「宇都宮成綱」(うつのみや しげつな 1468~1516)とは、下野宇都宮家中興の祖として知られる下野国の戦国大名である。家臣団の再編や支配体制の立て直しなど、戦国の乱世を生き残るための基盤を作り、南北朝時代以降、内紛などで瞬く間に弱体化し窮地に陥った下野宇都宮家を救った。また、北関東の覇権を巡って周辺勢力とも激しく争い下野宇都宮家を北関東一の勢力へと導いた豪傑である。
下野宇都宮家17代当主。父は下野宇都宮家16代当主である宇都宮正綱。兄弟に武茂兼綱、塩谷孝綱、姉に結城政朝の妻。子に宇都宮忠綱、宇都宮尚綱、宇都宮興綱、落合業親(庶子だと言われている)、瑞雲院(古河公方足利高基の妻)。
10歳の時に父が他界し、若くして下野宇都宮家の当主となるが、その後兄である武茂兼綱が成綱に対して反乱を起こす。この際に家臣の芳賀景高や古河公方足利成氏が成綱を支援し乱を鎮圧した。この一件以降、古河公方と宇都宮成綱の関係は親密になっていき、自らの娘を後の古河公方になる足利高基に嫁がせている。しかし、この一件で一門の武茂家は宇都宮家中内では力をほとんど失い、幼い君主が続いてきた背景も相まって芳賀景高を筆頭とする重臣芳賀家の台頭を招いてしまった。しかし芳賀景高の台頭は成綱にとって悪いことでなく成綱に大きなメリットを与えていた。景高は奉行人として成綱を補佐し、没落した宇都宮家当主の権力強化に大いに貢献した。
1500年に突入すると芳賀景高は没し、景高の子の芳賀高勝が後任となったが、成綱と高勝の間で確執が生じてくる。1506年に古河公方足利政氏とその息子の足利高基が対立し、高基が宇都宮に逃れて来ると成綱は高基を庇護し、古河公方擁立を企てた。この際にナンバー2の芳賀高勝が猛反対し政氏支援の態度を取ったため家中は混乱に陥る(永正の内訌と呼ばれている)。さらに高勝は成綱の失脚を企て、子の忠綱を擁立し強引に隠居させた。しかし、成綱にとってこの隠居は家中掌握を狙った策であり、ほぼ同時期に弟の塩谷孝綱を一門の塩谷家に送り込んだりなど準備を着実に進めていた。
1512年に芳賀高勝を粛清を兼ねて殺害したことがきっかけで、宇都宮錯乱と呼ばれる2年にも渡る大規模な内紛が発生。家臣も壬生綱重などの活躍により鎮圧に成功する。
その後、古河公方足利政氏支持の佐竹義舜が下野国に侵攻。古河公方の擁立と北関東の覇権を巡って激しく争った。この際に姉が嫁いで同盟関係となっていた結城家も成綱に協力している。竹林の合戦、縄釣りの合戦で佐竹義舜を制し、成綱による古河公方の擁立が実現し、北関東で最も力を持つ勢力へとなった。政氏支持の大名の多くは弱体化し、下野宇都宮家は比較的有利な状態で本格的な乱世へと突入することになる。
さらなる躍進を狙えたが、成綱は1516年に病没してしまった。
これによって嫡男の忠綱が下野宇都宮家を率いていくことになるがとんでもない悲劇が襲い掛かることとなった。
成綱の父の正綱の時代には南北朝時代以降独立した行動の多かった有力一門の塩谷家などを再び臣従させることにある程度成功していた。それに対して成綱は簗家や笠間家、壬生家などの有力一門の庶流を直臣にすることで有力一門に対する影響力を強めていくことで家中を強化していった。
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最終更新:2025/12/08(月) 17:00
最終更新:2025/12/08(月) 16:00
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