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神風特攻隊単語

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主観的な記事

当記事は特攻隊は悲劇であると同時に、戦術的に意義のある作戦であったとの立場からの記述となっています。

神風特別攻撃隊(神風特攻隊)とは、大日本帝国海軍日本海軍)の特別攻撃隊である。命名者は初の特攻隊を編成した、第一航空艦隊席参謀大佐。ここでは並行して行われた陸軍特攻や、航空機以外の特攻も含め、特別攻撃隊全般について述べる。

 概要

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特別攻撃(特攻)とは、爆弾を搭載した航空機爆薬を装備した高速艇等で標に乗組員ごと体当たり攻撃する戦法であり、その戦法を行う部隊を特別攻撃隊(特攻隊)と呼ぶ。第二次世界大戦末期における日本軍要戦法として実施された。

戦死を前提とした体当たり戦法」を「軍事作戦として正式に採用、実施」したほぼ一の事例であり、現在でも決死攻撃・体当たり攻撃の徴的存在として、世界中で『Kamikaze』という代名詞と共にり継がれている。

名前の由来

命名者となる第一航空艦隊席参謀によれば、故郷鳥取に古くから伝わる古剣術流に因んで命名したとのことであるが、1274年と1281年の二度にわたって日本へ攻めてきた元軍の大船団(元)を壊滅させた暴風雨(通称「」)を意識したとも言われている。

(ただし、「伝説後の創作である事が判明しており、実際には「元軍は日本軍に撃退され、本への退却中に暴風雨で壊滅した」が最近の有な学説。)

一般的に、は「かみかぜ」と読まれているが、正しくは「しんぷう」と読む。これは、神風特攻隊初出撃を報じた日本ニュース232号のナレーションにて「かみかぜ」と読まれた事が定着したためとされる。又、特攻隊の中でも神風特攻隊が特に有名であったため、諸外では特攻及び特攻隊も含めてカミカゼKamikaze)としている。

特別攻撃隊については、古くから日本軍内で生還の望みが薄い作戦や、その作戦に従軍する部隊を特別攻撃、もしくは特別(攻撃)隊と呼称していたが、体当たり攻撃の印が強すぎる事から、今や特攻と言えば体当たり攻撃の代名詞となっている。 

特攻作戦が開始された背景

1943年頃から、アメリカ軍は近接信管の実戦配備やレーダーを使用した効率的な迎撃システムの構築、新戦闘機の投入により飛躍的に戦を向上させていた。それに対して日本軍は有効な対策を打つ事が出来ず、さらにマリア戦や台湾沖航空戦における大損により搭乗員の補充すらままならなくなり、これを補うべく新人の搭乗員でもある程度の戦果が見込める、体当たり攻撃隊の編制が急がれる事となった。

 特別攻撃隊の歴史

特別攻撃隊編成まで

航空機による体当たり攻撃は世界的にもしい事ではなく、第一次世界大戦中の東部戦線においてロシア軍機が行った行動が世界初の航空機による体当たり攻撃とされる。このような攻撃は個人の判断でしばしば行われており、特に不時着後の救助が困難な太平洋戦線では帰還不能になった航空機による敵への体当たり攻撃が日両軍で頻繁に行われていた。しかし、戦局の悪化が進むにつれて軍として組織的に検討が始まる事となる。

軍では、航空機による体当たり攻撃が本格的に検討される前に、まずは人間魚雷(後の回天)を1944年2月に試作決定し、9月に訓練開始と航空機特攻に先んじて準備が進んでいた。

航空機特攻についても、陸軍それぞれ1944年には本格的な検討に入っていたが、1944年6月マリア戦での敗北母艦航空隊の壊滅を機に更に検討が加速する事となる。

まずは1944年6月空母千代田艦長英一郎大佐マリア戦での惨敗を踏まえ、豊田副武連合艦隊長官に、航空機による体当たり攻撃隊の編成を正式に申し出しているが却下されている。また同時期に後に特攻専用ロケット機「桜花」部隊部隊のとなる岡村大佐が、伊藤整一軍部次長に同様な申し出をしていたが、これも却下された。その桜花太田正一特務少尉の発案で1944年5月から内々に開発が進んでいたが、通常航空機による特攻隊編成前の1944年8月には航空本部より正式に試作が下命されている。

一方陸軍は参謀本部導で、特攻に反対していた安田武雄航空総監兼航空本部長が更迭されて、特攻推進であった後宮大将が後任に、菅原中将航空本部次長に任ぜられると、くも1944年3月には航空機による特攻が内定したが、特攻機の改造や特攻戦術の検討など軍よりは準備を周到に行った為、実際の特攻隊の編制は軍に遅れを取ることになった。

神風特別攻撃隊出撃

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1944年10月、特攻の産みの親と言われている大西治郎中将が、第一航空艦隊長官に任命され、ルソンクラークフィールド航空基地に着任した。

大西中将軍の中で、航空を歩んできた航空隊の第一人者であり、現状の日本軍航空では艦隊に対抗困難であることを痛感しており、着任前に航空機により特攻を軍部に進言した。大西中将の進言に対し軍及川志郎総長は『示はしないが、現地の自発的実施には反対しない』と特攻を黙認した。その際に、軍部や大西が特攻の名前や発表を相談した形跡があり、大西が出発した後にその確認をとる電文の起案を任された軍航空参謀田実大佐も出発前の大西と会ったときに特攻をやるとは明言されなかったが、やる気であるのはわかっていたと言している。その他にも大西は軍需局や聯合艦隊で特攻をほのめかす発言をして出発した。

承認は取ったが、実際の編制をするかはまだ迷っていた大西中将であったが、現地に着任すると当時の第一航空艦隊の戦は実動機が100機に満たないほど消耗しており、レイテへの日本海軍の総を挙げた反抗(捷一号作戦)も計画されてる状況で、大西中将はもはや特攻しか米軍に対抗する手段なしと特攻作戦の開始を決意。

大西中将10月19日に一航艦幹部を集め『捷号作戦を成功させるため、敵機動部隊をいて敵空母を一時的に使用不能にするには、零戦250キロ爆弾を搭載して体当たり攻撃させる以外に手段はないと思うのだがどうだろうか?』と特攻隊の編制を提案、幹部も初めは抵抗を感じていたが、結局は全員賛同した為、ついに航空隊による特攻隊、神風特別攻撃隊が編成される事となった。

編制については現場に一任されたが、201副長玉井浅一中佐は、指揮官軍兵学校出身者から選抜して欲しいとの一航艦参謀長よりの願いを受けて、兵第70期の関行男大尉名。名された関大尉は最初は戸惑うが一考した後に引き受けた。(関大尉はその時の胸の内を従軍記者に『天皇陛下大日本帝国の為じゃなくする妻の為に引き受けた』とっている)

他の隊員は玉井中佐航空隊の中から志願を募り、志願者の中から選抜された合計24名が初めての軍特攻隊として出撃することとなった。

一、現戦局ヲ考エ艦上戦闘機24機ヲモッテ体アタリ攻撃隊ヲ編成ス。本攻撃隊ハ、コレヲ四隊ニ区分シ、敵機動部隊ガ東方面ニ出現ノ場合、コレノ必殺ヲ期ス。成果ハ水上部隊突入前ニコレヲ期待ス。今後艦戦ノ増強ヲ得次第、編成ヲ拡大ノ予定、本隊ヲ神風特別攻撃隊ト呼称ス。

(昭和19年10月21日付第一航空艦隊命)

1944年10月21日に、レイテへの大日本帝国海軍連合艦隊の総を挙げた出撃の援護の為に、敷隊以下4隊合計24機の神風特攻隊が出撃した。

フィリピンでの激闘

初出撃日となった10月21日は会敵できず、その後も出撃帰還を繰り返すが(21日久納中尉機が未帰還、同日重巡オーストラリアが特攻で損傷しており、久納中尉の戦果とも推測されてるが、特攻機が一式陸攻との軍の記録や、時間のずれなどから確定には至ってない)、10月25日栗田艦隊とのサマール戦を戦ったタフィ3を発見し、ついに特攻作戦が開始されることとなった。

栗田艦隊との戦で損を被っていたタフィ3に敷隊以下15機の特攻機が襲い掛かり、護衛空母セント・ロー撃沈の他2隻の護衛空母を大破、他5隻にも損を与えた。

出撃した機体数を考えれば前代未聞の大戦果といえるものの、肝心の栗田艦隊突入支援という的は達成できず捷号作戦は失敗し、連合艦隊水上艦隊はほぼ戦闘を失う事となった。

この戦果は、及川部総長より天皇に伝えられ、陛下は『そのようにまでせねばならなかったのか、しかしよくやった。』と絶句しながら、隊員を労ったと言われている。

その後は大西中将の第一航空艦隊の他に、当初は特攻に否定的だった福留繁中将の第二航空艦隊も特攻攻撃に加わり、連日機動部隊に特攻機が襲い掛かかった。特にレイテ沖海戦連合艦隊を壊滅させた、第38任務部隊の正規空母の損が大きく、正規空母フランクリンヨークタウン空母ベローウッドの大破を初め、損傷による空母の戦線離脱が相次ぐ事となった。

空母の戦線離脱が相次ぎ戦が大幅低下したことから、第三艦隊ハルゼー大将企画し承認されていた第38任務部隊の艦載機による東京襲(ドーリットル隊のB25による襲は正規の艦載機ではい為除外)も中止に追い込まれている。

マリアナ・レイテで日本海軍を壊滅させ、向かう所敵なしだったはずの米海軍は予想だにしなかった難問を背負いこむ事となり、様々な特攻隊対策を講じる必要に追い込まれる。(詳細後述)

1日だけでもいいから、suicide plane(特攻機)対策の為に海兵隊戦闘機空母に搭載されたし

(第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)

しかしその甲斐もなく、1944年12月7日レイのオルモック湾の米軍上陸部隊が、12日にはミンドロ攻略部隊も特攻の洗礼を受けいずれも多数の撃沈破艦と死傷者を出す事となった。

年が明けて1945年1月2日、ついにフィリピン最大の拠点ルソン攻略部隊20万名と艦艇850隻が出撃。それを迎撃する日本軍との間でフィリピンでの特攻作戦最大規模の戦が開始されるが、まずは出撃々の4日に上陸予定地のリンガエン湾に向かう途中の護衛空母艦隊が特攻攻撃を受け、オマニー・ベイが撃沈され、護衛艦を含む他数隻が撃破される。

