アプリリアワークスとは、アプリリアがレース活動を行うためにメーカー直営で運営するチームである。
本稿では、MotoGPの最大排気量クラスに参戦するアプリリアワークスについて記述する。
アレイシ・エスパルガロ ※ニコニコ大百科の記事あり
スコット・レディング 英語版Wikipedia
アプリリアワークスのレーシングマネージャーであり、アプリリアの総責任者。
名前のロマーノは「ローマ人」という意味。イタリア人にとってローマには特別な響きと魅力がある。
ジジ・ダッリーニャが2013年末にドゥカティワークスに引き抜かれた後、後任として昇格した。
アプリリアワークスのチーム監督。日本語Wikipediaあり。
「グレッシーニ」と「グレシーニ」で表記揺れしている。
1961年1月23日生まれ、イタリア・イモラ出身。
1985年と1987年の2度にわたりMotoGP125ccクラスチャンピオンに輝いた。
特に1987年は年間11戦で開幕から10連勝。最終戦は転倒したが、伝説的シーズンになった。
1990年から5年間ホンダに乗り、1991年と1992年はいずれも125ccクラスランキング2位となる。
1994年をもって現役を引退。1997年にプライベートチームのグレッシーニレーシングを設立し、
ファウスト・グレッシーニ自身はオーナー兼チーム監督になった。
1990年からのホンダとの付き合いがあったので、グレッシーニレーシングは
ホンダのマシンを扱うホンダ系サテライトチームになった。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切り、アプリリアとの提携を開始し、
グレッシーニレーシングはアプリリアワークスの母体チームとなった。
ファウスト・グレッシーニはそのままチーム監督を続けている。
長らくグレッシーニレーシングのチーフメカを務めた。
2012年 ミケーレ・ピッロのチーフメカ。
2013年 ブライアン・スターリングのチーフメカ。
2014年 スコット・レディングのチーフメカ。ここまでホンダのCRTマシンのメカニックだった。
グレッシーニレーシングがアプリリアワークスの母体になってもチーフメカの座を維持した。
2015年 前半はマルコ・メランドリ、後半はステファン・ブラドルのチーフメカ。
2016年 ステファン・ブラドルのチーフメカ。
2017年にMarcVDSのティト・ラバトのチーフメカとして引き抜かれた。
2018年はMarcVDSでフランコ・モルビデリのチーフメカ。
2015~2016年は、マルコ・メランドリやステファン・ブラドルのチームのスタッフだった。
2017年からはアレイシ・エスパルガロのチーフメカ。
1988年からMotoGPで仕事をしている大ベテランで、グレッシーニレーシングのチーフメカだった。
3月22日が誕生日。
2006年はトニ・エリアスのチーフメカ。 記事はこちら
2007年はマルコ・メランドリのチーフメカ。 記事はこちら
2008年は中野真矢のチーフメカ。 記事はこちら
2009年はアレックス・デアンジェリスのチーフメカ。 記事はこちら
2010年はマルコ・メランドリのチーフメカ。 記事はこちら。
2011年は青山博一のチーフメカ。記事はこちら。
2012年から2014年までアルヴァロ・バウティスタのチーフメカ。動画がある。
2015年にグレッシーニレーシングがアプリリアワークスの母体になるとき、チームを去っていった。
2015年はmoto2のイタルトランスで、ミカ・カリオのチーフメカを務めた。
頬髭を生やしている人。 Twitterアカウントがある。
2015~2016年はアルヴァロ・バウティスタのチーフメカ。
2017年はサム・ローズのチーフメカ。
2018年からはスコット・レディングのチーフメカ。
いくつかインタビューに答える動画がある。 動画1、動画2、動画3、動画4
2018年現在のアプリリアワークスの母体は名門プライベートチームのグレッシーニレーシングである。
チームの拠点はイタリアのファエンツァにある。
もう1つのチーム拠点はイタリアのミサノサーキットすぐそばのサン・クレメンテにある。
そこにはメンテナンス工場があり、レース用機材が集積されている。
