この項目はまだ書き掛けです。可能な限り加筆修正をお願いします。
柿崎景家(かきざき・かげいえ 1513?~1574)とは、日本の戦国時代に上杉謙信(長尾景虎)に属して活躍した鉄砲玉であり、みんな大好き脳筋武将である。
和泉守、弥次郎
なお、マクロスの柿崎とは関係ない。
『越後七郡に並ぶものなし』と呼ばれ、合戦の時は先陣切って突っ込んで行く猛将。
反面、脳筋によくあるように好色・尻軽で、それ以外に能が無い。挙句の果てには織田信長との内通を疑われ、誅殺される…と言うのが俗説だが、この辺りは脚色された疑いが強い。更に海音寺潮五郎の小説『天と地と』等では超脳筋で好色で裏切り者として書かれているため、コーエー補正も手伝って負のイメージが定着してしまった。
事実、柿崎景家が戦場で頼りになる鉄砲玉だったのは事実だったようで、上杉謙信の先手組大将として戦場を縦横無尽に駆け回り、第4回川中島の合戦(八幡原の戦い)では武田信玄の本陣に突撃を敢行。武田軍本隊を壊滅寸前まで追い詰めたと言われる。その他の合戦でも常に先頭に立ち敵をバッタバッタと薙ぎ倒しすぎたため、敵は景家の名前を聞いただけで逃げ出したとまで言われている。
反面、内政面にも優れた業績を残し、コーエー補正鰻上りの斎藤朝信とともに奉行に任ぜられ、領内の安定に寄与する一方、外交面では後北条氏との越相同盟にも尽力している。(その際、息子の晴家を人質として北条氏に差し出している)
なお、定期的に裏切られることに定評のある上杉家中だが、景家は(少なくとも謙信に仕えた後)は一度も裏切っていない。それなのに北条高広や新発田重家よりも義理が低い事まであるという不遇っぷりである。
比較的新しい『信長の野望シリーズ』では政治力の再評価がされてきているが、それでも智謀・義理はどん底、野望は高く武勇も謙信に遠く及ばないと言うカワイソスな評価が強い。コーエー補正の被害者の一人である。
俗説では、景家の最期は織田信長に密通し、それを謙信に気づかれて誅殺された…と言われている。
だが、実際の所これには疑問が残る。
景家の没年は1574年(天正2年)だが、その時点ではまだ織田・上杉は交戦状態では無い。また、事実であれば上杉に対する謀反となるが、柿崎家は次子晴家が継いでおり、処刑・追放がなされていない。さらに、1575年・1577年(天正3年・5年)の上杉家の軍役帳には柿崎晴家の名が記載されており、景家は隠居or病死していると推察される。(景家は没年時には60歳を越える老人である。)
家臣では本庄や北条、関東武将では佐野昌綱など裏切られることに定評のある上杉家中で、奉行まで勤めた景家を内通の疑い『だけ』で殺すだろうか。
ではなぜこのような俗説があるのだろうか?
景家の子である晴家は、謙信死後、養子である景勝・景虎による御館の乱では景虎側についている。周知の通り御館の乱は景虎敗死によって景勝の勝利に終わっており、景虎に付いた上杉憲政・上杉景信・北条高広等はこの乱により死亡し、同様に晴家も殺されている。だが、晴家の家臣が子の憲家を奉じて景勝方についていたため、柿崎家は存続している。
織田との密通で謀殺説は実は子の晴家だと言う説(こちらは1577年(天正5年)もあり、その辺りが混同+御館の乱のマイナスイメージとなって流布されたのでは無いだろうか。
柿崎景家に関するニコニコ市場の商品を紹介してください。
柿崎景家に関するニコニコミュニティを紹介してください。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/11(木) 11:00
最終更新:2025/12/11(木) 11:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。