帝国海軍最後の生き残りとは、大日本帝国海軍に所属した艦船の中で最後まで生き残ったものに対する呼称である。
人により価値観の違なるため、この呼称を誰に充てるか見解が分かれる所でもある。
この記事では、主な艦船とその理由について記述する。
日露戦争での最大の海戦・日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた。
廃艦後は保存運動により記念艦として保存されることとなるも、海軍軍縮条約により軍艦としての復帰しないよう周囲を埋め立てたため、これ以降は船として機能しない。戦後、駐留兵のためのキャバレーとなったり物資不足のために多くの部品が持ち去れるなどして荒廃したが、関係者の努力により復元された。
現在は横須賀市の三笠公園として整備され、見学が可能。詳細は「戦艦三笠」を参照
大日本帝国海軍に所属した軍艦であって船体が残っており、資料館として活用されている。
「長門陸奥は日本の誇り」と称されるビック7の一つであったが、柱島泊地にて原因不詳の爆発により沈没した。引き上げて再戦力化も検討されるも結局戦中は放置されたが、後に意外な形で復活することとなる。
戦後になると各地の軍艦の引き上げ作業が本格化し、船体や砲塔などの部分の多くの鉄が再利用された。中でも陸奥の鉄は「陸奥鉄」と呼ばれ、戦後に作られた鉄に含まれる放射性物質を含まないことから、放射能測定に欠かせない存在として、形を変えながら現在も活用されている。
大日本帝国海軍に所属した軍艦であって、資材が科学技術の発展に貢献している。
戦艦大和が沈没した坊の岬沖海戦に参加して帰還した駆逐艦涼月・冬月と、太平洋戦争中は練習船として終戦を迎えた柳。
戦後、艦艇が次々と海外への賠償艦や解体されていく中、この3隻は北九州市の若松港で船体を沈めて防波堤となることになった。直後は船体が露出し出入りもできたというが、現在は涼月・冬月は完全に埋め立てられ、柳のみ船体が確認できる。(軍艦防波堤)
大日本帝国海軍に所属した艦艇であって、形を変えながらも国土を護り続けている。
昭和20年に鵜来型海防艦として建造されるも、同年終戦を迎えた。
戦後、復員船や気象観測船などを務めた後、海上保安庁の巡視船こじまとして活躍する。除籍後、千葉市が払い下げを受けて海洋公民館(現:美浜区こじま公園)として整備し、池に浮かぶ形で運用されていたが、消防法等に適合しないことから閉館し、平成10年に解体された。
大日本帝国海軍に所属した艦艇であり海上保安庁に所属した船艇であって、社会教育施設となり平成10年まで現存した。
ソ連からの発注により建造された民間船を海軍が買い上げた特務艦艇でありながら、数々の戦火を潜り抜けた幸運艦として知られ、測量・輸送を担った。
戦後は復員船を経て海上保安庁に所属し、灯台補給船を務めるも南極観測船として6次に亘る観測を成し遂げる。その後巡視船として活躍するも退役し、東京お台場で博物館船として見学が可能。現在も船籍を保持しており整備すれば航海もできる。詳細は「宗谷(船)」を参照
大日本帝国海軍に所属した特務艦であり海上保安庁に所属した船艇であって船体が残っており、現在も船として活用されている。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 22:00
最終更新:2025/12/06(土) 22:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。