グレッシーニレーシングは1997年に設立、さっそく同年の最大排気量クラスに参戦を始めた。
使用したのはホンダのマシンで、これ以来18年間に渡ってホンダ陣営のチームとなる。
1999年には最大排気量クラス参戦を中止して250ccクラスに参戦。
前年にアプリリアワークスを解雇されたロリス・カピロッシを起用、年間ランキング3位を獲得。
2000年からは加藤大治郎を起用、2001年に加藤は16戦11勝を挙げてチャンピオンに輝いた。
マックス・ビアッジやヴァレンティーノ・ロッシと互角の戦いをしてきたアプリリアの原田哲也を
相手に圧倒的な勝利を重ねた加藤の姿は観る者に強い衝撃を与えた。
2002年からは加藤大治郎とともに最大排気量クラスへ復帰。
250ccクラスではロベルト・ロルフォなどを起用、ロベルトは年間ランキング3位になる。
2003年から2009年までは最大排気量クラスのみに参戦した。
2003年と2004年はセテ・ジベルナウが年間ランキング2位を獲得。
2004年にコリン・エドワーズが年間ランキング5位。
2005年にマルコ・メランドリが年間ランキング2位、
2006年にマルコ・メランドリが年間ランキング4位、
2007年にマルコ・メランドリが年間ランキング5位。
年間ランキング上位者を輩出し続け、名門プライベートチームの地位を確立させた。
2010年からは最大排気量クラスに加えてmoto2クラスにも参戦し続けることになる。
2010年はトニ・エリアスを起用、モリワキのマシンでチャンピオンを獲得した。
2012年からは最大排気量クラスでアルヴァロ・バウティスタを起用。
ワークスチームとプライベートチームの電子制御の格差が激しい時代にもアルヴァロは奮戦し、
3位表彰台を3回、ポールポジション1回を獲得している。
また、2012年からはmoto3クラスにも参戦を開始した。
これで最大排気量クラス・moto2クラス・moto3クラスの3クラスに参戦する大所帯チームとなった。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切り、アプリリアワークスの母体チームになった。
スペイン語版のWikipediaを開くと、グレッシーニレーシングの輝かしい戦績を閲覧することができる。
ホンダとの関係が非常に深いプライベートチームだったので、日本人を送り込まれることが多かった。
グレッシーニレーシングから参戦した日本人ライダーは加藤大治郎、中野真矢、高橋裕紀、青山博一。
日本人ライダーを確保したいホンダや参戦ライダーの国籍の多様性を求めるドルナ(MotoGP運営)が、
熱心に勧めてくるので根負けして採用したのである。
日本人ライダーは速くて腕があり、クリーンに走ってチームメイトに迷惑を掛けず、
しかもちゃんとイタリア語や英語を喋ってくれるから、チームにとって助かる存在なのである。
しかしながら日本人ライダーはスポンサーを吸引する磁力がちょいと弱い。
イタリア人ライダーやスペイン人ライダーなら母国からスポンサーを引き連れてきてくれて
チームの財布を潤してくれるのだが、日本人ライダーはこの点ちょっと物足りない。
また、2012年からは最大排気量クラスでニッシンのブレーキとショーワのサスペンションを
使うことになった。この2つともホンダの子会社である。
ホンダ嫌いのSPEEDWEEK.comというドイツのレース情報サイトには
「グレッシーニはホンダにニッシンとショーワを強制されている」などと書き立てられたものである。
実際にはニッシンとショーワは技術者を継続的に送り込みやたら熱心なサポートをしていて、
グレッシーニ監督やバウティスタも満足していたようである。
ただ、レプソルホンダや他のホンダ系サテライトチームであるチームLCRはブレンボのブレーキと
オーリンズのサスペンションを使っており、それらのチームのデータを見てもあまり参考にならない、
そういう状況になっていたようである。
走行データが他のホンダマシンと違うのだが、それはシャーシのセッティングの違いが原因なのか、
ブレンボとニッシンの違いが原因なのか、オーリンズとショーワの違いが原因なのか、よく分からない。
