キスカ島撤退作戦とは、大東亜戦争中の1943年5月27日から7月29日にかけて行われた日本海軍の撤退作戦である。絶望的状況だったにも関わらず、1隻の喪失艦も1名の戦死者も出さずに完遂された事から「奇跡の作戦」とも言われる。
舞台となるキスカ島は、ベーリング海に浮かぶアリューシャン列島を形成する島の一つである。人口こそ少ないが立派なアメリカの領土だった。
1942年6月4日、帝國陸海軍はミッドウェー作戦と並行してアリューシャン作戦を実施。本土空襲を予防する目的でアリューシャン列島西部の要所を破壊ないし占領しようとし、アッツ島には陸軍が、キスカ島には海軍が上陸。両島にはアメリカ軍の守備隊は配置されておらず原住民が住んでいるだけだったので瞬く間に攻略が完了した。元々は一時的な占領で済ませるはずだったが、ミッドウェー海戦の敗北により恒久的な占領に方針を転換、アッツ島は熱田島、キスカ島は鳴神島に改名されている。両島はれっきとしたアメリカの領土だったため日本軍によってアメリカの領土が占領された唯一の例となった。
アリューシャン列島はアラスカにおけるアメリカ軍の拠点ダッチハーバーに近い事もあり、6月10日頃には日本軍の進駐を確認し、列島の南東にあるアムチトカ島からB-17やB-24を発進させて攻撃を開始。対する帝國海軍は特設水上機母艦君川丸や千代田等を使って物資を輸送し、水上機部隊を進出させて応戦した。南洋でソロモン戦線が形成された影響で両軍ともそちらに戦力を集中、アリューシャン方面の戦闘は大規模なものにならず不気味な平穏に包まれる。
1943年2月にガダルカナル島争奪戦が終結、戦いに勝利したアメリカ軍は反転攻勢を強め、その余波はアリューシャン方面にも届く。今まで潜水艦戦力の増強程度しかなかった同方面に水上艦艇が出現するようになり、日本側の輸送作戦を積極的に妨害し始め、日に日に締め付けが強くなっていった。アラスカ半島に程近いアッツ島とキスカ島はアメリカ軍にとって目障りで、またいつまでも国土を占領されている訳にもいかない事情から水面下で奪還作戦を推し進めていたのである。アメリカ軍が来襲するとすればまずアラスカ側のキスカだろうと考え、日本軍はアッツ島守備隊から戦力を抽出してキスカ島防備に充てていたが、5月12日、アメリカ軍は予想に反してアッツに上陸。1万1000名の敵兵に対し、約2650名の守備隊は果敢に抵抗したが、5月29日に玉砕して失陥。アッツ島はアメリカ軍に奪還された。
キスカ島守備隊の将兵5639名はアッツ島とアムチトカ島に挟まれる形となり、本土への退路を断たれた上、勢いを増すアメリカ軍は返す刀でキスカも奪還しようと島を艦隊で完全包囲。アリューシャン列島の制海権も制空権も奪われてしまった。こうなってしまってはもう維持のしようがない。大本営はアリューシャン方面の放棄を決定、キスカ島からの撤退作戦を始める。
1943年5月29日――アッツ島守備隊が玉砕した日――、機密北方部隊命令第11号によりキスカ島からの撤退作戦、通称ケ号作戦の発動が命じられた。ケ号の「ケ」は乾坤一擲の頭文字から取られている。撤退作戦の発動が決まったのも束の間、既にキスカ島にも敵部隊上陸の兆候が見え隠れしており、撤退は火急の課題であった。しかし周辺の制海権は既にアメリカ軍に取られているため潜水艦での撤収を強いられる。
6月2日、第1潜水戦隊司令・古宇田武郎少将が座乗する特設潜水母艦平安丸が幌筵(ホロムシロ)島片岡湾に進出し、ここを拠点に撤退作戦の指揮を執る。内地からは新鋭の巡潜甲型から旧式の練習艦まで使用可能な潜水艦をかき集め、総勢15隻の伊号潜水艦を投入。撤退作戦の内容はというと往路は守備隊向けの医薬品や食糧を輸送、復路ではキスカで収容した傷病兵を乗せて片岡湾に連れ帰る、というもので、言わば敵の監視の目を掻い潜りながら片岡湾とキスカを往来する形となる。最も大きい甲型は100名、乙型は80名、海大型は60名、最も古い伊2型は40名収容出来ると見積もられた。
