柄谷 行人(からたに こうじん,1941–)とは,哲学者・思想家・文学者である。本名は善男(よしお)。兵庫県尼崎市出身。柄谷工務店の御曹司。甲陽学園を経て,東京大学経済学部卒。東京大学大学院英文科修士課程修了。阪神タイガースの熱烈なファン。
元法政大学教授。元近畿大学国際人文科学研究所所長。ほか、イェール大学,コロンビア大学,カリフォルニア大学アーバイン校,コーネル大学,カリフォルニア大学ロサンゼルス校等で教壇に立つ。
現代日本を代表する知識人のひとりとされる。
60年安保闘争における,最年少世代のアクティビストとしても知られる。学生時代は,吉本隆明や江藤淳の熱烈な読者であったという。日本医科大学専任講師のころ,夏目漱石論である「意識と自然」で群像新人文学賞を受賞しデビューする。以後、文芸批評の領域で活躍。
70年代には,哲学・思想の著作を発表し始め,独自の思索を確立。80年には『日本近代文学の起源』を刊行し,日本の文学研究に衝撃を与える。また、作家の中上健次と親交を結ぶ。
今となってはあらゆるジャンルに着手している総合知識人・柄谷だが、彼が頭角を表し始めた70年代のメインフィールドは「文学」。日本における思想や哲学にとって文学が非常に重要な役割を担ったことがよくわかる事実である。
現在の柄谷本人はこの時期の仕事をあまり重視していないようだが、この頃の作品からでも柄谷節を十分に味わうことができる。たとえば柄谷はまだ存命中であった志賀直哉や小林秀雄を筆頭とした昔ながらの大正教養主義者を批判した。その周辺の文壇や論壇にありふれている「私小説」的なものにも批判的であった。また当時の左翼学生から崇められていた埴谷雄高の抽象的かつ曖昧な禅問答的思想も批判している。今振り返ると意外なことかもしれないが、70年代当時どん詰まりを迎えていた昭和の政治運動に対して当時の柄谷は距離を置いていた。
科学論文のごとく論理や合理性を厳密に重んじる柄谷にとっては、先行世代の「文学的表現」やプロパガンダばかりで内容が伴っていない昭和の左翼運動は我慢ならないものだったのである。柄谷特有のこういった冷徹なまでにロジカルな語り口は現在に至るまである面では変わっていない。このクールな思想的スタイルは後続の論客に大きな影響を与えた。
前期・柄谷の集大成と言えるものとして挙げられるのが『日本近代文学の起源』だろう。先行世代のインテリたちにとっての金科玉条たる「文学」を丸ごとカッコに入れて解体して見せたのである。乱暴に要約して言えば、昔ながらの「文学」がオワコンである可能性を柄谷は証明したのだ(古臭い「文学的」表現全般を批判したのであって「文学」そのものはもう不要だと言っているわけではない。またこの「文学」は小説一般に止まらない思想・哲学といった多義的な意味が伴っていると思われる)。ニコニコ動画を見ている「文学」に縁がなさそうな諸氏にとっては、一連の柄谷の仕事は今なお古びないものだと痛感できるだろう。
※ニコニコ大百科向けに補足。
『日本近代文学の起源』刊行前後にはすでに柄谷の予言通り「文学的なもの」の存在感が世の中でだいぶ影がうすくなっていた(もちろん、現在に至るまでその傾向は一層強まっていった)。その代わりに台頭した文化の一つとして挙げられるのが「サブカル・オタク」の存在。歴史に詳しいオタクが知っての通り80年代に本格的に台頭した大衆消費社会はオタク・サブカルにとっての黄金時代を産んだ、ニコニコもこの時代の文化の系譜に連なっていると解釈できる。
柄谷とも縁が深い浅田彰や中沢新一らが中心となって起こった80年代の「ニュー・アカデミズム」というムーブメントは伝統的なアカデミズムと大衆たちのサブカルチャーとの間の距離を近づけたわけだが、これも「日本近代文学の起源(とのその終焉)」にまつわる現象であったとも言える。
柄谷にとっての論敵であり先輩格でもある吉本隆明は『マス・イメージ論』で「サブカル・オタク」に注目したが、柄谷自身は「ニューアカ」への関与は間接的なものにとどまっており特にサブカルへの関心は向いておらず、あくまで伝統的な文学・哲学にこだわり続けた。
80年代には,構造主義およびポスト構造主義の再吟味(『隠喩としての建築』『探求』等)を経て,流行していた日本的ポスト・モダン思潮を批判(『批評とポスト・モダン』)。
おそらく柄谷の仕事量や影響力の総量が最も膨れ上がったのが、この頃の柄谷である。日本のみならず海外を飛び回り、名だたる哲学者や思想家たちと交流した。
しかしこの時期にかつての夏目漱石や江藤淳がそうしたように、欧米圏と日本語圏との間のギャップに苦しむ。ノイローゼ、スランプに陥りかけた柄谷が起死回生の一手として繰り出したのが『探求 Ⅰ』である。このへんに入るともはやジャンル分け不能な異次元のゾーンに柄谷は突入し始める。
世界水準の「哲学・思想」に柄谷が到達した(実際、その後2020年代に柄谷はバーグルエン賞をとったりしている)といえるその一方で、以前にも増して「主に西洋の」思想・哲学の固有名詞で敷き詰められた彼の難解なテキストを批判するものも少なくない(具体的に言えば吉本隆明や宮台真司など)。また文理問わず膨大な領域に手を出しては柄谷流に翻訳・料理してしまうので、大学・研究機関における少なくない「専門家」たちからも異端視・警戒された。
90年に入り、仕事仲間の浅田彰らと共に「批評空間」誌を主宰する。また、哲学者の東浩紀を見出し育てる。00年代には,アソシエーショニズムの運動を実践するも,頓挫(「NAM」)。03年に『Transcritique on Kant and Marx』(『トランスクリティーク』岩波書店)をマサチューセッツ工科大学出版より刊行し,カントとマルクスをつうじた新たな思索へと向かう。
10年には,『世界史の構造』を刊行。11年以降は,大震災に伴う原発事故について,積極的に発言・行動し,12年には『哲学の起源』を刊行。14年には封印していた『柳田國男論』を世に問い,それに続いて柳田國男を改めて論じた『遊動論』を文春新書より刊行した。
90年代以降にあって、80年代ごろの功績も相まって柄谷の思想・哲学は世界各国で翻訳され「世界のカラタニ」と言ってもいいような状態となる。しかしこの時期の/現在の柄谷をめぐっては賛否が分かれるところもある(以前からずっとそうなのだが)。特に物議を醸したのが湾岸戦争以降にかつて距離を取ったはずの政治的な運動に柄谷が接近したところだろう。大江健三郎あたりが言いそうなことを発言するようになったのだ。
その中でも特に彼の起こした政治運動・NAMとその周辺の騒動は物議を醸す。これに関連して2000年代前半に先述のニコニコ動画とも何かと縁が深い弟子・東浩紀が離反。またNAM界隈には令和のメディアでやたら顔を見るデータ科学者・成田悠輔がいたという話もある。
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最終更新:2025/12/12(金) 01:00
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