戦艦が簡単に沈むか!!とは、2012年に公開されたハリウッド映画「バトルシップ」の台詞である。「でも今の駆逐艦はすごいぞ。最高だ。」「みんないつか死ぬ。だが今日じゃない」などとならぶ本作の名台詞のひとつ。
環太平洋合同演習、通称RIMPACの最中に突如、大気圏外から落下してきた複数の物体。それはエイリアンの船だった。バリアでハワイを外界から隔絶、残された駆逐艦<みょうこう>、USS<サンプソン>、USS<ジョン・ポール・ジョーンズ>も撃沈され、万事休したかに思われたそのとき、主人公アレックス・ホッパーたちの目にとっておきの最終兵器がとびこんでくる。
アイオワ級戦艦USS<ミズーリ>。かつて太平洋戦争時に建造され、いまは観光名所の記念艦として余生をおくっている艦だ。
ホッパーらは<ミズーリ>をたたき起こし、地球を救うためにエイリアンの母船へ舳先をむける。
敵もさるもの、イージス駆逐艦をも轟沈させた兵装で猛攻をくわえてくる。<ミズーリ>もついに被弾。
「大丈夫か!?」
敵兵器のおそろしさを知る駆逐艦乗員の問いに対し、<ミズーリ>とともに戦争を生き抜いてきた古老は悠揚迫らず、
「戦艦が簡単に沈むか!!」
と返したのであった。
戦艦はもともと、巨砲による大火力と、一般的に想定される交戦距離で自身と同威力の砲に撃たれても耐えられる重装甲が最大の特徴だった。多少の被弾など意に介さず1トンの砲弾を音速以上の存速でぶちこんでくる。それが戦艦の強みであったのだ。
では史実の戦艦がいかに頑丈であったかを簡単に見てみよう。
戦局も押し迫った1945年4月、米軍の攻撃にさらされている沖縄を援護するため、<大和>は巡洋艦<矢矧>、駆逐艦<雪風>、<磯風>、<霞>などをひきいて出撃。
しかし道中で米空母部隊に発見され、絶え間ない熾烈な空襲に見舞われることとなる。
航空支援がなく、制空権を失った状況。
敵機は戦闘機でさえ全機が爆弾やロケットを装備して海を耕してくる。一隻、また一隻と僚艦が沈んでいくなか、<大和>と乗員は決死の対空戦闘を敢行した。同艦の攻撃にあたった米パイロットのなかには「島を攻撃しているかのようだった」と述懐する者や、10回以上も空母へ帰還、補給して再出撃した搭乗員もいるほどで、その頑健さたるや、結果的に日本の建艦技術の高さをしらしめることとなった。
<大和>はけっきょく米空母11隻、米艦載機386機(367機説あり)もの波状攻撃で魚雷10本、中型爆弾5発、数え切れない機銃とロケットの被弾をうけ、世界最大と謳われた威容を九州坊ノ岬沖に沈めた。
なお、魚雷1本であっても、なみの戦艦であれば傾斜、転覆しかねない威力がある。<大和>はでかいくせして航空攻撃になすすべなく沈んだ欠陥戦艦と人口に膾炙されているが、逆にいえばここまで被弾しなければ<大和>は沈まなかったということだ。
実戦という、これ以上ない技術アピールの場で、最強の軍事国家たるアメリカに航空機のみのチキン戦法しかとらせなかった大和は、思いもかけない形見をのこす。終戦をむかえた日本に、敗戦国であるにもかかわらず、造船の発注が各国から相次いだのだ。造船は裾野が広いため多くの雇用を創出できる。ほかならぬ<大和>が日本の造船技術の高さを立証してくれたからこその評価だった。
また、ホテルニューオータニ東京の最上階に鎮座する展望レストランはフロアごと回転することで有名だが、この回転機構を設計したのはだれあろう、大和型戦艦の象徴ともいえる46cm三連装砲の砲塔の設計陣であった。日本を守るために生み出された、2800トンもの砲塔を回転させるオーバーテクノロジーは、21世紀の現代でもなお、形を変えてわれわれを見守っている。
進水から沈没まで4年と8ヶ月という短い生涯の<大和>は、たしかに戦場での戦果は皆無といってよかったかもしれない。だが彼女と乗員たちは、技術という形で、日本の復興を影ながら、それでいて強固にささえてくれたのである。
前進基地トラック島も失い、太平洋戦争における初の大規模艦隊どうしの決戦といえるマリアナ沖海戦に完敗した日本にとっては、もはや現状維持だけができうることのせいいっぱいという状況であった。1944年10月、フィリピンに米軍が進攻すると、日本海軍はなりふりかまわぬ特攻作戦を採用。動ける艦艇のすべてをあげて、敵上陸船団の泊地になぐりこみすることになった。
ようするに、日本と南方のあいだを分断されたなら、本国は資源枯渇で干上がる、南方派遣部隊は孤立してなぶり殺しにあう、という最悪の局面をむかえていたのである。
それだけはなんとしても阻止せんとして、<大和>、<武蔵>、<長門>、ほか多数の巡洋艦と駆逐艦を擁する栗田艦隊はブルネイを出航。パラワン水道からシブヤン海を通過し、サンベルナルジノ海峡を抜けてレイテ湾に突入するために北上を開始した。
が、出撃早々、パラワン水道にて米潜水艦に遭遇、<摩耶>と<愛宕>が沈没、<高雄>が大破。貴重な水上戦力である重巡洋艦3隻をいちどに脱落させてしまう。のちに「パラワン水道の悲劇」とよばれた戦闘である。