6日リンガエン湾に到着してからも、上陸支援部隊に特攻機が襲い掛かり、上陸支援艦砲射撃をしていた戦艦巡洋艦に次々と特攻機命中。中でも戦艦ニューメキシコは艦に特攻機が突入した為、艦長以下幕僚の多くが死傷、その中にはフィリピン戦を観戦に来ていた、英陸軍第二次世界大戦最高位の戦死者となるラムスデン中将も含まれており、英太平洋艦隊フレイザー大将すんでのところで戦死を免れ軽傷を負った。

他にも戦艦カルフォルニア重巡ルイビル・軽巡コロンビア重巡オーストラリアも次々と特攻機の命中で深刻な被害を受け、この後戦場を長期離脱する羽に追いやられた。この内重巡ルイビルは第77任務部隊の旗艦であったが、特攻によりのセオドアチャンドラ少将が戦死している。2日間の特攻で連合軍は中将少将大佐という高位の将官が戦死したが、連合軍としては異例の事態であった。またこの一連の被害で、今まで護衛空母駆逐艦といった較的防御の弱い艦艇しか損を与えていなかった特攻が、戦艦などの重装甲の戦闘艦艇にも一定のダメージを与えうるという実にもなった。

今や神風特攻隊は連合軍の進行を撃退し粉砕する為に(日本軍が)長い間考え抜いた戦術を実際に発見したかのようだ

(太平洋艦隊ニミッツ元帥)

その後もリンガエン湾への特攻出撃は繰り返されてたが、ついに第一航空艦隊・第二航空艦隊とも航空機が尽き、中でも第二航空艦隊は3機を残すのみとなって、福留中将がその3機を率い最後の特攻出撃を計画したが、大本営の命で第二航空艦隊は解散し第一航空艦隊に編入、福留中将シンガポールへの転任となった。

第一航空艦隊大西中将航空尽き、陸戦部隊としてクラーク飛行基地西方山岳地帯に地構築していたが、大西中将は間もなく台湾への転属、後に軍部次長となり終戦まで特攻作戦揮をとることとなる。残された搭乗員や整備兵等は飢えや病気と闘いながら、米軍の攻撃を撃退し終戦まで地を死守した。

フィリピンでの特攻による合計650機の損失により、きわめて大きな成果を挙げたことは明である。これらの攻撃の的だった連合軍の上陸阻止には失敗したが、命中と至近命中は26.8%にも達している。

(米国戦略爆撃調団 フィリピン特攻作戦総括)

回天出撃そして硫黄島・丹作戦・九州沖航空戦

航空特攻に先駆けて訓練編成が進められていた人間魚雷回天1944年10月18日に実戦初出撃、菊隊と名付けられた潜水艦3隻回天12艇で艦隊の泊地ウルシー(西カロリン 1944年9月米軍占領後、工作船・浮きドックを配備し艦船の修理が可、補給及び兵員の休養施設も整備していた)を攻撃し、大給油艦ミシシネワを撃沈した。しかし潜水艦1隻が駆逐艦により撃沈され、この攻撃で米軍停泊地の警が厳しくなり、以降回天作戦はめぼしい戦果を挙げることができず損を重ねていくこととなった。

米軍泊地ウルシーに対しては、1945年3月11日日本本土より遠路はるばる航空特攻も実施、丹作戦と名付けられた銀河24機による攻撃であったが、故障等での不時着が相次ぎ、実際にウルシーに突入できたのは11機、内1機が正規空母ランドルフに命中した。期待に対して戦果は少なかったが、ウルシー泊地は先の回天の効果も併せて、常時警態勢を余儀なくされて、補給・休養基地としての役割を制限されることとなった。

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1945年2月19日についに米軍硫黄島に上陸、しかし硫黄島防衛は当初より日本本土決戦に向けての時間稼ぎという方針であり、航空攻撃も限定的なものとなった。2月21日には第601航空隊をとする特攻第二御32機が硫黄島に向けて出撃、少数ながらも護衛空母ビスマルクシーを撃沈、正規空母サラトガを大破、護衛空母1その他艦艇3を撃破する大戦果を挙げ、硫黄島守備隊を援護した。

硫黄島の戦いが終息に向かいつつあった1945年3月18日に、沖縄上陸作戦に向け、ミッチャー中将率いる第58任務部隊の正規空母10隻軽空母6隻艦載機1400機をとする合計100隻以上の大艦隊が、日本本土の軍事拠点爆撃を実施。それに対して中将率いる第五航空艦隊と陸軍航空部隊が特攻・通常攻撃の両方でを挙げて迎撃した(九州航空戦)。

18日には特攻と通常攻撃により正規空母イントレピッド・エンタープライズヨークタウンワスプを撃破、翌19日にもフィリピンで特攻機により大破し、修理終えてようやく15日に部隊合流した正規空母フランクリンに特攻機が艦先端部に命中、若干被害を与えた。

その後、フランクリンには双発爆撃機銀河」が緩降下爆撃250キロ爆弾を2発命中させた。250キロ爆弾は飛行甲を貫通し格納庫内で爆発弾薬誘爆し大火災が発生した。飛行甲上の航空機にも次々と引火し、あわや沈没と言う深刻な損を被ることとなり、終戦まで復帰できず空母としての艦命を終える事となった。

日本軍が特攻体となる中で、双発爆撃機ながら急降下爆撃が可と言う銀河の高性を十分に発揮した攻撃であった。

また、特攻専用機「桜花」を装備した部隊の18機も21日に初出撃した。護衛戦闘機が当初予定の半数しか参加できず、部隊は標のか手前で全機撃墜された。(「桜花」については個別記事を参照されたい)

『この桜花)扱い難し』

国賊と罵られても、桜花作戦だけは部に断念させたい。』

(神風特攻隊部隊第1回桜花部隊隊長 野中少佐)

沖縄決戦                    

帝国軍ハ進行スル米軍ニ対シ 陸特ニ航空ヲ綜合発揮シ

敵戦ヲ撃破シ其ノ進行企画ヲ粉砕ス

(201月19日 帝国作戦計画大綱)

硫黄島攻略し、来るべき日本本土上陸作戦の前進基地としてついに米軍沖縄に、参加兵54万8千人、軍艦318隻、その他艦船1139隻の第二次世界大戦の中でも最大規模の兵で進行してきた。 日本軍は、陸作戦大綱で進行してくる艦隊に航空決戦を挑む方針としており、その方針に基づき3月20日に大本営が作戦を下した。

沖縄本島に先立ち3月26日慶良間諸米軍上陸、特攻攻撃は小規模であったが、駆逐艦1隻を撃沈している。

その後4月1日ついに沖縄本島米軍が上陸、日本軍はそれを受け4月6日から菊一号作戦を発軍特攻機218機、陸軍特攻機82機が出撃し、太平洋戦争中最大規模の航空特攻攻撃となった。翌7日も引き続き特攻出撃が続けられ日本軍は2日で355機の特攻機を損失した。一方米軍の損も撃沈 駆逐艦3隻 戦車揚陸艦2隻 弾薬輸送艦2隻 大破・艦 駆逐艦3隻 損傷空母ハンコック・サン・ジャシント他20隻以上と多数に上った。

特に駆逐艦の損が大きかった。これは沖縄戦での特攻攻撃の特色として、艦隊の外周を取り囲む様に配置されたピケットライン駆逐艦が特攻機の標となることが多く損が大きくなったもので、事実かは不明だが駆逐艦乗組員が乗艦の駆逐艦に『空母はあちら』という意味の矢印を掲げたという逸話も残っている。

々はレーダーピケット艦として艦隊中の優秀艦を抜いてこれに宛てた。ピケットラインにつけと命ずることはまるで死刑の宣告を与えるようなものだった。

実際、小奇麗な艶々と光沢のある駆逐艦が ピケットラインにつくために北の線に消えていくのを見送るくらい嫌な気持ちのものはない。

駆逐艦機関大砲全で 乗組員もピチピチしてるのに、数時間も経たないうちに酷い姿になって航されながら帰ってくるんだからな』

(陸両用部ターナー大将の幕僚の述懐)

また上特攻作戦として、戦艦大和 軽巡矢矧 駆逐艦8隻が沖縄に向け出撃したが、坊ノ岬米軍の攻撃を受け、大和以下6隻が沈没、日本海軍水上部隊は壊滅した。

作戦はその後十号まで続けられ、陸軍合計1460機の特攻機が投入された。一号作戦以降で立った戦果は以下の通り                      

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以上の様な陸航空隊による沖縄上への特攻作戦は、孤立援で戦う沖縄守備隊第32軍の心の支えにもなっていたという言もある。

沖縄防衛第三十二軍の将兵の間には、「特攻機を拝みに行く」という言葉があった。 これは内地から沖縄を救うために出撃した特攻機の最後を見届けるという意味である。

『ポツンと粒のように機体をらせたまま、わが特攻機が飛んでいるんだ。 あ、あっと思う間にボウッと炎を噴いてゆらめきながらにおちるものもあるし、 低くまっすぐに敵艦に突っ込んで、高い火柱をあげるものもある。 空半分を火のと化した弾もやがてまばらになる。 大太鼓を打ち鳴らすようなもはたりとやむ。 そのあとの静寂は、なんとも言えないなあ。

やったなあ、御苦労さんと、なかには地に手をついてのほうを拝むものもある。 みんなもそれに習った。晩になるといつも特攻機を拝みにゆく、拝みにゆくんだ。 すごいものだよ。それは。』

(沖縄の最後 古川 成美著)

沖縄における特攻による連合軍軍の損は膨大であり、一時は真剣沖縄からの一時撤退も議題に登る程であった。 沖縄攻略揮をとっていた第五艦隊プルアンス大将も、特攻から受けた大損による心労が重なり、第三艦隊のハルゼー大将との交代を余儀なくされた。ミッドウェー・マリア日本海軍に対し圧倒的勝利を重ねてきた指揮官の初めての挫折となった。

軍は1日に2隻ずつ艦船を失っており、 5日以内に第一線が動かなければ官の更迭を要する』

(太平洋艦隊ニミッツ元帥沖縄攻略部隊バックナー陸軍中将に向けて)

しかしながら6月に入る頃には米海軍も特攻との戦による戦訓を積み重ねた結果、特攻対策が完成しつつあり戦果が挙がりにくくなっていた。また日本軍側も沖縄の第32軍の組織的抵抗が終焉に向かうと、本土決戦に向けて航空の温存を図る様になり、沖縄に対する特攻も次第に小規模なものとなっていき、1945年7月以降は散発的なものとなった。

