アンヘル・ディ・マリア(Ángel Fabián Di María Hernández, 1988年2月14日 - )とは、アルゼンチンのサッカー選手である。
ポルトガル プリメイラ・リーガのSLベンフィカ所属。サッカーアルゼンチン代表。
ポジションはFW、MF。178cm75kg。効き足は左足。
アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオ出身。アルゼンチンを代表する左利きのドリブラーであり、左右のウイングが主戦場だが、インサイドハーフでもプレーできる。華麗なドリブル突破と左足のキックの精度から「魔法使い」と称されており、世界有数のプレイヤーの一人である。
1992年にアルゼンチン・プリメーラ・ディビジオンのロサリオ・セントラルのユースへ入団。2005年にトップチームデビューを果たす。当初はサイドバックとしてプレーしていたが、2007年にサイドハーフへコンバートされると才能が開花し、着実に経験を積んでいった。
2007年にポルトガル・プリメイラ・リーガのベンフィカへ移籍。すぐにポジションを掴みUEFAチャンピオンズリーグに出場するなど、大きな飛躍を遂げた。その後、レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッド、パリ・サンジェルマン、ユヴェントスといった各国の名門クラブを渡り歩き、レアル・マドリード時代の2014年にはUEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献している。
アルゼンチン代表では同世代であるリオネル・メッシやセルヒオ・アグエロと共に長くチームを牽引しており、U-20、U-23、フル代表と各世代で世界一を経験。特に4度目の出場となった2022 FIFAワールドカップでは決勝でチームの2点目を決め、アルゼンチンの3度目の優勝に貢献。メッシの相棒である「名脇役」として欠かせない存在となっている。
なお、スペイン語での標準的発音では「ディ・マリーア」に近い。
1988年に労働者階級の人々が住むアルベルディ区に生まれる。父親のミゲルはリーベル・プレートでプレー経験のある選手だったが、膝の怪我のために引退。その後、炭鉱で働く生活となり、けっして裕福な家庭ではなかった。そんな環境の中でも非常に活発な子供に育ち、周囲に多動性障害ではないかと心配され、母マリアーナが小児科医に相談するほどだった。
そんな動き回る子供を見かねた両親は4歳のときに地元のクルブ・トリートというサッカークラブに通わせる。練習が始まる前は父の炭鉱の仕事を手伝っており、手は真っ黒になっていた。幼いながらも両親を楽にさせようと本気でサッカーに打ち込んでおり、年間64ゴールを決めるなど頭角を現し始める。
14歳のとき、地元の強豪CAロサリオ・セントラルに入団。ちなみにこのときに受け取った移籍金はサッカーボール40個だった。この頃のポジションはサイドバックであり、ここでも同世代の中で才能を発揮するようになる。
2005年12月4日、アペルトゥーラ(前期リーグ)最終節のインデペンディエンテ戦で途中から出場し、17歳でプリメイラ・ディビシオンデビューを果たす。プロ最初のシーズンで10試合に出場したが、サイドバックとしてスピードはあるものの、スタミナと対人プレーが弱かったためチーム内での評価は低かった。コーチからは「才能がないから他の職業を探した方がいい」と言われるほどだった。
だが、2年目となった2006-07シーズンに大きな転機が訪れる。2006年11月14日、アペルトゥーラのキルメスAC戦で投入されてわずか1分でプロ初ゴールを決める。2007年に入って成績不振のロサリオはカルロス・イスチアを監督に招聘。すると、ディ・マリアは左ウイングにコンバートされる。すると、持ち前のスピードを活かしたドリブル突破からゴールに頻繁に絡むようになり、才能が開花。クラウスース(後期リーグ)だけで5ゴールを決め、いつしか欧州の名門クラブから触手が伸びるまでになっていた。
2007年7月、ボカ・ジュニアーズとの獲得競争を制したポルトガル・プリメイラ・リーガの強豪SLベンフィカに移籍する。19歳での欧州初挑戦となったが、ディ・マリアはこの大きなチャンスを見事に掴むことになる。移籍したシモン・サブローサに代わる左ウイングとして加入当初から主力として起用されると、初となったUEFAチャンピオンズリーグでは6試合全てに出場。一方、リーグ戦ではノーゴールに終わるなど、得点力が課題として挙げられていた。
2008-09シーズンは北京オリンピック出場のためチームへの合流が遅れたが、徐々に調子を上げるようになり、移籍後初タイトルも獲得している。
3年目となった2009-10シーズン、2009年10月19日のUEFAヨーロッパリーグ グループステージのエヴァートンFC戦でキャリア初となるハットトリックを達成。チームの大勝に貢献する。12月のグループステージ最終戦では左足ラボーナキックによる圧巻のゴールを決め、欧州全土のメディアから大喝采を浴びる。リーグ戦でも勢いはとどまらず、2010年2月27日のレイションイスSC戦ではプリメイラ・リーガでは初となるハットトリックを達成。翌日のポルトガルのスポーツ紙は「マジック・トリ・マリア」という見出しをつけて絶賛する。このシーズンから監督に就任したジョルジェ・ジェズスからは絶大な信頼を得ており、爆発的な攻撃力を誇ったチームのサイドアタックの切り札となっていた。リーグトップとなる12アシストを記録し、ベンフィカの5シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。この年のプリメイラ・リーガ最優秀選手賞を受賞。さらに母国の英雄ディエゴ・マラドーナからは「あと2年以内に世界的なスター選手になる」と称賛されている。
2010年にスペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードへ移籍。当時のマドリーの監督であったジョゼ・モウリーニョのスタイルであるカウンター戦術にフィットしレギュラーとして活躍。2011-12シーズンにはクラブのリーグ優勝にも貢献した。2013年にジョゼ・モウリーニョの退任、ガレス・ベイルの加入などが重なり退団が噂されたが残留。出場機会が減ると見られていたが、センターハーフで起用されると期待に応えて質の高いプレーを披露し、2013-14シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ優勝に大きく貢献した。しかし2014年にハメス・ロドリゲスが加入し、それに追い出される形で退団することとなった。
2014年にイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。大きな期待を背負って迎えた加入1年目の2014-15シーズンでは中盤戦から徐々に調子を落とし始め、終盤戦では低調なプレーに終始。シーズン中にはルイス・ファン・ハール監督との確執も噂され、27試合3得点10アシストを記録したものの1年で放出されることとなった。
2015年にフランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンへ移籍。
FIFAU-20ワールドカップ2007、U-23オリンピック代表などに参加しており、どちらの大会でも優勝している。特にU-23オリンピック代表では重要なゴールを数々決め、アルゼンチンの金メダル獲得の原動力となった。
2008年にアルゼンチン代表デビュー。2010 FIFAワールドカップ、2014 FIFAワールドカップ、コパ・アメリカ2011、コパ・アメリカ2015などの国際大会にエントリーされており、2014 FIFAワールドカップでは準優勝に貢献した。
代表ではリオネル・メッシ、セルヒオ・アグエロ、ゴンサロ・イグアインなどと共に強力な攻撃陣を形成している。
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最終更新:2025/12/05(金) 23:00
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