潜水艦の洗礼だけでは同艦隊の試練は終わらなかった。敵空母の索敵機に発見されてしまったのである。
激烈な対空戦闘の火蓋がきられた瞬間だった。お世辞にも対空射撃能力が高いとはいえない日本側は苦戦に苦戦を強いられた。結果、<武蔵>は全6波、5時間にわたる苛烈な空襲に、航空支援のない状態でさらされることになる。魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上という、ほかの戦艦なら10回は沈んでいるであろう大被害に、不沈艦もついに力つきる。
これが人類史上最大の海戦、レイテ沖海戦の端緒であることを知るものは、このときはだれひとりとしていなかった。
<武蔵>が姉より被弾に耐えたのは、被害が左右均等で、浸水もまた左右で均等に進んだことがあげられるが、大和型自慢の集中防御構造と、乗員たちの必死のダメコン作業の貢献もまた大なりであることはたしかだろう。<武蔵>の散りざまについては「戦艦武蔵のさいご」(著・渡辺清。童心社)にくわしい。
進水から沈没まで3年11ヶ月の艦歴であった。
太平洋戦争中、日本が保有していた12隻の戦艦のうち、もっとも老齢だったのが金剛型4姉妹であったが、もっともめざましい活躍をしたのも、またこの金剛型であった。最大の理由は、日本の戦艦のなかでもっとも速い30ノットという高速をもっていたからである。当時すでに主役の座を確立しつつあった空母に護衛として随伴できて、かつ、戦艦の火力と装甲をあわせもつということは大きな武器といえた。
とくに<榛名>は、金剛型のみならず、アメリカのアイオワ級戦艦の登場まで、太平洋において最高速の30・5ノットの俊足をほこる戦艦だった。
ゆえに武勲めでたく、南雲機動部隊の直衛を皮切りに、南太平洋海戦、インド洋、ミッドウェー海戦ともちまえの高速をいかして姉妹ともども縦横無尽の活躍をしただけでなく、かのガダルカナル島飛行場砲撃でも長姉<金剛>とともに大戦果をおさめるにいたる。
しかし、奮闘むなしく戦局は日増しにわれに不利となり、米軍は破竹のいきおいでフィリピンにせまった。これをむかえうつ日本海軍最後の大海戦、レイテ沖海戦の序盤で至宝<武蔵>が没し、<榛名>は<金剛>とともにレイテ沖大追撃戦、いわゆるサマール沖海戦を遂行した。この一連の戦いで日本海軍は壊滅といってよいほど艦艇を喪失する。
<榛名>の栄光の日々も終わりを告げようとしていた。金剛型で唯一生き残り、祖国に帰還できたものの、内地では燃料が底をつき、30ノットの高速を発揮する機会は二度となかった。<榛名>にできることは、ただ敵機を避けて、あっちの島影、こっちの島影へと江田島沖を逃げまわるだけだった。趨勢が完全に定まった1945年7月、呉は大空襲をうける。真珠湾の意趣返しのごとき猛攻に、動けぬ<榛名>は大破着底。着底とはすなわち海底に船底が接地することで、浅瀬だからこそ海没していないだけの、事実上の沈没状態である。だが<榛名>乗員らは「着底したんならこれ以上沈まねえ!」とかえって気炎をあげたという。
同年8月6日、朝8時15分。広島の方角から突如として閃光がはしり、ついで沖天めがけ奔騰する巨大な雲を呉からでも仰ぎ見ることができた。沈坐している<榛名>は、ただみることしかできなかった。
終戦後、<榛名>は解体。その資材は戦後復興のために供された。ありし日は姉妹らとともに海原を駆けて敵を討ち、戦いが終わったあとはその身を祖国にささげたのである。
進水から解体完了まで32年と5ヶ月。戦闘艦としては長く、また多難な生涯であった。
よく扶桑型は欠陥戦艦で伊勢型は改良されているから優秀と評されることがある。しかし、伊勢型とて居住性の悪さと、低乾舷のための凌波性の悪さ(はやい話が波を被りまくって甲板作業員さんが死ぬ)、副砲配置のまずさ、建造中に生起したユトランド沖海戦の戦訓が反映できていない防御力不足、23ノットという速力の低さなど、さまざまな欠陥をかかえていた。そんなわけで伊勢型もまた扶桑型のようにつぎつぎと近代化改装をうけることになる。
ユトランド沖海戦の戦訓についても軽くふれておこう。これ以前の艦砲は敵に砲口を直接むけて撃つ直射だったのだが、砲の大口径化がすすみ、射程がのびたことで、放物線をえがくように撃つ曲射に移行しつつあった。その曲射砲がまともにぶつかりあったのがユトランド沖海戦である。放物線をえがくということは空から砲弾が落ちてくるということだ。つまり甲板に着弾してしまうのである。いままでのように垂直面だけ防御をかためても意味がない。甲板のような水平面も防御しなければならない・・・というわけだ。ほかにも、戦艦といえども速度も重要だということが実証された。これ以前の思想で設計された軍艦をプレ・ユトランド型、この戦訓をとりいれたものをポスト・ユトランド型という。新造時の伊勢型はまぎれもなくプレ・ユトランド型だったのだ。
