坊ノ岬沖海戦とは、大東亜戦争末期の1945年4月7日に行われた戦艦大和率いる第1遊撃部隊vs米第58任務部隊の戦闘である。この海戦で帝國海軍の象徴的存在だった大和が沈没した。
1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄への上陸を開始した。これを迎撃するため帝國陸海軍は大量の特攻機を出撃させ、回天母艦に改造された潜水艦も次々に出撃していった。呉軍港や徳山に係留されていた水上艦艇は燃料不足から温存される方針だったが、沖縄で繰り広げられる空中特攻をただ指を咥えて見ているのは問題であるとし、急遽沖縄への水上特攻計画が起草された。戦艦大和以下、残余の艦艇は沖縄に向かって突撃。敵艦載機を引き付け、波具知泊地のアメリカ艦隊への空中特攻を容易にする。無事沖縄に到達したら海岸に乗り上げて陸上砲台と化し、乗組員は陸戦隊に転用する。これが水上特攻計画の骨格だった。急いで立案されたものだったため、航空部隊との打ち合わせが出来ず、エアカバー無しでの突入となった。また天候、突入時間、航路など詳細な取り決めもされなかった。
4月5日午前、連合艦隊と軍令部の作戦会議で突然先任参謀がこの案を切り出した。制海権・制空権ともにアメリカ軍に握られているため失敗不可避だと、会議の参加者ほぼ全員が反対。特に伊藤整一中将や駆逐艦朝霜艦長の杉原与四郎少佐などが猛反発し、杉原少佐は「連合艦隊最後の一戦が自殺行である事は、絶対に我慢ならぬ」と説得役の草鹿龍之助参謀長と三上作夫作戦参謀に罵声を浴びせた。草鹿参謀長は黙って反対意見を聞いた後、「一億特攻の魁となっていただきたい」と懇願。これを聞いた伊藤中将は「そうか、それなら分かった。我々は死に場所を与えられた」と発し、他の者は何も言えなくなった。会議場では「大和に立派な死に場所を与えたい」、「特攻機が必死に戦っているのに水上艦艇が座視している訳にはいかない」と様々な思惑が交錯。また天皇陛下から「海軍にはもう艦はないのか?海上部隊は無いのか」とご下問された事も、出撃を後押しした。結果、15時に連合艦隊からGF電令作戦第607号が発令され、正式に水上特攻作戦が発動。「天一号作戦」と命名され、呉に残存していた艦艇をかき集めて第1遊撃部隊が編成された。
参加艦艇は第2艦隊司令長官の伊藤製一中将が座乗する戦艦大和(旗艦)、第2水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞である。目下の問題は燃料だった。実際、軍令部は燃料不足を理由に作戦の許可を出し渋っていた。だが連合艦隊司令長官の豊田副武大将が「片道だけの燃料があれば良い」と強い決心を示したため、軍令部も許可を下した。呉の燃料タンクには片道にも満たない2000トンしか無かったが、ヒ96船団が命がけで運んできた原油1万2000トン、重油1300トンが到着。更に呉に停泊中の戦艦伊勢や日向などから燃料を抜き、加えて徳山燃料廠のタンクの底に溜まっている帳簿外の燃料を片端から集めてどうにか1万トンを確保。大和に4000トンを搭載、駆逐艦は燃料を満載にした。よく大和は片道分の燃料しか載せられなかったと言われるが、大和の最大積載量は6300トンであり、実際は十分往復できる量が載せられていた。
17時30分、大和と矢矧に乗艦していた若手の74期候補生や重病人、補充兵が退艦。空母葛城、龍鳳、駆逐艦花月などに移乗した。これから日本を作っていく若者まで戦死させる訳には行かないという配慮によるものだった。降ろされた候補生たちは涙を飲んで艦艇を見送った。この日の夜、大和艦内では無礼講の宴会が開かれた。
4月6日午前6時、徳山沖で停泊中の大和のもとへ第2水雷戦隊が合流。13時に大和へ駆逐艦長や幕僚が集まり、作戦説明と打ち合わせを行った。第2水雷戦隊司令の古村啓蔵少将は、帝國海軍最後となるであろう艦隊の出撃に際し、駆逐隊伝統の襲撃運動を納めようと提案。駆逐隊が大和に対する襲撃訓練を行った。そして15時20分、大和率いる第1遊撃部隊が抜錨。大和を中心とした輪形陣を作り、12ノットの速力で南下し始めた。下関海峡は機雷封鎖されていたため豊後水道方面に向かい、対潜哨戒機や対潜艦艇に守られながら南下を開始した。この動きは暗号解析によってアメリカ軍に読まれており、豊後水道に潜む17隻の潜水艦に対して艦隊の動向を監視するよう緊急命令を出している。大和甲板では総員が集合し、「各自の故郷に向かって挨拶せよ」との命令が出された。駆逐艦磯風では楠木正成の故事に倣い、船体に楠木家の家紋である菊水を舷側に描いていた。夕日によって朱色に染められた第1遊撃部隊が、豊後水道を南下する。二度と見られない祖国の情景を背にしながら…。