沖縄戦で投入された特攻機は約1900機 内米軍資料によると命中182機 至近命中97機 有効率14.7フィリピン戦と較し、米軍の特攻対策により迎撃がになって成功率が12%も低下している。 しかし、出撃機数が多かった分戦果も多大であり、連合軍は沖縄戦軍艦艇36隻撃沈368隻撃破の大損を被ったが、この多くは特攻から受けた損であった

十分訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦明された。

(米国戦略爆撃調団 沖縄戦特攻作戦総括)

一億総特攻

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日本は第32軍と陸軍特攻部隊の奮闘しく沖縄を失い、ついに本土決戦現実味を帯びてくることとなった。 軍は大和特攻により、稼働艦がほぼ壊滅しており、圧倒的な連合軍艦隊に対して有効な戦はいよいよ各種特攻兵器のみとなっていた。

その為、特攻兵器の開発・生産が急ピッチで進められており、特攻専用機とされたキ115(陸軍名・ 軍名・)は量産開始(出撃したとの言もあり)また特攻パルスジェット機・ 地上発射用・桜花等の航空特攻兵器、特殊潜航艇・などの中特攻兵器等の開発や生産が進められていた。また変わった特攻兵器としては、戦車への特攻を的とした特攻グライダー神龍とか潜具を着用した兵士が爆で上陸用舟艇を自爆攻撃する・伏も開発・編成が進められていた。

以上のように効果に疑問符つくような兵器もあったが、特攻機の準備は着々と進めており、1945年8月時点で日本軍残存稼働機10800機の内5350機を特攻機として準備していた。これまでに投入した特攻機が10か2550機であり、その倍以上の特攻機が連合軍の九州上陸作戦オリンピック作戦)に対して投入される計画であった。

また陸軍の特攻艇(震洋・マルレ)も10000隻以上が日本各地に配置され、に敵の揚陸艦や上陸用舟艇を攻撃するべく連日訓練をしていた。

米軍は今までの経験上、日本軍の死を尽くした特攻で大損を受ける事は十分に想定しており、その数は約1000隻の艦艇の撃沈破と、沖縄戦える前絶後の損を覚悟していたが、それでも九州に侵攻する連合軍艦隊は史上最大の作戦ルマンディをえる5000隻以上は確実であり、仮に1000隻が損を受けても作戦遂行に支障はないと分析していた。

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そんな中でも、日本は軍のみならず、一億特攻 一億玉砕のスローガンの元に、一般国民にも上陸してくる連合軍への捨身攻撃を導しており、国家破滅に向かって転がり落ちていく状況であったが、ポツダム宣言受諾により本土決戦前に終戦となった。

この少し前、最高戦争会議に、会議メンバーもなかった大西中将(この時は軍部次長)が乗り込み『日本男子をあと二千万人特攻に出せば、日本戦争に勝てる』と会議の出席者に詰め寄るが、ここに至っては大西中将を取り合う者はおらず、その後も降伏回避の為に関係者に様々な工作を行うが実らず、8月15日に全に対し、終戦を告げる玉音放送が行われた。

大西中将玉音放送の翌日16日に自宅にて割自決を行い、介錯や治療を拒み15時間苦の上で亡くなった。特攻の産みの親とされ、最後は2000万人特攻との自説を強弁するなど評価が分かれる大西中将であるが、『前途有為な青年をおおぜい死なせた。地獄に落ちるべきだが、地獄の方で入れてくれんだろう』と親しい知人に泣きながら話したという言もあり、軍人として戦局好転の為に特攻を推進しつつも、心ならずも部下将兵を死地に追いやった罪の意識に囚われていたものと思われる。その思いは遺書でも慮ることができるであろう。

特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す

最後の勝利を信じつつ肉弾として散せり

然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

次に一般壮年に告ぐ

が死にして軽挙は利敵行為なるを思い 旨に副い奉り自重苦するの誡ともならば幸なり

するとも日本人たるの持を失う

諸士はの宝なり

時に処し猶おく 特攻精を堅持し 日本民族の福世界人類の和の為 最善を尽せよ   

(大西治郎 遺書)

玉音放送後、第五艦隊として多数の特攻機を送り込んだ中将も、他に志願した10機と共に彗星艦爆で沖縄方面に出撃し未帰還となった(終戦後の出撃であった為戦死とはならず、大将への昇進も敵わなかった)。

他方で陸軍特攻の指揮官だった第六航空菅原中将は、日頃自身が最後に特攻すると言していたものの、終戦時に部下から共に特攻することを勧められると「死ぬばかりが責任を果たすことではない」と拒否。垣の行動に対しては「単に死に急ぐは、決して男子の取るべき態度にあらず」と評した。後年菅原息子自決すべきだったと批判しつつも、若者を連れにしなかったのはせめてもの救いだと複雑な心を述べている。

1944年10月以降10かに渡って、日本軍・連合軍両軍に多大な犠牲を生じさせた特攻は、中将らの未帰還でその幕を下ろす事となった。

 特別攻撃隊の効果

特別攻撃の戦果

特攻は、その一号となった敷隊(正確には悪で帰還を繰り返しており4度の出撃)が1944年10月25日護衛空母セント・ローを撃沈 他2隻大破して以降、終戦直前の1945年7月28日の第三虎隊による駆逐艦キャラハン撃沈まで(損傷は8月13日上陸支援輸送艦ラグランジ)、10ヶ間に渡って艦隊に大な損を与え続けた。

総合戦果

艦   種 正規空母 空母 護衛空母 戦 艦 巡洋艦 水上機母艦 駆逐艦 その他 合 計
撃沈・   0   0   4  0  0   0  40  29   73
損   傷   16  4   13  11  12   5  141  71  273

※撃沈・棄には特攻によりその場での沈没は免れたが、その後自沈処分されたり、工に回航するも修理断念でそのまま除籍された艦も含む。

駆逐艦には護衛・敷設・輸送等の各駆逐艦を含む

主な撃沈・廃棄艦

艦種 艦名 特攻年 状況
護衛空母 セント・ロー 19年10月25日 特別攻撃初の撃沈艦。レイで、軍敷隊長関大尉機の零戦が命中(敷隊の内の他機で関機ではないとする説もあり)爆弾が格納庫内で爆発航空燃料・魚雷が連鎖的に誘爆30分で爆沈。 戦死者143名負傷約400名
護衛空母 オマニー・ベイ 201月4日 フィリピンスルー、陸軍特攻進襲隊99式襲撃機もしくは一隊のいずれかが搭載していた2発の爆弾を投弾後に体当たり命中。爆弾は甲上に並んでいた艦載機の燃料や爆弾誘爆させ大火災、鎮火が困難となった為、総員退艦後駆逐艦魚雷で処分された。戦死者98名負傷65
護衛空母 ビスマルクシー 202月21日 硫黄島軍第2御隊の特攻機2機が後部エレベーターに命中し、爆弾が格納庫で爆発。同艦は特攻で大破したサラトガや他護衛空母の艦載機を一時的に収容しており、多くの艦載機が燃料も抜かずに格納庫に駐機していた為、たちまち航空燃料に引火、搭載していた航空魚雷誘爆し大爆発、特攻機命中後わずか15分で総員退艦命、その後横転して沈没。戦死者・行方不明者は350名に及んだ
護衛空母 サンガモン 205月4日 沖縄で菊第五作戦の特攻機1機が命中大破、戦死者46名戦傷116名。修理の為ノーフォークに回航されるも全損判定で除籍。本艦はセント・ローが撃沈された同日に敷隊の零戦から機掃射を受け1名の戦死者と数名の戦傷者を出しており、2回の特攻損艦となった。その後船体をタンカー改造民間で使用され、最後は大阪で解体された。
駆逐艦 アブナ・リード 19年11月1日 兵隊等の特攻でスリガオ峡で99艦爆1機命中右に横転後沈没し23名戦死56名負傷
給油 ミシシネワ 19年11月20日 人間魚雷回天隊の回天1艇命中、満載した大量の燃料ごと(航空機2000機分・駆逐艦20隻分の燃料に相当)横転して沈没戦死63名負傷95名、特攻で沈没した中では満載排水量最大の艦(満載排水量25833トン)。あまりに大量の燃料ごと沈没した為、未だに燃料が上に漏れ出ており、周辺域の汚染が懸念されている
駆逐艦 ハン 19年12月7日 千早隊・陸軍勤王隊等の特攻によりオルモック湾で1機命中大破18名戦死31名負傷、同日自沈処分
輸送駆逐艦 ワード 19年12月7日 オルモック湾で1機命中大炎上5名負傷、同日自沈処分、ちなみに本艦は珠湾で日本軍の攻撃前に特殊潜航艇を撃沈し太平洋戦争の戦端を開いた艦であった
駆逐艦 レイド 19年12月11日 軍第一金剛隊の1機がスリガオ峡で命中し爆沈150名戦死
弾薬輸送艦 ジョンバー 19年12月28日 月光隊の高橋大友両一飛曹が搭乗する戦闘機月光米軍記録では99艦爆)が命中。弾薬を満載していた為大きなキノコを残し一で爆沈、乗組員69名は全員戦死。付近を航行していた陸軍の警備艇もその衝撃で沈没、他にも多数の損傷艦と死傷者を出した。その時の映像が残っており現在でも見る事ができる。


