和田一浩とは、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(外野手)である。
愛称ベンちゃんと呼ばれるのは和田勉と同姓つながりで風貌も似ている事から。某スポーツ雑誌では「和田勉」と誤植されたことがある。
1972年の岐阜県生まれ。岐阜商業高校→東北福祉大学→神戸製鋼を経て、1996年に捕手として西武ライオンズにドラフト4位で入団。
入団当初、西武には伊東勤(元西武監督)という正捕手がいたため、なかなか出場機会に恵まれず、代打起用か外野手として出場することが多かった。
2000年以降は和田独特の打撃が評価され徐々に出場機会を増やし、2002年は5番レフト(監督からの勧めもあって、この年から外野手へ転向)としてレギュラーに定着。同シーズンで3割30本をマークし西武の中軸打者として、同球団から退くまでその実力をいかんなく発揮した。
2006年から2007年にかけて特に併殺打の多さが目立ち、高級アイスと揶揄された(野球板用語集)。
2007年シーズンオフにFA宣言。翌年、地元である岐阜に近い中日ドラゴンズへ移籍した。移籍後も同球団の中軸打者として の役割を任されたが、2008年度は本塁打数が規定打席到達シーズンの中では自己最低の16本。得点圏打率.275に打点74と、 やや不満の残るシーズンとなった。
2009年度も5番レフトでレギュラーをしっかりキープ、ウッズ・中村紀と主力が抜けた穴を埋めるべく例年以上に奮闘し、打率.302に29HRと結果を残した。5月19日の西武戦で、全球団からホームランを達成。
2010年は開幕から絶好調で、交流戦から不調のトニ・ブランコに代わり4番に。貧打にあえぐ打線を3番の森野将彦とともに実質2人で牽引し、優勝の原動力となった。最終的に全試合に出場して打率.339、37本塁打、93打点という西武時代を含めてもキャリアハイの成績を38歳にして叩き出し、最高出塁率のタイトルを獲得、セ・リーグMVPとベストナインを受賞した。38歳でのシーズンMVPはセ・リーグ最年長記録である。CSでもMVP、日本シリーズは敗れたが打率.414の1本塁打6打点で敢闘選手賞を受賞。名実ともにチームの主軸として大暴れしたシーズンだった。余談だが、同年のパ・リーグMVPは同姓の和田毅(ソフトバンク)で、両リーグともMVPが和田という珍事が起こった。
2011年は開幕戦で4番レフトで出場するも、年間を通して成績が伸びず、シーズン後半には視力低下で2軍落ちを経験した。
2012年は全試合に出場したが、本塁打は2000年以来の一桁(9本)に終わる。
和田独特のスイングについては、彼の西武時代の動画とwikipediaの記事を参照。
庭球打法と呼ばれるそれは、素人目に見ると非常に荒っぽいスイングだが、実はちゃんと裏付けのある振り方をしている。
2009年にフォーム変更を行った結果、以前とはだいぶ印象が変わっている。
守備に関しては元捕手だけあって、強肩を生かした素早い送球が魅力的である。しかし足はさほど速くないので守備範囲に難があり、更にキャッチングや打球勘が鈍いため反応が遅く、守備面では評価が低い。
守備自体はそこまでヘタではないのだが、強肩好守俊足の三拍子そろった中日外野陣と比べてしまうと、和田の守備が非常に見劣りしてしまうのも事実である。
そのため西武時代は指名打者に回ったり、中日移籍後はファーストへのコンバート案がささやかれたこともある。
| 和田一浩 中日 応援歌 |
(2012年終了時点)
| 通算:16年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1657 | 6560 | 5751 | 1764 | 280 | 914 | 71 | 11 | 51 | 726 | 21 | 797 | .307 | .383 |
| 応援歌 |
西武時代(動画前半~中盤まで) |
|
華麗なる守備 |
驚異の広角打法 |
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/09(火) 01:00
最終更新:2025/12/09(火) 01:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。