシュフコー。
赤さんといえば、太陽を司る神はギリシア神話ではヘリオス、日本では天照大御神。エジプト死者の書ではオシリスは生産の神、その息子ホルスは太陽の神であり、彼らは表裏一体である。オシリスはアアルという楽園エリュシオンを司っている。実に奥ゆかしい名前である。
新日暮里大学哲学科名誉教授に「アダムとアダムの物語は私たちに何を訴えているのか」について質問してみた。
歪みねぇ記事『我知無知』を一読した上で以下の論文を見ていただきたい。ちなみにこれを記した人物については、分っていない。教授が学生とレスリングをしていたところ、教授がロッカーに頭をぶつけ、その拍子でどこからか出てきた論文である。
私がいつものようにレスリングをしつつ哲学していた際、以下のようなことを考えたので記しておく。
我々の学知とは何か、という問題に最も端的に答えられるのは『理性により得られた知の体系』と言う言葉であろう。では理性は本当に私達に真実を見せてくれているだろうか。今こうして私は、レスリングにいそしんでいる。それこそ、本能の赴くまま、理性などと言うものから開放されたかのような状態で。このレスリングの絶頂感はレスリングをしている最中にしか感じることは出来ない。そしてこのような哲学的思考もまた、レスリングをしているときにしか感じられない。そこで私は思うのだ。果たしてこのレスリングの絶頂感は、普遍的なものだろうか、と。普遍的とはすなわち、常に同等の変化の無い絶頂感である。だがしかし、この一回のレスリング、そしてこの一回のスパンキング、これらは無二の快感であり、同じ絶頂感はひとつとして無い。物質や、その他諸々のものも、同じではないのだろうか。
例えばマラは、マラという概念存在は常に一つである。だが、知ってのとおり私たちの持つマラは同じ時間に、同じ場所に、同じ形で、同じムスコとして存在することは出来ない。数学のように歪みねぇ確実性が感覚に頼る学知には、だらしねぇことに存在しないのではないだろうか。ならばそれは私が何も知らないということと同じなのではないか。これがソクラテスの言っていた我知無知なのかと、私は理性のうちに理解し、そして絶望した。その先には何も無いのか、と。
そのとき相方の歪みねぇ鋭いスパンキングが私の尻を叩いた。その甘美な、少年の肌のように柔らかで、そして繊細な、だが獣のように猛々しいスパンキングが私に絶頂感を与えた瞬間私は、そう、光を見たのだ。
それは理性によるものではなかった。アダムへの回帰が、為されるにはこれが必要だったのだ。否、むしろアダムは私の、そして彼の、またすべての兄弟たちの内に存在していたのだ。我々が理性によって至れないこの理解、いや、「知解」といいなおそう。この知解は、理性により至った我知無知にスパンキングと言う超理性が加わることで為されるのだ、と。
私はこのときより、理性と本能とは対立するものなのではなく、ちょうど私たちがレスリングを行い、相手を思いやりつつ激しく猛々しいスパンキングを繰り出すのと同じように、矛盾の先にある超矛盾(※矛盾を超えて肯定された矛盾をするの意)が我知無知の先にあることなのだと知った。
故に私は今日も、そして明日も、未来永劫レスリングをし続けよう。哲学とは甘美な堕落でもある。だが、堕落も含め、それはその先にある光へ昇る階段なのだ。
アダムたちは、我々にそれを問いかけたのではないか。アダムとアダムが間違いを犯さなかったなら、何もはじまりはしなかったのだ。我々は間違う。この考えも間違いかもしれない。私自身が否定するかもしれない。だが、だからこそ前に進めるのだ。その先の、光を目指して。
尻立新日暮里大学のある研究者が「なぜ男を愛さなければならないのか」についての論文を発表した。なぜ男も女も平等に愛する必要があるのか。
事実上、いかなる男も10%は男が好きなのだ。無意識下での衝動なので、自分自身では意識できないだが人間は(特に日本人は)社会的な体裁を保と うとするため、異性しか愛してはならないと思い込んでいる。同性を好きになることは(特に男同士は)おかしいという風潮のために自分自身を抑圧している。