(本動画 16:24よりの映像

輸送駆逐艦 ブルック 201月6日 金剛隊各隊・陸軍心隊等の大規模特攻でリンガエン湾で1機命中大破3名戦死11名負傷、カルフォルニアサンペドロに回航後除籍、
駆逐艦 ロング 201月6日 リンガエン湾2機の命中で横転し沈没戦死者1名35名負傷、翌日に本艦生存者を救助した駆逐艦ホーヴェイ航空撃で撃沈され24名が戦死したが、その中にはロングから救助された乗組員も含まれており、乗艦が2日連続で撃沈されるといった不幸を味わうこととなった
輸送駆逐艦 ルナップ 201月11日 日本側に出撃記録ないがルソンで特攻により大破戦38名戦死49名負傷フィラルフィアに回航後除籍、
高速駆逐艦 ディカーソン 204月2日 慶良間、第二銀河隊等の特攻で1機命中大炎上艦長以下54名戦死97名負傷、2日後現地で自沈処分、沖縄戦初の戦果
駆逐艦 ブッシュ 204月6日 一号作戦 沖縄で1機命中で撃沈94名戦死32名負傷
駆逐艦 エモンズ 204月6日 一号作戦 特攻機5機命中し翌日自沈処分64名戦死71名負傷
駆逐艦 コルホーン 204月6日 一号作戦 特攻機99艦爆3機が命中し翌日自沈処分35名戦死21名負傷
駆逐艦 ロイツェ 204月6日 一号作戦 特攻機1機命中して大破7名戦死 サンフランシスコハンターポイント造船所に回航後除籍、
駆逐艦 ニューコム 204月6日 一号作戦 特攻機2機命中大破43名戦死51名負傷、破壊の度合いが特に酷くサンフランシスコに回航後除籍、
駆逐艦 モリ 204月6日 一号作戦 特攻機1機命中大破12名戦死45名負傷 ロイツェ・ニューコム2艦と同様にサンフランシスコまで回航後除籍、
弾薬輸送船 ホッブス・ビクトリー 204月6日 一号作戦、同艦のローガン・ビクトリーも沈し、2艦合計で28名戦死11名負傷。2艦には大量の弾薬が搭載されており、その弾薬ごと沈んだため、一時的に沖縄米軍の上陸部隊が弾薬不足に陥り、日本軍防衛線背後への陽動上陸作戦の断念等、作戦計画を大きく狂わせた。
駆逐艦 マナートLアベール 204月12日 二号作戦 特攻ロケット桜花が命中しっ二つとなり3分で79名戦死34名負傷
駆逐艦 スタンリー 204月12日 二号作戦 同じく桜花が船首に命中、弾頭は船体を突き抜けて上に落下したが、船体は中破3名負傷、修理されずそのままロングビーチモスボール処理 1972年スクラップ売却
駆逐艦 プリングル 204月16日 三号作戦 1機命中撃沈65名戦死102名負傷
駆逐艦 ハーデング 204月16日 三号作戦 1機命中大23名戦死10名負傷、ノフォークまで回航後除籍、
駆逐艦 ハッチンス 204月27日 陸軍特攻艇マルレの攻撃で艦首部分を大破座礁20名負傷、後にワシントン.ブレマートンに回航後除籍、
駆逐艦 ハガー 204月29日 軍第9建武隊 陸軍第18振武隊等により沖縄で1機命中大破11名戦死40名負傷 ノフォークまで回航後除籍、
敷設駆逐艦 アーロン・ウォード 205月3日 軍振隊・陸軍特攻35飛行隊等により沖縄で5機命大破戦死4549名負傷 ニューヨークまで回航後除籍、
駆逐艦 リトル 205月3日 沖縄 2機命中で撃沈戦死3079名負傷
駆逐艦 ルー 205月4日 五号作戦 沖縄で2機命中撃沈150名戦死94名負傷
駆逐艦 モリソン 205月4日 五号作戦沖縄で2機命中撃沈152名戦死102名負傷
敷設駆逐艦 シェイ 205月4日 五号作戦 第七次桜花特攻隊の桜花が一機命中 戦死27名 戦傷91名 炸は不発であったが 弾頭が船体を突き破り損甚大、本土で除籍、
護衛駆逐艦 バーレンダー 205月9日 軍忠隊 陸軍特攻第33飛行隊等により1機命中大破24名戦死51名負傷、その後慶良間で自沈処分
護衛駆逐艦 イングランド 205月9日 沖縄、1機命中大37名戦死27名負傷 フィラルフィアに回航後除籍、艦、本艦はマリア戦時に1隻で日本軍潜水艦6隻を沈めた殊勲艦であったが、航空特攻により艦生命を終えた。
護衛駆逐艦 ヒューWハドレイ 205月11日 六号作戦 桜花により大破30名戦死65名負傷 ハンターポイントまで回航後除籍、艦。本艦は特攻機の猛威にさらされ通常特攻機4機と桜花が命中しても撃沈されなかった強運艦である。また対戦闘23機の特攻機を撃墜した(あくまでも米軍記録)殊勲艦であったが、受けた損は深刻であり修理できず即スクラップとなった
駆逐艦 エバンス 205月11日 六号作戦 4機命中大32名戦死29名負傷 サンフランシスコまで回航後除籍、
駆逐艦 ザッチャー 205月20日 沖縄、陸軍第五十振武隊 3機命中大破14名戦死53名負傷 ワシントンブレマートンまで回航後除籍、
護衛駆逐艦 イツ 205月25日 沖縄、菊第七号作戦 1機命中21名戦死35名負傷、転覆し沈没
輸送駆逐艦 バリー 205月25日 沖縄、菊七号作戦で1機命中大30名負傷 その後沖縄に停泊していたが、6月28日航中練習菊の特攻で慶良間で沈没
駆逐艦 バトラ 205月25日 沖縄、菊七号作戦で1機命中大破9名戦死、サンフランシスコに回航後除籍、
駆逐艦 レクスラー 205月28日 沖縄軍琴心隊・陸軍四十五振武隊等の特攻で2機命中転覆し沈没158名戦死51名負傷
駆逐艦 シュブリック 205月29日 沖縄軍振隊・陸軍特攻第二十戦隊等の特攻で1機命中大32名戦死28名負傷、ピュージェットサウンドに回航後除籍、
駆逐艦 ウィリアムディツター 206月6日 沖縄、陸軍第五十九振武隊等の特攻で1機命中大破10名戦死27名負傷、サンディエゴに回航除籍、
駆逐艦 ウィリアムDポーター 206月10日 沖縄、陸軍第十二振武隊1機至近弾、船体に裂が走り後横転沈没。61名が負傷したが奇跡的に戦死者はいなかった。
駆逐艦 トゥイッグス 206月16日 沖縄、特攻部隊不明 彗星が1機が魚雷を投下後にそのまま体当たりし撃沈。艦長以下152名即死または行方不明、救助後42名死亡34名負傷。但し彗星撃することはい為、同艦兵が、爆弾魚雷と見間違えたか、山等の撃機を彗星と見間違えたか不明
護衛駆逐艦 アンダーヒル 207月24日 人間魚雷回天多聞隊の勝山中尉艇がルソンで命中、船体がっ二つになって沈、艦長以下122名が戦死。回天が外洋で撃沈した一の艦
駆逐艦 キャラハン 207月28日 軍第三虎隊93練習機(通称赤とんぼ)の特攻で撃沈47名戦死73名負傷、特攻による最後の撃沈艦。第三虎隊は5機編成であったが、他に駆逐艦1隻大破、1隻損傷と有効率60の大戦果であった。赤とんぼが大戦果を挙げた理由としては、機体が木製でありレーダーに映りにくく、VT信管も反応しなかった為とも言われている。

