レイテ沖海戦とは、太平洋戦争後期の昭和19年(1944年)10月、フィリピン諸島をめぐって繰り広げられた日本海軍とアメリカ海軍の海戦である。日本海軍(連合艦隊)の水上艦が組織立って出撃した、最後の海戦となった。
昭和19年6月19日のマリアナ沖海戦において、日本海軍は中部太平洋・マリアナ諸島へ進出してきたアメリカ海軍を攻撃するも、約400機の空母艦載機と正規空母「大鳳」・正規空母「翔鶴」・改装空母「飛鷹」を失う大損害を被り、ミッドウェー海戦とガダルカナル島攻防戦での消耗から立ち直ったばかりの空母機動部隊が事実上壊滅。サイパン島・グアム島などのマリアナ諸島も玉砕して米軍の手に落ち、戦局打開のための防衛ラインと位置づけていた「絶対国防圏」は崩壊してしまう。
マリアナ失陥により、日本本土への米軍の空襲・上陸が現実味を帯びてきた責任を負う形で、東條英機内閣は総辞職。近衛文麿・岡田啓介ら重臣(総理大臣経験者)の協議により、小磯国昭内閣が成立する。小磯内閣はあくまで戦争継続内閣であり、米軍の撃破は不可能であるにしても何らかの打撃を与えることで、少しでも有利な形での講和をしようと目論んでいた。
政変直後の7月26日、日本陸海軍は新たな防衛・反攻作戦を策定。「捷号作戦」(しょうごうさくせん)と命名される。「捷」は「勝」とほぼ同じ意味の漢字である。
捷号作戦は日本列島とフィリピン諸島のラインを4つの区分に分け、フィリピンを「捷一号」、九州南部・南西諸島・台湾を「捷二号」、本州・四国・九州北部・小笠原諸島を「捷三号」、北海道・千島列島方面を「捷四号」とした。このうち実際に米軍が攻めてきたのはフィリピンだったので、「捷一号作戦」が発動されることとなる。
マリアナ沖海戦直前の6月6日より、ヨーロッパ戦線ではノルマンディー上陸作戦からドイツ占領下フランスへの進撃が始まっており、太平洋戦線の米軍の展開も、それとの兼ね合いで流動的な面があった。上層部では、台湾への進撃を主張する作戦部長・キング海軍大将と、フィリピン攻略を主張する南西太平洋方面司令官・マッカーサー陸軍大将が対立。海軍大将ハルゼーの率いる機動部隊(第3艦隊/第38任務部隊)は、8月末に小笠原、9月上旬にパラオ、9月中旬にフィリピンを空襲する。フィリピンへの攻撃に対し日本側は有効な反撃ができず、200機以上の航空機を撃破される(このことが、レイテの戦いから特攻戦術を採る原因のひとつとなる)。
10月10日、ハルゼー艦隊は沖縄を空襲。12日からは台湾を攻撃する。ここで発生したのが、いわゆる「大本営発表」の誇大戦果報告の極地として名高い台湾沖航空戦である。この戦いで米側は重巡洋艦2隻大破と90機程の航空機損害だったのに、日本側は帰還した航空隊員のもたらす「戦果」を鵜呑みにし、大本営は「空母11隻・戦艦2隻など撃沈、空母8隻・戦艦2隻など撃破」という全く事実とかけ離れたことを発表、昭和天皇にも上奏している。
その後の偵察などで、ハルゼー艦隊が健在であることが判明したものの、事情を知るのは一部の海軍幕僚のみで、大本営発表や上奏の訂正は行われなかった。このため、フィリピン防衛の陸軍などが少なからず「大戦果」の認識のままにあり、10月中旬にレイテに現れた米陸海軍を「台湾沖の敗残兵」だと思い込んでいたともいわれる。
台湾沖航空戦で日本側は300機以上の航空機を喪失。先のフィリピン空襲での損害もあり、次の米軍の攻撃に対して基地航空隊による効果的な反撃行動は望み難いものとなった。
マリアナ沖海戦の後、日本海軍の艦艇は、空母部隊は本土へ帰ったものの、戦艦・重巡などの部隊は本土から、東南アジア・シンガポール沖のリンガ泊地に入っていた。これは米潜水艦の通商破壊作戦によって本土の燃料備蓄が逼迫しつつあり、本土での訓練や艦隊出撃が困難になっていたためである。マリアナ沖海戦でも、参加した海軍のほとんどの艦艇は本土からではなくリンガ泊地から出動している。
マリアナ沖海戦で多数の航空機と三空母を喪失、さらに台湾沖航空戦でも空母艦載機を基地航空隊として運用・消耗したことにより、機動部隊の戦力は無いに等しいものとなっていたが、それでも正規空母「瑞鶴」・軽空母「瑞鳳」などを編成して、表面上は主力艦隊の体を取り繕うことができた。
海軍はこれを利用し、本土から出撃する空母部隊が囮となってハルゼー艦隊をフィリピン沖から引き離し、その隙に南方から戦艦・重巡部隊がレイテ湾へ殴り込みをかけ、レイテ島へ上陸した米軍や輸送船団を艦砲射撃で駆逐することを目論んだ。これが海軍の捷一号作戦である。
栄光の連合艦隊、最後の組織的艦隊は以下のように編成された。
この他に潜水艦艦隊の「第六艦隊」があり、フィリピン東方での索敵に従事したが、結果的に戦局に寄与することは無かった。陸軍は、山下奉文大将を司令官とする第14方面軍がフィリピン防衛を担当。
海軍はマリアナ沖海戦の直前(昭和19年3月)、水上打撃部隊(第二艦隊)と空母部隊(第三艦隊)の統括艦隊として「第一機動艦隊」を編成。第三艦隊の小沢長官を機動艦隊長官兼任とし、
連合艦隊(豊田副武 大将)
├―――――――――――┬――――――――――┬――――――┐
第一機動艦隊(小沢) 中部太平洋方面艦隊 第一航空艦隊 その他
┌――――┴――――┐ (南雲忠一 中将) (角田覚治 中将)
第二艦隊 第三艦隊
(栗田) (小沢)
という司令系統を敷いた。しかしマリアナ沖海戦で空母航空隊が壊滅。加えて第二艦隊はブルネイ、第三艦隊は本土から出撃となって、第二艦隊が第一機動艦隊指揮下のままでは、遠隔地での作戦指揮で不都合を生じることが予想されたため、小沢の申し出も有り、
連合艦隊(豊田)
├―――――――――┬――――――――――┬――――――┬―――――――――┐
第一機動艦隊(小沢) 第一遊撃部隊(栗田) 南西方面艦隊 第二航空艦隊(福留) その他
| | (三川軍一 中将)
第三艦隊(小沢) 第二艦隊(栗田) ├―――――――┐
第二遊撃部隊(志摩) 第一航空艦隊(大西)
