中森明菜とは、1980年代を代表する歌姫である。
1965年7月13日生まれ。東京都清瀬市出身。血液型はA型。
※身長160cm、B80(Dカップ)、W54、H85。※1984年時
ニコニコ動画では、主に全盛期である80年代の動画、パチンコ・パチスロ動画がメインである。
1981年、「スター誕生!」(日本テレビ)のオーディションに史上最高得点で合格したのをきっかけに、1982年5月1日に「スローモーション」でデビュー。
この頃の女性アイドルは、キャッチフレーズを与えられるのが慣例であった。しかし明菜に付けられたのは「ちょっとHな美新人(ミルキー)っ娘」。「H」は大人びた、「ミルキー」は美人とルーキーを掛けたものだが、明菜は「よく番組で出演者にからかわれるので、スタッフに詰め寄った」とか。
2ndシングル「少女A」をキッカケに大ブレイク。85年「ミ・アモーレ」、86年「DESIRE-情熱-」で日本レコード大賞2連覇。日本歌謡大賞、日本ゴールドディスク大賞をそれぞれ1回受賞。その他にもFNS歌謡祭や全日本歌謡音楽祭、日本テレビ音楽祭、メガロポリス歌謡祭でグランプリを獲得するなど、当時の主要音楽賞の大賞・グランプリを総なめにした。年間トータルセールス1位を4回記録(日本歴代単独1位)。シングル・アルバムの総売上は2400万枚を超える。
明菜の楽曲売上のほとんどは80年代のものだが、当時は現在と同じようにレコードからCDへツールが移行して売上枚数が全体的に伸び悩んだ時期。そんな厳しい状況の中ででこの枚数なのだから、CD全盛の時代であればこの売上の倍以上は獲得できていたのかもしれない。
玉石混交の80年代アイドルにあって、低音とビブラート(明菜ビブラート)、ウィスパーボイスを始めとしたアダルティな歌唱、圧倒的なまでの表現力を引っさげ、瞬く間に歌謡界の女王として君臨。彼女に楽曲を提供した加藤登紀子からは「魔女」、井上陽水からは「歌姫」と呼ばれた。ゆえに彼女を元祖歌姫と称する人もいる。
人気絶頂期の80年代後半にはオリジナルアルバムを中心に実験的な楽曲を収録するようになる。例えば1986年リリースの「不思議」では、収録された楽曲のボーカル全てに特殊加工を施してわざと聞こえにくくしたり、1987年リリースの「Closs My Palm」では全曲英語詞の楽曲のみを収録するなど非常にチャレンジングな作品を発表し続けた。通常なら万人受けしにくい内容の作品であるにもかかわらず、それら全てがアルバムチャート1位を獲得していることからいかに彼女の人気が絶大なものであったかを物語っている。
一方で小さい頃から体が弱く、喉の調子が悪い状態でTV出演をしたこともしばしば。ザ・ベストテンで「セカンド・ラブ」を歌った際には風邪の為に思うように声が出ず、悔し泣きをしてしまう場面も。「夢のふち」でミュージックステーションに出演した時は、常に張り上げて歌い息切れをマイクに拾われたこともある。
そんな人気絶頂だった1989年、当時交際していた近藤真彦の自宅マンションで手首を切って自殺未遂をする。これが原因で約1年間の歌手活動休業に追い込まれる。
1990年7月17日、約一年ぶりに復帰第一弾シングル「Dear Friend」をリリースし、シングルチャートで1位を獲得。累計54万枚を売り上げて年間チャート6位にもランクインする。翌91年には幕張メッセでLIVEを開催するなど多くのファンを喜ばせたが、復帰後に移籍した事務所やレコード会社との契約トラブル、マスコミのバッシングなど様々な困難を迎えることとなる。
1992年にはフジテレビ系月9ドラマ「素顔のままで」で主人公の一人・カンナ役を熱演。高視聴率をキープし続け、最終回では30%を超える視聴率を獲得するなど「女優・中森明菜」の一面も見せつけた。
1994年にはカバーアルバム「歌姫」をリリース。人気歌手によるカバーアルバムと言うことで世間の話題を集め、アルバムチャートで5位を獲得。このアルバムのヒット以降「歌姫シリーズ」として、バラードやフォークソング、ムード歌謡に演歌、男性歌手の楽曲とジャンルや性別の枠を超えた様々な名曲をカバーすることになる。
90年代後半からはコンサートだけではなくディナーショーも開催するなど活動の幅を拡大。これまで抱えていた様々な問題も2000年以降に軒並み解決し、デビュー20周年の2002年、所属レコード会社をユニバーサルミュージックに移籍。「飾りじゃないのよ涙は」で14年ぶりに紅白歌合戦の出場を果たす。2004年にはユニバーサルミュージック内に音楽レーベル「歌姫レコーズ」を立ち上げ、この年以降に発売された彼女のシングル・アルバムは全てこの「歌姫レコーズ」からリリースされる。