実はケ号作戦発動前から潜水艦による撤収が始まっていて、5月27日に伊7がキスカ湾へ到着して物資7トンを揚陸、人員60名と遺骨2柱を乗せて片岡湾に帰投している。以降、続々と潜水艦が片岡湾を出発し、敵に見つからないよう息を殺して移動、そして闇夜に紛れながらキスカ湾へ到着して弾薬や食糧を揚陸、帰路は傷病兵を収容して幌筵へ連れ帰った。
しかし如何に伊号潜水艦が大型と言えど潜水艦の収容能力は微々たるもので、全将兵を救出するには膨大な時間を要する上、道中には敵の駆逐艦が遊弋。アリューシャン海域ではたびたび濃霧が発生し、真っ白な霧は日米双方の視界を奪ったが、アメリカ軍の駆逐艦はレーダーを装備しているため濃霧の中でも正確に潜水艦を探知・狙い撃つ事が可能だった。つまり濃霧さえも潜水艦の敵と言えた。このため戦果と釣り合わない損害が発生し、伊24と伊9が立て続けに消息不明となる(伊24は米哨戒艇第487号の攻撃で、伊9は米駆逐艦フラジュールの砲撃及び爆雷攻撃で喪失)。この損害を受けて6月17日、古宇田少将は行動中の潜水艦に現地点付近での待機を命じるが、アメリカ軍のキスカ島に対する砲撃や空襲がますます盛んになってきたため、やむなく翌18日に輸送の再開を命じている。
そんな中、ついに恐れていた事が起きた。
6月21日15時、キスカ湾に向かっていた伊7は突如として砲撃を受ける。司令塔を吹き飛ばされて玉木留次郎大佐や艦長長井勝彦少佐、航海長など主要要員が全員戦死してしまい、先任将校の関口六郎大尉が指揮を引き継ぎ応戦。しかし敵影を発見する事が出来ず、やがて敵艦は去っていったが、損傷でメインタンクが満水になって潜航不能に陥る。15時15分、艦首を旭岬に乗り上げさせてどうにか沈没を避けると、乗組員は応急修理を開始、念のため関口大尉は暗号書1冊を残して機密書類を焼却した。18時、守備隊との連絡がつく。
翌22日午前6時に物資の揚陸が完了、14時45分に排水作業が完了して離礁、18時30分には応急修理も完了するなど明るいニュースが続々と入ってきた。しかし相変わらず潜航不能であり、敵が跳梁跋扈する魔の海を突破して片岡湾に帰投するのは困難に見えた。関口大尉は水上航行での敵中突破を決断。20時に満身創痍の状態でキスカを出発する。
だが出港から間もない21時25分、米駆逐艦モナガンからレーダー射撃を受けてしまう。伊7は必死に応戦したが、次々に命中弾を受けて関口大尉以下多数の乗組員が死傷、無事だった砲術長の進藤尚男中尉が指揮を引き継いでキスカへの反転を試みたが、ついに逃げ切る事は出来なかった。正確無比な砲撃により命中弾多数を浴びて火災と浸水が発生、22時10分には砲弾も撃ち尽くし、戦う術を失った伊7は23時頃に南水道の二子岩へ自ら座礁。生存者は艦を離れて守備隊と合流した。こうして伊7はアメリカ軍の持つ恐るべき高性能レーダーの餌食となってしまい、この事は北洋の絶対的支配者が誰であるかをハッキリとさせるのだった。
進藤中尉からの報告により伊7の最期は第1潜水戦隊司令部に伝わった。この時、司令部は伊7の喪失で「機密文書の一部がアメリカ軍の手に渡ったのでは?」と考え、潜水艦による救助を断念。輸送は計18回行われたが、大損害と引き換えに救出出来たのは全体の15%である872名、揚陸出来たのは弾薬125トンと糧食100トンに過ぎず、未だ4767名の将兵が助けを待っていた。