という司令系統に変わった。これはこれで一見合理的であるが、横浜(慶應義塾大学日吉キャンパス内)の連合艦隊司令部が全艦隊の行動を把握しなければならなくなり、結果として遠く南方から断片的に届く電信に翻弄されて、連合艦隊の作戦指導は要領を得ないものになってしまった。
「南西方面艦隊」は東南アジア方面における海軍の出先組織。
「第二遊撃部隊」となった志摩中将の艦隊は、もともと第一機動艦隊で空母護衛任務に就いていたが、台湾沖航空戦の「大戦果」を受けて「敗走する米軍」を追撃するために、機動艦隊から引きぬかれて出撃。米軍の健在がわかって引き返したものの、機動艦隊に戻されることなく台湾でいたずらに遊兵化させてしまう。
最終的に、海戦直前の10月18日になって南西方面艦隊に編入され、南側からレイテ突入を図る西村艦隊の後を追う形で進攻することとなった。
10月18日、大本営は捷一号作戦を発令。海軍のレイテ突入は25日と定められる。栗田艦隊はリンガ泊地を出撃し、ブルネイに向かう。
19日、小沢艦隊は瀬戸内海を出撃。米軍潜水艦が豊後水道で監視に当たっていたが、小沢艦隊の移動と前後して九州沖へ配置転換したので、艦隊は潜水艦に見つからずに太平洋へ出る。のちに米軍は暗号解読で機動部隊の出撃自体は察知したが、行き先までは把握できなかった。
20日、栗田艦隊はブルネイに入港。しかし予定していたタンカーの到着が遅れたため、この日は給油ができなかった。故に遅れを取り戻すため、22日の出撃で艦隊は潜水艦襲撃の危険があるパラワン水道ルートを通ることになる。
同日、レイテ島へ米軍の上陸作戦開始。
同日、第一航空艦隊(大西中将)は神風特別攻撃隊を初編成。訓示と命名式を行う。
21日、志摩艦隊台湾を出撃し、マニラへ向かう。第一航空艦隊は神風特別攻撃隊(敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊)の24機を出撃させるが、悪天候に阻まれて攻撃できず。
22日、一日遅れで給油を終えた栗田艦隊は、主力(第一群・第二群)が8時にブルネイを出港。15時30分、第三群(西村艦隊)がブルネイを出港。志摩艦隊はマニラ行きを中止し、西村艦隊の後を追うべくコロン島へ向かう。
パラワン島はフィリピンの南西、ボルネオ島(カリマンタン島)に向かって伸びる細長い島。この島と、南沙諸島との間にある海峡がパラワン水道。多島海にあって海峡の幅は狭く、潜水艦の襲撃にはもってこいの場所である。
午前1時頃、米軍潜水艦2隻(「ダーター」「デース」)が海峡を一列縦隊で通る栗田艦隊を発見。ハルゼーに通報し、追跡を開始する。栗田艦隊の方でも敵潜の存在は察知していたが、狭い海峡では回避運動も取れず、とにかく一刻も早く通過する他無い。しかし6時半ごろ、米潜の魚雷攻撃は旗艦「愛宕」と後続の重巡「高雄」に命中。「高雄」は大破・漂流し、「愛宕」は6時53分に沈没する。7時前、重巡「摩耶」にも魚雷が命中し、「摩耶」は7時8分沈没。旗艦の撃沈で、艦隊はたちまち大混乱に陥った。
海戦の前、栗田艦隊の小柳富次参謀長は連合艦隊に対し、旗艦を重巡の「愛宕」から、防御力と通信力に勝る戦艦「武蔵」(2代前の連合艦隊旗艦)へ変更したいと申し出ていたが、巡洋艦による高速・夜戦と「指揮官陣頭主義」の観念に固執する連合艦隊に却下され、仕方なく戦艦「大和」(第一戦隊旗艦)を万一の場合の予備旗艦に指定しておくにとどまっていた。
沈みゆく「愛宕」から泳いで脱出した栗田長官以下艦隊司令部は、駆逐艦「岸波」に救助ののち、16時23分「大和」へ移乗。「大和」の艦橋は、宇垣纏中将の戦隊司令部要員と、後から乗ってきた栗田中将の艦隊司令部要員でひしめき合うことになる。
大破した「高雄」は21時40分になって応急修理ができ、駆逐艦「朝霜」「長波」の護衛でブルネイへ引き返した。第四戦隊で唯一生き残った重巡「鳥海」は、臨時に第五戦隊(重巡「妙高」「羽黒」)へ編入。栗田艦隊はここで早くも、重巡3と駆逐2を戦列から失った。
この日、マッカーサーはレイテ島へ上陸。3年前の「I shall return」の公約と雪辱を果たした。
同日、コロン湾に入った志摩艦隊だったが、こちらもタンカーと会合することができず、仕方なく重巡から駆逐艦へ燃料補充を行った。栗田本隊と別行動を取る西村艦隊は、パラワン島の南を抜けてスールー海へ入った。
体制を立て直した栗田艦隊は明けて24日、シブヤン海にさしかかる。シブヤン海はフィリピン諸島中央部のやや広い海域で、ここからルソン島東南端のサンベルナルジノ海峡を通って太平洋へ出、島沿いに南下してレイテ島へ向かうのが栗田艦隊の予定コースである。
※24日8時の陣形 進行方向・東 ▲:戦艦 △:巡洋艦 ○:駆逐艦
浜風○ 藤波○
磯風○ 浦風○ 浜波○ 秋霜○
利根△ 筑摩△ 長門▲ 鳥海△榛名▲ 金剛▲ 矢矧△ 羽黒△ 大和▲ 能代△ 島風○
鈴谷△ 熊野△ 武蔵▲ 妙高△
雪風○ 野分○ 沖波○ 早霜○
清霜○ 岸波○【1YB第二群】 【1YB第一群】
8時20分、栗田艦隊は米軍の索敵機に発見される。この時フィリピン東部に展開していたハルゼーの第3艦隊は正規空母5、軽空母6、戦艦6を基幹とする大機動部隊。10時26分、第一波の攻撃隊が栗田艦隊に襲いかかる。この攻撃で戦艦「武蔵」と重巡「妙高」が被雷。速力が半減した「妙高」は落伍し、第五戦隊司令部を僚艦「羽黒」へ移して単独で戦線離脱する。
第二波・第三波と空襲が繰り返される中、米軍機の目標は戦艦「武蔵」に集中した。ブルネイ出撃直前、船体を塗りなおしたのを「死装束のようだ」と言われた「武蔵」は、輪形陣中央の旗艦「大和」からやや離れた位置におり、一説では「被害担当艦」を想定されていたという。魚雷命中の水柱と、猛爆撃の黒煙に包まれる「武蔵」の写真が残る。
浸水で艦首が沈み、速力は低下。第一群の輪形陣から落伍し、後続の第二群の輪形陣との間に取り残される格好となった「武蔵」へますます攻撃は激化し、推定で各20発の魚雷と爆弾が命中。14時53分、栗田長官は「武蔵」に駆逐艦「清霜」を護衛として戦線離脱を命じ、「清霜」と重巡「利根」、駆逐艦「島風」「浜風」が警戒にあたった。