で、最初の改装からあしかけ9年。昭和12年7月に改装後の英姿をうかべた<伊勢>は、長門型につぐ新鋭戦艦に生まれ変わっていた。25ノットの速力は、一流とまではいえないが、じゅうぶんに一線を張れるものであった。
昭和17年のミッドウェー海戦における歴史的大敗で大型空母4隻を失ったことで、伊勢型におおきな転機がおとずれる。航空戦艦への改造である。5、6番砲塔を撤去して格納庫と作業甲板をのせ、艦上爆撃機を艦載して、喪失した空母の補充をはたそうという算段だった。搭載機はのちに瑞雲に変更され、<伊勢>は大改装を完了させるが、とんでもない誤算があった。瑞雲の生産がまにあわなかったのである。
結果、無意味に砲をおろしただけの状態でレイテ沖海戦にとびこむことになってしまう。
だが、この囮作戦、世にいうエンガノ岬沖海戦で、<伊勢>が神業をみせることになる。
脳筋、もとい猛牛ハルゼー提督隷下の執拗な空襲によって、空母<瑞鶴>、<瑞鳳>、<千歳>、<千代田>、巡洋艦<多摩>、駆逐艦<秋月>、<初月>が散華していくなか、<伊勢>はひたすら取り舵を切りつづけることで爆撃を回避。無傷とまではいかないが無事にこの難局をのりきったのである。その操艦たるや、<伊勢>の航跡がみごとなまでに円になるほどであった。撃たれても耐えられる戦艦は数あれど、よける戦艦など伊勢型くらいなものであろう。
姉妹艦<日向>とともに呉に帰還した<伊勢>に、新たな任務があたえられた。敵の制海権下の南シナ海をつっきってシンガポールに行き、資源をもってかえってくる輸送作戦である。<伊勢>と<日向>は巡洋艦<大淀>らとともに出撃。例によって潜水艦にみつかったり100機ちかい敵大編隊に襲われたりする。そのたびに艦隊はスコールに逃げ込み、後半は潜水艦がちかよれない浅瀬をえらんで進んだりと地の利を活かして無事帰還。こんどは無傷での完遂であった。格納庫には燃料のつまったドラム缶が林立し、ほかにも生ゴムやスズ、タングステン、もろもろの天然資源が輸送され、司令部を狂喜乱舞させた。
そんな<伊勢>にも運命のときがおとずれる。燃料もつき、呉に繋留され、1945年3月から連日つづいた空襲に敢闘するも、ついに7月28日、11発の直撃弾をうけて大破着底。2番砲塔は最大仰角で敵機の跳梁する空をにらんだまま停止した。それを見た乗員たちは「<伊勢>はまだ戦うつもりなのだ」と胸を打たれたという。
日本海軍の艦艇で最後の発砲をしたのは駆逐艦<響>とされているが、日本の戦艦で最後に発砲したのは<伊勢>だった。彼女は故郷をまもるため、最後の最後まで戦いぬいたのである。終戦後は解体されている。
進水から解体までおよそ29年。波乱万丈の艦歴であった。
41cm砲を8門という、かつてない大火力を有し、太平洋戦争がはじまるまで日本海軍の最大艦だったのが長門型である。攻撃力、防御力、ともに長門型は本格的なポスト・ユトランド型戦艦の一番艦で、戦艦の設計上、それまでとは一線を画す名艦と断言してよい。
とくに防御は徹底した集中防御方式を採用しており、水中防御も二重の防御縦隔壁と、水密区画の細分化により、前例のない強力なものとなった。ものすごく簡単にいうと、ダンボール箱をならべたような構造と考えてほしい。横腹に穴を開けられても、そこをさっさと閉鎖してしまえば、水没するのはその区画だけですむ、という寸法である。
姉妹艦<陸奥>とともに連合艦隊旗艦を交互につとめ、真珠湾攻撃の命令も発したことのある、まさに日本の象徴として国民にひろく愛された戦艦であったが、時代が航空主兵にうつりゆくなか、<長門>はなかなか前線にでて直接戦火をまじえる機会にめぐまれなかった。ようやく敵艦とまみえたのはマリアナ沖海戦である。しかし、敵戦艦をたたきのめすべく誕生した41cm砲は、いまや飛行機にむけられるものとなっていた。サマール島沖海戦では米護衛空母部隊に念願の対艦射撃をおこなうが、戦果はえられなかった。
内地で終戦をむかえた<長門>は、アメリカに原爆実験の標的艦として接収されることとなった。アメリカとしては日本の象徴である<長門>を焼却処分することで国民を屈服させたい、復讐を果たしたいという理由もあったが、なによりソ連に同艦をとられたくないという事情が大きかった。軍艦、とくに戦艦の建造技術が遅れに遅れていたソ連にとって、<長門>は喉から手がでるほどほしい艦であった。あらたな仮想敵国であるソ連には渡したくないが、もっていてもしかたがない、ならほかの老朽艦といっしょに原爆実験につかおう・・・こういった流れで<長門>はクロスロード作戦に参加させられることになったのである。
1946年7月1日におこなわれた第1実験では、核爆弾は高度158m、長門から水平方向に1・5kmの距離で炸裂。軽巡<酒匂>、米駆逐艦<ラムソン>など5隻が沈没。しかし<長門>は表面が多少融解しただけで航行にさえ問題がない状態だった。
