淡路(海防艦) 単語

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淡路(海防艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した御蔵型海防艦3番艦である。1944年1月25日竣工。ヒ65船団を護衛中の6月2日、米潜ギターロの雷撃から船団を守るため盾となって沈没した。

概要

御蔵型海防艦とは戦時急造を目指して簡略化を推し進めたタイプである。

開戦前、大日本帝國海軍は占領予定の東南アジアからの資源輸送について、護衛兵力が不足している事に気付き、長大な航続距離を持つ占守型の設計をベースに新規護衛艦の開発に着手。1942年2月14日に海防艦乙型(後の御蔵型)の設計を完了し、マル急計画で建造が決定していた海防艦30隻のうち16隻を御蔵型として造る事にした。

南方海域での運用が決まっていたので不必要な暖房設備を撤去、主砲を平射砲から高射砲に換装し、爆雷搭載数も36個から120個に大幅増加、更に爆雷投射機を2基追加するなど、前級と比較して戦況に即した変更が行われた。その代わり占守型や択捉型と比較して航続距離が大幅に低下している。また択捉型と同様に機雷除去が行えるよう単艦式掃海具を艦尾両舷に装備。

設計を簡略化して択捉型より工数を2割削減(5万7000)できたものの、それでも1隻造るのに9ヶ月を要する事から戦時急造には向かず、建造予定の御蔵型16隻のうち8隻が、1943年7月5日に設計完了した海防艦改乙型(鵜来型/日振型)に割り振られる。こうして御蔵型は8隻のみの建造に留まった。

御蔵、三宅、淡路、能美、倉橋、屋代、千振、草垣が就役。このうち日立造船桜島工場で建造されたのは淡路、能美、屋代の3隻のみで、残りは日本鋼管鶴見造船所で建造されている。また淡路は最初に失われた御蔵型でもある。

要目は排水量940トン、全長78.8m、全幅9.1m、最大速力19.5ノット、出力4200馬力、乗員150名。兵装は12cm連装高角砲A型改三1基、同単装高角砲E型改一1基、25mm連装機銃2基、三式8cm対潜迫撃砲1門、九四式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2基、九五式爆雷120個、単艦式掃海具。電測装置として22号水上電探、九三式探信儀、九三式水中聴音機を持つ。

戦歴

1941年8月15日に策定されたマル急計画において、乙型海防艦324号艦の仮称で建造が決定。建造費511万2000円を確保する。

1943年6月1日に日立造船桜島工場(大阪)で起工、8月30日に達第202号により淡路と命名され、10月30日に進水、12月8日より日立造船所内に艤装員事務所を設置して業務を開始し、12月30日に仁木幸造少佐が艤装員長に着任、そして1944年1月25日に無事竣工を果たした。仁木少佐が艦長に就任、同日付で呉鎮守府へ編入されるとともに新造海防艦の訓練を行う呉防備戦隊に部署。

就役を果たした淡路は大阪を出港、呉を経て、呉防備戦隊の本部がある佐伯湾に回航され、慣熟訓練に従事する。2月10日、昭和天皇の弟宮で、海軍大佐でもある高松宮宣仁親王が佐伯を訪れた際、淡路を視察している。訓練を終えた淡路は2月15日に海上護衛総司令部・第1海上護衛隊へ異動。出撃準備を整えるべく同日中に佐伯を出発し、2月24日まで呉海軍工廠で整備を受けた。

そして2月25日に呉を単艦出港。瀬戸内海西部にはカロリン諸島西部に送る増援を乗せたモタ06船団/西松1号船団9隻が集結していた。

トラック大空襲、マリアナ諸島空襲、エニウェトク陥落を受け、大本営は絶対国防圏をマリアナ諸島・中西部カロリン諸島の線まで後退させる事を決定、サイパンとパラオに増援部隊を送るべく松輸送を開始。モタ06船団は台湾を経由してパラオに向かう最初の船団であった。これより船団は台湾南東部の要港高雄へ向かうのだが、この船団の護衛兵力は淡路1隻のみだった(資料によっては給炭艦室戸を護衛兵力に含めている場合もある)。