米軍の攻撃は「武蔵」へ集中されたが、他の艦も大なり小なり損害をこうむった。重巡「妙高」は戦線離脱。戦艦は「大和」も「長門」も爆弾が命中し、「長門」は一時機関が停止した。他、重巡「利根」軽巡「矢矧」駆逐艦「清霜」「浜風」も爆弾で損傷。栗田艦隊は、計画では約束されていた航空機の防空支援が全く行なわれ無いことに苛立ち、刻々と増加していく空襲損害にたまりかね、いったん反転・空襲圏外への離脱を決意する。
作戦計画ではこの日、小沢艦隊がハルゼー艦隊を北方へ誘引し、栗田艦隊はその間隙を縫ってシブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けるはずだった。ところが、ハルゼー艦隊が北から接近する小沢艦隊を発見したのはこの日の夕方だったため、日中の栗田艦隊は米機動部隊の猛攻に曝される羽目に陥った。
基地航空隊は、第二航空艦隊が栗田艦隊の上空警護ではなく米艦隊への直接攻撃を行なっていた。しかし戦果は捗々しくなく、わずかに軽空母「プリンストン」を撃沈するに留まる(しかもこの攻撃が、米軍の関心を対空戦に回してしまって、小沢艦隊の発見を遅らせた可能性がある)。
第一遊撃部隊 一六〇〇電 (※略)
・・・1YB主力ハ日没一時間後『サンベルナルヂノ』強行突破ノ予定ニテ進撃セルモ・・・逐次被害累増スルノミニシテ・・・一時敵機ノ空襲圏外ニ避退シ友隊ノ成果ニ策応シ進撃スルヲ可ト認メタリ・・・
15時30分に後退を発令(16時付、連合艦隊通知)した栗田艦隊は、西方へ転進する。
16時40分、米空母「レキシントン」の索敵機は南下してくる日本空母艦隊(小沢艦隊)を発見。栗田艦隊の反転を「退却」と判断したハルゼーは、栗田艦隊に貼り付けていた索敵機を呼び戻し、麾下の戦力を集結。翌25日の出撃を期し、20時過ぎに全力北進を開始した。
西進する栗田艦隊は、まだ日が沈んだわけでもないのにパッタリ空襲が途絶えたことを訝しんでいた。先の後退電に対する連合艦隊からの返信は来ないし、小沢艦隊からの連絡もない(※17時15分付電で「瑞鶴」は米索敵機の出現を発信したが、「大和」には受信記録が無い)。とはいえ、空襲が無いのなら幸いである。17時14分、栗田艦隊は連合艦隊の返電を待たず再び東進を開始した。
18時頃、栗田艦隊は「武蔵」とすれ違う。「大和」と「武蔵」の間で発光信号が交わされる。「武蔵」の状態は『機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』。18時30分頃、「武蔵」は前日に救助していた重巡「摩耶」の乗員を駆逐艦「島風」に移送。「島風」は栗田本隊に戻り、同じく「武蔵」警護に当たっていた重巡「利根」も艦隊へ復帰する。
19時15分頃、傾斜を増した「武蔵」は総員上甲板を発令。19時30分、総員退艦。護衛の駆逐艦「清霜」「浜風」が救助にあたる(「浜風」は半年後、戦艦「大和」と運命を共にする)。両艦は救助作業ののち、マニラへ撤退。
19時35分、「武蔵」沈没。猪口敏平艦長以下1000名余が戦死。「島風」へ移らず「武蔵」に残った、重巡「摩耶」乗員100名余も沈没する「武蔵」と運命を共にした。『当時便乗しおりたる摩耶乗員はそれぞれ固有戦闘配置に応じ本艦戦闘力を増強する配備に就き極めて勇敢に奮闘努力し其の功績顕著なるものありしことを特筆す』と、戦闘詳報にある。
連合艦隊 一八一三電
天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ
有名なこの命令は、栗田艦隊が進撃を再開した後の24日18時13分付で発信されたものである。相次ぐ被害報告に、栗田艦隊が退却するのではないかと危惧した連合艦隊が、発破をかける意味で送ったもので、栗田艦隊・小沢艦隊ともに受信記録がある。
時系列的に、栗田艦隊は先の16時付で送った「一時退却」電に対する返信と受け取った(しかも、あまりに中身が無いので処置に困った)のだが、実は連合艦隊が栗田艦隊の「一時退却」電を受領したのは、この「天佑」電を送った更に30分後で、今度は連合艦隊の側が「一時退却」電を「天佑」電に対する意見具申か何かと受け取り、余計に混乱した。連合艦隊は、19時55分付で「一時退却」電を不可とする返信を送ったが、これを「大和」が受領したのは23時52分。既に栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡にさしかかるところだった。
栗田艦隊の被害報告を傍受していた小沢艦隊の通信員は、戦場から遠く離れた本土からの「催促」に「いささか抵抗感を覚えた」と証言している。
第一機動艦隊 一七一五電
敵艦上機機動部隊本隊ニ触接中一六四五位置地点レヨ四ケ(注:エンガノ岬の東180海里付近)
小沢艦隊がハルゼー艦隊に発見されたことを知らせる最も重要な電信だが、これを栗田艦隊は受信していない(連合艦隊は受信している)。小沢艦隊→栗田艦隊の信号が全て不達だった訳ではなく、小沢艦隊が早く米軍と接敵するべく前衛部隊を分派した信号などは「大和」でも受信しているが、この肝心の一七一五電を受信できなかったため、栗田艦隊は小沢艦隊の囮作戦の成否を把握できなかった。なおかつ、現に空襲を受けているのだから「失敗」と考えてもおかしくない。
一方東京の軍令部(野村實・参謀)は、米軍は小沢艦隊を発見しているが、まず先に、レイテに近づきつつある栗田艦隊を攻撃しているのだと認識していたという。
第一遊撃部隊 一九三九電 (ミンドロ島サンホセ基地宛)
1YB進撃中「レガスピ」東方「サマール」島東方及「レイテ」湾ノ総合敵情報速報セヨ
進撃を再開した栗田艦隊が、サンベルナルジノ海峡出口の敵艦隊の位置を知らせるよう、19時39分付で水上偵察機隊に送った命令文。栗田艦隊は東進を悟られぬよう、再反転をすぐには連合艦隊等へ通告せず、進撃再開から2時間半ほど経過したこの電信で初めて「進撃中」の語句を使った。
しかしこの信号は連合艦隊も小沢艦隊も傍受しておらず、栗田艦隊が退却なのか進撃なのか把握出来ずにいた。
第一遊撃部隊 二二一三電 (※略)
・・・1YB主力ハ全滅ヲ賭シ「タクロバン」泊地ニ突入敵部隊ヲ殲滅セントス 航空部隊ハ全力ヲ挙ゲ敵機動部隊攻撃ヲ強行 全軍作戦目的達成ニ挺身セラレンコトヲ切望ス