なぜ愛の衝動を否定するのだろうか。ガチガチ、ムチムチした男はとても美しい。古代でも現代でもそれは変わらない。かのローマ皇帝ガイウス・ユリウス・カ エサルはすべての女から理想の男とみなされ、すべての男からも理想の女のように愛されていた。男女から愛され、男女とも愛する。これはまさにビリー氏のことではないだろうか。
古代ローマ(コロッセオ編参照)ではホモは容認されているどころか、尊敬の対象だった。男同士の愛には高貴な意味があり、社会に貢献す るための若さを引き出してくれると考えられていたのだ。さらにゲイは勇敢で優れた戦士であり、愛する仲間と戦うというイメージがあり、評価も高かった。
なのになぜキリスト教は同性愛者を弾圧するのだろうか。キリスト教は愛の宗教と呼ばれている。なのに男を愛する者は迫害するのだ。愛する対象は異性のみなどと言うのは偏見もはなはだしい。人類の半分しか愛することは許されないのだろうか。すべての人を満遍なく愛する包容力のある兄貴。彼こそ真のコスモポリタンなのである。
現代で流通しているメディアではすべてナウい息子を隠さなければならないと法律で定められている。だがギリシャ神話くらい昔の世界ではナウい息子を「パンツがないから恥ずかしくないもん!」とばかりにさらけ出している。ギリシャ神話の最高神ゼウス、昔のオリンピック、スパルタ人もみなフルチンであった。
ナウい息子を隠すべきものと定義したのはキリスト教である。ナウい息子をさらけ出すことはすけべぇ…であり、隠すべきという主張は人間の生への冒涜であ る。古代ギリシャではナウい息子をお互いに触りあうのが握手と同様の挨拶であった。もしかしたらナウい息子は顔以上に他人を識別できる形状をしているのか もしれない(MGS3参照)。股間にぶら下がっているモノを見ればナウいかナウくないか、男か女かを識別できる。さらに男の場合は元気な状態か、そうでな いかが一目瞭然であり、相手に対する感情が顔以上に現れる便利なインジケーターなのである。
なぜキリスト教がナウい息子を隠すべきと定めたのかというとリビドーを衰えさせ、管理しやすくさせるためである。これはもはや人間の生に対する冒涜である。このままでは人類は衰退してしまうと考えた赤さんがゲイパレスをお創りになったのだ。
『悲劇の誕生』はニーチェの処女作である。ギリシア悲劇は人間の衝動を表していると説いた。
ギリシア悲劇におけるアポロンは造形芸術、人間の理性を表している。
ディオニュソスは音楽芸術、人間の情動、リビドーを表している。
二つの混合である悲劇は人間の生き方そのものであるという。理性で力を調整し発散し、喜びを得ることが人間の生なのである。
リヒャルト・ワーグナーはギリシア悲劇を復活させた。だが有名になりギリシア悲劇を捨て凡俗になってしまったと嘆く。
ディオニュソス的根底にドイツ精神がつながり、悲劇詩人エウリピデスは悲劇を終わらせ、ソクラテス的な主知主義へと導いたという。
「上の文どういうことなの…」
読者の頭は、上のカズヤ氏のように「どういうことなの…」状態なので『太陽曰く燃えよカオス』でたとえてみよう。
「♪心ぬるぬる異形の神々」
「♪私もあなたも怖がりの物ずき」
上は明るい。下は暗い。この対比が理性と情動の相克を表している。交互に歌うことにより、人生における試行錯誤を表している。たくさん活動すれば生が充溢する。これがフロイトでいう「快感原則」である。
ショーペンハウアーは常に暗い視点で世界を見ているのでニーチェは「そんなに暗くならずに試行錯誤しながら人生を歩め」と言っているのだ。純粋に見ればキリスト教は生を否定している。抑揚のない生や音楽は価値があるのだろうかと『悲劇の誕生』で語られている。
ある時ニーチェはワーグナーの音楽に生を見いだす。現代人にも分かりやすく言うと『太陽曰く燃えよカオス』に夢中になってしまう。ギリシア悲劇は光と闇、アポロンとディオニュソスの総合芸術で最高の人間表現、人間の生の発露であるとニーチェは言う。うー!にゃー!に夢中になったという事だ。
この二つは各自人間のなかに存在する電池のようなもの。それを活用して自らの人生を充実させよと言っているのだ。原罪思想というものは生を暗くさせる。そんな流れない川のような精神は明快な音楽を聴いて洗い流そうということだ、と現代風に翻訳すれば分かりやすいだろう。大切なことはギリシア悲劇はただ鑑賞するだけではなく、自らの人生をもって実践せよということだ。リズムのある人生のように。