セッティングを煮詰めるためにはすこし不利な立場であった。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切ったのだが、この理由はお金であった。
ホンダの最大排気量クラスのマシンは高額で、リース料が高い。
「日本人を受け入れてるんだから安くしてくれ」と要求して少し安くしてもらうが、それでも高い。
勝ち負けできる良いマシンだから高額なのはしょうがないのだが、やっぱり高い。
そこに現れたのがアプリリアで、こっちは比較的に安価であり、財政的にも支援してくれるとのこと。
そういうわけでホンダからアプリリアへの鞍替えとなった。
2015年からはアプリリアワークスの母体として、最大排気量クラスに参戦している。
アプリリアは根っからのレース大好き企業であり、常に何かしらのレースに向けて戦っている。
特に1990年代に入ってからはその傾向が強くなり、MotoGPやスーパーバイクでの活躍が増えた。
経営の選択と集中が上手であり、得意分野に向けて経営資源を思いっきり注ぎ込む傾向がある。
MotoGPの250ccクラスや125ccクラスがあったときはそれに資金と人員をつぎ込む。
MotoGPの2ストローク時代が終わりそうになったら、スーパーバイクに転戦して総力を尽くす。
スーパーバイクにて6年で3回優勝したら店じまいして、MotoGPの最大排気量クラスへ転戦する。
ホンダのような超巨大企業ではないので経営資源には限りがあるのだが、
それを補うかのように賢く立ち回ってレースの世界をしっかり生き抜いている。
RS~という車名を付けるのが好きである。
RSV250(2ストローク250ccマシン。MotoGP250ccクラスに参戦)
RS125R(2ストローク125ccマシン。MotoGP125ccクラスに参戦。晩年はRSAとかRSWと呼ばれた)
RS3 CUBE(4ストローク990ccマシン。2002年から2004年までMotoGP最大排気量クラスに参戦)
RSV4 (市販車4ストローク999ccマシン。スーパーバイクに参戦し3回チャンピオン獲得)
RS-GP (4ストローク1000ccマシン。2015年からMotoGP最大排気量クラスに参戦)
MotoGPの250ccクラスや125ccクラスで猛威を振るい、250ccクラスで7人、125ccクラスで12人の
チャンピオンを輩出した。まさしく2ストローク軽排気量エンジンレースの覇者だった。
最初にアプリリアへ世界チャンピオンの栄光をもたらしたのは1992年125ccクラスの
アレッサンドロ・グラミーニ である。
このページを見るとアプリリアでチャンピオンを獲ったライダーの多さが目立つ。
ジレラやデルビの名義でアプリリアのマシンを走らせていたライダーも多い。
2009年に250ccクラスが終了し、2011年には125ccクラスも終了してしまった。
これにより2ストロークエンジンの時代が終わった。
アプリリアはmoto2クラスやmoto3クラスには参戦せず、スーパーバイクへ目を向けた。
MotoGPの2ストローク500ccクラスが終わったのが2001年。
そのころから「もうすこしで250ccクラスや125ccクラスが終わるだろう」と予測を立てたアプリリアは
スーパーバイクへの参戦を見据えて市販車RSV4の開発に励むことになる。
2009年にアプリリアはスーパーバイクへの参戦を開始した。
前年はプライベートチームへマシン供給することもしておらず、まさに電撃的な参戦だった。
ライダーはマックス・ビアッジと中野真矢を起用、チームの総指揮はジジ・ダッリーニャがとった。
マックス・ビアッジが優勝1回・3位2回と奮戦しランキング4位を獲得した。
2010年には39歳となったマックス・ビアッジが快進撃を続け、アプリリアに初めての
スーパーバイクチャンピオンの栄光をもたらした。
2011年のマックス・ビアッジは怪我による欠場が響いてランキング3位に終わったが、
2012年に再び勝利を重ね、最終戦までチャンピオン争いを演じ、0.5ポイント差でチャンピオン獲得。
2012年をもってマックス・ビアッジが引退したが、2013年シーズンはユージン・ラヴァティと
シルヴァン・ギュントーリが揃って躍進し、ランキング2位とランキング3位を占めた。
2013年シーズンの終わりにジジ・ダッリーニャがドゥカティワークスに引き抜かれてしまったが、