帝國海軍は伊7の喪失を以って潜水艦での救助を打ち切り、今度は水上艦艇による救助に切り替えた。濃霧が広がる特殊な環境下にあるため空母戦力は一切投入せず、快足の軽巡洋艦と駆逐艦のみが参加、そしてこれまで撤退作戦の主役だった潜水艦は気象報告や索敵など裏方役に回った。今やアリューシャン方面は強力無比なアメリカ艦隊の天下である。まともに戦えば一方的にやられてしまうため、北方海域特有の濃霧を隠れ蓑にしつつ高速でキスカ湾へ突入し、迅速に守備隊を収容する方法で撤退作戦が練られた。
この無理難題に挑むのは叩き上げの指揮官・木村昌福少将。撤退作戦には軽巡洋艦阿武隈(旗艦)、木曾、多摩、駆逐艦長波、夕雲、風雲、秋雲、朝雲、薄雲、響、若葉、初霜、五月雨、そして竣工したばかりの駆逐艦島風が投入された。特に島風は最新鋭の電探を持っていたため成功には不可欠として木村少将が無理を言って参加させている。潜水艦での撤退作戦時は敵だった濃霧だが今回は味方に付けなければならない。重巡那智の乗組員である気象士官竹永一雄少尉が作戦海域の天気予報を行い、濃霧が発生する日を特定してキスカ湾突入時にちょうど濃霧が発生するよう時間を調整する。まさに針に糸を通すような繊細で難しい艦隊指揮が求められていると言える。他にも阿武隈の3本煙突のうち1本を白く塗りつぶしたり、駆逐艦響に偽装煙突1本を追加するなどアメリカ軍に味方と誤認させる工作がなされた。
6月29日、救出艦隊の出撃に先立って潜水艦部隊が幌筵を出発。所定の位置に配備され、気象情報を送る役割を担った。
7月7日19時30分、救出部隊は幌筵を出撃した。艦隊は厳重な無線封鎖を実施し、米軍機の哨戒圏を避けるため一旦南へ迂回。Z地点と呼ばれるポイントで北東に針路を取り、濃霧の中に隠れながらキスカ島を目指した。突入予定日を前日に控えた7月10日、高気圧によって無情にも霧が晴れ始めた。これでは敵に見つかる危険性が高いとして、木村少将は突入を延期。キスカ島守備隊から送られてくる気象通報によると天候悪化の兆しが見えており、待っていれば再び霧が発生する可能性があった。しかし同時に敵艦隊もキスカ島へ接近していた。7月14日の午前は荒天だったが、午後に入ると天候は回復し予報どおり霧が発生。16時よりキスカ島に向けて出発し、阿武隈を先頭に単縦陣を組んだ。しかし翌15日午前3時、必死の祈りを嘲笑うかのように霧が晴れ始めた。木村少将は、作戦を続行するか中断するかの難しい決断を迫られる。五月雨、島風の艦長からは突入を望む声が聞こえてくる。そんな中、戦隊気象長として便乗していた竹永少尉から「天候が回復しつつある」との助言を受ける。加えて守備隊からも「敵が厳重な哨戒線を張っている」との情報がもたらされる。ビスマルク海海戦で航空支援を受けられない事がどれほど恐ろしいかを身をもって知っていた木村少将は退却を決意。
午前9時5分に作戦の中止を決定し、「帰ろう、帰ればまた来られるからな」と呟いたという。続いて各艦に向けて反転の信号を出し、帰路についた。このあと霧は完全に晴れ上がった。7月18日、幌筵へ帰投。
木村少将を待っていたのは連合艦隊司令部や大本営からの厳しい叱責であった。「何故突入しなかった!?」「今すぐ出撃してキスカ湾に突入せよ!」と矢継ぎ早に非難を受けた。実は幌筵基地の重油備蓄量はかなり減っており、あと1回分の出撃しか無かった。低温環境で作動する重油は樺太北端にあるオハ油田産の粘度の低いものしかなく、おいそれと補給できるものではなかった。また8月に入れば濃霧の発生が期待できなくなり、時間切れ…すなわちケ号作戦の完全な失敗を意味していた。上層部が突入を急かすのは