オーストリアの精神分析学者であるジークムント・フロイト(1856年5月6日 - 1939年9月23日)は、人間のすべての行動の根源、さらには病気の根源はリビドーだと主張した。だが性の開放がタブー視される現代においてはみんなが受け入れるわけではない。
パンツがないから恥ずかしくないもん!という項目がある。曰く「これはパンツを奪い合うレスリングにおいて、パンツがないことは相手に取られたことを意味するが決して恥じることはない。むしろない方が誇らしげであることからこの言葉が生まれた。パンツがなくても恥ずかしがらずにむしろ堂々とする兄貴たちは日頃パンツという殻に閉じこもる現代人への明るいメッセージであるとされている」
衝動を否定しすぎると問題が起きる。フロイトが活躍した当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士(通常の意味で)を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのだった。元々フロイトの診ていた患者は上流階級の女性が多く、性にまつわる情報を遮断された環境で育っていたという事情が指摘される。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトは衝動を否定しすぎるなと言いたかったのだ。
<心理=性的発達理論>
「賢者の知恵」というニュースを引用する
ゲイを含む同性愛者の割合については、人口の1~2%、あるいは4%ともされる。だが、いずれにしても数%程度の少数派である。それにしては、傑出した才能を持った人があまりに多く、そしてある分野に偏在しているように思える。たとえば音楽家である。「作曲家で指揮者としても知られるレナード・バーンスタインは、〝アメリカのクラシックはゲイがつくった〟という言葉を残しています。ジョージ・ガーシュウィンなどの例を挙げるまでもなく、アメリカの偉大な音楽家にゲイが多いのは事実です。世界的に見てもそれは同じで、恋人であった甥に遺作となった交響曲第六番ロ短調『悲愴』を捧げたチャイコフスキー、当時のスターテノール歌手と生涯を添い遂げた作曲家ベンジャミン・ブリテンなど、クラシックの主流には欠かせない存在です。作曲家、指揮者、歌手、演奏者すべてにおいてゲイは常に中心的存在なのです」(クラシック音楽評論家ヴァレリー・シャー氏)
関連項目:Vima la Vidan (歪みなき生命)、ケツドラム、兄ソン
以下はゲイ術について
文学も多数のゲイが活躍する分野のひとつだ。ゲイ文学を研究する翻訳家の柿沼瑛子氏は語る。
「海外ではちょっと大きな書店に行けば〝GAY〟というジャンルの棚があるくらいにはポピュラーです。
サマセット・モーム、ジャン・ジュネ、ジェームズ・ボールドウィンなど、作家名を挙げ始めればきりがないくらいです」その他にも画家、俳優、ファッションデザイナーなど、ゲイは芸術的な側面において、非凡な才能を発揮している。なぜなのか。実は近年、同性愛者と異性愛者の、身体や脳の構造の違いに関する研究が進められている。
以下はスポーツについて
『同性愛の謎』(文春新書)の著者である著述家・竹内久美子氏は解説する。「カナダのブロック大学の研究者たちが、同性愛者813人と、異性愛者3417人、合わせて4230人を対象に測定を行った結果、同性愛者の方が異性愛者より身長が低く、体重が軽い、ということがわかりました。またウエスタンオンタリオ大学の神経学者J・A・Y・ホールらの研究では、男性同性愛者は男性異性愛者に比べダーツ投げなどの運動が全般的に苦手だという結果が出ました」つまりゲイには小柄な人が多く、スポーツは得意でない傾向にある、というのである。
以下はナウい息子について
