悪魔の証明(ラテン語:probatio diabolica)とは、
このように、非常にややこしい状況となっている。法律用語ではあるのだが、法律上の意味は違うものだし、一般に流布している意味は元が誤用であるため人によって意味が違ううえに、間違った概念も混じっている。科学者などの論理的であるべき者が言葉の定義に無頓着であることは、最も戒められるべきことだろう。
悪魔の証明を認めたらオカルトでも何でもありになってしまう!という人がいるが、3などの誤った論理は論外だし、4の正しい場合や5の場合を言いたければ「無知に訴える論証」を使えばすむ。こちらは正真正銘の論理学者が用いている言葉で、学術的に意味が規定されているので人によって意味がバラバラになったりはしにくい。
一般的に「ないこと」を証明するより「あること」を証明する方が簡単な場合が多い…という誤解がある。「無い(いない)ことを証明しろ!」は無茶振りである、というわけである。例えるならば
「全てのカラスは黒い」というだけの話であっても
「この世のどこかには白いカラスだっているかもしれないじゃないか!全てのカラスを見てきたわけじゃないんだろ?」
と反論されてしまい、もし仮に
「全部のカラスを見てきました!もう全部真っ黒!白いカラスは一羽もいませんでした!」
と言っても
「いやいや、それは今いるカラス限定だろ?過去に居なかったという証拠は?これから未来に白いカラスが生まれないという証拠は?この全宇宙に絶対に白いカラスが存在しないという証拠は?」
と、過去及び未来、はては全宇宙に対する無限の可能性を示されては「全てのカラスは黒い」事を証明するのは原理的に不可能である、となる。
(因みに白いカラスはいた)
因みに・・・論理学でも数学でも科学でも、「無い」ことの証明は普通に要求される。アインシュタインはエーテルの存在の否定から、光速度不変の原理を確立した。N線や永久機関はどこにもないとした。
法律はどうかといえば、訴訟法においても、冒頭で述べたとおり消極的事実を主張する側にも立証責任がある。消極的事実の証明だからといって一般的に困難だとは考えられていない。アリバイ証明のように、積極的事実を証明することがそのまま消極的事実の証明になる場合もある。これは例外と言えるほど希少なケースではない。さらに、本来の意味での悪魔の証明は、積極的事実の証明であるのにほぼ不可能な証明である。積極的事実の証明が簡単とは限らない。
もし経験則的にいくらかの合理性があり、将来論理学的根拠が明らかにされると仮定しても、現状では例外がいくらでもあって毎回適するか否かやどれくらい寄与するかを判断せねばならないようなものは、原則とは言わない。
それなら余計な概念をもてあそぶ前に事実に即して普通に検討すればいいだけの話である。裁判もそのようになっている。そういう話についていけない人を無理やり黙らせるための言葉ならば、疑似科学のやり口と変わらない。
お化けでもUFOでも超能力でも、既存の科学知識と矛盾する上に実証に散々失敗してきたのだから、理論でも実験でも新しい根拠が無いのなら当面は「無い」と見るのが当たり前の理屈である。科学者が肯定的な意味ではそれらにあまり興味を示さないのもそのためである。
そこで「無いと証明できないのならあるかもしれない」と反論されても「それは根拠なく新たな主張を認めさせようという無知論証だ。現状では無いとしか考えられない」で終わる。それでも納得しないような相手と議論を続けても意見は変わらないだろう。
なお、お化けはともかく、霊魂の存在などについては古くからの信仰心に根ざすものがあり、むやみに否定するものではない。
所有権を証明するためには、A:前の持ち主から適法に所有権を譲り受けたこと、B:前の持ち主が所有権を持っていたこと、この二つを証明しなければならない。
ところが、Aは簡単だろうが、Bを証明するためには、前の持ち主がさらに前の持ち主から適法に所有権を譲り受けたことを証明しなければならなくなる。以下、他の要素で証明が不要になるまで、無限に前の持ち主をさかのぼって証明しなければならなくなってしまう。これが悪魔の証明と呼ばれるものである。
中世欧州の法学者が、古代ローマ法ではこの問題を考慮していくつかの法制度が生み出されたという解釈を論じており、この時に「悪魔の証明」という言葉を初めて使ったとされる。
その後、この言葉が転用された末、現在一般に知られる用法も生じた。このあたりは冒頭に記したとおりである。
中世の法学者がなぜ「悪魔の証明」という表現を作り出したのかは定かではない。何となく意味合いが伝わってきて覚えやすくもある、というところかもしれない。
ある説によれば、中世の宗教劇では、魂を奪った悪魔に対して聖人などが論争を仕掛け、悪魔が魂の所有権を証明できずに退散するというものがあったからだという。
物理学などでは、ラプラスの悪魔、マクスウェルの悪魔など、普通ではありえないことを起こすいたずら者を思考実験で仮定するときに「悪魔」という言葉を用いる事がある。これらの「悪魔」は、「ある瞬間における宇宙の全物質の力学的状態と力を知ることができ、かつそれらのデータを解析できる」などの超越的な能力を与えられている。「悪魔の証明」というのはこのような超越的な能力のある悪魔でないと不可能という意味があるのかもしれない。
ただし繰り返すが、消極的事実の証明がこんな印象的な表現をされるほどつねに難しいということはない。
まれに混同されることがあるが、「検証と反証の非対称性」についてのたとえは、帰納法の検証というしらみつぶしでしか確認できないことを取り上げて論じているものであり、別の話である。
議論の上で役に立つ概念などを知るのはけっこうだが、実際の議論というものはそこまでまともなものではない。ぶっちゃけると、論理どうこう以前に根拠となるデータがまともでない主張は、科学論文ですら少なくないと言ってもいいのである。Natureという世界でもトップクラスの権威ある科学雑誌が騙されることですら、珍しいことではない。なおシステマティック・レビュー(SR)ではそうしたことも含めて検討し、科学者個人や特定の論文の主張などよりも信頼性が高い結論を導く。
ましてや、政治経済など社会についての議論においては、心理的バイアスやステークホルダーの思惑が入り乱れることもあり、カオスとしか言いようがなく、まともな議論をする土壌を醸成したり、まともな根拠を探すのが最初に取り組むべき仕事である。経済学者ピケティが脚光を浴びたのは、それまで感覚や印象や個人的思想を根拠に論理や数式をこね回していた経済学者と違い、あくまでも実証的なデータを積み上げて簡潔な結論をまとめたとされているからである。
例えば現代日本の青少年の心の闇を語るのがなぜ滑稽なのかといえば、こういう事実があるからである。こうした基礎的データも知らずに印象で社会問題を語っても間違いしか生まれない。論理的であっても前提が間違っていては、とんでもない結論が導かれかねない。数式で論じることができないような文系分野でも、根拠をきちんとするだけで議論の質は跳ね上がる。それは地味な作業になるが、きわめて価値のある仕事である。
悪魔の証明という言葉こそ使っていないが、養老孟司氏はよく筑波山にアゲハチョウがいるかいないかを例にあげ、いないことの証明には山全体を区画分けして「いない」ことを確認せねばならないと言っている。しかしこれは比較的長距離を飛べ、広い範囲で生育できるありふれた種であるから成り立つ例えである。そのアゲハチョウですら、南極にはいないと断定されている。まさか南極を区画分けしてすべて確認したわけではないだろう。
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最終更新:2025/12/22(月) 17:00
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