こういった事情があった。激しい罵詈の嵐を木村少将はただひたすら耐え、そして次の濃霧の発生を待った。帰投するや否や、艦隊にはあわただしく補給が行われて出撃準備が整った。待ち続けること一週間、ついにその時がやってきた。7月22日の天気図は、北太平洋に長期の濃霧が発生する事を示していた。幌筵の気象台も「25日以降、キスカ島周辺で確実に霧が発生する」と報告した。燃料的にもタイムリミット的にも次が最後のチャンスである。キスカ島で助けを待つ将兵の命運は、木村少将の手腕にかかっていた。竹永少尉の天気予報によると7月29日にキスカ島が濃霧に包まれるという。突入日は29日に定められた。
何が何でも突入させるため、軽巡多摩には監視役の第5艦隊司令部が乗り込んだ。作戦指揮を執るというが突入前に帰るという事で、監視される側は不平不満を申し立てた。不協和音が聞こえる中、最後の撤退作戦が始まろうとしていた。待っているのは破滅の未来か、それとも…。
出撃は7月22日19時となっていたが、泊地内にも濃霧が広がっていて出撃どころではなかった。やむなく時間をずらし、20時10分に抜錨した。出港後、艦隊は針路180度を取って14.5ノットの速力で航行。時折警笛を鳴らしながら互いに位置を確認した。しかし視界不良の影響で補給隊の特設給油艦日本丸と海防艦国後が行方不明になる。7月24日15時10分、木曾に搭載されていた陸軍の高射砲を試射したところ、30分後に前方の航路上で日本丸が発見された。どうやら砲声を聞きつけて来たようだ。幸運に助けられ、再度キスカ島を目指して進撃する。守備隊からは激しい艦砲射撃や爆撃を受けているという悲痛な報告が飛び込んでくる。
7月26日、幸運の次は不運がやってきた。行方不明になっていた国後が突如濃霧の中から現れたのである。視認した時には既に回避不能の距離で、国後の艦首が旗艦阿武隈の右舷中央に衝突。この影響で単縦陣が崩れ、駆逐艦初霜の艦首が若葉に、艦尾が長波の左舷に接触する多重事故が発生した。阿武隈と長波は航海に支障は無かったが、若葉と初霜は戦速を出せなくなり、この2隻は突入から外された。若葉は修理のため自力で幌筵へ、初霜は補給隊の護衛となって艦隊から離れた。7月28日、艦隊はキスカ島の近海まで到達。しかし頼りの霧は突入を待たずに晴れ始めており、多摩に座乗している第5艦隊司令部は適切な判断を下せずにいた。一方で阿武隈の木村少将や幕僚たちは突入の意思を固めていた。気象班、潜水艦部隊、守備隊がそれぞれ「翌29日は濃霧の公算大」と報告しており、彼らを信じて賭けに出ようとしていた。
7月29日、ついに突入予定日である。気象班や守備隊が報告した通り、待望の濃霧が広がっていた。軽巡多摩では濃霧のため哨戒機を出せない事を伝える敵の通信が傍受された。木村少将は多摩に向けて「本日の天佑我にありと信ず、適宜反転されたし」と信号を発し、午前7時に多摩からも発光信号で「御成功を祈る」と伝えてきた。旗艦阿武隈を先頭に単縦陣を組み、キスカ湾へと向かう。突撃中、阿武隈が敵艦隊発見を報じ、艦隊に緊張が走る。阿武隈と島風が魚雷を発射し、全弾命中させた。…が、魚雷を当てたのは敵艦によく似た形の島で、単なる誤認であった。キスカ湾に近づくと、にわかに霧が晴れ始めた。ちょうどキスカ湾に一筋の光が注がれており、その幻想的な光景は救出艦隊を誘導しているかのようだった。13時40分、キスカ湾に到着。不思議なことに敵艦隊の姿は全く無く、湾内に入ると強風が吹いて一気に霧が払われた。おかげで座礁や接触を気にする事無く、迅速に動けた。各艦が所定の位置へ移動し、あらかじめ待機していた陸海軍の部隊が大発によって次々に収容されていく。収容作業短縮のため守備隊は重火器を捨てて身軽になっており、これが作業を円滑なものにした。おかげで2時間を予定していた収容が僅か1時間で完了。全将兵が無事乗艦し、14時25分に出港用意のラッパが鳴り響く。艦は続々とキスカ湾から離れていき、最後の艦が湾を離れた時、無人のはずのキスカ島から万歳の唱和が聞こえてきたという。「アッツ島で玉砕した英霊が助けてくれたんだ」とみんなで涙を流した…。またアッツ島を横切った時にも万歳の声が聞こえたらしく、人知を超えた何かが起きていたのは間違いない。