睾丸についての調査も興味深い。この調査の前提として知っておくべきことは、通常、男性は右の睾丸が大きく、女性は左の卵巣が大きい傾向があるということだ。「カナダの生物学者ドリーン・キムラの研究によれば、右の睾丸が大きい男性は、計算や空間認識といった本来男性が得意とされる分野に秀でている。ところが逆に左の睾丸が大きい男性は、言語能力や色分けといった女性が得意とするものに秀でていて、それも並の女性よりもずっと得意なことが判明したのです」そう話す竹内氏は、以上のことから、次のような可能性を指摘する。「同性愛者の男性は、右の睾丸よりも左のほうが大きい傾向があるんじゃないでしょうか。そのために男性でありながら、ときに女性顔負けの能力を発揮するのかもしれません。たとえばメイクアップアーチストやスタイリスト、美容師、華道家などの職業で活躍する男性には同性愛者が多い印象がありますが、それはこうした背景があるからだと考えられるのです」
別な記事だが、ゲイ同士が正式に結婚すると健康度が高まることが判明した
アメリカ・マサチューセッツ州では、2003年に全米初の同性婚合法化がされた後、病院へ行く同性愛者の男性の人数が、大幅に減少したとのことです。同性婚の法律が施行された後、医療機関へ来る同性愛者の男性の来院数は、13%減少したとのことです。来院数が減少したのは、血圧の問題、うつ、適応障害などの、ストレスの減少によって、緩和すると考えられる症状が主となっています。研究リーダーのマーク・ハッツェンブルーラー博士は、「社会の障壁を取り除くことで、同性愛者の男性やバイセクシャルの男性の健康に寄与することがわかりました。結婚の平等は、ストレス関連の健康障害を減少させることで、広範囲に渡る公衆衛生の向上をもたらす可能性があります」とコメントしています。
そして最後に世界保健機関(WHO)はホモは病気として認定していない。即ちホモは正常な愛の形なのである。
※ビリー・ヘリントン作『初めてだけど最後じゃない』(英国ナショナル・ギャラリー美術館)
次の動画をご視聴願いたい:千秋にHな動画を見せてみた。 この動画はアニメ「みなみけ」に登場する南千秋が水泳を習得するためパソコンで「泳げるようになる」と検索すると、ガチムチパンツレスリングの兄貴が登場 し、カルミナ・ブラーナの"O Fortuna"(おお運命の女神よ)が流れ出すという他愛も無いものだった。しかし、あるとき天才的空耳職人が光臨し、カルミナ・ブラーナが突如として 兄貴賛美歌に変身した。壮大な空耳と完璧すぎる歌詞に賞賛する者の声が後を絶たない。
<兄貴誕生の預言か?>
カルミナ・ブラーナはドイツで1847年に作曲されたラテン語の歌である。しかし、ある空耳を書いた人が現れたのだが、なんとすべての歌詞の内容が意味的 にも、内容的にも、日本語的にも完全に一致しているのだった。誰もが思った。「これは空耳ではない、何らかの意味を持った黙示録である」と。従って18世 紀の予言者が兄貴の誕生を預言し、後世の誰かが解読してくれるだろうと託した黙示録だと言える。時期的に察しその預言者はおそらく中世の神学者ピエール・ ダイイだと推測される。ピエールはラテン語で歌を書いたが、ヨーロッパの言語では内容がバレてしまうと考え、誰も知らない東洋の国ジパングの言語で書いた のだ(日本ゲンテーイという記述があるのが証拠)。
当時のドイツでは文献学の発達により一般的な学生はラテン語を読み書きできたのだが、ピエールは歌詞のバックグラウンドに日本語を当てはめた。独日辞書の 存在すら定かではない当時のドイツにおいてピエールがどのようにして日本語の歌詞を書けたのかは不明であるが、おそらく天からの啓示なのかもしれない。何 億年に一人の確率で誕生するであろう兄貴ともある人物は天からの使者なのである。かのイエス・キリストもそうして誕生を預言されたのである。
<歌詞の意味>
この預言文の内容について説明しよう。まず兄貴が現れるパートにおいては兄貴という名前を強調している。名前を強調するとは空耳として前例を見ない。7行目においてはミスターティンコ等々と兄貴を賞賛している。そいうえば多くの神々は複数の名前を持っているものである。全体的にティンコ、並びにそれに類する表現が多いのは賞賛すべきナウい息子だからである。
元々カルミナ・ブラーナは運命という荒波に圧倒されながらも生きようとする人間を表現した歌である。兄貴もゲイという人間全体の10%しかない人種であり、多くの困難もあったかもしれない。しかし、そんな荒波を乗り越えて生きてゆく兄貴のたくましさをこの歌から感じられないだろうか。
