古鷹といいます。重巡洋艦のいいところ、たくさん知ってもらえると嬉しいです!
古鷹(ふるたか)とは、帝国海軍が保有していた重巡洋艦「古鷹」をモデルとした、艦隊これくしょん~艦これ~に登場するキャラクター(艦娘)である。
(CV.大坪由佳)
古鷹型2隻共通で、襟とスカートに青を基調としたセーラー服、体格はスレンダー。
上着は加古と同様短いが、自然に立っている状態のため、かろうじてへそは隠れている模様。
しかしそれより外見上の最大の特徴は、サーチライト状に光っている左眼だろう。これは後述の史実において、青葉を庇うため自ら探照灯を点して囮となり、集中砲火を浴びたという事実に基づいていると思われる。
また左眼の周辺の肌の色が異なって見えるのは、そのとき発生した火災に基づいた火傷の痕という解釈で描かれている二次創作も多い。が、担当イラストレーターによるとあれはただの影との事。ただ、合わせて「提督さんの数だけ古鷹がいる」とも語っている。
性格は妹の加古とほぼ正反対で、落ち着きがあり秘書艦としての仕事ぶりも問題無く、仕事以外にも作戦海域の資料を確認しようとするなど、非常に真面目。
提督の部隊をさりげなく持ち上げる一方、三川艦隊の戦友のことも忘れていない。
MVPを取った際ですら、古鷹自身ではなく「重巡洋艦」が挙げた戦果であると謙遜するなど、まさに帝国海軍重巡部隊の長姉として非の打ち所の無い性格である。
一方、ステータスは決して高いとは言えず、重巡最弱クラスである。サービス開始から長らく、火力、雷装、対空、装甲、いずれもおおむね妙高型より10~15程度劣ると考えれば間違いないというそこらの軽巡洋艦並みのスペックで、妹の加古や略同型の青葉型同様、燃費が他の重巡よりも良いという利点こそあるものの、第一線への参加には苦労を感じる面がほかの重巡より多くなってきてしまうことは否めなかった。
しかしこれは、そもそも「重巡洋艦」というものが存在しない時代に敵の軽巡洋艦に勝つための艦として設計され、その後「15.5センチ(6.1インチ)より大きな砲を積んでいる」という理由で機械的に重巡洋艦として扱われてしまったといういきさつ上やや仕方が無い面があった。提督諸氏におかれては是非、そんな予想もしなかった条件において奮戦した古鷹を想いながら、日々セクハラ任務に励んでみてはいかがだろうか。
なお、2013年10月16日のメンテナンスにおいて上記のステータスは大幅に修正され、改造後の火力上限は54から65に上昇、装甲も64から70に上昇した。これにより、重巡というカテゴリ内ではステータス的に劣るポジションであることこそ変わらないものの、他の重巡との差が小さくなり、使いやすさが増した。同様に大きく強化された加古や青葉ともども、追加の近代化改修を施し、今まで苦戦していた第一線へと投入してあげていただきたいものである。
二次創作では、ゲーム中でも互いに気に掛け合っている妹の加古とのほか、青葉を庇って沈んだという史実を踏まえた青葉との絡みがよく扱われる。ちなみに青葉は終戦時、修理することもできず呉軍港に大破着底状態で置かれていたが、その呉軍港からは古鷹山を仰ぎ見ることができる。
1922年(大正11年)12月5日に「加古型」2番艦として起工。命名は広島県江田島市の古鷹山から。
起工は加古より後に行われたが、竣工は4ヶ月早い1926年(大正15年)3月31日となる。
当初、古鷹と加古姉妹は公式には「加古型一等巡洋艦」であったが、昭和初期(4~5年頃といわれている)に改訂され、「古鷹型一等巡洋艦」となった。
古鷹は竣工時より20センチ砲6門を搭載しており、これは当時世界で新造された巡洋艦において最大のもの。
魚雷発射管も12門、しかもこれまた世界標準の53.3センチより大きな61センチ。
102000馬力を発揮する機関により、速力は公試時最大34.6ノット(時速64キロ!)を記録。
そしてこれらすべてを排水量わずか7950トンのコンパクトなボディに納めた、まさに傑作艦と言える存在だった。