シブヤン海を通過しつつあった栗田艦隊がはっきりと進撃の意思を示した信号で、連合艦隊は受信。ともあれ、栗田艦隊は進撃中であると判断した。しかし、小沢艦隊ではこれを受信できなかった。このため小沢艦隊は、先の「天佑」電で栗田艦隊も進撃を再開しただろうという希望的観測をするに留まることになる(※戦後、小沢艦隊の戦艦「伊勢」「日向」を指揮していた松田千秋少将は、小沢長官は栗田艦隊の再進撃を知らなかったと証言している)。
第2戦隊戦艦「山城」を旗艦とする西村祥治中将の艦隊は、栗田艦隊本隊とは別行動を取り、パラワン島の南からフィリピン南西のスールー海へ入る。
24日朝、艦隊はスールー海で米索敵機に発見され、空母「エンタープライズ」と「フランクリン」艦載機の小規模な攻撃を受けたが、両空母はすぐにシブヤン海の栗田艦隊攻撃に転進したため、西村艦隊は空襲の損害無く、ある意味順調に航海を続け、スールー海→ボホール海からスリガオ海峡の南口に達したのは25日午前1時30分。計画では午前5時30分にスリガオ海峡南口に至り、それから栗田艦隊と歩調を合わせてレイテ湾へ同時突入することになっていたから、西村艦隊の進撃は4時間も早まったことになる。
しかしシブヤン海の戦いで栗田艦隊は後退を余儀なくされ、再進撃を開始したもののサンベルナルジノ海峡通過は25日午前1時、レイテ湾突入は午前11時ということとなり、「同時突入」の計画は最早成り立たなくなってしまっていた。
西村中将が栗田艦隊の一時後退と再進撃を把握していたかどうか定かではないが、24日20時13分付の栗田艦隊本隊宛電信では25日午前4時のレイテ湾突入を報じており、この時点で西村艦隊が計画を繰り上げ、単独での突入を決意していたことがわかる。
一方、西村艦隊を追う形で台湾から南下してきていた志摩清英中将の艦隊(第二遊撃部隊)は、23日にコロン島(シブヤン海の入り口付近)に達したが、上記のようにタンカーとの連絡に失敗。重巡から駆逐艦へ燃料を分ける作業ののち、スールー海からスリガオ海峡へ向かう。
第二遊撃部隊(志摩艦隊)は、もと第一機動艦隊で空母護衛の任につき、その後引き抜かれて台湾で遊ばされ、海戦直前になって南西方面艦隊指揮下で出撃した艦隊である。このため目的地を同じくする部隊でありながら、主力部隊を率いる栗田中将の指揮を受けず、栗田艦隊・西村艦隊と作戦調整をすることも無く、また志摩と西村は海軍兵学校の同期生(39期)だったが、志摩のほうが先に中将に進級(昭和18年5月。西村は11月)していたため、ハンモックナンバーの下位は上位を指揮できないという海軍の不文律(要するに年功序列)により、西村が志摩を指揮下におくことも出来なかった。このため両艦隊は、てんでバラバラにスリガオ海峡へ突入することになる。
第2戦隊司令官(西村中将) 1YB(栗田)・2YB(志摩)宛
0130スリガオ水道南口通過「レイテ」湾突入 魚雷艇数隻ヲ見タル外敵情不明
天候スコールアリ 視界漸次良クナリツツアリ
24日夜半から米軍水雷艇と断続的に交戦していた西村艦隊は、25日午前1時30分過ぎ、スリガオ海峡へ突入。水雷艇と交戦しつつ北上。駆逐艦「時雨」は2時53分に敵艦隊発見を記録する。
米艦隊は戦艦6・重巡4・軽巡4・駆逐28の第77任務部隊。「ペンシルベニア」「メリーランド」など戦艦の多くは、真珠湾攻撃で着底・大破させられたのを浮揚・修理したもの。旧式ゆえに空母機動部隊での運用はできなかったが、代わりにキンケード中将指揮下の「第7艦隊」として、陸軍の輸送護衛・上陸戦での艦砲射撃に従事。「マッカーサーの海軍」の異名をとる部隊へと生まれ変わっていた。
中央に「山城」「扶桑」、左に「最上」、右に「満潮」「山雲」「朝雲」「時雨」を配して北上する西村艦隊に対し、待ち構える米艦隊は日本海海戦もかくやと言わんばかりの完全な丁字戦法を取る。左右からは駆逐艦隊が襲いかかり、3時過ぎから米艦隊は猛烈な砲雷撃を開始。西村艦隊は右90度回頭で反撃を試みるが、たちまち砲と魚雷の命中弾を被る。駆逐艦「山雲」が轟沈し、「満潮」「朝雲」航行不能(のち撃沈)。「山城」も1番・2番以外の主砲塔が使用不能となる。
4本の魚雷が命中した戦艦「扶桑」も落伍。「最上」が「山城」に続行する形となり、このためか「山城」は「扶桑」の落伍を把握していなかったと言われる。3時38分、「扶桑」は大爆発を起こし炎上。船体が2つに割れて漂流する。
「山城」「最上」「時雨」の3隻となった西村艦隊は北上を続行。3時30分、西村は栗田に「山城被雷1、駆逐艦2隻被雷」を報じる(「大和」4時15分受領)。3時40分、「山城」から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク 各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ 敵ヲ攻撃スベシ」を発令。これが旗艦の最後の命令となった。3時50分頃より米戦艦群と砲火を交えた「山城」は大破・大火災。あの独特な形の前檣楼が、炎の中崩れ落ちていったという目撃証言がある。1番・2番砲塔はなおも砲撃を続けていたが、4時19分に「山城」は転覆・沈没していった。生存者は10名足らず。
「午前3時スリガオ海峡突入」を栗田に報じていた志摩艦隊は途中、軽巡「阿武隈」が米水雷艇の攻撃で被雷損害を受け(翌26日、退避中に米軍機の空襲で撃沈)、結局戦場に到着したのは午前4時過ぎ。艦橋に直撃弾を受けて炎上する「最上」(艦長ほか首脳部壊滅。砲術長が代行)の傍を通り、電探射撃で魚雷を発射したが、これは島影を誤認したもので成果は無かった。
4時30分、魚雷斉射して南に走り出した志摩艦隊旗艦「那智」と、炎上中の「最上」が衝突。「那智」側が、微速撤退中の「最上」を停止と誤認したことによるものだった。状況把握の難を認めた志摩艦隊は、戦場離脱を決意。「最上」にも駆逐艦「曙」を護衛として離脱を命じ、4時49分付で栗田艦隊に対し「第2戦隊全滅 最上大破炎上」を通報した。