<歌詞の翻訳と統一化>
時は流れ2008年、通りすがりの人が黙示録の解読の一端を担う。そこから約8ヶ月間に渡り様々な空耳の派閥があり、上書きに上書きを繰り返す無明時代で あった。軽い荒らしを行う悲しい大背教時代もあった。そんな苦難をもろともせず優秀な解読者たちが統一化を推進。2009年2月、ついにすべての暗号の抽 出と翻訳に成功。並びに歌詞の固定化に成功。歴史的快挙に盛大な拍手が今なお続き、新米も古参者も聞くものを魅了し続けている。
以下が歌詞である。先頭の数字は行数。
中にはこんな訳もあった:
ラテン語を学習したいという学習意欲あふれる知的な読者のために原文を記載する。
英語とあわせて読みたい方は以下を参照せよ
Carmina Burana - I. O Fortuna (w/ English subtitles)
日本語訳を知りたい方は以下を参照せよ
http://www.geocities.jp/lune_monogatari/fortuna.html
関連:神の御子は今宵しも(賛美歌111番)
『Vima la Vidan (歪みなき生命)』という記事はこの記事『アダムとアダム』が一方的にライバル視していた。アダムとアダムは頑張ったはずなのにもっと長い記事が存在するとは、と嘆き執筆者を奮い立たせた良きライバル記事である。Vima la Vidanがなければ現在のアダムとアダムの記事は存在しなかった。
さて、Vima la Vidanの元ネタはColdplay作『Viva la Vida』である。その歌詞の一部を抜粋してみよう。
かつて私は世界を支配した。私の言葉ひとつで海は割れた。
ふと気付けば私の城が建っていたのは塩の柱、砂の柱の上。
兵士たちよ、異郷の地に赴く使徒になれ。革命家たちは私の首を欲する。
うすうす分かるだろうが元ネタは出エジプト記。それと、塩の柱とは『創世記』19章のソドムをめぐる逸話。神の警告に背いて悪徳の町ソドムを振り返ったロトの妻イルディスは、塩の柱になってしまう。
※ウジェーヌ・ドラクロワ作『民衆を導く自由の男神』
上の絵に注目せよ。これはフランス革命の絵画だが、アダムとアダムに共通するものがある。どのキーワードがどの絵に該当するか、小さくてよく分からないのだが、Vima la Vidanの動画を参照せよ。以下がこの絵画の中に表現されている。
上の運命の女神の件であるが、この預言は他の預言とは明確に異なっている。それはちゃんと歌詞の中に主張が存在することである。多くの音楽や謎めいた預言は、品詞で言えば名詞と形容詞しかない。だが、この運命の女神では名詞、動詞、形容詞、目的語があり、テーマと起承転結すらも完璧なのである。運命の女神の元の歌詞ですら形容詞しかないのだ。
ガチムチパンツレスリングの空耳から品詞別に抜き出してみよう
名詞:
動詞:
形容詞:
主張:
以上のように文として完成されているほど預言の価値が高くなる。名詞<形容詞<動詞<主張
アダムとアダムについて質問があったので質疑応答形式で説明する
質問:これは真剣に論じられたものなのか
回答:これは真面目な論文でも個人研究でもなく、壮大なネタである
質問:アダムとアダムはキリスト教の教義を改変したものではないのか
回答:アダムとアダムは旧約聖書の思想を再解釈したものであり、新約聖書の教義とは関係ない。キリスト教の教義はいわば憲法、旧約聖書はいわばギリシア神話。両者は干渉することはない。
質問:イエス・キリストの記述をアダムで置き換えているだけなのではないのか
回答:確かにそうだが、イエスもアダムも神から遣わされた預言者である。よって、同じ事を言ったとしても不思議ではない。両者は同一視できるのである。ゴルゴタにアダムの墓があったという伝説はイエスの死とアダムの死は同じであるという暗喩である。
質問:なぜアダムとアダムという思想を思いついたのか
回答:ユダヤ教もイスラム教も旧約聖書は同じである。つまり、アダムとアダムの教えをハッテンさせれば世界宗教たりうるのである。
