由らしむべし知らしむべからずとは、政治原理の一つである。
子曰、民可使由之、不可使知之。(子曰わく、民は之に由らしむべし。之れを知らしむべからず。)
『論語』より
中国の春秋戦国時代に活躍した思想家・孔子の言行録である『論語』の第八編・泰伯に登場する一節。
現在では、前近代の政治や独裁者の統治原理を説明する際にこの言葉を引いて、民衆はバカだと思われていたので、統治する側が法律の内実を、施政の際に知らせる必要はなかった。などという意味で取られることがあるが、原典ではそんな強権的な意味合いではなく、「民に之(法・政治)を従わせることは出来るが、之を知らせる(道理を分からせる)ことは難しい」という風に解釈している。
なぜこのような誤解が広まったかといえば、読み下しの際に登場する「べし」という助動詞が、我が国では命令形として解釈されてしまっている事に起因する。この誤解の基で解釈すると、民は法に頼るべきであり、法について知る必要はないという原典から離れた意味となってしまうのである。
ではどうとるべきなのかといえば、この場合の「べし」は可能形、すなわち「~できる」とし、否定がつづくので「出来ない」と取るのが適当であり、そこから類推して「~させるのは難しい」と取るべきである。「出来ない」と「してはいけない」の解釈の違いで最終的な意味合いが大きく異なってしまうので注意を要する。
しかし、「民に政治や法律の道理を知らせることが難しい」とわかったところで、孔子は何を伝えたかったのか? そう疑問に思う人もいるだろう。
そもそも孔子は常々、君子(統治者)は「仁」と「礼」を重んじ、「徳」のある政治を心がけるべきだという事を説いていた。平たく言えば、政治をする者は人民を別け隔てなく優しく接し、所行を正して、民より敬われかつ、慕われる人物であるのが理想と考えていた。
しかし、一方で政治というものは様々な利害関係や、100年200年先の遠い将来の事まで考えなければならない事もある。その為、近視眼的で、刹那的な「今がよければそれで良い」という大半の民衆の思いとは相反するような政策もしなければならないこともあるだろう。
例えば、今我々が当然のように享受している義務教育とて、学制がはじまった当初は、目先の働き手を取られるのを嫌がった農村の人々を中心に大規模な反対があった。しかし、近代国家を作り上げる上では、義務教育で国民の頭を鍛えて、様々な知識や技能をつけさせることが必要不可欠な事は、ここを読んでいる諸賢ならば少なからず承知していることだろう。そういう共通認識が出来たのも、明治から大正にかけて政治家たちが反対に負けず教育制度の啓蒙や、充実を図った成果なのである。
そのような時に、民衆に「ああ、あの人が言うんだったら、しょうがないよな」と喜んで従ってもらうためにも、君子は常日頃から徳のある行いをし、礼を正していかねければならないという風に孔子は説いたのである。
民主主義が進展し、国民一人ひとりが小さいながらも主権を持つようになった現在では、孔子が説いた時代ほどの重要性は有していないかもしれない。しかし、現在においても法律の制定やその動きがある度になんやかやと国民が文句をつけ、その説明や審議に追われる政府という構図は変わっておらず、民衆に法律や政治の意義を知らしめることの難しさやその苦労は数千年の昔より同じであることがうかがえる。
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最終更新:2025/12/07(日) 00:00
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