主な損傷艦

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艦種 艦名 特攻年 状況
正規空母 フランクリン 19年10月30日 軍葉隊の特攻でミンダナ東方零戦2機命中、大破56名戦死60名戦傷、203月15日に合流するまで4か以上修理の為、戦線離脱
203月19日 九州航空戦、第五航空艦隊の通常・特攻両用攻撃により室戸岬で艦上部に特攻機が命中した。その後第762航空隊の爆撃機銀河による緩降下爆撃250キロ爆弾二発を被弾。爆弾二発とも格納庫で爆発し、弾薬航空燃料の誘爆及び大火災を発生させた。多くの乗組員が戦死又は脱出するも、残った乗組員により鎮火に成功し、沈没をかろうじて逃れた。戦死724名負傷265名は損傷艦としては米海軍史上最悪の人的損失であり、第二次世界大戦中最悪の損傷でもある。
正規空母 レキシントン 19年11月5日 レイテ湾、軍左近隊大谷上飛曹もしくは三浦二飛曹の零戦が命中し中破。通信機器と電気系統を使用不能にする甚大な被害を与え、戦死50132名負傷。3か以上戦線離脱を余儀なくされた。
正規空母 エセックス 19年11月25日 香取隊の特攻でルソン彗星1機命中、中破15名戦死44名戦傷、ウルシーに後退して修理1ヶ間戦線離脱
正規空母 イントレピッド 19年10月30日 軍初隊・陸軍至隊等の特攻でサマールで99艦爆1機命中、小破10名戦死6名負傷、作戦行動に影なし
19年11月25日 エセックス中破と同日同場所、零戦2機命中、大破炎上63名戦死58名負傷の甚大な損修理の為珠湾に後退
203月18日 軍菊部隊彗星隊各隊により九州東海上にて至近弾、軽微な損傷、死傷者なし
204月16日 第三号作戦 沖縄で爆装零戦1機が命中1機至近弾で中破、飛行甲エレベーター破壊で10名戦死87名戦傷、本艦は大戦中4回と最多の特攻被害艦となった。現在宇宙航空博物館となっている
正規空母 タイコンデロガ 201月21日 軍新高隊の特攻で台湾零戦2機命中大破、143名戦死203名戦傷の甚大な被害を出し、ピュージェットサウンドまで後退し修理沖縄戦末期まで戦線復帰できず。余談であるが映画永遠の0主人公宮部が特攻したのが本艦と言われている。
正規空母 サラトガ 202月21日 軍第二御隊の特攻で硫黄島で特攻機3機命中、爆撃により500キロ爆弾1発命中(投下機は中に墜落)また撃墜された特攻機の搭載爆弾が喫線で爆発。特攻した3機の内最後に舷側に体当たりした零戦が隔を貫通し格納庫で爆発。その際にガソリンパイプを切断し火災が発生、格納庫内の艦載機ともども大火災に発展した。合計123名戦死192名戦傷、航空機36機炎上の深刻な損を受けた。戦後原爆標的艦として使用され除籍。
正規空母 ランドルフ 203月11日 米軍基地西カロリンウルシーにて、菊部隊隊の銀河13機の襲撃を受ける。1機が船体後部に命中して艦尾部分を破壊。大火災を発生し中破した。25名戦死106名負傷
正規空母 ハンコック 204月7日 1号作戦沖縄で爆装零戦が甲上の艦載機に突入し大火災が発生、甲上の16機の艦載機が炎上し、25名が戦死、37名が行方不明71名負傷。3か近く戦線復帰できなかった。
正規空母 エンタープライズ 205月14日 3月18日4月11日に特攻で2度に渡り軽微な損を受け、ウルシー修理を受けた後に沖縄で第六波隊富安中尉零戦の特攻により大破。13名戦死68名負傷、人的被害に対し船体の被害は深刻で、ピュージェットサウンド修理の為後退、終戦まで復帰できず。戦後は復員艦として使用された後、除籍
正規空母 バンカーヒル 205月11日 軍特攻第七昭和隊の安則中尉小川少尉零戦2機が爆弾を投弾後体当たりを行い(内、安則中尉機の投下した500kg爆弾は飛行甲を貫通し上で爆発)、両機の体当たりにて発生した火災が搭載していた艦載機の燃料・弾薬に連載的に引火し大破炎上、一時は総員退艦も危ぶまれたが、ダメージコントロールで沈没は免れた。戦死者402名負傷者264名は特攻単独での最大の損であり、船体のダメージも大きかったため、終戦まで戦線を離脱した。終戦後は予備役となり、実験艦等に使われた後1966年スクラップ売却された。
空母 ベローウッド 19年10月30日 軍葉隊の特攻により1機命中、出撃準備していた艦載機に引火し大破大火災、92名戦死と艦載機30機全てを喪失し、修理の為ハンターポイントまで後退
護衛空母 ワニ 19年10月25日 特攻機初の戦果となったセントローと同日に敷隊1機が突入、翌26日には大和隊2機が命中し、2日間で合計3機命中で大破し2日間で107名の戦死者と160名戦傷の膨大な損を出したが沈没は免れた。修理の為ハンターポイントまで後退
護衛空母 ニラ・ベイ 201月5日 軍特攻第十八金剛隊の2機が命中し中破、14名戦死56名戦傷。突入箇所で命中機2機の内1機の搭乗員の遺品の財布と日章旗が発見され、その遺品を持ち帰った乗組員の子孫の尽1995年に命中機は丸山中尉機と判明し、遺品は50年ぶりに遺族に返還された。
戦艦 ニューメキシコ 201月6日 リンガエンにおける上陸支援任務中、金剛隊各隊又は陸軍心隊の特攻機1機が艦に命中、英国の観戦武官として乗艦していたラムズデン中将と本艦艦長以下の艦首30名が戦死、87名が負傷するも、上陸終了まで任務を続行し、その後珠湾に修理の為に後退。ちなみにラムズデン中将第二次世界大戦英国陸軍且つ特攻による最高位の戦死者となった
205月12日 第五艦隊旗艦インディアナポリスが特攻により損傷した為、臨時旗艦としてスプルアンスが搭乗していたが、軍特攻生気隊・陸軍特攻二十戦隊疾風1機が命中1機至近弾で中破、戦死者54119名戦傷、スプルアンスもあやうく戦死するところであった
戦艦 カルフォルニア 201月6日 ニューメキシコと同日同場所、艦砲射撃中に特攻機1機が命中、中破し45名戦死155名負傷、修理の為ピュージェットサウンドに後退した。この日は戦艦2隻の他巡洋艦4隻も損傷しており、大艦艇の損が多い日となった
戦艦 メリーランド 204月7日 一号作戦で第四建武隊か第三御隊の零戦が第三付近に命中、戦死31名負傷38名の損失と第三が使用不能となる損傷を被ったが、沖縄に向かっていた大和との戦を望み、艦長が損傷を受けた事を報告しなかった。しかし大和は同じ頃に艦載機の攻撃で撃沈され、その望みはわなかった。
重巡洋艦 オーストラリア 19年10月21日 特攻1号とされる敷隊の突入以前に、レイテ湾で日本軍機の特攻攻撃を受けて艦長以下30名の戦死者を出している。同日出撃したのは久納中尉以下3機の大和隊(零戦)で、未帰還は久納中尉のみだが、本艦に特攻したのは一式陸攻との戦闘記録である上に出撃時間もずれており、久納機であるかは不明。その為久納中尉も特攻1号とは認定されてない(特攻による戦死とは後日認定された。)その後も本艦は特攻攻撃を受け続け合計4回(6回とする説もあり)最終的に1月6日に2機の命中で大破、合計86名の戦死者を出して修理の為にイギリスに後退し、終戦まで復帰できず
重巡洋艦 ルイビル 201月6日 第七艦隊隷下第77任務部隊旗艦、スリガオ峡戦で西村艦隊撃破に活躍した艦であったが、リンガエン湾で上陸部隊支援中に2日に渡って陸軍特攻の99式襲撃機計2機が命中。第77部隊セオドアチャンドラ少将が大火傷を負い翌日死亡、他に41名戦死。セオドアチャンドラ少将は特攻攻撃で戦死した米海軍最高位の将官となった。その後修理の為本土に後退し沖縄戦途中より復帰、6月5日にも再度特攻攻撃を受け小破8名戦死37名負傷
重巡洋艦 インディアナポリス 203月31日 第五艦隊旗艦としてスプルアンスの乗艦であったが、陸軍特攻第三九飛行隊の1機が艦尾に命中し中破、戦死者9名負傷者20名を出し旗艦から外された。後に本艦は旗艦には復帰せず、原爆輸送の極秘任務に従事して、任務後に回天特攻母艦伊58号の通常魚雷攻撃で撃沈され883名の戦死者を出している
軽巡洋艦 ナッシュビル 19年12月13日 マッカーサーの旗艦としてニューギニアからレイテに上陸するまで、マッカーサーが乗艦していた。その後第78任務部隊の旗艦となり、ミンダナに進行中に軍第二金剛隊の5機の零戦の内1機が命中し大破、第78任務部隊の幕僚多数を含む133名の戦死と190名の戦傷を出し修理の為ピュージェットサウンドに後退
攻撃輸送艦 ラグランジ 208月13日 陸両用部隊を輸送し上陸作戦支援する、現代の強襲揚陸艦の様な任務を行なっていた輸送艦沖縄特攻第4御隊の彗星4機の内1機が命中し大破、21名が戦死し89名が負傷した。本艦が第二次世界大戦における米海軍の最後の損傷艦となった。本艦は応急修理されたが2か後に除籍された

特別攻撃の戦果についての評価

大型艦に対する戦果について

上記の通り、米海軍の損大な数に上るが、巡洋艦以上の撃沈艦、特に特攻が標にした正規空母の1隻の撃沈もかったのが、しばしば特攻攻撃に効果が薄かったとする評価に繋がっている。

特攻により撃沈された3隻の護衛空母が商船改造の安物であり、戦時急造された補助艦艇であることから否定的なイメージを持たれることが多い。しかし、特攻で撃沈されたカサブランカ航空母艦は、商船の船体ベースの設計ながらも、護衛空母としては初めて機関シフト配置を採用した意欲作であり、決してただの安物ではない。排水量は基準7800トン 満載時10800トンと、空母としては小であるが当時の巡洋艦並みの威容を誇るれっきとした大艦である

ちなみに、カサブランカ級護衛空母ホワイトプレインズ」は、レイテ沖海戦において栗田艦隊と撃戦を演じ、重巡洋艦鳥海」を撃で大破させる戦果を上げた。

搭載機も30機と他の軽空母並みの搭載量であり、大西洋の戦いでは充実した対潜装備も相まってドイツ軍Uボート相手に猛威を振るっていた。(大西洋での護衛空母の損失ブロックアイランド1隻のみ)

特攻に限らず、大戦後半は日本を含む枢軸軍が米軍軍艦を沈めるのは非常に困難となっており、1944年以降で枢軸軍が沈めた巡洋艦以上の米軍軍艦は以下の2隻のみである。(独は大戦全期間に渡って、米軍巡洋艦以上の撃沈艦なし)

艦種 艦名 喪失年 状況
空母 プリンストン 19年10月20日 第二航空艦隊の彗星急降下爆撃500キロ爆弾1発を被弾。爆撃から5時間後に弾薬庫び引火し大爆発。本艦で108名戦死、艦を横付けして消火支援してた軽巡バーミンガム爆発に巻き込まれて233名戦死、426名戦傷の大損を被った。その後、味方駆逐艦により撃処分。
重巡洋艦 インディアナポリス 207月30日 ニアへの原爆輸送任務の復路、伊58号の魚雷3発が命中。内1発が弾薬誘爆を誘発して横転、沈没。チャールズ・B・マクベイ3世艦長は戦後に本艦沈没の責任を取らされて、軍法会議で有罪となり不名誉除隊させられている。

戦後半に米軍艦の沈没が減した理由は以下が考えれれる。

                          sm9動画サムネ 

  • 米軍の大戦中に就役した新鋭艦の防御が、他艦船と較して著しく高かった。
  • 米軍の対・対潜水艦が大戦中盤以降、他較してずば抜けて高いレベルに向上しており、枢軸軍の航空機潜水艦が容易に攻撃位置まで達することができなかった。特に水上艦に大打撃を与える魚雷米軍艦に命中させる事が、航空機潜水艦ともに非常に困難となっていた。(爆弾は特攻機も含め相当数命中しているが、上部構造物を破壊しても沈没まで至らせるのは困難だった)
  • 米軍ダメージコントロールが、日本軍との戦いの中で良・熟練されており、応急処置により致命的ダメージに至ることを抑止できた。(沈没した2艦は弾薬庫が誘爆するという不運に見舞われ致命的ダメージとなった)
  • 戦後半は米軍が圧倒的に制・制権を確保している上に、多数の艦船で大艦隊を編成しており、大ダメージを受けた艦艇を他艦船が救援し、最終的には航して安全地域まで後退させることが可であった。特攻による大破艦の中でも、大戦前中盤の様に米軍が制・制権を全に確保できていない状況であれば、自沈処分まで至る様なダメージを受けた艦も多かった。

以上の通り、特攻でも米軍艦の撃沈は困難となってはいたが、直接艦まで至らなかった損傷艦の中でも、エセックス級正規空母バンカーヒル及びフランクリン(緩降下爆撃による)は修理はされたが、戦時中に就役した他のエセックス級空母は全て近代装を施されて、ベトナム戦争など後年まで活躍してるのに対し、両艦は米軍損傷艦の中で最悪の損傷レベルであった為、両艦とも終戦後間もなくモスボール処理の上予備艦にされて、港に係留されたまま(形式的な艦種変更されたり実験には使われたが)後年にスクラップとして売却された。

他にも、太平洋戦争中の米軍の最高殊勲艦であった空母エンタープライズサラトガ・英空母フォーダブルは、特攻で大破後は戦闘艦として復帰できず、復員船としての使用を経て、戦後まもなく除籍され、標的艦やスクラップ売却により艦歴を終えている。また護衛空母サンガモンは修理を断念しそのまま艦となった。

また、特攻で大きな損を被った駆逐艦にしても、日両軍によるしい水上艦同士の戦で失われた米海軍駆逐艦が16隻、日独両軍の潜水艦が沈めた駆逐艦が15隻、合計しても約4年間で31隻に過ぎないのに対して、特攻はわずか10かで日独の水上艦・潜水艦による損失よりも多い40隻の駆逐艦を、撃沈ないし再起不能による艦に追い込んだ。

特攻の破壊力について

航空機による艦船にもっとも打撃を与える攻撃方法は、撃か高高度からの爆撃であるが、特攻はそれが困難となり開始された作戦でもあり、それらの攻撃よりは威が劣ることが多い。