なんとかして沈めてやろうと、アメリカは<長門>の船体にいくつもの穴をあけ、機雷までくくりつけた。こうして同25日、第2実験が開始される。こんどは水中での炸裂で、しかも1000mと離れていなかったが、さきに述べた水中防御の強化が功奏し、<長門>は耐えた。祖国を2度も蹂躙した許されざる炎に対し、彼女はやはり2度耐えてみせたのである。それはまるで唯一の被爆国である祖国の核兵器への怒りを代弁しているかのようであった。同時に<長門>は、しょせん後進国と主要各国からさげすまれていた日本の造船技術の名誉と、日本海軍の誇りを示したのである。
しかし、第2実験から4日後の朝、海上に<長門>の艦影はなかった。終戦からまる1年が経とうとしていたなかにあって、本来の戦艦としてはちがう形とはいえ戦後を戦った<長門>は、みずからにあたえられた役目をまっとうし、最後は人目につくことなく夜半のうちに波間に沈んでいったのであった。
なお、クロスロード作戦で被爆しながらも沈没しなかった艦は存外に多く、米戦艦<ネヴァダ>、<ニューヨーク>、<ペンシルヴェニア>、米空母<インディペンデンス>、独重巡<プリンツ・オイゲン>などが生き残っている。これは核兵器開発者や運用側にすくなからず影響をあたえた。装甲され密閉された艦船に対しては核爆発では思うように被害をあたえられないということがあきらかとなったのだ。しかも一網打尽をふせぐために艦どうしが数海里の間隔をあけていればもっと被害は局限される。
効果がすくない、というのは核兵器廃絶デモの数億倍の効果がある。冷戦期にはミサイルのみならず砲弾、魚雷、地雷までも核兵器化されたが、クロスロード作戦の参加艦があっさり沈んでいれば、世界の核軍拡はよりいっそう推進していたことだろう。<長門>たちは、その身を犠牲にして、世界の核軍拡に一定の歯止めをかけたのである。
進水から沈没まで26年と8ヶ月。連合艦隊の栄枯盛衰を閲し、祖国の平和に多大な寄与を果たした生涯であった。
独戦艦<ビスマルク>は、ビスマルク級戦艦のネームシップとして1940年8月に就役し、大西洋に君臨した、当時世界最大の超弩級戦艦だった。
その名は「祖国の統一は鉄と血によってのみなしとげられる」との演説から鉄血宰相とよばれ、純粋に利益目的で数々の戦争を起こし、すべてに勝ってねらいどおりに終戦に導き、ドイツ統一をなしとげた救国の英雄オットー・フォン・ビスマルクに由来する。
この戦艦の特徴は、なんといっても防御力にある。装甲材にはニッケル、クロム、モリブデン鋼からなるヴォタンをもちい、その防御重量は、排水量50900トンのうち実に40パーセント。
それでいて速力は高速戦艦の名に恥じない30・1ノット。攻撃力も、工業立国ドイツの光学技術が投入された光学式射撃管制装置にささえられた、当時の新鋭戦艦の標準たる38cmを連装砲で4基そなえていた。
ただ、垂直面の防御は固いが、甲板のような水平面の装甲はいささか難があった。いわゆるプレ・ユトランド型の旧態依然とした設計が残っていたのである。なぜか?
ビスマルク級戦艦の生い立ちをたどるにあたり、ヴェルサイユ体制を無視することはできない。
第一次大戦終結後に結ばれたヴェルサイユ条約は敗戦国ドイツにとって過酷きわまるものだった。当時のドイツのGNP20年ぶんにあたる1320億金マルクの制裁金、陸海軍の大幅な縮小、戦車、軍用機、潜水艦の保有禁止、とどめに排水量1万トン以上の艦艇の建造禁止などである。つまり戦艦が建造できなくなったのだ。ドイツは農業用トラクターと偽って戦車をつくったり、どうみても爆撃機な飛行機を「いやいやこれはただの連絡機です」と飛ばして航空機技術を発展、継承させたりと涙ぐましい努力をつづけたが、戦艦はどうにもならなかった。戦艦はボクシングでいうヘヴィー級なのに、フライ級までしか体重を増やしちゃダメといわれたようなものだからだ。
1万トン以下という制限のために、リベットを使わない電気溶接工法でぎりぎりまでダイエットしたポケット戦艦装甲艦を誕生させたが、やはり他国の戦艦と殴りあうなど無理な相談であった。
ヒトラーが条約を破棄したことで戦艦建造が解禁されたものの、15年の空白は大きかった。戦艦の建艦技術が失われてしまっていたのである。よって新鋭戦艦の技術を取り入れることはできず、技術者たちは最後にドイツが戦艦を保有していた第一次大戦の前時代的な設計で建造するしかなかったのだ。
ともかくも<ビスマルク>はドイツ第三帝国栄光の旗手として、1941年5月、重巡<プリンツ・オイゲン>とともにゴーテンハーフェンを抜錨した。同国にとって待望久しい戦艦による通商破壊、ライン演習作戦の発動である。
主敵たる英国は島国であるがゆえ、通商破壊で兵糧攻めすれば孤立し、やがては物資が枯渇してドイツに屈服することだろう。