4月7日午前6時、大隈半島を通過してついに外洋へと出た。目的地を偽装するため、九州南端に出た後は東シナ海に入り、しばらく西進。あたかも台湾に向かうかのように見せかけた。午前6時57分、駆逐艦朝霜が機関故障を起こして落伍。艦隊は9隻に減少した。外洋に出て2時間も経たないうちに、九州東岸を哨戒していた米潜水艦ハックルバックとスレッドフィンに発見されてしまった。2隻の潜水艦は気付かれないよう追跡を開始したが、幸運にも振り切る事に成功した。午前8時15分、敵の索敵機が第1遊撃部隊を捕捉し通報。アメリカ第5艦隊に知られるところになる。第5艦隊の司令であるレイモンド・エイムズ・スプルーアンス大将は、大和との艦隊決戦を望んでいた。「ヤマトは世界一の大艦である。私は尊敬する東郷平八郎が育てた日本海軍の誇りを、東郷スタイルで葬る事が東郷の霊に対する手向けであり、日本海軍の名誉ある最後にもなると思う。だからヤマトは飛行機では沈めたくない」と自身の考えを示した。だが、彼の望みは叶わなかった。第58任務部隊を率いるマーク・ミッチャー中将は第1遊撃部隊迎撃のため、沖縄北東に3個任務群を集結させた。その戦力は空母7隻、軽空母5隻、艦載機900機以上と膨大なものだった。このうちの半分が第1遊撃部隊迎撃に割り当てられた。
午前8時23分、F6Fが大和を発見。午前8時40分に敵艦載機7機が出現し、艦隊を一周して去っていった。不穏な空気が流れ始める。そして午前10時、ミッチャー中将は第1・第3空母群に攻撃隊発艦を命じ、空を埋め尽くすほどの艦爆と戦闘機が飛び立った。この時ミッチャー中将はスプルーアンス大将に「貴官が攻撃しますか?私がやりますか?」という確認の電報を送っている。先を越されて諦めたのか、スプルーアンス大将は「貴官がやれ」とアメリカ海軍史上一番短い作戦命令を下した(行き先を佐世保と誤認した説もある)。午前10時14分、PBM飛行艇2機が第1遊撃部隊の付近に出現。3分後に対空射撃を開始し、大和は三式弾を発射した。間もなく敵飛行艇は姿を消した。その後、大和艦内では竹の皮に包んだ白米のおにぎり3個とタクアンが戦闘配食として配られた。午前11時7分、大和のレーダーが100km先の敵大編隊を捕捉。対空戦闘配置を取る。3分後には敵の触接機が出現し、嫌でも敵の攻撃が近い事を知らされる。正午頃、落伍していた朝霜から「米軍機と交戦中」との通信が入ったが、以降は音信不通となった。
この日は小雨交じりの曇天であり、灰色の雲が空を覆い尽くしていた。まるで日本の行く末を暗示しているかのように…。
午後12時32分、敵艦上機150機が第1遊撃部隊の上空に出現。坊ノ岬沖海戦が始まった。2分後、之字運動を停止して速力25ノットに増速。全艦が対空射撃を開始した。駆逐艦浜風が敵機1機を撃墜するが、その直後に魚雷(爆弾とも)1本が命中。推進器が破壊され、航行不能に追いやられてしまった。敵機は最も大型である大和に攻撃を集中。特に左舷側を執拗に狙い、転覆させようとしてきた。大和と中心とした輪形陣は回避運動によってすぐに崩れた。午後12時41分、大和後部に中型爆弾2発が直撃。12.7cm高角砲や多数の対空機銃を破壊されてしまう。更に後部射撃指揮所と後部副砲塔前面付近に被弾。爆弾が中甲板にまで到達し、火災を引き起こした。余波で後部副砲塔と13号電探が完全に破壊された。
午後12時45分には大和の左舷中央に魚雷が命中。左舷側に5、6度傾斜し、第8缶室が使用不能に陥る。だが注排水装置によって右舷に注水し、傾斜1度までに復元させた。その頃、矢矧は敵機を引き付けるため
陣形から外れたが、魚雷2本を喰らって早々に航行不能になってしまった。午後12時48分、浜風が船体を二つに折って沈没。最初の犠牲者が出た。その2分後には単艦で奮戦していた朝霜も沈没した。13時8分、涼月が被弾し艦首を損傷。まともに航行できなくなり、艦隊から落伍。行方不明となる。
