志村けんとは、東村山が生んだ日本を代表するコメディアンである。
「8時だョ!全員集合」「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」「志村けんのだいじょうぶだぁ」などに出演、国民的人気を得る。
自身の出世作ギャグ「東村山音頭」のおかげで「東村山=庭先には多摩湖」とインプットされた日本人は少なくない。
現在じゃんけんにおいて一般的な掛け声である「最初はグー」を世に浸透させた人物でもある。
また、「視聴者投稿による面白VTR」というテレビ番組のジャンルを発案し、日本のみならず全世界にこのジャンルを広めるきっかけを作ったのでも知られている。
出演番組は中国・台湾・インド・タイ・イランなどでも放送されているため、海外でも知名度は高い。
あだ名は「ケンちゃん」、「ケン坊」、「しむけん」、「やっちゃん(本名から。親族が使用)」
「全員集合」や「ドリフ大爆笑」における彼の立ち位置は他のメンバーと比べても明らかにねじが一本抜けているような役柄が多かった。(母ちゃんコントなど)また、加藤茶と二人してボケをしていかりやにそろって突っ込まれる事が多かった。ボーヤ出身でなおかつ一番年下なので他のメンバーの弟的な位置で演ずる事も多かった。
一方で「志村けんのだいじょうぶだぁ」など自身が冠を務める番組内においては共演者に突っ込みを入れたり、そうかと思えば酔っ払いや婆さん役などのボケ役を恰も本物の如く演ずる事に定評があった。ここ数年はダチョウ倶楽部の暴走に対して、強烈に突っ込みを入れるなど、師匠であるいかりやのような立ち位置になってきている。
彼がコントにするテーマは「全員集合」以来、一貫して日常を大きく逸脱しない範囲での事象を俎上にすることが多く、非現実的なテーマを取り上げることはほとんどない。この辺りは他のドリフのメンバーにも大なり小なり言えることであるが、彼の場合はそのこだわりを維持するため、雑誌を読んでいても漫画の部分を飛ばす、もしくは破り取るほどである。その一方で床が抜ける程に集めた映画をもとにコントの研究する事が多く、これらの成果をもとにコントを練っていったともいわれる。
海外での人気が高いのは前述されている通りだが、言葉が分からなくても面白さが伝わるほどの演技力の高さに加えて割合にシンプルな言い回しで容易に意味を解する事が出来る所が大きいと思われる。特に台湾ではドリフ関連の番組は「志村大爆笑」とひとくくりにされるほどに高い人気を誇る。これをたどると、師であるいかりや長介の実体験に行きつく。いかりやが駆け出しのバンドマン時代、言葉の壁がある米兵相手にコミックバンドをやっていた経験より、ドリフにおいてもそのノウハウをスライドさせていた。
さらに原点にさかのぼり、志村が大きく影響を受けた俳優としてアメリカの喜劇俳優の「ジェリー・ルイス」がいる。彼の「底抜けシリーズ」などが多感な時期の志村の感性を刺激し、今に続くスタイルの原型となった。また実家は父親が非常に厳格な人物であり、家庭内の雰囲気も重いものであったが、落語などのお笑い番組を見ている時だけは父親も笑いをこらえていたり、雰囲気も明るくなったのでその経験がお笑いを目指すきっかけとなった。
ドリフターズが元々はコミックバンドという音楽畑出身である為、彼もまた音楽に対する造詣が深い。後述するが、ビートルズの影響で所ジョージの親戚とバンドをやっていた経験もあり、映像ではあまりお目にかかる事が少ないが、ギターを担当してる場面が存在する。これがあってか近年のライフワークの一つである津軽三味線に繋がっている。以前より三味線や琵琶をコントの中で披露する事も多かったが、若手実力派の上妻宏光から指導を受けて本格的に舞台などで披露している。上妻が思ってた以上に上達が早く、志村のセンスの高さがうかがえる。
ビートルズやソウルミュージックの大ファンとしても知られ、「ドリフの早口言葉」「東村山音頭1丁目」「ヒゲダンス」などにその影響を見ることができる。特にヒゲダンスは、志村の提案でテディ・ペンダーグラスというソウルミュージシャンの楽曲「Do Me」のイントロからのフレーズが引用されている。ちなみに志村はビートルズ来日の際にコンサートを見に来ており、写真撮影が禁止されている中で隠し取りを決行、その日の映像は収録されていなかった為、結果的にその写真は非常に歴史的価値の高いものとなった。なお、ビートルズ日本公演において前座を務めたのが後に自身が所属する事になるザ・ドリフターズである。いずれにしても、志村の冠番組でビートルズの楽曲が流れるというように彼がビートルズから強い影響を受けているのは明白である。