キスカ湾を出た艦隊は第四戦速に上げ、二手に分かれて幌筵を目指した。湾外へと出て行った直後に再び濃霧が発生し、敵機の目から艦隊を覆い隠してくれた。7月30日、帰投中の艦隊が1隻の米潜水艦に発見される。だが米潜はアメリカ艦に偽装している木曾を味方と誤認し、何事も無く去っていった。そして7月31日15時15分に最初の艦隊が幌筵に入港。8月1日午前5時45分に後続の艦隊も入港し、在泊艦艇から撤収成功を祝う帽振れが行われた。気象観測に出た潜水艦部隊も全艦帰投。あの絶望的な状態から1隻の喪失艦も出さずに撤収を成功させるという、後世に残る世紀の大奇跡が起きたのだった。
厳重にキスカ島を包囲していたはずのアメリカ艦隊が、何故救出艦隊の突入を許してしまったのか。今度はアメリカ側の視点で見てみよう。
包囲網を形成してから、アメリカ艦隊はキスカ島への苛烈な艦砲射撃を行っていた。もちろん周辺海域には戦艦2隻、重巡4隻、軽巡1隻、駆逐艦9隻などが封鎖を行っており、仮に日本艦隊が来れば簡単に討ち取れるはずだった。ところが7月22日を機に、不思議なことが起きる。哨戒中のカタリナ飛行艇がアッツ島南西200海里で7隻の艦影をレーダーで捕捉した。日本の艦隊と思われたが、この時木村少将率いる救出艦隊は幌筵にいて当該海域にはいなかった。7月26日、キスカ島南西200海里にレーダーに日本艦隊と思われる艦影を捕捉。一説によるとミッドウェーで沈んだはずの4隻の空母だったという。アメリカ艦隊は一斉にレーダー射撃を行い、36cm砲弾118発、20cm砲弾487発を発射。40分後に反応が消えたことで全滅させたと思った。しかしこの時も救出艦隊はおらず、レーダーの誤作動が生み出した幻の存在だった。また、何故か重巡サンフランシスコのレーダーにだけは反応しなかったという不可解な点も付随した。敵艦隊が発した緊急の平文は救出艦隊にも傍受されていて、「どうやら同士討ちをやっている」と思ったとか。
そうとは知らずに日本艦隊を壊滅させた(と思った)アメリカ艦隊は、消費した弾薬を補給するため包囲を解く事にした。そして油断からか哨戒用の駆逐艦まで引き上げさせてしまい、7月28日にキスカ島周辺は完全にがら空きとなった。その包囲が解けた日に木村少将の艦隊が突入したのである。まさに奇跡としか言いようがなかった。補給を終えた米艦隊は7月30日に舞い戻り、再び包囲網を形成。軍用犬2匹しか残っていないキスカ島へ砲撃を開始し、上陸作戦に備えて撃ちまくった。
アメリカ軍はキスカ島を航空偵察していたが、走るキツネの群れを日本兵の移動と勘違いしたり、空襲で生じた煙幕を対空砲火のものと勘違いするなど有り得ないミスを連発し、まだキスカ島に日本兵が残っていると確信。そして8月15日にコテージ作戦を発動し、100隻以上の艦艇に支援された3万4426名の兵士が上陸。この日は濃霧に覆われており、極度の緊張から動くものを全て日本兵と断じて射撃。結果、味方を敵と誤認して壮絶な同士討ちとなり、122名が戦死する事態となった。海上でも混乱が生じ、駆逐艦1隻が誤射で大破している。手痛い犠牲を出しながらもキスカ島は奪還された。戦史研究家のサミュエル・E・モリソン氏は「史上最大の最も実戦的な上陸演習だった」と皮肉を言っている。
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最終更新:2025/12/06(土) 23:00
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