2014年シーズンもアプリリアの強さが光った。
2014年はシルヴァン・ギュントーリとマルコ・メランドリのペアで臨み、
ギュントーリがチャンピオン獲得、マルコ・メランドリが4位になった。
これで6年で3回チャンピオンを獲得したことになり、レース企業としての実力を天下に示した。
2014年シーズンをもってアプリリアはスーパーバイクでのワークス活動を終了させた。
2015年からMotoGP最大排気量クラスへ参戦することになり、人員をそちらに回す必要が出たのである。
2014年シーズンの後半に勝ちまくり翌年への期待が膨らんだマルコ・メランドリにとって、
アプリリアワークスのスーパーバイク撤退はショックな出来事だった。
これで彼は「所属するチームが加入したら即撤退」をまた味わうことになった。
ちなみにマルコ・メランドリの加入したチームが撤退した履歴はこうである。
2008年末、MotoGPのカワサキワークスに加入したら即撤退発表。
2011年にスーパーバイクのヤマハワークスで活躍するも加入1年目でチームが撤退発表。
2012年にスーパーバイクのBMWワークスで活躍するも加入1年目でBMWがワークス活動から撤退。
2014年にスーパーバイクのアプリリアワークスで活躍するも加入1年目でアプリリアが撤退表明。
アプリリアワークスのMotoGP最大排気量クラスにおける現在の体制が始まったのは2015年だが、
それ以前にもアプリリアはMotoGP最大排気量クラスに参戦したことがある。
1999年と2000年は2ストローク500ccクラスに原田哲也を起用して参戦。
このときは250ccクラスにヴァレンティーノ・ロッシがアプリリアのマシンで参戦しており、
「ロッシにチャンピオンを獲らせるためアラーダを500ccに追いやった」とイタリアメディアが
盛んに書き立てたものである。
完成度が今ひとつのマシンながら原田は奮戦し、ポールポジションを獲ったり3位を2回獲得したりと
目を見張る活躍をする。これを見たイタリアメディアは「アラーダをオンダのマシンに乗せろ」
と騒ぎ立てたのであった。
※ちなみにイタリア人はハ行を上手く発音できずアラダとかオンダとかヤマーと発音する。
2000年4月に、2002年から4ストローク990ccの競走を始めることをドルナから発表されたアプリリアは
2ストローク500ccの開発を止めることになり、2000年をもって500ccクラスから撤退した。
2002年から始まった4ストローク990cc時代になってアプリリアは再び参戦した。
マシンはRS3 CUBEである。
2002年はレジス・ラコーニの1台体制。
2003年は芳賀紀行とコーリン・エドワーズの2台体制。
2004年はジェレミー・マクウィリアムスとシェーン・バーンの2台体制。
いずれの年もマシンの完成度が低く、羽賀には「色々いじくったけどダメだねこりゃね」と言われるなど
散々だった。2004年をもって最大排気量クラスから撤退、250ccや125ccに専念する。
2004年には最大排気量クラスの高額な開発費が祟ったのかアプリリア自体の経営も厳しくなり、
8月にピアッジオグループの傘下に入ることも決まった。
アプリリアが最大排気量クラスに帰ってきたのは2012年のことだった。
この年から少額予算チームでも参戦できるようにCRTマシンが出走可能となったので、
それに乗っかる形でアプリリアはART(Aprilia Racing Technology)という会社をわざわざ設立し、
ARTのマシンを各プライベートチームに供給した。
CRTクラスにARTが参戦・・・イタリア人も駄洒落が好きなのである。
CRTは「市販車のエンジン&レース大好き企業の作るプロトタイプフレーム」という組み合わせが多く、
エンジンメーカーとフレームメーカーが異なるケースが多かった。
ところがARTはエンジンとフレームの両方をアプリリアが作るのである。
エンジンは市販車のRSV4、フレームは倉庫から引っ張り出してきた2003~2004年頃のRS3 CUBE。
ただ実際はフレームも市販車RSV4ではないか、と指摘されていた。
そしそうなるとエンジンもフレームも全て市販車のマシンがMotoGPを走ることになり、