しかし、体当たり攻撃という性質上、命中時の威は搭乗員の技量に大きく依存するため、一概には言えない。

理想的な攻撃方法

特攻の理想的な攻撃法として繰り返し訓練されたのは、敵艦まで低飛行で接近し、その後急上昇して敵艦の弱点(空母なら飛行甲上のエレベータ)に急降下で体当たりする、というものであったが、しい対火の中、回避運動を行う敵艦に命中する事は、特攻の大半を占めていた未熟な搭乗員には極めて困難な攻撃方法であり、そのような攻撃が出来たケースは少ない。(この攻撃方法は、映画版「永遠の0」にて映像で見ることが出来る。対弾の描写や横滑りによる回避運動など、フィクション作品ながら大変凝った考が行われている)

 また、通常の急降下爆撃ではダイブブレーキを使用する事で急降下時の速度を制御するが、ダイブブレーキを装備していない戦闘機の場合は際限なく加速してしまい、速度過による操縦困難、機動性の低下や最悪の場合空中分解を引き起こす。降下度を深く取ればとるほど命中時の速度と破壊が上がる反面、操縦が困難になるため、理想的攻撃を行うには高い技量が必要だった。

逆に言えば高い技量があれば可という事であり、理想的な攻撃であれば大艦相手でも大きなダメージを与える事が出来た。

特攻の構造的欠陥

基本的に航空機は体当たり攻撃など全く考慮されておらず、爆弾べれば機体本体の強度(弾体強度)はいに等しい。特攻攻撃は通常攻撃と較すると機体の質量が加わるので、発生する運動エネルギー爆弾単体よりかに大きいが物理法則では運動エネルギーは質量に例し、速さの二乗に例する)衝突時に機体の破壊・変形が生じ、機体本体より発生する運動エネルギーを減殺してしまうため、その大きな運動エネルギーをそのまま標の破壊に転換することができない。

これは「爆弾より先に機体が衝突する」以上避けられない、いわば構造的欠陥であり、この欠陥は機首に爆弾を装備する特攻専用機「桜花」の開発により解消されたものの、中発射式という「桜花」の特性上、特攻機を大半を占めていた通常の爆撃機戦闘機を置き換える事は出来なかった。

また、特攻機にはダイブブレーキを装備していない機体も多かったため、命中率確保のためには浅い降下度かつ低速で突入せざるを得ず、上記の理想的な攻撃を実現できる特攻機が少なかった。

以上の理由から、特攻機の対艦攻撃は、艦艇の喫線に大きなダメージを与えられる撃や、重力による加速で大な破壊を有する爆撃較すると、決して破壊が勝ってるとは言えなかった。

余談であるが、沖縄戦時、特攻第5建武隊石野二飛曹の零戦戦艦ミズーリ」の右舷舷側に体当たりしたが、先述の通り機体は破壊され、戦艦の分厚い装甲を少しませただけに止まった(また、石野機は爆弾を搭載していなかった)

この特攻は「ミズーリ」側から撮影された写真が残っている。ミズーリ」の舷側よりも低いで突入する石野機が写っており、彼の技量の高さをい知ることが出来るだろう。

搭載爆弾の威力不足

特攻機に搭載される爆弾の破壊不足が、特攻の成果を減じたという摘もある。

特に陸軍は、特攻開始当初には艦船の装甲に大ダメージを与える事ができる爆弾を保有しておらず、50kgの陸用爆弾2発を搭載した特攻機も出撃させていた。(後に軍より爆弾を支給を受け搭載した)

米軍日本軍の特攻機が搭載する爆弾の威不足を摘している。

45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大艦を沈めたという膨されたに彼等自身騙され、大艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を視した』

(米軍戦略爆撃調団報告書summary report pacific warより抜)

日本軍も下記の通り特攻機に搭載する爆弾の大化を進めたが、大化を進めるほど搭載機の運動性は低下し被撃墜率が上がると言う悪循環で、期待通りの戦果を挙げる事ができなかった。

  1. 機首に1.2トンの炸を搭載した特攻専用機「桜花」の開発。
  2. 重量2.9トン爆弾弾」(成弾)を搭載した、陸軍四式重爆飛龍の特攻機を投入。
  3. 800kg爆弾搭載に改造された「彗星43」を投入。
  4. 零戦の搭載爆弾250kg爆弾から500kg爆弾に変更(零戦最終の戦爆モデル62の実戦投入)。
日米両軍の評価

陸軍特攻開始前に、対艦攻撃の研究と訓練を行っていた陸軍の田教導飛学校は、陸軍参謀本部の航空特攻戦法の検討開始に際して

・体当たりの最大の欠点は落速の不足にあり,爆弾の落速の二分の一程度では装甲甲を貫できない
・通常攻撃と較し、武装や戦闘で不利 

との評価を下した意見書を提出していた。同学校は陸軍航空部と共同で軍より96式陸攻を借用し航空撃の研究や、浜名湖沖縄99式双爆や一式戦を使った反跳爆撃(スキップボミング)の訓練もしていたが結果は芳しくなく、参謀本部が軍の成功をにし、この意見書を視する形で特攻隊編成を強行することとなった。

最終的な日本陸軍の特攻の威に対する総括は、沖縄の陸軍航空隊特攻を担当した第六航空軍の参謀が戦後戦略爆撃調団の事情聴取に以下の通り供述している。

『特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる』

米軍戦略爆撃調団報告書Japanese.air.powerより引用米軍はこの総括に対しては冷静で論理的軍事的選択と結論付けている)

事実、特攻機は艦艇に突入するとその搭載燃料で大きな火災を発生させる事も多く、米軍の特攻対策マニュアルAnti-suicide Action Summary」においても、特攻機による火災の威は焼夷弾と遜色なく、もっとも警すべき特攻機の効果の一つとされており、兵士の火傷防止策として、ヘルメット及び長袖の軍服の正当な着用、火傷防護クリームの塗布等が義務化されていた。また火災による艦載機や弾薬誘爆による損拡大を防止するため、艦艇の消火設備の増強と消火マニュアルの整備も行われた。

火災は艦船にとって最も深刻な損傷のひとつである。火災が原因で沈没した船は枚挙に暇がく、沈没まで至らずとも戦闘継続に大きな支障をきたしてしまう事が多かった。日本側も特攻機の焼夷効果は認識しており、出撃の際はたとえ近距離の出撃であっても、燃料タンクを満タンにして出撃していたという。

通常攻撃と特攻の比較

特攻の「命中直前まで操縦できる」事は通常攻撃に対して大きなアドバンテージであり、米軍の迎撃が熾化した大戦後半期において高い有効率を挙げている。

日本軍は大戦後期も特攻と並行して航空機による通常攻撃も実施しており、相応の戦果を挙げてはいたものの、当時の日本には通常攻撃で戦果を挙げられるほどのベテラン搭乗員はほぼ枯渇しており、新米搭乗員でも実施可な特攻が体となっていった。

通常航空攻撃による撃沈艦(米軍公式資料・米軍戦闘詳報等より引用

通常攻撃による損傷艦(撃沈艦と同資料より引用

フランクリン 九州航空戦にて爆撃機銀河」に爆撃され大破、第二次世界大戦米軍損傷艦の中で最悪レベルの重篤な損傷を受けて再起不能となった。

ワスプ 九州航空戦で、戦死者101名を出す大損を被ったが、特攻によるものとする資料も存在する。

ペンシルニア 沖縄終戦直前の8月12日931航空隊の山による撃を艦尾に受けて大量に浸しあわや沈没という大損を受けた、人的損失は20名の戦死に止まったが、本艦を旗艦として座乗していた戦艦部隊のオルデンドルフ数本を折る重傷を負った。

芙蓉部隊について

特攻と通常航空攻撃の対の際によく引き合いに出される美濃部正少佐率いる部隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)については、美濃が特攻を敢然と拒否し艦上爆撃機彗星爆撃で特攻に引けを取らない戦果を挙げたとされている。

部隊の戦果(対艦船)と言われているのは、戦艦1 巡洋艦1 大輸送船1隻を撃破したというものであるが、米軍公式記録を見る限り
沖縄戦戦艦が通常航空攻撃で損傷したのは、8月12日ペンシルニアの大破のみであるが、これは931航空隊の山が撃による戦果と確認されている。
また沖縄で通常航空攻撃による巡洋艦の損傷はなく、戦果誤認と思われる。

また部隊が輸送船を撃破したとされるのは、4月6日からの菊一号作戦であるが、菊一号作戦期間中の通常航空攻撃による損傷は、駆逐艦タウシング小破のみであり、通常攻撃による輸送艦の損はない。

同期間中の輸送艦としては、戦車揚陸艦347戦車揚陸艦447号 貨物船ローガンヴィクトリー 貨物船ポップスヴィクトリー 中揚陸艦876号の撃沈があるが、米軍側記録では、その全てが特攻機の戦果とされている。

以上より、対艦船については部隊が確実に挙げたと認定できる戦果はなく、特攻に匹敵する戦果を挙げたとは言いがたい。しかし、部隊隊員の生還率は特攻隊員とは較にならず、搭乗員達は数多くの実戦経験を得る事が出来た事、そして反復攻撃が前提(さらに言えば回数を重ねるほど練度も上がる)の通常攻撃と、一回限りの特攻とでは単純な有効性の較が難しい事を留意すべきである。

なお、飛行長である美濃少佐自身も特攻の有効性を認めており、戦争末期には「最大の戦果を挙げる方法」として特攻隊の編成を行ったことも付け加えておきたい。

まとめ

沖縄戦米海軍に特攻によって被った、36隻沈没368隻損傷、(作戦喪失など)深刻な損傷艦は合計108隻、他に大損を受けた83隻も併せ、現在に至るまで米海軍史上最大の損である。

戦術として、発案者すら認める外道戦法であるが、圧倒的戦を有する艦隊に対し、質、両共に劣っていた日本軍が効果的な打撃を与える事が出来た数少ない戦術の一つであったことも事実であり、一概に評価を下すことは出来ない。

特別攻撃による人的損失

航空特攻

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回天特攻

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連合軍

特攻が原因となる死傷者の公式な統計資料は特にないので、全体の死傷者統計より推計する他ないが、特攻を開始して以降の米海軍の艦船損どが特攻による損であり、その期間の人的損のかなりの割合が特攻による損失と推計される。

米海軍兵士死亡者(特攻作戦開始後、各戦場別)

連合軍死傷者合計

以上により連合軍が被った人的損失は、航空特攻・回天特攻による日本軍の人的損失を大きくえるものと推定される。

また戦傷者以外でも、特攻による心理的ショックによる戦線離脱者も発生している

特別攻撃の心理的効果

また特攻は兵にとって非常に恐ろしいものであり、戦争を通じて多くの戦争神経症(いわゆるPTSD)患者を発生させた。特攻攻撃が開始された1944年10月末に空母ワスプで、乗組員の内100余りを抽出して健康診断した結果、戦闘行動に耐えられる乗組員はわずか30人足らずだったという調結果もある。

また沖縄戦では、米軍史上最悪の14,077名の戦闘疲労症(戦争による精神疾患)の疾患者を出すに至ったが、この中の、相当な割合が、特攻攻撃に四六時中曝され続けた米海軍将兵である。

これは将官についても同様で、ミッドウエーで日本海軍を打ち破った立役者プルアンス提督は、沖縄でのあまりの特攻の被害に精的に追い詰められ、艦隊ハルゼー提督と交代させられている。また空母艦隊ミッチャー大将も、旗艦が二度に渡り特攻で大破した為、幕僚多数を失うと共に自らも体調を崩し、戦後まもなく若くして亡くなっている。

これらのようにそのあまりの恐ろしさに兵員やその家族に不安を与えると判断した報道機関は特攻の存在を伏せ、後に存在を明らかにした。こうした背景もあり戦後アメリカなどで身をみない攻撃や命を捨てた体当たり攻撃の事をカミカゼと呼ぶようになったという。

 特別攻撃隊員について

特攻は志願か強制か?