この巨艦の跳梁を英国が座して静観するはずもなかった。捜索にあたっていた英重巡<サフォーク>が<ビスマルク>と<プリンツ・オイゲン>を発見。急報にアドミラル級巡洋戦艦<フッド>とキングジョージⅴ級戦艦<プリンス・オブ・ウェールズ>が駆けつける。ここに、大西洋へ抜けようとする<ビスマルク>らと、それを阻止しようと立ちはだかる英艦隊とで海戦が勃発した。「デンマーク海峡の戦い」である。
巡洋戦艦<フッド>は、1920年の就役時には世界最大の軍艦で、その大きさと、艦影の美しさ、高速戦艦と名乗ってもよいほどの攻撃力などから、英国民にも「強大なフッド」と親しまれ、英国海軍の象徴とまでいわれた誉れ高き艦だった。日本でいう<長門>のような存在といえよう。
砲撃開始から1分もしないうちに、その<フッド>のメインマストに<プリンツ・オイゲン>の砲弾が命中した。負けじと<ビスマルク>も3斉射めで<フッド>を夾叉。第5斉射めの射弾は、もののみごとに<フッド>に直撃。弾薬庫に誘爆した<フッド>は大爆発を起こし、真っ二つに折れ、数百mにもなんなんとする火柱をあげて、文字通り轟沈したのだった。
ヴェルサイユ条約の締結から21年。戦艦<ビスマルク>は長らく英国民に愛されたマイティ・フッドをたった一発で撃沈し、その天に挑戦するかのような火柱と黒煙をもって、臥薪嘗胆、ドイツ帝国復活の狼煙をあげたのである。
つづいて<プリンス・オブ・ウェールズ>にも<ビスマルク>の巨砲は矛先をむけ、光学式射撃管制装置に裏づけされた正確な砲撃をくわえた。結果、<プリンス・オブ・ウェールズ>は司令部が破壊され、さらに3発くらって戦闘続行不能となり、一時撤退。だが黙ってやられる大英帝国海軍ではない。<プリンス・オブ・ウェールズ>は退却するさいの振り向きざま、主砲弾3発を<ビスマルク>にお見舞いしていたのだ。<ビスマルク>はこれで浸水し、2000トンもの海水を飲むはめになる。
勝利をおさめた<ビスマルク>一行であるが、損傷をうけたまま作戦続行はむずかしい。ライン演習作戦は中止となり、2隻は帰還のためフランスに舵を切った。
たしかに<フッド>撃沈は大戦果といえた。だが、これが英国海軍、ひいては英国の逆鱗に触れることとなる。ヴェルサイユ条約のおかげであと50年はおとなしくしているだろうと見ていた敗戦国の、それも旧式な設計の戦艦に、世界の海軍の祖を自負するロイヤル・ネイヴィが完全敗北させられたのである。烈火のごとく怒り狂ったイギリス海軍総司令部は、現有戦力すべてを<ビスマルク>の追撃に投入する決定を下したのだ。
「戦艦も巡洋艦も駆逐艦も、ありとあらゆる戦力をかき集めろ! あの大西洋の粗大ゴミを焼却処分してやる!」
「あのう、俺ら今、商船の護衛してるんですけど・・・」
「そんなもんどうでもいい!」
かくして、大事な船団護衛までほっぽりだして、<ビスマルク>ただ1隻のためだけに、大英帝国海軍は一家総出で弔い合戦をくりひろげることになった。後年に「ビスマルク追撃戦」と呼称される戦いの幕開けである。
高速戦艦たる<ビスマルク>に艦隊では追いつけない。そこで最初の刺客、イラストリアス級空母<ヴィクトリアス>から夜間にもかかわらず発進したフェアリー・ソードフィッシュ雷撃機9機が急行する。ちなみにこのソードフィッシュという飛行機、まさかの複葉機である。太平洋では九七艦攻やダグラスTBDデヴァステーターといった全金属製の単葉雷撃機がしのぎを削っていた時代に、英国は古めかしい複葉機に最新のレーダーやロケットなどを搭載して飛ばしていたのである。複葉機なので当時の雷撃機の平均より時速100kmも遅いが、あまりに遅すぎて対空砲の見越し射撃を誤り、<ビスマルク>の対空射撃がソードフィッシュも前を通り過ぎていくという珍事が多発した。おまけに命中しても弾が貫通するだけで暖簾に腕押し。火がついても手袋で叩けば消えるというおそるべき生存性までもっていた。
こんな雷撃機が投下した7本の魚雷のうち、1本が<ビスマルク>のカタパルト下に命中した。だが<ビスマルク>は大した打撃をうけなかった。重量の4割が装甲でできている同艦にとってたった1本の魚雷など問題ではなかったのだ。<金剛>がこっちを見ている
ついで翌日の夜、空母<アーク・ロイヤル>から飛び立った15機のソードフィッシュが<ビスマルク>を捕捉。魚雷を投下し、2本が命中する。1本は左舷中央部で、このときも<ビスマルク>は大した損害をださなかった。
しかしである。
もう1本の当たり所が非常にまずかった。よりにもよって舵にピンポイントで命中したのである。これによって<ビスマルク>はその場でクルクル回ることだけしかできなくなってしまう。時代遅れの複葉機は、翌日にはフランスに投錨できていたであろう<ビスマルク>の俊足を狙いすまして射抜いたのだ。
続々と駆けつける英艦隊。舵を直そうにも酷寒のうえ天候も最悪で船外活動は不可能。英駆逐隊は<フッド>の復仇を果たそうと肉薄し魚雷をたたきこんでくる。<シェフィールド>に4斉射めで命中弾をあたえ、小破せしめるなど、懸命に抵抗しながら故国をめざす<ビスマルク>は満身創痍となっていた。舵の故障で操艦機能を失い、自慢の高速も推進軸の回転で騙し騙し操舵するために7ノットしか出せず、艦自体も傾斜が続いている。