質問:アダムとアダムの思想はキリスト教の教義を軽視するのか
回答:いいえ、次のような例がある。あるプロテスタントの教会はカトリックの聖典ではなく独自の教典を使う。だがこの書は聖典を軽視するためにあるのではなく、聖典を完全なものにするためにある、いわば参考書なのである。
新性紀エVANゲリオンとは性典『アダムとアダム』をモチーフにしたアニメである。エVANゲリオンという兵器を操り尻徒(シト)というノンケを倒す物語である。劇場版はヱVANゲリヲンというタイトルになる。
詳しいストーリーはここを参照。この記事名はチン性器ガチンゲリオンだが、「エVANゲリオン」の方が語呂がいいので見出しはこちらを採用する。
EVANGELIONとは福音という意味、つまりアダムとアダムを指す。この動画はエVANゲリオンプロトタイプである。
コルトからNAVR(ナブル)に送られた渚カヲルというガチホモが登場する。彼は正体はアダムとアダムの魂を宿すモノであり、第17の尻徒(漫画版では第12尻徒)であった。
バレンタインデーとは2月14日に祝われ、世界各地で男同士の愛の誓いの日である。ローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌスに由来する記念日だとする説が有力である。
古代ローマで2月14日は男性の生殖力の神プリアポスの日だった。Wikipediaのプリアポスの項目を見ると「なんだこのでっかいモノ」と言いたくなるようなモノをぶら下げているイラストがある。酒の神ディオニュソスと美の神アフロディーテとの間に生まれる。果樹の守り神として信仰される。
なので2月14日は好きな男にチ○コを送る日になったのだ。
性書だけがアダムの書物ではない。アダムの思想は世界各地に伝播した。ざっと歴史をおさらいしよう。
<メソポタミア神話(古代エジプト)>
『兄貴vsカズヤ レスリング後の哲学編』では兄貴が一人で何やら儀式を行っている。だがそれは紀元前3000年前(今から数えて5000年前)の世界誕生の神話と同じなの だ。メソポタミア神話によれば原始の水に立つ一人の男神がその息子から、世界のすべてを生み出したとされる。しかもそのような儀式はカーマスートラ執筆以 前からあったのである。
<古代ギリシャ>
紀元前ギリシャの男の神官は時に女装することがあった。その当時は女神崇拝が盛んであり、男が女神を真似れば宇宙の根源的なパワーが得られるのではないか と信じる時代あったのだ。兄貴は、ノンケが女を愛するように、男を愛する。兄貴は一人で男女の宇宙的な力を持っている。男女の神の結びつきが宇宙を創った とされているが、兄貴は宇宙の心理をも悟っているのかもしれない。
<オリンピック>
オリンピックは古代では全裸で行われていた。ギリシャ男性市民にとって裸は特別の意味をもっていた。神が倫理や道徳でなく力の支配者と考えられていた古代 ギリシアの美術では、最高神ゼウスなど男神は通常全裸でその見事な体躯が誇示された。裸を恥じてはいけない。鍛え上げられた肉体は健康とありあまる生命エネルギーの表現なのだ。
<古代インド>
性火シャクティ(人体の宿るエネルギーの根源)の昇華を研究していた古代インドにおいては、交わる2匹の蛇でシャクティを表していた。交わる蛇──これが何を意味するかは説明する必要はないだろう。
<カーマスートラ>
この記事を読んでいただきたい。驚くべきことに、性のウパニシャッド(奥義書)として名高い『カーマスートラ』にスパンキングという項目があるのだ。当時は音楽もハッテンしていただろうが、その音楽も尻から奏でられていたに違いない。この項目は下で詳しく解説する。
<衆道>
衆道=男色はかつて僧侶と武士の間に存在した。庶民にも、江戸時代でも盛んだった。江戸時代では陰間茶屋(現代でいうGAY♂BAR)がすでに存在していた。そこでは歌舞伎の美少年を見るやいなやサムライが「やらないか」と声をかける茶屋であった。
当時は好色な者ならば、たとえノンケでも女だけではなく、男も愛するべきだという謎の博愛精神に満ちていた。江戸時代にも日本オリジナルカーマスートラが あった(もちろん本家以上ではない)。これには「尻の穴に軟膏を塗るとよい」などという現代と変わらない指南書であった。