本名は「志村康徳(しむらやすのり)」といい、徳川家康のような大物になるよう父親から命名された。
芸名の「けん」はその父親の名前「憲司」に由来している。
父親は軍人上がりの教育者であり、非常に厳格な人物であった。母親は芸事をたしなみ、志村自身は母親似と言っている。母親は後に息子の番組に何度か出演している。
家庭の方針で都立久留米高校(当時)に入学。この高校はサッカーの強豪校で非常に有名であり、志村自身もゴールキーパーをしていた。また、当時は大卒者を多く輩出することでも知られ、志村と同級で大学進学しなかったのは志村だけと言われた。これと前後して父親が交通事故に遭遇、その後遺症により認識障害となり、物事の判断がつかない状況となった。後にじいさんコントで見られる「めしゃ、まだか?」「婆さんの姿が見えねぇんだけどな」の繰り返しの問答は父親のその時の姿をモデルとしたと言われる。
1968年にドリフターズのリーダーであったいかりや長介の自宅に押しかけ付き人となる。
その後脱走したり、付き人仲間とお笑いコンビを組んだりと紆余曲折を経る(なお、芸能界デビューは前述の付き人コンビを結成し初舞台を踏んだ1972年とされており、芸歴はビートたけしや笑福亭鶴瓶と同期扱いとなっている)。
1974年に荒井注がドリフを脱退したのと入れ替わりで正式メンバーとして加入。当初はいかりやは自分と同世代の人間を迎えようとしたのだが、加藤茶が自分と歳の近い志村の加入を強く推したため採用された。なお、当初は名前が「志村ケン」とカタカナ表記になったり、「志村健」と漢字表記になったりしていた。
しかし、ドリフメンバーとなってからすぐに人気者になったわけではなく、1976年の「東村山音頭」のヒットまで泣かず飛ばずの苦難の時代を経験する。世間からは荒井注と比べられ、準メンバー扱いの付き人・すわしんじの方が良かったのではないかという意見も強かった。
だが、「東村山音頭」をヒットさせると状況が一変。立て続けに「カラスの勝手でしょ」「ディスコ婆ちゃん」「ヒゲダンス」「バカ殿様」とヒットギャグやキャラを連発させ、加藤茶をも凌ぐドリフ最大の人気者にまで上り詰めた。
金田一コントでは背後に気が回らない金田一耕助役を演じ、観客の子供から「志村ー!うしろ!うしろ!」とツッコまれる定番ネタも生まれた。
1981年、競馬のノミ賭博容疑で書類送検をされ、仲本工事とともに約1ヵ月芸能活動を自粛。志村は賭け金が少額であったため、起訴猶予処分が下された。しかし、復帰後は馬にまつわる自虐ギャグでセルフパロディにしてみせる器の大きさを見せつけた。
1985年の「8時だョ!全員集合」(TBS)終了後からソロ活動を本格化させる。
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)、「志村けんのだいじょうぶだぁ」(フジテレビ)で個人としての人気を不動のものとさせ、「だいじょうぶだぁ太鼓」「変なおじさん」など独自のキャラやギャグも確立させた。
順風満帆のように見えたが、1996年に突如死亡説が流布される。
人気低迷で出演番組が一時的に減り(当時出演していたレギュラー番組は深夜の冠番組1本だけであった)、なおかつ他の芸能人のメインの番組にはあまり出演しなかった活動が裏目に出て、「宇都宮のがんセンター(栃木県立がんセンター)で死んだ」「亡くなったことは四十九日を過ぎてから発表される」などという具体的な内容の噂が流行した。
最終的には志村本人が登場して全くの嘘であると発表する奇妙な事態にまで発展した。
これは 芸名と同じ「しむらけん」さんと言う方が実際に亡くなり、それが「志村けんが死んだ」と言う事につながったものと思われる。
この反省からか、以降は自分のメイン番組以外へのゲスト出演もこなすようになり現在に至る。
ドリフターズの中では一番の最年少(2013年現在63歳、最年長は高木ブー80歳)にもかかわらず、ぶっちぎりで薄毛となっている。デビュー当時の70年代はやや癖毛気味のふっさふさであり、割合に2枚目で売り出す事も多かった。ジュリーこと沢田研二とのコントにおいても彼の人気に負けずに黄色い声援を浴びる事も多かった。