2009年、シングルとしては3年ぶりとなる「DIVA-Single Version-」と2枚のカバーアルバム、1枚のオリジナルアルバムをリリース。同年8月にはこちらも3年ぶりとなる単独LIVE「Empress at Yokohama」を開催。カバー曲を中心に披露し多くのファンや観客を沸かせた。
2010年、パチンコ「CR中森明菜・歌姫伝説~恋も二度目なら~」を発表。誕生日の7月13日には配信限定シングル「Crazy Love」をリリースするなど、デビュー30周年に向けて精力的な活動を始めた矢先の同年10月に「極度の過労と疲労による免疫力の低下」で2度目の活動休止。活動休止後もDVD「中森明菜 in 夜のヒットスタジオ」などがリリースされたり、ファンクラブ会報で直筆メッセージを披露しているものの、本格的な活動再開のめどは立っていない。
中森明菜と似たような存在だとよく言われるのが山口百恵である。山口百恵と中森明菜が活動を共にしていたわけではないものの、「少女A」や「十戒(1984)」を歌う中森明菜の姿は「プレイバックPart2」や「ロックンロール・ウィドウ」などの「ツッパリ路線」を確立させた山口百恵のスタンスを受け継いでいるとされ、「ポスト百恵」の一人として名を知られていった。
中森明菜自身山口百恵の存在は大きなウェイトを占めており、デビューのきっかけをつかんだ「スター誕生」では「夢先案内人」を披露。デビュー後も音楽番組の企画で「イミテーション・ゴールド」を歌うなどしている。また、山口百恵の「結婚してそのまま引退」という去り際にも憧れを抱いていたという。
山口百恵の方も「ザ・ベストテン」で「北ウイング」をカラオケで歌うのが好きだということが当時の近況として伝えられたり、2006年に中森明菜が「いい日旅立ち」をカバーすることになった際、その話を聞いた山口百恵が
「1度、明菜さんに歌って欲しいと思っていた。明菜さんでよみがえるなら最高にうれしい」
と語るなど、山口百恵にとっても中森明菜はとても特別な存在だったと言われている。
1980年代のアイドルとしては松田聖子と双璧であった。松田聖子がいわゆる「ぶりっ子」という表現に象徴されるように可愛さ、女性らしさを強調した楽曲が多かったのに対して、中森明菜はデビュー当初を除いてクールさや孤独な雰囲気の楽曲が増えるなど曲調・雰囲気に「明」と「暗」がはっきりと分かれていった。それゆえ、当時は与党の「聖子派」と野党の「明菜派」でクラスが分かれ、男女入り乱れた抗争に発展することも珍しくなかった。
松田聖子とは犬猿の仲であるとマスコミはたびたび取り上げていたが、それは全くの事実誤認。元々松田聖子の方が1980年デビューと芸能界の先輩であり、中森明菜がデビュー前に受けた「スター誕生」の予選では松田聖子の「青い珊瑚礁」を歌っている。また、中森明菜はトーク番組「おしゃれカンケイ」(94年)で
「聖子さんのシングルはほとんど持ってる」
と発言していることなどから、中森明菜にとって松田聖子はアイドルとしての目標であり、芸能界の良き先輩でもあり、同じ時代を共に歩んだ良きライバルだったと言える。
実は地声は高く、アニメ声(本人はアラレちゃんと主張)を出すこともできる。これは40代を過ぎた現在でも変わらず、ハスキーな声で歌を歌ったかと思えばMCで急にアニメ声で話す(2006年のLIVE参照)など、初めて見る人にとってはその声域の幅に誰もが驚くであろう。時代が時代ならアイドル声優にもなれたかもしれない。
1983年の大阪コンサートで「誰も何もしないでだま~って座ってると、何も喋れないんですね」とファンも喋るように促していたが、しばらくしてファンが暴走盛り上がると「黙って、私が喋れなくなるから黙って」と一言。この女、ツンデレである。
ちなみに、コラムニストで「おたく」という言葉を命名したことで知られる中森明夫は彼女の名前をもじったペンネームである。
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最終更新:2025/12/15(月) 23:00
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