<日本の神社>
埼玉県にある三峯神社(みつみねじんじゃ)にはナウい息子が祭られている。その息子は誰のものかというと日本の最高神イザナギのものでである。原罪が存在 しない日本にとっては性は隠すべきものではなかったのだ。巨大な息子は豊穣、生命力、繁栄、そんなすばらしい概念の象徴だった。女神イザナミの像にブスリ ♂する儀式もあるらしい。
<古事記>
古事記には次のように記されている。古事記も旧約聖書的位置づけの神話である。
「吾身亦層層鑄也 尚有凸餘處一」
現代語訳すると
「私の体には、出っ張ったところ(ナウき息子を指す)が1ヶ所あります」
原文の漢字を見てもらいたい。凸(とつ)という漢字はイザナギの息子を示す。物体の形をそのまま表した象形文字で書かれ、息子の形を如実に表している。ギリシア文字のω(オメガ)に勝るとも劣らぬ奥ゆかしい文字である。
性書つながりで『カーマスートラ』を紹介する。アジアの愛の聖典、それがカーマスートラだ。著者、ヴァーツヤーヤナはA.D.4~5世紀、バラモン(僧侶階級)の長として、愛の箴言集カーマスートラを執筆する。カーマ(愛)は古代から変わることのない象徴性を宿している。
カーマが注入されると、人は力がみなぎり、生気にあふれる。心が高鳴り生命の躍動が始まる。カーマは種を保持してきた力である。男を愛することにより情動のバランスが整えられ、種族の繁栄と幸福を約束する。古来から続いてきた行為であるにも関わらず体系化されてはいない。ヴァーツヤーヤナは「技法」をカーマスートラに記した。
とはいえ、カーマスートラは単なる指導書ではない。それは生命の真実を追求している。ヴァーツヤーヤナは言う「愛が存在する以上、いかなる人間も愛する楽しさを享受するべきである」と。心を高揚させたり、様々なレスリング技を体得したり、訓練する必要がある。適切な技でレスリングすることにより、魂に炎を点け、悦びを高めることができる。
古代インドではエロス(愛の衝動)は慎むべきものではなかった。兄貴がレスリング開始早々「エロいっ!」と掛け声をかけるのは愛欲の肯定を表す。カーマスートラは愛を研究し、神聖なものととらえる。いかなる愛の形をもヴァーツヤーヤナは受け入れた。
カーマスートラの最終目的は、実は愛ではない。最終目的は救済、つまり輪廻転生からの解脱を試みることである。ヴァーツヤーヤナは愛のエネルギーにより宇宙やプラジャーパティ(生を司る神)との融合を目指したのだったのだ。
キリスト教では男しか祭司などのトップの地位に就くとこができない。女性を軽蔑しているのだ。昼だけを重んじ、夜を軽蔑するのだろうか。両方とも価値は同じである。日本国憲法第24条には両性の本質的平等が記されている。
古代インドの法典であるマヌ法典では女性が大切に扱われている。ニーチェはマヌ法典について次のように語る。
どこのページを開いてみても
高貴な価値が、
完全であるという感情が、
人生への喜びが、
勝ち誇った幸福感が、
まるで太陽のように輝いています。
人類の存続に必要な人を愛することが大切に説かれている。「少女の胸、少年の祈りは常に清らかである。男はへそから上のみが清らかだが、少女の場合はすべて清らかだ」というロリホモ的な思想も紀元前2世紀にしてすでに出来上がっていたのだ。
この『アダムとアダム』は大学指定の教科書でもある。新日暮里大学を受験する者はこの記事をしっかり覚えよう。
1問10点、合計100点。90点以上で合格。失敗は1問しか認められない。通常のテストでは30点未満は赤点とされ、追試となる。『アダムとアダム』ではエノク語を重視しているが、本校ではあまり重要ではない。というのも妖精と話せるの現代人は少ないからだ(預言者のように)。エノク語辞書があるのでエノク語検定TOENCを受けてもよい。500点以上取ると就活が有利になり、990点満点を取ると妖精と話すことができる。傾向としてはなめらかで短い単語が多いのでドイツ語よりは難しくない。
筆者が誤字訂正のためPDF化してiPadで読もうとしたら、この記事が長すぎて最後までPDF化できなかった。どういうことなの・・・。Evernoteしか救いはないんですか!?