……なお、本来なら排水量は7100トンに収まる予定だったのだが、あまりの「常識?何それ」という設計に危機感を抱いた造船所側が(製造精度の問題もあり)勝手に設計を変更、結果排水量が850トン増加したという顛末がある。
これ以前に最大の火力を持っていた巡洋艦はおそらくイギリスのホーキンス級になるが、こちらは19.1センチ砲7門、魚雷発射管は53.3センチを6門、機関出力は60000~80000馬力で速力31ノット。そして排水量は9750トン。 ホーキンス級は第一次世界大戦中に設計された巡洋艦であることや、イギリスは世界中に艦隊を派遣するために文字通りの「大洋を巡る艦」として居住性を重視しなければならないなどのハンディはあるものの、いかに古鷹が当時の常識を覆すレベルの巡洋艦だったかがお分かりいただけるだろう。
しかし犠牲無しにこの常識破りが達成出来たわけでは無く、加古(艦これ)に記載の主砲の問題のほか、重量軽減を第一に考えて甲板を曲線的に構成(それぞれの箇所に必要な最低限の水面からの高さを計算、ただかさを増すと無駄が出るので、必要な場所でぴったりの高さになるように曲線でつないだ)した結果、艦内容積に余裕がなく、あろうことか甲板の曲線そのままに床が傾いている兵員室があるというレベルで居住性の問題を抱えていたことも事実である。
ただし、それでも煙突付近の兵員室が灼熱地獄だった5,500t型軽巡に比べれば向上した。と言う評価もある。それは果たして好評価ととっていいものなのか。
1939年(昭和14年)4月30日に大改装が終了。主砲を交換して発射速度の問題を解決、その他細々改造して排水量が増加したため、安定性を確保するため舷側にバルジ(外付けの張り出し)を増設。これにより排水量が8700トンに増加し、また抵抗が増えた事もあり速力は公試時32.95ノットとやや低下した。
11月15日、加古とともに第6戦隊を編成(のち、開戦までに青葉と衣笠が第6戦隊に編入)
1942年(昭和17年)5月7日、珊瑚海海戦に参加。
7月14日、第6戦隊は新編された第8艦隊(三川艦隊)麾下に入る。
8月8日から9日、第一次ソロモン海戦に参加。艦隊全体で重巡4隻撃沈、1隻大破の大戦果を挙げるも、その帰途の10日朝、僚艦の加古を雷撃で失う。
10月11日、サボ島沖夜戦に参加。
日本側が戦力的に不利な状況、しかも陣形はT字不利。先頭を走っていた青葉は集中攻撃を受け大破、煙幕を張って退避する。この間、21時53分には敵艦隊の集中砲火を浴びた吹雪が爆沈。
青葉を救援すべく古鷹は青葉と敵艦隊の間に割って入り、結果的に今度は古鷹が集中攻撃を受けることになった。
敵軽巡に一矢報いるも、必殺の酸素魚雷は被弾によって発射出来ず、90発以上の砲弾を浴びた古鷹は22時40分についに停電、行動不能となる。
敵艦隊はそれより早い22時27分に戦場を離脱していたものの、もはやダメージコントロールが出来る状態では無く、翌12日0時28分、サボ島の北22海里にて沈没。11月10日、艦籍より除籍。
僚艦・青葉を守り切った古鷹は、吹雪に続き鉄底海峡に眠る2隻目の帝国海軍艦艇となったのである。
古鷹山の由来
古鷹山の由来は、その昔一葉の小舟が荒れ狂う防風雨のため難破寸前に迫ったとき、
いずくよりか一羽の大鷹があらわれ、波静かなる入江に導きたる後、この山中に姿を消したので、
この鷹の霊を祭るため山上の大松の下に一字の堂を建立し、鷹宮大明神と称し、
旧暦9月19日には盛大な祭りがおこなわれていた(現在は八幡神社に合併)
その祭神に因んで古鷹山という。江田島市観光協会
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最終更新:2025/12/09(火) 02:00
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