そんなおり、英艦隊にとっては待望の、<ビスマルク>にとって絶望の瞬間が訪れる。北東から戦艦<キングジョージⅴ>、戦艦<ロドネー>がその巨体を現したのだ。<キングジョージⅴ>は<プリンス・オブ・ウェールズ>の長姉、<ロドネー>は16in(40・6cm)砲を搭載するビッグセブンの一柱。これに重巡<ノーフォーク>と<ドーセットシャー>も加わり、ほぼ身動きできない<ビスマルク>に一方的な砲雷撃をくわえた。手も足も折れた人間を大勢で囲んで、動かなくなるまで、いや動かなくなっても金属バットで殴りつづけるがごときなぶり殺しが始まったのである。
もはや<ビスマルク>の命運は尽きていた。<ロドネー>は最接近時には2500mという、戦艦からすれば手を伸ばせば届く距離に詰め寄りながら何発も何発も<ビスマルク>に撃ちこみつづけた。<ロドネー>は駄目押しに雷撃まで敢行。戦艦が発射した魚雷が敵艦に命中する人類史上初の快挙をなしとげる。
しかしまだ<ビスマルク>は浮いていた。戦闘能力が完全に喪失しても、艦というより燃える洋上廃墟となりながらも、まだ沈まず、それどころか3機ある主機はいずれも無事で、のろのろとであるが自力航行まで可能だった。
とはいえ沈没は時間の問題だ。砲も全門沈黙している。ここにいたって<ビスマルク>のリンデマン艦長は自沈という苦渋の決断を下した。稼動全ポンプで艦内に注水し、キングストン弁を開放、冷却機用排水口に爆薬がしかけられた。<ビスマルク>は艦尾から沈降、さらに左に傾斜していく。乗員が退避しおわったあと、リンデマン艦長は傾斜の強まる艦首へ歩を進め、艦首先端にたどりつくと、海面に浮かぶ生存者へむけ別れの敬礼をおくった。<ビスマルク>が横倒しになって海没したのはまさにそのときである。2大戦艦との戦闘が始まってから2時間が経っていた。
結局、<ビスマルク>の被弾は、<ヴィクトリアス>の雷撃隊から数えて推定魚雷命中本数が8~13本。<ロドネー>の発射弾数は主砲380発、副砲719発。<キングジョージⅴ>の発射弾数は主砲339発、副砲660発。重巡<ノーフォーク>と<ドーセットシャー>の発射弾数は計781発。命中弾の合計は400~600ともいわれている。同艦の追撃にあたって投入された艦艇は47隻、航空機は100機以上。まさに英国海軍の総力が<ビスマルク>ただ1隻の撃沈のためにつぎこまれたのである。しかも、これほどの戦力を傾注してもなお、<ビスマルク>は自沈で最期を迎えており、英海軍はついぞその手で<フッド>の仇を沈めるには至らなかったのだった。
なお、ジェームズ・キャメロン監督の『海底の戦艦ビスマルク』によれば、<ビスマルク>の装甲を貫徹できていた砲弾はたったの3発だけであったという。
進水から戦没まで2年と3ヶ月という短い生涯の彼女は、名の由来であるオットー・フォン・ビスマルクと違って祖国に勝利をもたらすことはできなかった。だが、ただ1隻だけで、世界に冠たるロイヤル・ネイヴィの心胆を寒からしめ、みっともないほどに倉皇させたのは事実である。戦艦と砲火をまじえることすらかなわなかった戦艦が少なくないことを鑑みれば、彼女の艦歴は決して不幸なものではなく、第二次大戦を通してみても有数の武勲艦であるといってよいだろう。
現地時間1941年12月7日早朝、その日のハワイは快晴で風も少なく、日曜日ということもあって快適な一日が約束されていたはずだった。オアフ島の軍港たる真珠湾では星条旗がいましも掲揚され、戦艦の甲板上では軍楽隊による定例の演奏がさわやかな朝の始まりを告げているところだった。
そこへ、異様に低空を飛行する複数の航空機が航過していった。掲揚される星条旗に敬礼していた地上の軍人たちは、グレゴリー・ボイントンのような跳ねっかえりか、陸軍のジョージ・プレディみたいなお調子ものが好き勝手やっているのだろうとため息をつくか苦笑をもらした。しかし、航空機が胴体に懸吊していた爆弾を地上施設へむけ投下、爆炎がまきあがったことで、かれらの表情は一様に凍りつくことになる。
日本軍による真珠湾攻撃については、アメリカが事前に察知していたにもかかわらず、不戦を公約にかかげたフランクリン・F・ローズヴェルト大統領が日本に第一撃を引かせる形で対日戦に参加したいがためにわざと知らぬふりをしていたという陰謀説、ただ単に日本の外務省の手違いで宣戦布告が遅れてしまって結果的に奇襲になってしまっただけという説、日本の不穏な動きはつかんでいたが南方ならともかくまさか長躯ハワイに攻撃してくるとは思っていなかったという説など、現代でも諸説さまざまあるが、いずれにせよ現地で勤務していた将兵らにとっては、まさに晴天の霹靂、寝耳に水の奇襲であったことには相違ない。