志摩艦隊が離脱していった同じ頃、漂流中の「扶桑」の船体が沈没する。「扶桑」の生存者は無し。離脱を試みた重巡「最上」は、夜明けとともに米艦載機の空襲を受けて損害が増加。生存者を駆逐艦「曙」に移し、同艦の魚雷により処分された。駆逐艦「時雨」は、途中で舵故障しながらもかろうじて単艦離脱を果たした。
こうして西村艦隊は壊滅、志摩艦隊は戦場を離脱した。ほとんど為す術無かった志摩艦隊はさることながら、事実上の「特攻」となった西村中将の指揮が、批判の対象となることもある。だが、第一機動艦隊の小沢長官は戦後「あの海戦で唯一まじめに戦ったのは西村だけだ」と語ったといわれる。また志摩中将についても、その艦隊の運用方針が二転三転した挙句の突入戦だった点を鑑みて、栗田艦隊の小柳参謀長は「指揮官こそいい迷惑で、その焦燥苦慮は同情に耐えない」と語っている。
10月24日午前、フィリピン北東海面に進出した第一機動艦隊(小沢艦隊)の戦力は、正規空母1・軽空母3・航空戦艦2・軽巡3・防空駆逐艦4・駆逐艦4。艦載機は100機余。3年前、6隻の正規空母と400機余の艦載機を有し、大艦巨砲主義を打ち砕いて航空主兵時代の幕を開け、太平洋を東へ西へと暴れ回った日本海軍空母機動部隊の最後の姿。
24日11時30分に送り出した最後の空母航空隊の練度は、母艦へ戻らず陸上の基地へ行くよう命ぜられる程に低迷。3軽空母の航空隊は米艦載機の妨害によって敵に近づけないままマニラへ向かい、わずかに「瑞鶴」航空隊のみが米空母を攻撃。空母「エセックス」に至近弾など軽損害を与えるに留まり、これが日本空母最後の戦果となった。
この日の日中、小沢艦隊を発見出来ないハルゼー艦隊は、シブヤン海の栗田艦隊を集中攻撃。栗田艦隊の「悲鳴」に対し小沢長官は、早く自艦隊をハルゼーに発見させるべく、14時30分付で前衛の戦艦「伊勢」「日向」と駆逐艦隊を分離派遣(電信、連合艦隊・栗田艦隊ともに受信)。16時30分頃、ついに艦隊は米索敵機に発見される(電信、連合艦隊受信、栗田艦隊受信せず)。
栗田艦隊に十分な打撃を与え、栗田の西進を「全面撤退」と判断したハルゼーは、ようやく発見した日本空母を空襲のみならず砲雷撃によって全滅させるべく、サンベルナルジノ海峡・レイテ島沖にいた艦隊も全て集結させ、全力北進を開始する。万一栗田艦隊が引き返してきたとしても、レイテ湾に残るキンケードの第7艦隊で対応できると考えた。しかし、ハルゼーはこの北進をキンケードに伝えなかった。
24日20時過ぎ、栗田艦隊の16時付「一時撤退」電を傍受した小沢艦隊は、「天佑」電で栗田は再進撃しているだろうという希望的観測の下に、夜間の接敵を避けるため、分離していた前衛を回収し北進する。この時、前衛の駆逐艦「杉」と「桐」は米艦隊の中に紛れ込んでいたという証言がある。両艦は米艦隊の群れ(?)を抜け出した後、燃料不足のため本隊へは戻らず台湾へ退避していった。
※25日7時30分の陣形 進行方向・北
■:空母 □:軽空母 ▲:戦艦 △:巡洋艦 ●:防空駆逐艦 ○:駆逐艦△大淀
●秋月 ●初月
□瑞鳳 ■瑞鶴
○桑 ●若月
▲伊勢
△五十鈴 △多摩
□千代田 □千歳
●霜月 ○槇
▲日向
25日早朝、小沢艦隊は再び米索敵機の接触を受ける。わずかに20機弱の零戦を残して文字通り空船となった四空母(そんなことをハルゼーは知る由もなかったが)に対し、8時15分、米軍の第一次攻撃隊180機が殺到する。
8時50分、防空駆逐艦「秋月」に爆弾が命中。直後、「秋月」は搭載魚雷の誘爆で大爆発を起こし、船体が2つに割れて沈没した。9時30分過ぎ、「千歳」が被弾し沈没。四空母最初の喪失となる。「瑞鳳」にも爆弾2が命中。「瑞鶴」は8時35分に爆弾1、37分に魚雷1が命中し、浸水・スクリュー破損。通信機は8時48分までに使用不能となった。
第一機動艦隊 〇八一五電
敵艦上機約八〇機来襲我之ト交戦中地点「ヘンニ13」
小沢艦隊がハルゼー艦隊と交戦開始したことを示す、最も重要な電報である。時間的に「瑞鶴」から発信されたものと思われるが、連合艦隊も栗田艦隊も受信できなかった(戦艦「伊勢」・空母「瑞鳳」は受信記録あり)。同じ時間、栗田艦隊はサマール島沖で米空母部隊と遭遇。戦列を整える暇もなく、やたらめったらの追撃戦を繰り広げていた。
9時23分、小沢長官は「大淀」に対し通信機の状態を問い合わせ、司令部は旗艦変更の準備を始める。その最中の10時過ぎ、米軍第二次攻撃隊が飛来。「千代田」が被弾大破。「千代田」は航行不能となり艦隊から落伍・漂流してゆく。
TF34は何処にありや、繰り返す、TF34は何処にありや 全世界は知らんと欲す
サマール島沖で突然栗田艦隊と遭遇した米空母部隊は直ちにハルゼーへ救援要請を送ったが、栗田艦隊は手負いで、キンケードの艦隊が対応できると思い込んでいるハルゼーは、補給のために帰投中の空母群を取り敢えず向かわせただけで、自身は引き続き小沢艦隊の追撃に猛進した。
こうした中の10時過ぎ、戦艦「ニュージャージー」にハワイの太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将から送られてきたのが、有名な上記の電報である。侮辱を感じたハルゼーは帽子を床に叩きつけて踏みにじり、怒り狂った。しかし命令は命令である。11時、ハルゼーは第38任務部隊の第2群と第34任務部隊の高速戦艦を率いてレイテ方面へ引き返し、第38任務部隊第3群と第4群・第34任務部隊の巡洋艦部隊の指揮をミッチャー中将に任せて、小沢艦隊追撃を命じた。
11時過ぎ、小沢司令部は旗艦を「瑞鶴」から「大淀」へ変更。11時7分付で「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス」を発信する。これがこの日、栗田艦隊が小沢艦隊から受信した最初の電信となった。
13時過ぎ、ハルゼーから空母部隊の指揮を引き継いだミッチャーの放った第三次攻撃隊200機が襲来。「瑞鳳」へは「エセックス」と「ラングレー」、「瑞鶴」へは「レキシントン」の航空隊が襲いかかる。「レキシントン」は昭和17年5月の珊瑚海海戦で、「翔鶴」「瑞鶴」と戦って沈没した空母の名を引き継いだ2代目。「レキシントン」の隊員は、初代を沈めた敵討ちとばかりに「瑞鶴」を攻撃したと証言する。