スーパーバイクの経営企業であるインフロントが「完全市販車のレースをするのはウチだけなのに、
MotoGPが邪魔をしている。ドルナの所業はルール違反だ、訴訟する!」と猛抗議しかねない。
ドゥカティCEOのクラウディオ・ドメニカーリに「まずいんじゃないんですか」と苦言を言われている。
実際にはインフロントからの抗議はなく、無事にARTは出走できた。
走ってみるとARTのマシンは好成績を残した。
名門プライベートチームのチームアスパーのアレイシ・エスパルガロとランディ・ドプニエが
ARTで快走、CRT部門のランキング1位・2位を占めた。
2人ともたびたびシングルフィニッシュを収める偉業を成し遂げている。
ARTのチームアスパーへの支援は手厚く、アプリリアの隠れワークスと言われるほどだった。
2012年から2013年までARTを指揮していたのはジジ・ダッリーニャで、またしても神業のごとき手腕を
発揮した彼は、2013年シーズン末にドゥカティワークスへ引き抜かれることになった。
ジジ・ダッリーニャがドゥカティワークスに引き抜かれると知った途端にチームアスパーは態度を変え、
ARTとの提携を終了させてホンダとの提携を開始している。
ART側も活動を縮小させることになり、2014年はマシン供給先が1人だけになった。
2013年シーズンをもってCRTは終了し、2014年からはオープンクラスというものが導入された。
このオープンクラスは、イタリアのマニエッティ・マレリが作る電子制御ソフトを全車が使うのだが、
ARTのマシンとマニエッティ・マレリの電子制御ソフトの相性が悪かった。
2012~2013年のARTは自社製の独自ソフトを使っており、電子制御ソフト変更に難渋した。
2014年シーズンにただ1人ARTのマシンを走らせたダニロ・ペトルッチは低迷している。
2014年にスーパーバイクでチャンピオンを獲ったアプリリアだが、2015年にレース規則が変わって
2014年のチャンピオンマシンをそっくりそのまま走らせることができなくなってしまう。
この規則変更をきっかけにして、当初の予定を1年早め、MotoGP最大排気量クラスに復帰した。
マシンの名前はRS-GPである。
一番最初は先述のARTのマシンをベースにした車体だった。
全く同時期にスズキワークスも最大排気量クラス復帰を果たしたのだが、両者の事情は違っていた。
スズキは2012年から2014年までみっちりとテストをこなし目一杯開発を進めていたのに対し、
アプリリアはドタバタのなか急遽参戦を決め、テストしていない車両でレースに参加することになった。
ロマーノ・アルベジアーノも「2015年はレースを開発の場にする」と宣言しており、
ライダー達は我慢のレースを行うことになった。
2015年当初のライダーはアルヴァロ・バウティスタとマルコ・メランドリだった。
アルヴァロはまだしも意欲的であったがマルコの方は意欲が見られないというか覇気が無いというか、
元気のなさが目立った。2014年までスーパーバイクのチャンピオン争いをしていたのに
2015年は戦闘力の無いマシンで走ることを強いられたので、気落ちするのも無理はなかった。
マルコは第8戦オランダGPをもって契約解除され、第9戦からはステファン・ブラドルが加入した。
2016年もアルヴァロとステファンの2名がライダーを務めた。
ホンダのサテライトで経験を積んだベテラン2人の開発能力が高かったのかじわじわと成績を上げ、
2016年は2人合計で7回のシングルフィニッシュを収めている。
アプリリア自体の開発速度も高く、2015年のシーズン序盤には早くもシームレスミッションを導入、
アルヴァロに「ホンダのシームレスミッションと大差ない」と言わせ、周囲を驚かせた。
2016年末をもってライダーが2人とも交代することになった。
アルヴァロもステファンも2年近い開発生活で疲れたのだろう、他のチームへ移っていった。
2017年シーズンに加入したのはアレイシ・エスパルガロとサム・ローズだった。
前年までスズキワークスにいたアレイシ・エスパルガロは快調にレースを進めた。
開幕戦でアプリリアワークス最高位の6位を獲得、それを含めてシングルフィニッシュ6回だった。
サム・ローズは絶不調で、転倒多発となる。これに我慢できずアプリリアは2年契約を解除し、