13時20分、敵の第二次攻撃隊126機が出現。駆逐艦霞が2発の爆弾を喰らい、航行不能となる。僚艦が次々に脱落していく中、大和は24門の高角砲と約150門の機銃で必死に抵抗するが、圧倒的な数で攻めてくる敵機を捌き切るのは難しかった。13時33分に敵艦攻20機を発見した大和が左へ回頭を行った。しかし1分後、自身に伸びてくる雷跡6本を確認。このうち3本が命中し、左舷外側機関室と左水圧機室が浸水。再び左へ15~16度傾斜し、速力は18ノット以下に低下した。右舷へ3000トンの注水を行い、5度まで復元。
集中攻撃は続き、13時44分に大和の左舷中央に魚雷2本が直撃。更に右艦首方向から急降下爆撃機の編隊を発見。すかさず左へ回頭し、対空射撃で2機を撃墜した。14時、再び急降下爆撃機の急襲を受け、3発の中型爆弾が命中。右舷タンクが満水になったため、右側にある第3缶室と第11缶室、右舷水圧機室に注水した。13時55分、初霜は連合艦隊司令部に状況を報告。「4月7日、敵と交戦中。矢矧魚雷2命中航行不能、大和魚雷、爆弾命中。駆逐艦冬月、雪風以外全部沈没または大破」と電報を打っている。14時5分、猛攻を受けた矢矧が沈没。健在だった磯風も不運な至近弾を受けて機械室が浸水、航行不能となる。6機編成のアベンジャーが大和を挟撃し、雷撃。回避運動を取ろうとしたが、14時12分までに3本が命中。右舷機械室と缶室の注水で片舷推進になり、速力12ノットに低下。5分後に左舷へ1本が命中。傾斜が急激に増大した。伊藤中将は大和の沈没を悟り、特攻作戦の中止と総員退艦を命令。幹部を艦橋に集めた。そして冬月に移乗して残存艦への指揮と生存者の救助に注力。それが終わると「事後の作戦に備える」と告げて大和に戻り、長官室へと入っていった。14時20分、左への傾斜が20度に達する。総員最上甲板が命じられたが、その3分後に大和は転覆。ついに力尽きたのだった。傾斜120度になった時に後部副砲付近で発生していた火災が副砲塔火薬庫に引火。主砲塔内の弾薬が誘爆し、大爆発を起こした。この時に上がった巨大な黒煙は上空800mにまで達し、遠く離れた鹿児島の地からも確認できたという。爆発の衝撃で船体は真っ二つに裂け、坊ノ岬260度90海里付近で轟沈。戦死者は2498名に及んだ。
14時45分、生き残っていた冬風、雪風、初霜などが生存者の救助を開始。269名の大和乗員が救助された。16時37分、連合艦隊はGF電令作第61号で作戦中止と佐世保への帰投を命令。16時57分、大破航行不能になっていた霞の雷撃処分が行われた。22時40分、大破漂流中の磯風を雪風が砲撃処分した。航行可能だった雪風、冬月、初霜は4月8日に佐世保へ入港。艦首を失って大破状態となっていた涼月は機関後進で佐世保へ向かい、かろうじて入港に成功した。アメリカ軍は386機を出撃させ、対空砲火で5機が撃墜、1機が事故により墜落。52機が損傷し、うち1機が不時着水。修理不能として5機が海上投棄された。
4月13日、第2艦隊参謀長は軍令部に「特攻部隊を使用する際、目的完遂の道筋においては、最も合理的・自主的な細密に渡る計画を立て、極力成算のある作戦を実施すべきであり、思いつきのような作戦や攻略的作戦を立てて貴重な作戦部隊を犬死にさせないようにするのが特に肝要である」と報告している。
第1遊撃部隊10隻のうち、命からがら戻ってこられたのは僅か4隻だった。特に涼月の損傷は激しく、終戦まで戦線に復帰する事は無かった。水上艦艇による特攻は天一号作戦だけで打ち切られ、残余の艦艇は擬装を施してアメリカ軍の目から隠れる事になる。
戦後の1985年、大和の沈没地点を発見。鹿児島県枕崎市の沖合い約200kmのところで海底に沈んでいる。同市内の火之神公園には平和祈念展望台(戦艦大和殉鎮魂之碑)があり、出撃や戦闘の様子が記されている。
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最終更新:2025/12/12(金) 23:00
最終更新:2025/12/12(金) 22:00
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