大目標となった「瑞鶴」には次々と魚雷と爆弾が命中。戦闘詳報は7本の魚雷と7発の爆弾を記録する。出撃前の不沈化対策が役立ったか装甲の弱い空母としては驚異的な耐久力を発揮し、「彼女(瑞鶴)の対空砲火は危険で、手に負えなかった」と米側に記録せしめた、機銃と噴進砲による猛反撃を繰り広げた「瑞鶴」だったが、艦の傾斜が増し、ついに機関停止。14時頃、軍艦旗降下・総員退艦となる。傾斜した飛行甲板の上に集合し、「軍艦瑞鶴万歳」を三唱する乗員たちを映した有名な写真が残る。
14時14分、「瑞鶴」は艦尾から静かに沈没。貝塚武男艦長以下、800名余が戦死。歴史を切り開いた真珠湾攻撃に参加した日本空母は、こうして全て戦没した。
15時過ぎ、第四次攻撃隊が来襲。ここでついに「瑞鳳」も沈没する。第二次攻撃で航行不能となり、艦隊からはぐれてしまっていた「千代田」は、17時前に米軍巡洋艦部隊(重巡2・軽巡2・駆逐12)に追いつかれて砲撃戦を繰り広げ、撃沈。「千代田」は全員が戦死となった。
17時過ぎからは第五次・第六次の攻撃隊が来襲。戦艦「伊勢」「日向」が目標となる。大型ゆえに軽快とは言えない両戦艦だったが、戦隊司令官・松田少将の巧みな指揮によって、ついに米艦載機の攻撃を躱しきった。
日没後の18時30分ごろ、「千代田」捜索のため引き返してきた軽巡「五十鈴」は、「瑞鶴」「瑞鳳」乗員救助を行っていた防空駆逐艦「若月」「初月」と合流するが、そこへ「千代田」を撃沈した米巡洋艦隊が出現。「五十鈴」と「若月」は離脱に成功するも「初月」は単艦で交戦となり、2時間の砲戦の末、撃沈。
23時過ぎ、第一次空襲で大破し、単艦で呉へ退避中の軽巡「多摩」は米潜水艦の襲撃により撃沈された。
10月25日、小沢艦隊は大きな犠牲を払いながら、囮の任務を果たしていた。しかし、それを栗田艦隊が知るのは、全てが終わってしまった後である。
10月25日午前0時30分、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を通過、フィリピン東海上に出る。米空母「インディペンデンス」の夜間索敵機は、ずっと消えていたサンベルナルジノ海峡の灯台が点灯していることをハルゼーに通報したが、問題視されなかった。
※25日6時30分ごろ 陣形構成中 進行方向・南 ▼:戦艦 ▽:巡洋艦 ||:駆逐艦列
▼榛名
▼金剛(第二水雷戦隊) ▼大和 (第十戦隊)
∥ ∥
能代▽ ▼長門 ▽矢矧 筑摩▽ 利根▽ 鈴谷▽ 熊野▽鳥海▽ 羽黒▽
【米軍 タフィ3】→
6時45分、スコールを抜け、夜明けとともに視界が明るくなってきた先に、栗田艦隊は艦載機の発進作業中らしい複数の空母を発見した。
第一遊撃部隊 〇六五三電
敵空母ラシキ「マスト」七本見ユ 我ヨリノ方位一二五度距離三七キロ
艦隊は色めき立った。手の届く先に敵空母がいるのだ。各艦は慌ただしく、敵艦隊への攻撃を始める。
6時59分、戦艦「大和」の主砲が火を吹いた。続いて7時に「金剛」、7時1分「長門」「榛名」の各戦艦も発砲を開始する。7時3分、栗田は全艦突撃を下令。重巡が先陣を切り、第二水雷戦隊と第十戦隊が後に続いた。
栗田艦隊は、この発見した敵空母をハルゼー艦隊主力の一部と思って攻撃した。しかし実際は、キンケードの第7艦隊に所属し陸兵輸送・上陸支援を行う小型空母の艦隊で、護衛空母6隻を中心とする「タフィ3」と呼ばれる集団(指揮官:スプレイグ少将)だった。
ハルゼー艦隊の北上と栗田艦隊の再進撃を知らない「タフィ3」は、6時30分に警戒態勢から通常態勢へ移行したばかり。すぐさまハルゼーとキンケードへ救援要請を打電したが、ハルゼー艦隊は小沢艦隊を深追いして北方にあり、キンケード艦隊は未明の西村艦隊との戦闘を終えたばかりで、すぐには動けない。
しかしそれでも「タフィ3」は、栗田艦隊の砲撃を受けながら艦載機100機の発艦に成功する。艦載機は戦闘後母艦に戻らず、既に米軍が確保していたレイテ島の飛行場へ行けばよかったのだ。劣足の護衛空母が必死に退避行動を取る中、米艦載機と護衛の駆逐艦は栗田艦隊へ猛然と反撃を行う。9時ごろには、最も近くにいた「タフィ2」艦載機の援軍も到着した。
7時10分、栗田艦隊の先行していた重巡のいずれかが、護衛空母「カリニン・ベイ」に直撃弾を与える(戦艦「大和」が初弾から空母「ガンビア・ベイ」に命中させたと言われるが、現在は誤認・伝説の類とされる)。しかし米艦載機・駆逐艦の抵抗で、逆に栗田艦隊側の損害が大きくなりつつあった。7時24分、重巡「熊野」が魚雷、重巡「鈴谷」が爆弾により速力低下。8時50分に重巡「鳥海」が爆弾、8時53分に重巡「筑摩」が魚雷によって大破、航行不能に陥る。敵に最も近づいた重巡は「羽黒」と「利根」だったが、「羽黒」は爆弾命中により2番砲塔が吹き飛んだ。
7時54分、「大和」と「長門」は米駆逐艦の放った魚雷を避けるべく転舵。しかしこの魚雷の速度が戦艦と同じで、なおかつ両側を挟まれる格好となってしまったため、「大和」「長門」は約10分間にわたって、魚雷の燃料が切れるまで北走、戦場から離れる結果になってしまう。
9時10分、栗田は追撃戦を止め、艦隊集結を下令。各艦の報告により正規空母3隻など撃沈と判断したが、実際には護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦3隻の撃沈だった。不意の遭遇ではあったが、拙劣な攻撃と、米軍の必死の反撃で、思うような戦果を挙げられていない。
これに対し栗田艦隊は先陣を切った重巡の損害が多く、「熊野」「鈴谷」「鳥海」「筑摩」が大破となる。「熊野」は単艦でコロン湾へ撤退。「鳥海」は駆逐艦「藤波」の救助後、同艦の魚雷で処分された。
第一遊撃部隊 一一二〇電
我地点ヤヒマ37針路南西レイテ泊地ヘ向カフ
北東30浬ニ空母ヲ含ム機動部隊及ビ南東60浬ニ大部隊アリ