特攻をる際の最大の争点になるところであるが、航空特攻だけでも4400名の隊員が出撃して戦死しており、その遺書・手記また生存者の回想検証する限りにおいては、様々なケースがあったというのが実情のようである。

志願について

軍の航空特攻隊(神風特攻隊)を編成したいとの大西中将の進言に対し、大本営の及川部総長が承認した際に『あくまでも自由意志に基づき、決して命をしないように』という条件であった為、特攻作戦はあくまでも志願制により開始された。

志願の方式には特に決まった形式はかった様で、様々な形式により志願が行われていた。

  • 志願書の記入(志願書も熱望・望む・望まないのいずれかに丸をする書式、志願者が名前を書いて封筒に入れて出す書式と複数あり)
  • 上官からの申し出に口頭や態度で応える形式(希望者は一歩前にという上官の申し出に対し、希望者が一歩踏み出す様な形式)
  • 志願者が部隊や上官に直接志願の申し出をする形式

志願者の条件としては、独身であること・長男ではないことと等定められていたが、これは特攻出撃が増加するにつれ有名実化されていった。

志願者が非常に多く且つ熱だったというエピソードは多く残されている。

  • 神風特攻隊の初の編制部隊となった第201航空隊で、志願を募ったところ全員が志願した為、玉井副長ら航空隊幕僚が選考した。
  • 甲種飛行予科練習生16期生に、桜花特攻搭乗員の志願を募ったところ全員が志願した為、何度にも渡る選考の上に最終的には面接や操縦試験で選抜した。
  • 軍人事で予備士官(学徒出兵が中心)で当時の志願状況を確認したところ、どの隊員が志願書の熱望や望に丸をしており、さらには何重にも熱望に丸をしている予備士官も多く、各部隊は厳選して隊員を選考できた。
  • 特攻志願に係る悲劇として陸軍藤井中尉(特攻により2階級特進で中佐)の話が有名である。藤井中尉は妻帯者でありまた飛行学校の教官でもあった為、2度の特攻志願は却下された。その夫の覚悟を知った妻が夫の希望わせるために入自殺し、妻の死に報いる為3度の志願書を血判で出したところ、事情を知った陸軍もようやく受理し、昭和20年5月28日沖縄方面に出撃して戦死した。
  • 回天搭乗員の募集に対しては、秘密兵器であった為「右特殊兵器は挺身薄一撃必殺を期するものにしてその性上特に危険を伴うもの」 という抽的ながら特攻兵器を暗示させる募集であったが、応募が殺到した。その時の様子を元回天隊員は以下の様に述懐している。

    10月18日に、特攻要員志願者募集があった。おそらく(軍対潜学校第4期生)全員が志願したのではないかと思う。そういう雰囲気だった。志願しなくても特に罰を受けることはなかったようだ。』

      『学生隊長だった隈部大佐が志願者を面接し、20日には採用者が発表になった。隈部大佐は立な人だった。採用に当たって、長男は採用しなかったと思う。当時の日本家族制度では、長男を継ぐことになっていた。私は四男であった。』

    (元回天隊員 前田造氏)

志願の理由はの為、家族の為と様々であり、また時代背景価値観等様々な要因もあったが、熱な志願者が多数いたのはれっきとした事実である。

また戦後に多数の軍首・特攻作戦関係者・特攻隊員の生存者に聴取して作られた、米国戦略爆撃調団報告書は以下の通り、自発的な志願と結論付けている。

入手した大量の拠や口述書によって大多数の日本軍パイロット自殺航空任務に、すすんで自発的に奉仕したことはきわめて明らかである。

(米軍戦略爆撃調団報告書Japanese.air.powerより抜)

志願強制について

一方で、出撃を強制されたもしくは志願を強制された事実も見られる。

まずは特攻一号となった関大尉は、第一航空艦隊席参謀大佐の最初の特攻は軍兵学校出身者で選抜して欲しいとの要望により、『名』されたものであり、純な志願ではなかった。201副長玉井中佐からの名に対して即答はせず、一晩考えた上に引き受けている。

その引き受けた胸の内と、特攻に対しての批判的な見解を報道記者にしている。

『もう日本もおしまいだよ、みたいな優秀なパイロットを殺すなんて、なら体当たりせずとも敵空母500キロ爆弾を命中させる自信がある。』

天皇陛下とか日本帝国の為にいくんじゃない、最の妻のためにいくんだ、命とあらば仕方がない、日本が負けたら妻がアメ公に暴行されるかもしれない、彼女を守るために死ぬんだ。最のものの為に死ぬ どうだ素晴らしいだろう』

(昭和19年10月20日報道班員 同盟小野田記者に対して)

他にも、強制されたもしくは志願を強制された事例としては、以下の様な言や意見もある。

  • 希望書を出した覚えがないのに、出撃者名簿にいつの間にか記載されていた(元特攻隊員・江名武彦氏証言exit_niconews)。
  • 希望調書には「熱望」「希望」「否」の回答があったが、「操縦員として未熟」などの理由を挙げて「否」を付けた者は「修正」と称した殴打を受け、結局全員が自発的に志願したことにされた(元特攻隊員・手塚久四氏証言exit_niconews)。
  • 部隊のみんなが志願したので、仕方なく志願した。
  • 大戦末期は部隊ごと特攻隊編成の名があり、所属していた部隊が特攻に名された為、出撃を余儀なくされた。(大井航空隊の事例など 大井航空隊は練習菊による訓練部隊であったが、爆装菊での特攻隊として編成された。)
  • 特攻士官の要構成員となった予備士官は当初から特攻を前提とした訓練が中心であり、実質的には志願強制されているも同然だった。
  • 情報が十分になく判断が失われている中で、軍に騙される形で志願した。
  • 高等教育を経ている特別操縦見習士官よりも年若い少年飛行兵の方が特攻への熱意を持ちやすかったという。後述する振武寮で特攻帰還者への「再教育」に辣腕を振るった倉澤清忠陸軍少佐は以下のように言している。

「(少年飛行兵は)12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやってのために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」

以上の通り、自発的な志願制が前提とされた特攻であったが、出撃の強制や、上述の手塚久四氏の言にもある通り、暴力的あるいは精的な「修正」「導」によって「自発的に」特攻を志願するよう仕向けられる「志願の強制」の言も多く見られ、志願制は形骸化していたと摘するもある。

特攻拒否について

特攻は表向き志願制であった為、志願前であれば志願書にその旨記載することで拒否できるという建前になっていた(志願後に出撃を拒否すると命従で処罰の対となる)。実際にパイロット個人や所属部隊が多大な戦果を挙げていた場合は特攻を拒否したまま終戦を迎えたケースも多い。

有名な特攻拒否の例を以下に挙げる。

但しこうした実績や、有者とのコネクションのない一般の隊員が拒否することは、実際はかなり困難だったという摘もある。

特攻帰還者

特攻で出撃するも機体の不調や、中には精的なによる故意的なものも含めて、帰還や不時着により生還した特攻隊員もかなり存在した。(陸軍の沖縄特攻では第六航空軍が作成した振武隊編成表によれば、振武隊隊員1,276名中605名が生還、航空隊も沖縄戦で延べ1,868機が出撃し896機が帰還もしくは不時着している)

帰還した特攻隊員は再度の出撃を待つか、特攻以外の他の隊へ転属することもあった。上述した江名武氏は軍の特攻要員として二度の帰還を経験しているが、二度はそのまま茨城の原隊まで戻され、格別責められることはかったという。

また知覧特攻平和会館初代忠正館長は、昭和20年5月28日沖縄方面に向け特攻出撃したが、エンジントラブルで徳之に不時着、その後2回の出撃命不順で出撃できず、4回の出撃が8月15日に決まっていたが、日本の降伏により九死に一生を得ている。

一方で帰還を恥ずべきこととして帰還者を責めるケースも見られた。その代表格とされるのが陸軍第六航空軍の特別攻撃隊「振武隊」の生還者の一部を隔離再教育したとされる「振武寮」である。

同隊では帰還者の一部(合計80名)を福岡市内の「振武寮」に収容して、軍人勅諭の書き写しなどの精教育を行うとともに、忠心や愛国心を欠く「人間」「卑怯者」「国賊」と罵り、殴打などの体罰も含め、再度の特攻に赴くよう「再教育」を施した。米軍戦闘機に撃墜され帰還し振武寮に収容された大貫健一郎陸軍少尉言によると、帰還した隊員らに最初に向けられたのは第六航空菅原中将による「軍の面汚しが。貴様たちが生きて帰ってきたために何人の兵が生きたと思うのか!」という怒であったという。

なお振武寮で「再教育」に辣腕を振るったとされる倉澤清忠陸軍少佐は、戦後会社社長となり社会的に成功を収めたものの、死去するまで特攻隊関係者の報復を恐れて護身用の拳銃と軍を隠し持っていたという。倉澤氏はあくまで特攻は自発的志願によるもので批判される謂れはないとしつつも、自分のしたことで恨みに思われるのも仕方ないところはあると述懐している。