浅瀬である港湾に停泊している艦船を攻撃するために浅沈度魚雷を新開発し、搭乗員らにどこを攻撃しにいくか詳細は明かさないまま真珠湾に酷似した鹿児島県錦江湾で殺人的な猛訓練をほどこし、無線封鎖を徹底したうえで発見されにくい単冠からの北回りルートから接近するなど、おそるべき周到さと精度で作戦を進めた日本海軍に、ハワイ島は大混乱。シナ事変では大陸から敵機を消したという最強の航空隊、第一航空戦隊をはじめとした精鋭搭乗員を載せた航空母艦<赤城>、<加賀>、<蒼龍>、<飛龍>、<翔鶴>、<瑞鶴>から飛び立った艦載機は真珠湾を力のかぎり蹂躙した。
例として、<蒼龍>に搭乗していた艦攻隊の金井昇は、爆撃競技会においてまさかの命中率100%をたたきだした怪物である。こんなばけものぞろいの攻撃隊第1波183機、第2波167機もの猛攻に、フォード、ヒッカム飛行場は抵抗むなしく破壊され、雷撃隊の魚雷や水平爆撃に在泊中の艦艇も攻撃をうけた。戦艦<アリゾナ>、<オクラホマ>、標的艦<ユタ>が撃沈されたほか、多数の艦艇が損壊し、300機もの基地航空隊が発進するまえに残骸に変えられた。
コロラド級戦艦<ウェストバージニア>も、当時真珠湾に停泊し、姉妹艦<メリーランド>、テネシー級戦艦<テネシー>、<カリフォルニア>、ペンシルベニア級戦艦<ペンシルベニア>らとともに戦艦ゆえに重要目標とされ集中攻撃をくらう。回避行動などのぞむべくもなく、魚雷7本、爆弾2発をうけて大破、着底してしまう。
もともと<ウェストバージニア>は1921年11月のワシントン軍縮会議にて廃艦とされるはずの艦であった。ようするにこの会議が開かれるまでに完成していない40・6cm砲搭載戦艦は廃棄しようね、という話である。当時このサイズの砲は艦砲としては最大で、つまり最強の兵器であったので、そんなものいっぱいつくっても財政破綻するだけだよ、うちも作るのやめるからおたくもやめようよというのが趣旨であった。日本は会議開催までに夜に日をつぐ突貫工事で長門型戦艦2番艦<陸奥>を完成させようとし、会議1ヶ月まえの10月には竣工したとして軍艦旗をかかげてしまった。しかしどうみても未成であることはあきらかである。日本は完成艦であると頑としてゆずらず、白熱の議論の結果、ついに米英は<陸奥>の保有をみとめたが、代償として英のネルソン級2隻の建造、米は未成であった<コロラド>、<ウェストバージニア>の完成をみとめさせることとなった。
つまり、<ウェストバージニア>は日本の強弁がなければこの世に生をうけることがなかったが、こんどはその日本の手によって一敗地にまみれることになったのである。あまりに皮肉な運命といえよう。
だが<ウェストバージニア>の命運はつきていなかった。浅瀬であることがさいわいし、ひきあげて修理することになったのだ。
戦艦を新造するとなると、島のように大きな鉄のかたまりを作って、そこから削りだしていかねばならず、非常に金と時間がかかる。修理できるものならしたほうが安くて早い。港を3万トン超の鉄塊がふさいでいては邪魔だからどのみちひきあげてどかさなければならない。
もしこれが深度のふかい海であればひきあげることもできなかったであろう。日刊駆逐艦、週刊軽空母、月間正規空母とまでいわれ、空母量産のためにまず街をあらたに作るところからはじめたさしものアメリカも、喪失した戦艦戦力の補充のために一から戦艦を建造し戦力化するのは負担が大きすぎる。が、これはあまり有意義な仮定とはいえない。海原のど真ん中に戦艦があるときは、かならず複数の僚艦をともない、四方八方に見張りをたて、偵察機を飛ばして警戒しているはずだから、日本の機動部隊といえども容易に接近はできないだろう。<ウェストバージニア>たちは浅瀬の港だから沈められ、浅瀬だからこそ復活できたのだ。
ともあれ、修理ついでに大幅改修をうけた<ウェストバージニア>は、およそ3年のときをかけ、1944年に戦列に復帰。リベンジの機会はすぐにおとずれた。同年10月25日深夜、西村祥治中将ひきいる艦隊がフィリピンの決戦場レイテ湾に突入するべくスリガオ海峡に進入。同艦隊は、欠陥がめだつために内地で士官の教室となっていた扶桑型戦艦<扶桑>、<山城>はじめ、航空巡洋艦<最上>、駆逐艦<時雨>、<満潮>、<山雲>、<朝雲>と、いずれももといた部隊が壊滅した生き残りという、文字通りの寄せ集め艦隊だった。なりふりかまわぬ進撃。日本は背水の陣である。
海峡というからには狭い。ジェス・B・オルデンドルフ少将指揮下の戦艦戦隊は、戦艦6隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦21隻、魚雷艇39隻という圧倒的戦力でむかえうった。戦艦6隻とはすなわち<ウェストバージニア>、<メリーランド>、<テネシー>、<カリフォルニア>、<ペンシルベニア>、<ミシシッピ>。そう、<ミシシッピ>以外は真珠湾で日本軍に大破着底させられ、修理され戦場にもどってきた艦ばかりであった。