隊列を整えなおした栗田艦隊は、レイテ湾に向かって進撃を再開する。しかしこの一一二〇電を発信する直前の11時ごろ、栗田艦隊は南西方面艦隊発信のひとつの電信を受信したらしい。栗田艦隊の真後ろ地点「ヤキ1カ」に米機動部隊が居るというものである。栗田は11時50分、基地航空隊に対しこの「ヤキ1カ」の敵艦隊を攻撃するよう依頼を発信している。
いわゆる『栗田ターン』は、ここから始まった。
戦後から現在に至るまで、この「ヤキ1カ」電について数多の検証がなされてきた。そもそも「ヤキ1カ」電は、発信元とされた南西方面艦隊に発信記録が無い。かつ、栗田艦隊側にも受信記録は無く、ただ唐突に11時50分発の電信で、「『ヤキ1カ』ノ敵機動部隊ヲ攻撃サレ度」として登場するのみである。
このため、ある者は栗田が錯乱したと言い、ある者は「ヤキ1カ」電は捏造だと言い、栗田と参謀たちが臆病風に吹かれて逃げ出したのだと糾弾する者が多い。
一方で、栗田の判断に理解を示す意見も少なくない。「ヤキ1カ」電は栗田艦隊だけが言い立てているのではなく、第二航空艦隊などの基地航空隊や東京の軍令部でも、それに類する情報を索敵機や潜水艦から受け取っているからだ。正確には「ヤキ1カ」ではなく、地点「ウキ5ソ」や地点「ヤリ3ス」、地点「ヤニ5ソ」(←実際に「タフィ3」がいた)ではあるが・・・要するに、サマール島東方の現在栗田艦隊が航行している付近に、米機動艦隊の各部隊がいるという索敵情報を、栗田艦隊以外の部隊でも把握しているのだ。
これに対して、25日の小沢艦隊からの情報は非常に乏しいものだった。上記の8時15分付、小沢艦隊が米艦載機と交戦中という情報を、栗田艦隊も連合艦隊も受け取っていない。野村實・軍令部参謀の証言では、25日日中に小沢艦隊から受け取った情報は、7時23分付・敵索敵機に監視されているというものと11時7分付・大淀への旗艦変更だけで、空母4隻は健在であるとすら考えており、27日に及川古志郎・軍令部総長が天皇に戦況を上奏した際も、そのように報告しているという(空母の全滅を知ったのは27日午後、小沢艦隊が奄美大島に入港した後の戦況報告)。
つまり日本軍側では、小沢艦隊の囮作戦は奏功せず、逆にサマール島沖の栗田艦隊が米艦隊の真っ只中に飛び込んでしまっている、と考えていたのだ。それを裏付けるかのように、レイテ湾進撃を再開した栗田艦隊へは断続的に艦載機が来襲。また「タフィ3」の追撃を打ち切ったとき、最も南東にいた戦艦「榛名」は「タフィ3」とは別の空母群(「タフィ2」か?)を発見したという。また、4時49分付で志摩艦隊が送ってきた西村艦隊全滅の報は栗田艦隊も受信しており、レイテ湾の米艦隊は次なる敵・栗田艦隊迎撃の態勢を取っていることが予想された。
米軍の迎撃態勢に関して、「キンケード艦隊は西村艦隊の迎撃で砲弾・魚雷を使い果たしていたから、レイテへ突入すれば、大和の46cm砲でマッカーサーを吹き飛ばせた」とする“神話”は根強い。
しかし今日の検証で、米第7艦隊の武器弾薬が不足気味だったり、いくつかの戦艦の主砲が故障したりしていたものの、一会戦を行う程度の戦力は十分にあったことが明らかになっている。むしろブルネイからの出撃以来、連日連夜の空襲・夜襲を受けている栗田艦隊こそが疲労困憊・満身創痍であり、46cm砲や酸素魚雷などの額面性能だけをとらえて、米軍を撃破できるなどと言う方が誤りであると言わざるを得ないのではないか。
栗田艦隊・小柳富次参謀長
「連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどという事は不可能である。
よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向って突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか」連合艦隊・神重徳参謀
「差支えありません」
8月11日、マニラで栗田艦隊の小柳参謀長と、連合艦隊の神参謀が捷一号作戦の打ち合わせを行った際のやり取りである。小柳の発言は、レイテの敵上陸部隊と輸送船団を撃滅するという捷一号作戦の目的から逸脱するものであったが、しかし連合艦隊側は否定しなかった。このやり取りが、栗田艦隊の捷一号作戦に対する認識の齟齬と、連合艦隊全体の作戦不徹底をもたらしたとして、後世強く批判される。
第一遊撃部隊 一二三六電
1YBハ「レイテ」泊地突入ヲ止メ「サマール」東岸ヲ北上シ敵機動部隊ヲ求メ決戦 爾後「サンベルナルヂノ」水道ヲ突破セントス 地点「ヤモ2チ」進路零度
ついに栗田艦隊はレイテ突入を中止し、反転・北上を開始した。宇垣纏・第一戦隊司令官の陣中日誌『戦藻録』によると艦隊首脳は、レイテでは米軍が水上部隊・陸上飛行場ともに迎撃態勢を整えているだろうから、むざむざこの敵陣へ突っ込むより敵の意表をついて、北から追ってきている機動部隊を撃破してやろうという考えにより、反転を決意したという(この後13時にまた南下し、『戦藻録』によれば13時13分、最終的な反転・北上へ移った。米軍側からは、栗田艦隊が行動を決しかねてウロウロしているように見えたらしい)。
しかし、この追い求めた「敵機動部隊」は何処にも存在しなかった。そうこうしているうちにも米艦載機の断続的襲撃は止まず、「鈴谷」と「筑摩」が止めを刺され、「利根」と駆逐艦「早霜」が損傷する。しかも空襲の一部は、日本軍航空機による誤爆だった(ここから、25日のサマール島東方における「敵艦隊発見」の数々の情報は、練度の低い日本軍索敵機が栗田艦隊を見て「敵艦隊」と誤認したものではないのかという説がある)。
決戦を挑むべき敵艦隊を見つけられず、艦隊の損害は刻々と増加。長距離を走り回り、駆逐艦は燃料が欠乏しつつあった。17時22分、栗田はサンベルナルジノ海峡の通過要領を下令。21時過ぎ、栗田艦隊は海峡を抜け、シブヤン海へと戻った。ハルゼー艦隊が“サンベル”の沖合まで引き返してきたのは、その4時間後だった。
戦艦「大和」の戦闘詳報によると、「大和」は小沢艦隊から、12時15分に「大淀へ旗艦変更」の電報、14時41分に「敵機100機の空襲を受けて「秋月」が沈没、「千歳」と「多摩」が落伍」の電報を受信している(ただし後者は「瑞鶴通信不能」の部分が欠落)。栗田は戦後のGHQの尋問や戦史家の取材に対し、その受信時刻にはその電報を見ておらず、サンベルナルジノ海峡通過直前(25日夕方)になって知らされたと説明している。