2月26日午前7時、モタ06船団を護衛して瀬戸内海西部を出港、2月29日から3月1日午前9時まで泗礁山で仮泊し、3月4日午前10時に経由地の高雄へと到着した。ここで淡路は護衛任務を終了。これより先は駆逐艦朝顔、浜波、水雷艇鷺が護衛を引き継いだ。次の船団護衛が決まるまでの間、淡路は高雄周辺で活動し、3月10日にサタ07船団(加入船舶10隻)、18日にマタ13船団(加入船舶6隻)の入港協力を行い、それと並行して対潜掃討に従事する。

3月19日午前、台湾安平港近海でヒ48船団を護衛していた占守が座礁したため、淡路と第38号哨戒艇に救助命令が出されている。

3月24日午前10時、16隻の船舶が加入するタサ31船団を、特設砲艦北京丸とともに護衛して高雄を出港。3月29日、飛騨丸と旭山丸が海南島三亜港へ向かうため船団より分離、同日中にクイニョンから出発してきた第19号駆潜艇が合流して護衛に参加するが、午後、海南島近海で米潜水艦ハッドが魚雷4本を発射、日安丸が被雷して軽微な損傷を負ったため、19時にキキク湾へと退避した。敵潜の脅威が去った後、3月30日午前7時にキキク湾を出港、4月1日午前4時にサンジャックまで到着するも、今度は淡路の主機械が故障してしまい護衛任務に耐えられなくなったので、タサ31船団より離脱。

4月4日21時に単独でサンジャックを出発し、4月7日14時20分にシンガポールへ入港。翌8日より第101工作部にて右舷主機械故障欠損部修理と潤滑油漏洩防止工事を受ける。


4月27日午前10時、サンジャックから台湾に向かっているシミ01船団と合流するべくシンガポールを出港。翌日シミ01船団と合流して護衛を開始する。道中何事もなく4月30日午前9時45分にボルネオ島ミリに到着した。

5月4日午前10時30分、水雷艇鷺、第38号哨戒艇とともにミ02船団(加入船舶17隻)を護衛してミリ出発。しかし5月6日朝、米潜水艦クレヴァルに発見され、午前8時1分にバラバク島南西で雷撃、船団最大の捕鯨母船日新丸の船尾に魚雷3本が命中し、わずか9分で沈没してしまう。船員15名が死亡、便乗者291名が行方不明となる。淡路は爆雷13発を投じたがクレヴァルには逃げられた。

5月10日13時30分、ミ02船団はマニラへ寄港し、船団と護衛兵力の再編制を行ったのち、5月13日午前5時52分に出港。5月16日17時5分から翌17日15時27分まで高雄に寄港し、5月18日15時20分に台湾北東部基隆へと入港した。そして内地に向けて出発。5月23日17時、ミ02船団は目的地の門司へ到着して護衛任務完了、1時間後、淡路は佐世保へ回航し、5月24日から28日にかけて探信儀記録器装備工事を行う。

5月29日午前6時、10隻の加入船舶で編成されたヒ65船団を護衛して門司を出港。護衛兵力は護衛空母海鷹、練習巡洋艦香椎、海防艦3隻(淡路、千振、第19号)、第60号駆潜艇、敷設艇燕の7隻であった。6月1日の日没後、雨で視界が悪化する中、ヒ85船団は台湾東方沖を航行していた。そんな中、月明かりを頼りに潜望鏡で船団の動きを監視する怪魚が、音も無く忍び寄る。

最期

1944年6月2日午前2時頃、火焼島東方沖で米潜水艦ギターロがタンカーに向けて6本の魚雷を発射、その雷跡をいち早く発見した淡路は第7護衛船団司令部が座乗する旗艦香椎に魚雷発見報告を行い、タンカーを守るため自ら射線上に割り込んで2本が命中、45分後に沈没する。淡路が身を挺して守ったからか雷撃の被害は殆ど無かった(有馬山丸に魚雷が命中していたものの不発)。

しかし、水中で淡路の爆雷が起爆した事でヒ85船団の大混乱を招き、有馬山丸と陸軍特種船神州丸が衝突事故を起こし、神州丸搭載の爆雷が起爆して航行不能に陥ったため、香椎によって台湾に曳航。淡路の生存者は第19号と千振が救助したが仁木艦長を含む76名が死亡。

7月10日除籍。

関連項目

  • 大東亜戦争
  • 軍用艦艇の一覧
    • 千振(海防艦)

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