<ウェストバージニア>は修理のさいに最新のレーダーを搭載されていた。この人類史上最大の海戦、レイテ沖海戦の中盤となるスリガオ海峡夜戦にてこれが真価を発揮した。<ウェストバージニア>は夜陰をものともせず正確なレーダー射撃を実行、もって西村艦隊に大打撃をあたえたのだ。エンパイアステートビルのような艦橋の扶桑型戦艦は2隻とも炎のかたまりとなって沈み、西村艦隊は<時雨>以外全滅した。扶桑とは日本の異称である。その名をいただく戦艦を撃沈せしめることで、<ウェストバージニア>たちは真珠湾での同胞らの無念を晴らし、みごと雪辱をはたしたのであった。
終戦後、<ウェストバージニア>は、ほかの戦艦や空母などの艦艇と同様、欧州や太平洋の島々に派兵された何十万という兵らを帰還させる一大事業、マジック・カーペット作戦に復員船の一翼として参加した。巨体ゆえに多くの寝台を提供できる<ウェストバージニア>は大勢の兵士を祖国に帰還させた。
その後は予備役として後方に下がり、1959年3月1日に除籍、同年8月にスクラップとして売却された。
進水から売却まで37年8ヶ月と長命だった彼女は、数奇な運命によって命拾いし、廃棄されてもおかしくないほどの損傷をうけても蘇り、すでに旧式化していたにもかかわらず檜舞台で復仇をはたしてみずからの任務を完全に遂行した。戦いが終わったあとは、数えきれない同胞を愛する者たちのまつ祖国へ還し、平和になった故郷を見届けたのち、すべての役目を終えて舞台袖へと去っていった。
不撓不屈、祖国のために老骨に鞭打ち、務めを完遂した彼女は、乗員らとともに、まぎれもなく愛国者の一員として数えられることだろう。なお、彼女のメインマストは艦名の由来となった州の学府、ウェストバージニア大学に贈呈されており、展示物としてだれでもみることができるようになっている。
彼女はいまでも故郷で時代を担う若者たちを優しく見守っているのである。
<大和>、<長門>は艦隊決戦のために建造されたもののその機会をえられなかった薄幸の戦艦として現代に伝わっている。日本のみならず、第一次大戦以降はどの国の戦艦も似たり寄ったりの冷遇にあった。
考えてもみてほしい。戦艦の運用国が想定していた艦隊決戦とは、「ヤアヤア我こそは・・・」と名乗りをあげてはじめる合戦のようなものだった。これが現実で起きると、まともな戦局眼をもった指揮官が双方にいれば、じぶんが有利か不利かくらいは即座に判断できる。不利とわかれば決戦になど応じるはずもない。とっとと逃げる。戦争はスポーツとちがってかならずどちらかが有利であったり不利であったりするからだ。よって戦艦どうしの艦隊決戦はなかなか起きなくなる。戦艦はすでに第一次大戦時から斜陽のきざしをみせていたといえるかもしれない。とくに<大和>は航空攻撃に敗れさったから、当項目のような感想をいだく人も日本には多い。
ではなぜ日本をはじめ、当時の世界の海軍はイケイケドンドンで新戦艦を配備しつづけたのだろうか。
それは、戦艦が最強の攻撃力をもつ戦略兵器であることには疑いの余地がなかったからである。
艦隊決戦が起きないのはじゅうぶんな戦力があっておたがいがおたがいの反撃を恐れて手出しできないからだ。この戦力とは戦艦が基幹となる。戦艦がなければ、相手は遠慮なく本国まで攻めてくるだろうし、無理難題な要求をつきつけてきたりするだろう。抑止力として戦艦は必要不可欠だったのだ。
さて、ここまで読んで、現代にも戦艦と似たような兵器があることにお気づきになられただろうか。最強の攻撃力をもち、その保有数が軍事力、ひいては国力のバロメーターであり、国際的な発言力を保障する兵器・・・。
そう、核兵器である。
いまのところ、核兵器にかわる兵器は登場していない。とうぶんのあいだ、核兵器を陳腐化させ、時代遅れにせしめる兵器は現われないだろう。いつかは登場するかもしれないが、いまではない。
2015年5月、終戦70周年の節目におこなわれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、全会一致が原則となっている最終文書の採択ができず、事実上なんの成果もあげられないまま閉幕した。原因をかみくだいていうと、核保有国がその特権を手放したがらないエゴイズムによるものという一語につきる。核保有国にあらずんば主要国にあらず。むかしはそれが戦艦だったのだ。
何十年さきか、何百年さきかはわからないが、核兵器にとってかわるもの、新しい概念が世にでたとき、われわれは未来の人間たちから笑われているだろう。「なぜ巨費を投じ環境汚染のリスクまでおかして核兵器なんて時代遅れなものに固執していたんだ?」と。当時の人間にはほかに選択肢などなかったのである。
核兵器にかわるものを想像できる者だけが、当時の大艦巨砲主義を笑う資格をもつのである。
あ?ああそうだな……いい船だったよ
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