小沢艦隊からの通信を知らされたとき、栗田はこう言ったという。
この電報が、いままで私のところへとどかなかったのはどういうわけか。
着信してから、なぜこんなに遅れたのか。まだほかにないか。
戦術としての特攻(神風特別攻撃隊)を始めたのは、この海戦で基地航空隊・第一航空艦隊の長官だった大西瀧治郎中将である。故に彼が「特攻の創始者」とされることが多いが、海軍内部、こと軍令部では一年前の昭和18年から既に研究が始まっており、本格的に取り組んでいたのは、山本五十六・連合艦隊司令長官の下で主席参謀を務めていた黒島亀人少将である。
黒島は山本の戦死後、連合艦隊から軍令部第二部長へ移り、モーターボートや航空機による特攻(自爆攻撃)の研究を重ねていた。一方、この時期の大西は特攻慎重論者だったという。
マリアナ沖海戦敗北とマリアナ諸島玉砕で壊滅した第一航空艦隊は、フィリピンに移って再建に乗り出した。しかし9月以降、米軍の空襲やダバオ誤報事件での無意味な出撃、そして台湾沖航空戦によって消耗し、一航艦の稼働機数は40機程度にまで落ち込む(シブヤン海で栗田艦隊の上空護衛が出来なかったのは、このためによる)。10月5日、寺岡謹平長官が更迭されて大西が長官となった。
特攻慎重論の大西だったが、戦局の悪化によって考えを変えたものか、赴任にあたって米内光政海軍大臣・及川軍令部総長・豊田連合艦隊長官それぞれに特攻の決意を語っている。10月19日、マバラカット基地(現・クラーク空軍基地辺り)に到着した大西は、すぐさま参謀たちと特別攻撃隊の編成・人選を開始。大尉・関行男が指揮官に選ばれ、20日、長官訓示と命名式が行なわれた。
敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)
国学の大家・本居宣長の和歌から引用し、特攻隊は「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられる。
21日、特攻4隊24機はマバラカットを出撃。フィリピン東方のハルゼー艦隊攻撃に向かうが、悪天候に阻まれて帰投。「大和隊」の久納隊長機が未帰還となる。この後も特攻隊は連日出撃するが、条件が整わずの帰投が続く。帰還のたび、一航艦の玉井参謀に涙ながらに謝罪する関大尉の姿があった。
25日、出撃した「敷島隊」はサマール島東方で敵空母部隊を発見。奇しくもこれは、栗田艦隊が追撃戦を繰り広げた護衛空母部隊「タフィ3」だった。10時40分ごろ、栗田艦隊の攻撃から逃れたばかりの「タフィ3」へ「敷島隊」は突入。おそらく関大尉のものと思われる一機(もしくは二機)が護衛空母「セント・ロー」に“命中”。「セント・ロー」は魚雷・爆弾の誘爆を起こし、30分後に轟沈する。また、護衛空母「キトカン・ベイ」にも特攻機が命中し、損害を与えた。
この日は別の特攻隊が「タフィ3」に再度突入して護衛空母「カリニン・ベイ」に損害を与え、ハルゼー本隊にも特攻機が突入して空母「イントレピッド」を小破させた。
特攻隊の戦果は護衛空母1を撃沈、正規空母1・護衛空母2に損害などであったが、例によって日本側はこの戦果を過大評価。24日に第二航空艦隊(福留中将)が行った通常攻撃の戦果が捗々しくなかったことも相まって、一航艦の航空機消耗による臨時戦術だったはずの特攻が、これ以後は陸軍航空隊も加わって、終戦までの常套戦術となってしまうのだった。
25日19時15分、栗田は損傷落伍した艦とその救援の駆逐艦に対し、損傷修理が出来ない艦は自沈処分して退避するよう命じる。重巡「筑摩」を救援した駆逐艦「野分」と、重巡「鳥海」を処分した駆逐艦「藤波」がこれに該当したが、「野分」は26日1時ごろ、サンベルナルジノ海峡の手前でハルゼー艦隊の巡洋艦・駆逐艦部隊に追いつかれて撃沈。救助していた「筑摩」乗員共々、全員が戦死する(「筑摩」処分地点で救助されなかった乗員1名のみ、漂流の後米軍が救助)。「藤波」はサンベルナルジノ海峡を単艦で通過したが、27日、シブヤン海で損傷・座礁した駆逐艦「早霜」の救援に向かう途中、ミッチャー機動部隊の攻撃を受けて撃沈。「鳥海」乗員共々、全員戦死となる。
26日、シブヤン海を西方へ撤退してゆく栗田艦隊は、夜明けとともにハルゼー艦隊の追撃を受ける。この追撃空襲で、軽巡「能代」が撃沈。駆逐艦「早霜」は損害を受け、沈没を避けようとして浅瀬に擱座。「早霜」救援に向かった「藤波」は上記のように撃沈され、「早霜」のその後も不明となった。27日には「早霜」が座礁した近海で、志摩艦隊所属の駆逐艦「不知火」(前日に撃沈された軽巡「鬼怒」の救援)が、ミッチャー機動部隊の攻撃により撃沈された。
27日、小沢艦隊の残存各艦は三々五々に奄美大島へ帰投。28日、栗田艦隊はブルネイへ帰投する。
捷一号作戦の発動以後、レイテ沖海戦へ直接的に関わった中では、戦艦「武蔵」・空母「瑞鶴」・重巡「愛宕」など27隻が撃沈。その後の作戦行動やフィリピンの制海権・制空権喪失で右往左往する中で、重巡「那智」・防空駆逐艦「若月」などを喪失。さらには11月21日、本土への帰投中に戦艦「金剛」が潜水艦攻撃で撃沈という失態も生じる。大破した重巡「高雄」と重巡「妙高」は、潜水艦の跳梁跋扈で本土帰投が出来ず、結局終戦までシンガポールに留まる。
フィリピン防衛と『一撃講和』を賭けた捷一号作戦の戦いは、日本海軍水上部隊を文字通り擦り潰して終わった。東南アジアからの輸送ルートを喪失し、残存艦艇は本土へ帰ったものの燃料欠乏で身動きもままならず、昭和20年4月7日、戦艦「大和」の水上特攻で破局を迎えることになる。
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最終更新:2025/12/11(木) 10:00
最終更新:2025/12/11(木) 10:00
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