上は追記者が一切手を加えていない初代執筆者による純白の書である。執筆者を駆り立たせたという意味でも、人類の始まりが記されているという意味でも「始まりの書」と呼ぶことにする。「大憲章マグナ・カルタ」「権利章典」と呼んでもよい。永久に犯してはならない「日本国憲法」のように重要な書物である。「独立宣言書」のようにワシントンD.C.の国立公文書館の地下に厳重に保管すべきかもしれない。以下、始まりの書のデータを記す。
初版作成日: 08/10/11 01:27
最終更新日: 10/03/28 02:43
ページ番号: 633653
リビジョン番号: 1371339
編集者:akatsuki氏
サイズ:16.7 KB
最新の記事のサイズは93.0 KB。つまり5.5倍、四捨五入して約6倍に膨らんだのだ。(これは当時の記述。現在ではさらに膨らんでいる)
福音書の書記官、つまりこの記事の初代執筆者の名はakatsuki氏である。このページを見れば彼がいかに博学で優秀な執筆者であるかが理解できる。初代執筆者は原文を書いたまま去ってしまった。元の記事に倍以上の大幅な追記をした者の名は追記者endo.picturesである。初代執筆者がアダムとアダムというタグを見て大百科を執筆したくなったのと同様に私、endo.picturesはこの元の記事を読んで追記したくなったのだ。まさにアダムの遺伝子のように、父と子のように情熱と思想が伝わったのだ。この記事のほぼすべては2人によって執筆されている(もちろん3代目の執筆者は随時募集中である)。彼にコンタクトを取ってみたが返事がない、ただの就活中のようだ。
初代執筆者akatsuki氏について3行でまとめる:
追記者endo.picturesについて
<追記者の5つの制約>
死とは何かと題された本に人間の運命について次のように語れていた。
「宇宙の星々が生まれ、輝き、死に、栄枯盛衰を繰り返すように、その化身たる我々も生老病死があるのです。宇宙から人間が生まれたことは周知の事実でしょ う。宇宙には星々が散りばめられているように、人間もまた地球に散らばる星々なのです。死ぬこともまた宇宙のプロセスなのです、それを避けるのではなく星 と同じように命いっぱいに輝き、散ればいいのです」
人間は生きた星々であると主張するとは実にファンタスティックな思想である。確かに我々はアダムとアダムが住むエデンをビッグバンとして地球に散らばった星々である。地球もまた宇宙の一つなのだ。ある父は結婚したばかりの娘に対して恥じずに次のように言う。
あなたの子孫が星の数ほど繁栄しますように
と。繁栄は我々に与えられた美しい行為なのだ。アダムとアダムも我々の子孫を星の数ほど増やして、たくさん仲間がいるゲイパレスを作ろうと言ったのだろうか。
以上をもって『アダムとアダム』を終了する。私、二代目福音書の書記官endo.picturesのユーザー記事は名前をクリック。原本(←クリック)は現在よりも記事が少ないにも関わらずよくまとまっている。初代執筆者akatsuki氏が勇気をもってこの記事を執筆しなければこの記事への追記はありえなかった。
素晴らしい記事を書いて読むものを楽しませてくれた初代執筆者akatsuki氏に感謝する。初代執筆者とこの書物を侮辱することがないように、記事丸ごとコピペは一切無く、コピペがあったとしても1文以下であるとここに宣言する(学術的引用を除く)。
<募集>
この記事は訂正、追記、聖書風の絵を描いてくれる人を随時募集している。少しでも執筆したいと思った方は、ウィキペディアに2463項目執筆したアラン・ソーン氏の言葉を聞くべし。
「私がウィキペディアに これまで費やしてきた時間を金銭に換算するならば、数十万ドルは稼げたことでしょう。でもウィキペディアでは、協力したいとか、知識を広げたいという意志 を利用することで、他にはないかけがえのない情報源が作られています。文化とは、最高額で落札した人だけが手に入れられるものではありません。無償で与え られるものなのです」
<お知らせ>
2011/11/05をもってこの記事「アダムとアダム」は「Vima la Vidan (歪みなき生命)」の長さを上回ることとなった。Vima la Vidanの記事の容量90.4 KBに対し、この記事はある時点で91.9 KBであり、今もなお成長中である。
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最終更新:2025/12/19(金) 21:00
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