「徳川家康」(とくがわ・いえやす 1543年1月31日 - 1616年5月22日)とは、日本の戦国大名であり江戸幕府の初代征夷大将軍である。
松平元信、松平元康、松平家康と改名を重ねている。
三河(現在の愛知県東部)に生まれたが、幼少期は駿河の今川義元の下で人質として暮らす。
桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると旧領を取り返すべく岡崎城へと入った。
やがて今川家の衰退もあって、三河を回復すると今川から独立、信長と清洲同盟を結び今川と敵対した。
しかし織田信長が1568年に足利義昭を奉じて上洛すると、義昭を奉じる織田軍のもと、時には戦争に駆り出されることもあった。金ヶ崎の戦い、姉川の戦いなど信長傘下で従軍しつつ武田軍に対抗する日々が続くも、1572年には武田信玄に大敗北を喫する。肖像画「しかみ像」を残すほどの苦渋であったと伝えられている。 ちなみにこの時馬上で脱糞したという話が有名だが、最近ほぼ完全に創作であることが分かった。(『検証・三方ヶ原合戦』)
1575年になると織田信長の助力を得て、ついに長篠の戦いで武田信玄の跡を継いだ武田勝頼を撃退。長年徳川家を悩ませていた武田に対して攻勢に転じ、1582年には信長と協力してついに武田家を滅ぼす。だがこの過程で不仲説をささやかれた息子、信康と対立し、なくなく彼とその母親であった築山御前を切腹、処罰することになった。
そして1582年に織田信長が本能寺で明智光秀の謀叛にあい死去すると、命からがら河内から三河へと脱出。信長亡き後の織田家の混乱を後目に、織田旧領であった甲斐信濃などへ勢力拡大を測る。しかし織田家を抱き込んで台頭してきた羽柴秀吉と対立し、直接対決にもつれこむものの、一部の軍を凌ぎ切るだけで精一杯であり、最終的に根負けして息子の於義丸(後の結城秀康)を人質に送ることで和解、臣従した。
豊臣秀吉に敗れたことで、またも臣従の生活を強いられていた徳川家康であったが、秀吉が幼子を残して死没したことで、秀吉の才覚に支えられてきた豊臣政権に陰りが見え始める。やがて五大老の筆頭として豊臣政権で権勢を振るい、それに反発した石田三成ら西軍との関ヶ原の戦いに勝利すると、豊臣家を凌ぐほどの武力を持った天下一の大名へと躍進した。
1603年、家康は征夷大将軍に任じられ、ここに江戸幕府が誕生する。2年後には将軍職を息子・秀忠に譲り、自らは駿府に移って大御所と称した。駿府に身を置くことで大阪の豊臣秀頼・京の朝廷、そして江戸の秀忠という三者を視界に入れ、事実上政治を掌握していようとしていたのである。1614年にはついに豊臣秀頼を大坂の陣で討伐し、翌年に豊臣家を滅ぼす。ここに朝廷と江戸幕府を一元的に結ぶ体制を築き上げた。
1616年5月22日、没。辞世の句は2つ知られており、忠義心の強い三河武士に殉死する事を止めさせる意味が含まれてるように見える「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」と、豊臣秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」への返歌と見る事が出来る「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」がある。
始めに駿河・久能山(現・久能山東照宮)に埋葬され、一周忌を経て江戸城真北の日光東照社(埋葬当初は東照“社”で、東照“宮”となるのは1645年11月3日以後)に改葬され、1617年2月21日に東照大権現の神号、3月9日に神階正一位が贈られる。
信長・秀吉と比べられることが多く、一般的に家康は律儀な忍耐の人と言われる。
大規模な内乱も無く250年以上にわたって続いた平和な時代というのは世界を見渡しても稀であり、江戸幕府の礎を作った家康は海外の研究者の興味を惹く存在となっている。
戦国の三傑と呼ばれる信長、秀吉、家康の中で、信長が「信長の野望」、秀吉が「太閤立志伝」と主役扱いの定番シリーズがあるのに対して家康にはそういったものがない。(一応、「決戦」がそれに当たるといわれるが。)やはり、忍耐の人というイメージと晩年の狸親父というイメージがゲームの主役としてはあまり似合わないためだろうか。
しかし、ゲームに登場すれば家康のステータスは信長や秀吉に劣るものではない。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける徳川家康の能力一覧。数値は信長とほとんど互角と、高性能。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 85 | 政治 | 94 | 魅力 | 96 | 野望 | 83 | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 86 | 政治 | 82 | 魅力 | 90 | 野望 | 72 | 教養 | 73 | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 96 | 戦闘 | 88 | 智謀 | 85 | 政治 | 95 | 野望 | 82 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 186(A) | 智才 | 188(A) | 政才 | 194(A) | 魅力 | 98 | 野望 | 95 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 94 | 智謀 | 93 | 政治 | 99 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 96 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 88 | 政治 | 99 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 87 | 智謀 | 85 | 政治 | 89 | 野望 | 99 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 87 | 知略 | 82 | 政治 | 90 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 85 | 知略 | 84 | 政治 | 90 | 教養 | 72 | ||||||
| 革新 | 統率 | 95 | 武勇 | 89 | 知略 | 94 | 政治 | 100 | ||||||
| 天道 | 統率 | 96 | 武勇 | 87 | 知略 | 94 | 政治 | 100 | ||||||
二枚の家康が存在する。一枚目は今川に居た時代の家康(松平元康)。
2コストの6/8の弓足軽で魅力・防柵、とそこそこのスペックを持つ。
計略は「忍従の陣」。味方の武力を徐々に上げていく。上がりきるまでには結構な時間を要し、耐えて耐えてその力を発揮する彼らしい計略である。今川勢力の特徴としてイラストにはフェイスペイントがあるが、彼の場合は狸のような隈取。それ以外は従来のイメージとは異なるイケメン路線。
二枚目は徳川家康の名前。Ver1.10より追加。凛々しい青年に成長したが、隈取は相変わらず。
コストは2.5へと上昇し8/9で弓足軽に欲しい制圧と、士気を助ける魅力を持つ。所属も織田と同盟時なので織田家。
計略は「鶴翼の陣」で、味方の武力が上がるが自分の移動速度が下がる陣形。
範囲は鶴翼の名の通り自分を中心として逆三角形になっている。武力上昇は心もとないが、効果時間は一般的な強化陣形の倍はあり、やはり持久戦を得意としている。
なお鶴翼の陣は史実では三方ヶ原の戦いで家康側が取った陣形である。武田勢にフルボッコにされたけど。
ちなみに徳川四天王は1.10時点で井伊直政を除く三名が追加されている。
一番登場が早かった酒井忠次(と、嫁の瀬名)は今川家所属で、次に追加された本多忠勝と榊原康政は織田家である。家康自身は上記の通り、今川家と織田家で一枚ずつ存在している。彼らを使う群雄伝のイベントでは、カードの組み合わせによっては最大士気が減るため少々面倒になっている。
タスケテクレータダカーツ!徳川家康(戦国BASARA)を参照
滝田栄(NHK大河ドラマ『徳川家康』)
津川雅彦(NHK大河ドラマ『葵徳川三代』『独眼竜正宗』他)
西村雅彦(NHK大河ドラマ『秀吉』)
松方弘樹(NHK大河ドラマ『天地人』他)
北大路欣也(NHK大河ドラマ『江?姫たちの戦国?』他)
関連人物
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最終更新:2025/12/23(火) 07:00
最終更新:2025/12/23(火) 06:00
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