2017年限りでサムを放出することにした。
最大排気量クラスのルーキーが転倒しまくるのは不思議なことではないのに、転倒多発を理由として
我慢せずにルーキーを解雇するのはカル・クラッチローなどから苦言を言われた。
2018年はアレイシ・エスパルガロとスコット・レディングがアプリリアワークスから走ることになる。
V型エンジンのマシン。
V型エンジンのマシンというとパワーがあってじゃじゃ馬で、加速が凄くて激しいライディングに合う、
こういうイメージを持っておけばいい。ホンダ、ドゥカティ、KTM、いずれもそうである。
ところがアプリリアは2017年シーズン初頭の時点では加速力が今ひとつで、
アレイシ・エスパルガロも加速力の乏しさとエンジンパワーの低さを嘆いていた。
アレイシによると、タイヤが良くグリップして走りやすいのこと。
香港に拠点を持つ通信事業者PCCW Limitedが展開するIPTV放送。公式Twitterあり。
IPTV放送とは、インターネット回線を使ってテレビ番組を放送することと考えておけば良い。
アプリリアの親会社。日本語Wikipediaあり。
ピアッジオはアプリリア、デルビ、ジレラ、モト・グッツィ、リジェといった
バイクメーカーを傘下に持ち、グループ全体でヨーロッパ最大の売り上げを誇る巨大企業である。
125ccクラスにデルビが参戦したときも、中身はアプリリアのマシンだった。
250ccクラスにジレラが参戦したときも、中身はアプリリアのマシンだった。
ピアッジオグループ同士、名前の貸し借りをしているのである。
ピアッジオはスクーターの生産に熱心で、高級でおしゃれなモデルを多く作っている。
一方でもう1つのイタリアバイクメーカー・ドゥカティはあまりスクーターを作っておらず、
パニガーレのようなスポーツ車を作ることに熱心である。この2社は対照的と言えるだろう。
ちなみにピアッジオグループの総帥はロベルト・コラニーノ(Roberto Colaninno)である。
2016年と2017年のバレンシアGPではアプリリアワークスのマシンが真っ赤なカラーリングになった。
チームスタッフも真っ赤な作業服に衣替えしている。
これはなにかというと、(RED)というエイズ撲滅キャンペーンである。
これに賛同した企業が自社商品を(RED)に登録すると、その売り上げの数%がエイズ患者支援に回る。
アプリリアの親会社であるピアッジオも賛同し、100万円以上する高級スクーターの
ヴェスパ(Vespa946)を(RED)に登録した。こちらが公式サイトのページ。こちらが宣伝動画。
ピアッジオ以外にも多くの企業が賛同している。アップル、コカコーラ、Amex、アルマーニなど。
アプリリアの本社はイタリア北東部のヴェネツィアから少し離れたノアーレという街にある。
高速道路アウトストラーダで南下すればすぐにムジェロサーキットに着くので、
ムジェロサーキットをテストコースとして使用している。
原田哲也がアプリリアワークスのライダーだったときはしょっちゅうムジェロサーキットで
テストしていて、そういうときはフィレンツェの宿に泊まっていたという。
ヤマハワークスの拠点がレズモ、スズキワークスの拠点がカンビアーゴ、
ドゥカティワークスの拠点がボローニャ、アプリリアワークスの拠点がノアーレ。
この4チームは直径250kmの円にすっぽり収まる近所同士である。
日本で例えると、関東平野に4つのレースチームが散在しているような感じである。
それゆえ職員の移動も盛んであり、スズキワークスのダヴィデ・ブリビオ監督は
「我々の中の多くの職員が元ドゥカティワークスの職員」と発言している。
2013年末にアプリリアのジジ・ダッリーニャがドゥカティワークスに引き抜かれたが、
これもちょっと離れたところに職場が変わっただけだと言えた。
アプリリアの親会社であるピアッジオの本社はフィレンツェ郊外のポンテデーラにある。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/12(金) 20:00
最終更新:2025/12/12(金) 19:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。