神風特別攻撃隊(神風特攻隊)とは、大日本帝国海軍(日本海軍)の航空特別攻撃隊である。命名者は猪口力平。ここでは並行して行われた陸軍特攻や、航空機以外の特攻も含め、特別攻撃隊全般について述べる。
特別攻撃(特攻)とは、爆弾を搭載した爆薬を積んだ航空機や高速艇等で目標に乗組員ごと体当たりする戦法であり、その戦法を行う部隊を特別攻撃隊(特攻隊)と呼ぶ。大東亜戦争末期の日本で陸海軍あげての大規模な作戦として実施された。
名前の由来は、1274年と1281年に日本へ攻めようとした元軍の大船団を沈没・壊滅させた暴風雨(神風)から。特攻を元の大船団を沈めた神風に見立て、連合国軍に対しかつての奇跡を再び起こそうとした事が窺える。
背景には、大東亜戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下、近接信管(VTヒューズ)やグラマンF6F ヘルキャットに代表される米海軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。事実、フィリピン戦前に戦われた、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦といった日本軍航空機の通常攻撃では米艦隊に殆ど損害を与えることができなかった。
一般的に、神風は「かみかぜ」と読まれているが、正しくは「しんぷう」と読む。これは、神風特攻隊初出撃を報じた日本ニュース第232号のナレーションにて「かみかぜ」と読まれた事が定着したためとされる。又、特攻隊の中でも神風特攻隊が特に有名であったため、諸外国では特攻及び特攻隊も含めてカミカゼ(Kamikaze)としている。
航空機による体当たり攻撃は、開戦の真珠湾攻撃における飯田大尉の航空基地格納庫への体当たり以降、個別搭乗員の判断でしばしば行われていたが、戦局の悪化が進むにつれて軍として組織的に検討が始まる事となる。
まず、海軍が航空機による特攻が本格的に検討される前に、人間魚雷(後の回天)を1944年2月に試作決定し、9月に訓練開始と航空機特攻に先んじて準備が進んでいた。
航空機特攻についても、陸海軍それぞれ1944年には本格的な検討に入っていたが、1944年6月のマリアナ沖海戦で、航空機の通常攻撃では米艦隊に効果的な攻撃が困難になった事が判明し、更に検討が加速する事となる。
まずは1944年7月陸軍が先んじて航空機による特別攻撃が内定し、部隊の編制を開始したが、海軍は上記の人間魚雷による特攻が先行し、航空特攻の正式な編制は陸軍より遅れることとなる。但し特攻専用のロケット機桜花の研究は、一足早く1944年6月には正式に決定している。
1944年10月、特攻の産みの親と言われている大西滝治郎中将が、第一航空艦隊司令長官に任命され、ルソン島のクラークフィールド航空基地に着任した。
大西中将は海軍の中で、航空畑を歩んできた海軍航空隊の第一人者であり、現状の日本軍の航空戦力では米艦隊に対抗困難であることを痛感しており、着任前に航空機により特攻を軍令部に進言し、承認を取っていた。
現地に着任すると、当時の第一航空艦隊の戦力は実動機が100機に満たないほど消耗しており、レイテへの日本海軍の総力を挙げた反抗も控えてる中で、大西長官はもはや特攻しか米軍に対抗する手段なしと特攻作戦の開始を決意し、ついに海軍航空隊により特攻攻撃隊、神風特別攻撃隊が編成される事となった。
指揮官は海軍兵学校出身者から選抜され、海兵第70期の関行男大尉が指名されることとなり、他も編成を一任された201空副長玉井中佐が、自分の教え子の中から志願を募り、合計24名が初めての海軍特攻隊として出撃することとなった。
1944年10月21日に、レイテ沖で日米海軍艦艇の死闘が行われている中で、敷島隊以下4隊の神風特別攻撃隊24機が編成され出撃した。
特別攻撃は、その一号となった敷島隊(正確には悪天候で帰還を繰り返しており4度目の出撃)が1944年10月25日護衛空母セント・ローを撃沈 他2隻大破して以降、終戦直前の1945年7月28日の第三龍虎隊による駆逐艦キャラガン撃沈まで、11ヶ月間に渡って米艦隊に損害を与え続けた。
総合戦果は、撃沈護衛空母セント・ロー、オマニー・ベイ、ビスマルク・シー の3隻を含む57隻
損傷艦は正規空母20 軽空母3 護衛空母17 戦艦12 重巡6 軽巡8 駆逐艦138 その他175 合計381隻の膨大な数に及ぶ。また損傷艦の中には多数、修理不能で廃棄された艦も含まれている。
巡洋艦以上の撃沈艦、特に特攻が主目標にした正規空母の1隻の撃沈が無かったのが、しばしば特攻攻撃に効果が無かったという評価の根拠になるが、正規空母バンカーヒル・エンタープライズ・タイコンデロガ・サラトガ・英空母フォーミダブルは終戦まで戦線復帰できなかった様に、特攻攻撃の期間中常に4~5隻程度の正規空母を戦線離脱させ、米空母部隊の戦力を減殺しており十分な効果が認められる。また特攻で最大の損害を受けた正規空母バンカーヒルは、回航された工廠でも 入渠修理された艦艇のなかで最大の損傷であり、戦後エセックス級空母の諸艦は近代化改装を施されたものが多いが、本艦は損傷の度合が大きすぎて改装の必要がないと判断され、1947年1月予備艦に移され、以後1966年11月、除籍されるまでまったく使用されなかった。
このような特攻の有効性は、戦後に敵であった米軍の評価やニミッツ元帥ら米軍高官の回想によっても明らかになっており、大戦末期に米艦隊に殆ど対抗する術を持たなかった日本軍にとって、米艦隊に効果的な打撃を与える限られた戦術の一つとなっていた。
また特攻は米兵にとって非常に恐ろしいものだった。特攻を受けた艦の多くの乗組員が戦意喪失したりノイローゼを起こした。特攻攻撃が開始された1944年10月末に空母ワスプで、乗組員の内100人余りを抽出して健康診断した結果、戦闘行動に耐えられる乗組員はわずか30人足らずだったという調査結果もある。
これは将官についても同様で、ミッドウエーで日本海軍を打ち破った立役者スプルアンス提督は、沖縄でのあまりの特攻の被害に精神的に追い詰められ、艦隊司令をハルゼー提督と交代させられている。また米空母艦隊司令ミッチャー大将も、旗艦が二度に渡り特攻で大破した為、幕僚多数を失うと共に自らも体調を崩し、戦後まもなく若くして亡くなっている。
これらのようにそのあまりの恐ろしさに兵員やその家族に不安を与えると判断した報道機関は特攻の存在を伏せ、後に存在を明らかにした。こうした背景もあり戦後、アメリカなどで身を省みない攻撃や命を捨てた体当たり攻撃の事をカミカゼと呼ぶようになったという。
米軍は、フィリピンでの特攻における大損害を重くみて、様々な対策を講じている
これらの対策もあって、特攻攻撃の成功率をフィリピン戦での26%から、沖縄戦15%と大幅に低下させて、かなりの効果を上げることができたが、結局米軍は終戦まで特攻を完全に防ぐまでの有効な対策は持ちえなかった。
この通り連合軍へ与えた心理的、物理的打撃は決して小さくはなく。そこで発露された多くの自己犠牲精神も、けして貶められるべきではない。しかし戦術、戦略としては高く評価できるものではなく、特攻が常套化した後は「志願の強制」が多発したことも含め、まさに「統率の外道」としか言いようのない一面も強く有していた。
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最終更新:2025/12/22(月) 04:00
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