だが、志村人気が出てきた80年代頃から徐々に後退が始まってきた。この時、まだ志村は30代半ばである。この頃、彼は後ろ髪を縛るヘアスタイルにしていた。これはとある俳優(ミュージシャンと言う説もあり)から影響受けたと言われる。
その後は順調に後退が進み、2013年現在は前半分近くにまで至っている。その状況を自らネタにする事があるが、コント内ではカツラ等のかぶり物率が極めて多く、地毛で出演するコントは少ない傾向がある。
彼の出身は東京都東村山市である。志村の自宅は別にある為、本人が東村山市に戻る回数はそれほど多くはない。それでも、志村けんの出身地として東村山市は多くの人々に知られている。東村山音頭が大ヒットした当時は多くの子供たちが、今で言う所の聖地巡礼の如く、歌詞に出てくる1丁目~4丁目を探していたが、実際には存在しない住所である。
東村山市は東京都の北西部に位置し、歌詞にもある多摩湖(村山貯水池)は人口湖ながらも非常に風光明美である。また、沿線を走る西武新宿線によって、都心から30分圏内という地の利の良さからベッドタウンとしての発展を遂げてきた。しかし、東村山音頭がリリースされた当時は1964年の北多摩郡からの分離、市制の設置から時期が経っておらず、所ジョージの歌にもあるように、まさに「東京の外れ!大外れ!!!!」というイメージであった。そうでなくとも、そんな市を知らないと言う人が多くいた状態であった。
「8時だョ!全員集合」で「少年少女合唱隊」でオチの場面で東村山音頭を披露、バレエの衣装を身にまとい、股間に卑猥な物を連想させる頭部といういでたちに代表される衣装や、割合につかみやすいテンポでたちまち大人気となった。当時、志村は正式メンバーになって数年が経過したものの、鳴かず飛ばずの状態であったが、たちまちにそれを払しょくした。
無論、東村山の地名も全国区へと知れ渡ることとなった。これにより当時の市長より感謝状を贈られているが、よく言われる名誉市民に選ばれたという事はない。なお、感謝状を贈られた際に駅前にケヤキの木が植樹された。その名も「志村けんの木」である。その他、地元の商工会の愛称は「あい~ん」といい、また志村の幼馴染が経営する和菓子屋には「だいじょうぶだぁ饅頭」などが販売されている。
40年近い彼のキャリアの中においては数多くの芸人との絡みや噂が存在した。
ドリフターズ関連を見れば、いかりや長介との不仲説がたびたび囁かれた。80年代における「ドリフ大爆笑」においてはコントのコーナーでも「加藤・志村」と「いかりや・高木・仲本」と言う組み合わせが多かった。志村もいかりやに対しては一時期、批判ともとれる発言をしていた。当のいかりやは逆に志村の才能を高く評価していた。加藤茶とは元々付き人兼運転手であった事やドリフ脱走の顛末より非常に長い付き合いがあり、志村の番組にもたびたび出演していた。
歌謡界では沢田研二とは全員集合以来、共にコントをしてきた事もあり、仲が良い。しかし、プライベートで絡む事がやや少なく、近年は徐々に交流を深めている。吉幾三は志村の著書において「また飲みに行きましょう」と言う程の仲であり、酒を含んだ状態でコントでたびたび出演している。その際はピー音がたくさん入れられ、まともに意味が通らない状況にもなる。研ナオコとは夫婦コントやCMで昔から共演しており、仲の良さがうかがえる。
俳優の柄本明は怪優の誉れが高い個性派俳優であるが、志村と共演する時は喜劇俳優と言う普段見せない姿を披露する。特に芸者コントは高い評価があり、明らかに志村が押され気味となる珍しいコントである。個性派俳優のキャリアをいかんなく発揮する狂気の役どころは必見である。なお、柄本は「志村さんとしかコントはやらない」と言っており、信頼のあかしともいえる。
ビートたけしは80年代から90年代において互いの番組を競い合ってきたライバルであるが、「タケシムケン」という番組で共演した事で尊敬しあう仲となった。本来はお互い同期なのだが、たけしからは志村の方が先に売れていたこと、また志村からはたけしの方が年上であること理由として、お互いの立場を尊重し合う間柄となっている。志村の三味線とビートたけしのタップダンスのコラボレーションは一見の価値がある。面白い事にたけし軍団のジョーダンズの山崎まさやは志村の弟子であった。また、たけし軍団のメンバーがたけしの事を「殿」と言うのはバカ殿様の影響があると言われる。所ジョージとは近年共演が増えている。二人は出生地が近い事やお互いに犬好きである事、志村が所の親戚とバンド組んでいた事から実は浅からぬ縁が存在している。タモリや明石家さんまとは芸風の違いから、あまり共演は見られないが決して険悪という事ではない。
後輩関係で見ると早いうちに桑野信義と田代まさしのセンスに目をつけて、自らの番組に出演させている。二人とも志村を「師匠」と呼び、実質師弟関係ともいえる。なお、田代に関しては数々の犯罪行為より断絶状態となっている。ダチョウ倶楽部は共通の友人の紹介から関係が始まり、今では志村の番組においては欠かす事の出来ない存在となっている。特に上島竜兵は志村を深く敬愛し、師匠と呼んでいる。嫁より師匠と言って憚らないほどである。志村もかなり目にかけているようで、志村の誕生日において、周りを女性タレントが囲む中で志村の脇と言う一番おいしい位置にいた所からもそれがうかがえる。またタカアンドトシの芸風も高く評価している。彼らが芸風について悩んでいたところ、志村が一喝したらしい。
女性関係ではいしのようことは結婚寸前までの仲であった事が知られる。それ以降も何人かの女性と懇意であると噂されていたが、どの女性とも結婚には至ってはいない。これには慰謝料絡みなど諸説流れているが、志村が根っからの芸人であり、仕事の方にリキを入れてしまい愛想を尽かされてしまうからであると言われている。
海外に目をやると、アメリカの俳優レスリー・ニールセンと何回か日本の番組で共演した事がある。「裸の銃を持つ男」の俳優として絶大な人気を誇っていた彼が日本のコメディ番組に出るというのは非常に異例であり、伝説となっている。90年代後半、「ミスター・ビーン」の人気が高まると演者のローワン・アトキンソンとの共演を熱望する声があった。結局は方向性のずれなどの問題から共演には至らなかったが、志村に与えた影響は少なからず存在する。
お笑いにおけるキャラクター性や演技力の高さから、ドリフターズのメンバーはピンで活動する際には、お笑い番組だけに、留まらずテレビドラマや映画などに出演することもよくある。
しかし、志村けんはお笑いだけに力を入れる方針から、ドラマには出ておらず、人生において一度しか映画に出演したことがない。
しかもその出演作は鉄道員(ぽっぽや)だけで、「高倉健にオファーされたから断りようがなかった」という理由から。
だが2012年では割合考えが軟化していったのか、どういうわけか『ロラックスおじさんの秘密の種』というCGアニメ映画の吹き替えで、主演を務めている。また、これまたどういうわけか2014年の妖怪ウォッチ映画では大妖怪マスターニャーダの声の担当もしている。
志村人気がピークであった1990年代前半、コロコロコミックにおいて竹村よしひこによってコミカライズ化されて「わ~お、ケンちゃん」として連載された。学校コントそのままにいかりや長介をモチーフとしたおこりや先生やその当時のタレントをイメージした同級生が多数出演した。何故か板橋区の設定になっているが、これは同区内において「志村」と名のつく地名があるからであろう。アニメ化こそされなかったが、割合に人気があった。
この他、いくつかの漫画においてパロディ化やネタを使ったものがある。
全員集合時代でいえば「東村山音頭」が非常に有名であるが、その他にも「七つの子」の替え唄を歌い、これまた全国の子供たちが真似をした。その人気はPTAから苦情が来るほどであった。
その後、時代が下って「志村けんのだいじょうぶだぁ」になると兄貴分の「クレージーキャッツ」の歌である「ウンジャラゲ」をカバー、これもまた大人気となり「だいじょうぶだぁ」内で視聴者投稿があるほどであった。番組末期においては「爺さん婆さんコント」の中からも歌を出した。
近年では研ナオコとのコンビで歌を出したりと、ちょくちょく歌を出している。
また、所ジョージは志村をモチーフとした歌を制作している。「長介が嫌いですぐ辞めた―♪」という歌詞の「志村けんの歌」と「東京の外れ!大外れ!!」の「東村山ラプソティー」が知られている。
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最終更新:2025/12/16(火) 13:00
最終更新:2025/12/16(火) 13:00
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