但し「振武寮」は公式文書等ではその存在を確認できず、収容された隊員や関係者も少なく、概要は一部関係者の言によるもののみで、またその存在期間も長くて20日弱のごく短期であったと言われており、詳細はよく判っていない。

同様な施設は航空隊では存在を確認されてない。

特攻隊員の待遇

特攻隊は、各部隊から志願(原則として)により選抜された隊員が、予定戦となり、特攻配置の部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員になり、特攻隊が編成された。

特攻により戦死した隊員は、特別進級(いわゆる特進)の栄誉を受けることが原則であった。この特別進級は、普段どんなに功績を上げても2階級進級なのにべ、兵なら下士官、下士官なら士官と最大でも4階級特進もあり、それにより遺族恩給の額も大幅に変わってきた。

出撃前日にはな食事が提供されたが、どの隊員は手を付けなかった。

まとめ

                      sm9動画サムネ 

以上の通り、特攻は志願制を前提とし、多数の熱な志願者がいた一方で、強制的に志願者にされた者がいたのも事実であり、書籍・ネット上等様々な媒体で見られる、特攻賛美による特攻は全て志願であったという意見も、特攻否定どが強制か実質強制とする意見も、いずれも正確ではないものと思われる。

しかし、志願及び強制であっても、特攻は最悪の作戦であり、二度と繰り返してはいけないという結論については、異論はないだろう。

 米軍の対策

特攻で揮下の艦隊が大損を受け、その対策に頭を悩ましていた第3艦隊ハルゼー大将と第38任務部隊ミッチャー中将が、ワシントン軍首部と協議した結果、サンフランシスコで19年11月24日から26日まで3日間に渡って最初の特攻に対する集中対策会議が開かれる事となり、その会議で様々な特攻対策が定められた。またこの会議以降も継続的に特攻への対策が講じられることとなる

これらの対策もあって、特攻攻撃の成功率をフィリピン戦での26.8から、沖縄戦14.7と大幅に低下させて、かなりの効果を上げることができたが、結局米軍終戦まで特攻を全に防ぐまでの有効な対策は持ちえなかった。

 航空機以外の特別攻撃

 特別攻撃への評価

米軍側の評価

米軍側の評価としては、特攻の戦術的有効性と、特攻隊員の勇敢さ、忠心を評価する報告が多い。 

以下はごく一部であるが、米軍公式文書から軍の上層部から末端に至るまでの特攻への見解を紹介する。

日本人によって開発された、最も有効的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。

44続いた戦争のわずか10ヵの間に、米軍全損傷艦船の48.1 全沈没艦船の21.3が特攻機(自殺航空機)による成果であった。

しかし、特攻は高くついた。特攻を実施した10ヵ間に日本軍2550機を犠牲にして、連合軍の各種艦船に474機命中させた。成功率は18.6%であった。

オリンピック作戦に対抗して、九州防衛の為の特攻機が準備され、これより規模の小さい準備が「ジッパー」作戦に対抗してシンガポール防衛の為になされた。

これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損を受けたであろうことは疑問の余地はない。

(米軍戦略爆撃調団報告書Japanese.air.powerより抜)

アメリカが被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった。

延べ2000機のB29が日本都市と産業への直接攻撃から、 九州カミカゼ基地を攻撃する為に振り向けられた。

日本がより大きな打撃で集中的な攻撃を持続し得たなら、々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない。  

降伏時、日本は本土にカミカゼ攻撃用として利用可9000機以上の航空機を有し、 少なくとも5000機は々が計画していた侵攻に抵抗するために自殺攻撃用の装備をすでに備えつけていた。

(米軍戦略爆撃調団報告書summary report pacific warより抜)

沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものであった。

13000名の兵が戦死したが、その内4000名は軍だった

軍が被った損は、戦争中のどの戦よりかに大きかった。

航空機の攻撃だけで26隻の軍艦艇が沈み、損傷を受けたものに至っては368隻にも及んだ、中には手の付けられない程のものもあった。

この損として日本軍航空攻撃、に特攻によってなされた。

(太平洋艦隊チェスター・ウィリアムニミッツ元帥回顧録より抜

特攻は非常に有効な兵器で、々は軽視することはできない、私はこの作戦地域内にいた者でなければ、特攻が艦隊に対しどのようなを持っているか理解することはできないと信じている。それは安全な高高度から効果ない爆撃を繰り返している、が陸軍航空隊の重爆撃機隊とは全く対照的である。

特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可なあらゆる手段を採用すべきである。第20航空軍を含む、投入可な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する

(第五艦隊レイモンドエイムズ・スプールアン大将)

特攻機は通常攻撃の4倍から5倍の命中率を挙げている。

通常攻撃機からの爆撃を回避するように操するのは難しくないが、を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操するのは不可能である。

(米海軍空母タイコンデロガ艦長ディクシーキーファー大佐)

々は日本軍が手ごわいということはあらかじめ知っていたが、ここまでやるとは思っていなかった。

々はカミカゼがこれほど多数の兵士を殺傷し、艦船を破壊していることを日本軍に認めさせる事が許せなかった。

それ故々は戦場に留まり、これを受け続けなければならなかった。各艦は動けなくなるまで戦い続けた。

(米海軍駆逐艦イツ艦長)

カミカゼ艦隊の撃滅には成功しなかったが、多大な損を与えた。通常の攻撃ではとてもこんな成果は上げられなかったであろう。

統計が正しいものならば、日本軍は失った航空機の12%で、米軍損傷艦艇の77米海軍死傷者中80をやっつけたことになる。素晴らしい戦果と言えよう。

またカミカゼにより多数の高速空母ハリツケになった事も大きな成果である。

もしカミカゼがなければ、空母はもっと自由日本本土の基地や工場を破壊できたはずである。

(R・L・ウェアマスター米海軍中尉)

日本軍の特攻攻撃がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘較しても驚くべき効率であると言えよう。

事実沖縄戦の段階では米海軍士官の中には、特攻が連合軍の進行阻止に成功するかも知れないとに考え始める者もいたのである。

(バリー・ピッド英軍軍曹・戦史作家)

日本での評価

現代日本では、第二次世界大戦での悲惨な敗戦により、旧陸軍に対する批判が根強く、特攻隊は旧軍首部の愚かさの徴として否定的に捉えられることが多い。特に終戦記念日には各報道機関で特集が組まれ、評論家達による感情的な意見が多い。

実際に、特攻の戦術的有効性は別の話として、このような戦術をとらざるを得ない状況に陥った原因は、紛れも当時の日本軍上層部の戦略の失敗であり、その拭いを、事もあろうに現場の将兵達に行わせ、それすらも失敗(条件降伏)した、という点において、当時の軍上層部は厳しくその責任を追及されるべきである。

断じて、「特攻隊への賛美」や「特攻の自己犠牲精」などの美しい面ばかりを取り上げ、それらの責任うやむやにする事はあってはならない。

それがより行き過ぎる形で、特攻を拒否すると本人や家族が処罰された、物を打たれ人事不で出撃させられたた、などのデマ同然の批判にも繋がっている。(実際には、本人の拒否で家族が処罰される事はありえず、物に関しても例えば覚せい剤は当時世界中で販されていた品のひとつであり、B-29迎撃に従事したパイロットにも、「間飛行での暗視用」として普通に支給されていた) 

また一方で、昨今の偏向教育反動や周辺策から保守的思想の広がりにより、従来から特攻批判の思想と対立してきた特攻の賛美、特攻の肯定などの考え方が広がり、実世界でもネットでも両者の論戦がしくなっており、いわゆる歴史認識問題と同様に簡単には結論が出ない状況にある。以下に、当時の日本軍に所属した将兵の言を載せる。

統率の外道だよ
 (おそらく最も有名な言葉。特攻によって日本戦争に勝っても自決していただろうといわれている)

々は今回の戦いにおいて劣勢を覆すべく、様々な努をしてきた。しかし、やる事成す事全て誤算と敵に裏をかかれる失態をすだけの結果となり…挙句そのつけを若い人達、民に強いている。……々は甘かった。本当に甘かった…。
(終戦直前の発言、この数カ後に自殺した)

(軍軍部次長 大西次郎中将)

この戦法が全軍に伝わると、わが軍の士気はに見えて衰えてきた。ならぬ身、生きるあってこそ兵の士気は上がる。表向きは作ったような元気を装っているが、影では泣いている。

 こうまでして、下り坂の戦争をやる必要があるのだろうか?勝算のない上層部のやぶれかぶれの最後のあがきとしか思えなかった

(撃墜数202機 「最強零戦パイロット」 岩本徹三中尉)

生還率ゼロの命をだす権利は指揮官と言えども持っていない 
(フィリピン戦時、大西次郎に対して その後二人は意気投合し通し話し込んだとの事)

 

搭乗員の練度不足を特攻戦法の理由の一つにあげておられるが、導訓練の創意工夫が足りないのではないか。私のところは、飛行時間二〇〇時間の零戦操縦員も、みな間洋上進撃が可です。
(沖縄戦における作戦会議にて 実際、彼の部隊では底的な訓練の合理化を行っていた) 

劣速の練習機が何千機進撃しようとも、間ではバッタのごとく落とされます。
2千機の練習機を繰り出す前に、ここにいる古参パイロットが西から都に侵入されたい。
私が箱根零戦で待ち受けます。 一機でも侵入できますか?
(同上 また、練習機を消耗すれば以降の搭乗員育成にも支障をきたす) 

 

戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。
私は不可能を可とすべき代案なきかぎり、特攻また止むを得ず、と今でも考えています。戦いの厳しさは、現代のヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません
(彼が反対したのはあくまでも「非効率的な特攻」であり、特攻の戦術的有効性は認めていた)

部隊指揮官 美濃部正少佐

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関連項目

掲示板

  • 1642ななしのよっしん

    2019/05/16(木) 09:16:01 ID: FBCu4fKeFA

    >>1641
    確かに「特攻」と記述されることもあるけど、どっちかって言うと「特効」のほうが正確な記述じゃないかなぁ?
    「特別な攻撃」とか「特殊な攻撃」じゃなくて「特に効果がある」の短縮形なわけだし

  • 1643ななしのよっしん

    2019/05/16(木) 13:43:54 ID: cHqy0f74gD

    >>1642
    確かに特効の方がいいな
    「特別に効果が有る攻撃」を略しているんだろうけれど、特攻だとこの記事で触れられている系統の方をイメージするし

  • 1644ななしのよっしん

    2019/06/13(木) 13:07:07 ID: 5DNOMUHgti

    ほんまガイジ行為
    死んでいった人たちは可哀想

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