百式重爆撃機 単語


ニコニコ動画で百式重爆撃機の動画を見に行く

ヒャクシキジュウバクゲキキ

1.2千文字の記事
これはリビジョン 2748685 の記事です。
内容が古い・もしくは誤っている可能性があります。
最新版をみる

百式重爆撃機とは、大日本帝國陸軍が運用した爆撃機である。別名呑龍(どんりゅう)。
連合軍が付けたコードーネームはヘレン(Helen)。

概要

帝國陸軍は九七式重爆撃機を主力として用いていたが、1937年に勃発した支那事変では苦戦を強いられていた。敵戦闘機の待ち伏せによる被害がかなり出ていたのだ。これを受けて陸軍は次期主力機キ-49の開発を一社特命で中島飛行機に命じた。機体コンセプトは「戦闘機を必要としない重装甲の爆撃機」で、日本機にしては珍しく防御が重視された。要求性能は九七式重爆を上回るものだったが、中島は様々な工夫を凝らして要求を満たそうとした。まず高出力のハ-41エンジンを採用。防御火器として後端に20mm機銃を装備。機首、機体側面、後方下部にそれぞれ7.9mm機銃を装備し、異例の重武装を施した。その様相は空飛ぶ戦車と呼ばれたほど。航続距離は控えめだったが、これは対ソ連戦(=大陸での運用)を想定しているからだと言われる。1939年8月に試作機一号を完成。さっさく陸軍によるテストを受けた。要求速度の500キロに満たなかったが、「速やかに性能向上を行う」という条件付きで試作機の増産が命じられた。そして1941年3月に制式採用された。

制式採用されたのが1941年(皇紀2601年)なので、本来の命名慣習であれば一式重爆撃機と命名されるはずだったが、前年がめでたい年だった事もあって百式に改められた。呑龍の名は文字通り「龍を呑む」という意味……ではなく、江戸時代の浄土宗の僧から取られている。製造を担当した工場がある群馬県太田市には、彼を祀った大光院があった。

戦争中の活躍

量産された百式重爆はまず支那事変に投入され、陣地爆撃を担当した。しかし、いざ運用してみると旧式の九七式重爆と大差ない性能だと判明。またハ-41エンジンは信頼性が乏しく、しょっちゅう故障していた事から九七式重爆の方が好まれるという本末転倒の事態に陥った。長時間の飛行を強いられる南方戦線では使い所が無く、開戦前に制式採用されていたにも関わらず太平洋戦線への投入はかなり遅れた。

1943年6月20日、ティモール島を発進した百式重爆18機が一式戦の護衛を受けてポートダーウィンを空襲。これが太平洋方面での初陣だった。スピットファイア46機の猛攻を受け、2機が撃墜。残りの16機は敵機を振り切って帰還したが、被弾多数で廃棄された機も多く、一式戦が付いていながら大損害をこうむってしまった。結局ポートダーウィンへの空襲は1回だけに留まった。悲しい事に百式重爆の防御力不足が露わになった戦闘だった。以降、表舞台から姿を消して後方地域で細々と運用される程度になった。最終的には重武装を廃してフィリピン方面への特攻に用いられた。

終戦までに832機が量産されたが、九七式重爆の2000機以上と比べると需要の無さが窺える。

関連動画

関連項目

  • 大東亜戦争
  • 帝國陸軍
  • 軍用機の一覧

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
らびる。[生放送]

提供: うーま

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/09(火) 00:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/09(火) 00:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP