第六一駆逐隊 単語


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第六一駆逐隊(だいろくじゅういちくちくたい)とは、旧大日本帝国海軍の部隊の一つ。横須賀鎮守府に所属する駆逐隊である。歴代は1度のみ編成されている。第六十一駆逐隊や第61駆逐隊とも表記される。

 第六一駆逐隊

1942年(昭和17年)10月7日〜1944年(昭和19年)11月30日

所属駆逐艦

艦名 転入・転出・喪失
秋月型駆逐艦 秋月 1944年(昭和19年)10月25日沈没
秋月型駆逐艦 照月 1942年(昭和17年)12月12日沈没
秋月型駆逐艦 涼月 1943年(昭和18年)1月15日編入
秋月型駆逐艦 初月 1943年(昭和18年)1月15日編入
1944年(昭和19年)10月25日沈没
秋月型駆逐艦 若月 1943年(昭和18年)8月15日編入
1944年(昭和19年)11月11日沈没

概要

秋月型で編成された最初の駆逐隊で、初期ロットの1~4および6番艦で編成された。なお、5番艦新月は駆逐隊入りする機会がなく第三水雷戦隊旗艦となり、コロンバンガラ島輸送作戦時のクラ湾夜戦において竣工からわずか3ヶ月で戦没している。

1942年(昭和17年)

1番艦秋月は先行して就役したため、アリューシャン方面への空母瑞鶴の護衛をはじめ、各地への輸送船などの護衛任務に従事していた。1942年(昭和17年)10月7日に南雲機動部隊の随伴艦として活動していた2番艦照月と第六一駆逐隊を編成するが、秋月型はその防空能力を期待され、戦隊旗艦を勤めることが多かったことから、秋月と照月は終始別行動をとっており、最後まで艦隊行動をとる機会は訪れなかった。

秋月は10月11日、水上機母艦日進、千歳、駆逐艦夏雲と共にガダルカナル島への輸送・揚陸任務(鼠輸送)を行い無事成功するが、一方でヘンダーソン飛行場砲撃のために海域へ接近していた第六戦隊司令官五藤存知少将は待ち伏せしていた米艦隊を秋月ら味方輸送隊と誤認し、五藤少将戦死、旗艦・重巡洋艦青葉大破、重巡洋艦古鷹および駆逐艦吹雪撃沈、さらに退却支援に来た駆逐艦叢雲および夏雲も撃沈されるという被害を受けた(サボ島沖海戦)。

10月12日、秋月は軽巡洋艦由良に変わって第四水雷戦隊旗艦となり、その後2度にわたりガダルカナル島への鼠輸送を成功させた。10月24日から25日にかけて陸軍のガダルカナル第二次総攻撃と呼応した南太平洋海戦おいて、第四水雷戦隊は第二攻撃隊としてルンガ泊地に突入すべく行動するが、インディスペンサブル海峡で米軍の攻撃を受け由良が航行不能・雷撃処分となり、秋月も損傷したため、旗艦を駆逐艦村雨に移してラバウルへ撤退。その後、横須賀で12月28日まで修理と装備追加の改修を行った。

一方で照月は南太平洋海戦では南雲機動部隊直掩艦として第一航空戦隊の空母瑞鳳(翔鶴説あり)の直衛につき、小破。海戦終了後にトラックにて工作艦明石による修理を受ける。11月12日深夜からの第三次ソロモン海戦においては、第十戦隊は挺身攻撃隊として参加し、照月は戦艦比叡や霧島の護衛を行った。比叡の沈没時には駆逐艦雪風らと協力して事前に乗員を移乗させたが、霧島の轟沈時には爆発に巻き込まれる可能性があったため、沈むまで近づくことができなかった。海戦終了後にはまたもトラックにて明石による修理を受ける。

一時的な第十戦隊旗艦を経て、第二水雷戦隊旗艦となって12月11日にショートランド泊地を出撃しガダルカナル島へのドラム缶輸送(鼠輸送)に向かうが、サボ島南方で米軍の魚雷艇により被雷。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将を初め司令部は駆逐艦長波に、他の乗組員は駆逐艦嵐に移乗し、照月は自沈処分となった。

1943年(昭和18年)

修理より復帰した秋月は1943年(昭和18年)1月4日に瑞鶴の護衛としてトラックに到着。6日に第十戦隊旗艦となり、15日より陽炎型駆逐艦8隻を率いてラバウルから自身4度目のガダルカナル島への鼠輸送を行う。同じく15日には竣工間もない3番艦涼月および4番艦初月が第六一駆逐隊に編入されるが、3月までは本土近海で訓練を行っていたため、秋月と艦隊行動は取れなかった。19日に秋月は米潜水艦ノーチラスの雷撃を受け一時航行不能となり、20日に第十戦隊旗艦を駆逐艦風雲に移す。その後応急修理や明石による修理、輸送船の護衛任務、再度の損傷を繰り返しながらようやく7月5日に長崎に到着し、7番艦霜月の艦首を移設するなどの大規模な修理および改修を11月6日まで行った。

3月に初月が触底事故を起こしたため、涼月は飛鷹型空母および利根型重巡洋艦を護衛して、3月27日に先んじてトラックに到着。4月2日よりトラックからラバウルまでの、い号作戦のための輸送任務を行う。修理が終わった初月は4月1日にトラックを経由してカビエンに到着し、4月3日にはメウエ水道で大破した青葉の護衛を行う。涼月と初月はトラックの警備に付いた後、5月17日から22日に戦死した連合艦隊司令長官山本五十六元帥の遺骨を載せた戦艦武蔵を護衛してトラックから横須賀に到着。しばらくの間整備を行い、7月9日から利根型の護衛で呉を出撃し、ブカ島に到着。その後はトラック - ラバウル間の船団の護衛を行った。

5月31日に竣工した6番艦若月は訓練部隊である第十一水雷戦隊(5番艦新月も5月14日まで所属していた)に配備され、武蔵の護衛や元・特設水上機母艦相良丸の救援、空母冲鷹の護衛を行った後、8月15日に第六一駆逐隊に編入される。9月と10月に涼月、初月、若月は機動部隊に随伴してマーシャル諸島方面へ出撃するが、会敵はなかった。

トラックに帰投して間もなく、若月はろ号作戦の事前の輸送任務に就き、照月より第十戦隊旗艦を継承した軽巡洋艦阿賀野に率いられて10月30日に出撃し、11月1日にラバウルへ到着するが、ここで第十戦隊はブーゲンビル島攻撃のための連合襲撃部隊に編入され、ブーゲンビル島沖海戦に参戦した。海戦後、11月5日のラバウル空襲で阿賀野が損傷、若月も中破した。11月10日、涼月と初月は米潜水艦スキャンプの攻撃を受けた輸送船東京丸の援護に向かう。スキャンプはさらにトラックに戻る途中の阿賀野も航行不能にし、涼月と初月は沈没した東京丸の救助後すぐさま阿賀野の救援に向かった。

11月11日の第二次ラバウル空襲後、若月はトラックに引き上げる重巡洋艦摩耶と潜水母艦長鯨を護衛しながら、11月26日に横須賀に帰投。修理中の事故もあり、翌年1月9日まで修理と改修工事が行われた。一方で、修理を終えた秋月は11月26日に空母に改装された千歳および翔鶴を護衛して岩国を出撃。12月1日トラック泊地に到着し、ここで初めて僚艦である涼月と初月に対面した。しかし12月7日、涼月と初月は瑞鶴と重巡洋艦筑摩を護衛してトラックを離脱し、12月12日に呉へ到着、修理を行った。秋月は12月9日よりクェゼリンへの輸送任務や武蔵の標的船曳航作業、12月25日より第二水雷戦隊旗艦である軽巡洋艦能代率いる戊三号輸送部隊第二部隊に参加し、軽巡洋艦大淀の直衛としてカビエンへの輸送を行った。

12月23日より、涼月と初月は特設巡洋艦赤城丸を護衛してウェーク島への輸送任務を行う。しかし2度目の往路において、1944年(昭和19年)1月16日に豊後水道で涼月が米潜水艦スタージョンの雷撃を受け大破し、泊司令が戦死。輸送作戦はいったん中止となる。初月は涼月を宿毛湾まで曳航した後、赤城丸を横須賀まで護衛した。涼月は電纜敷設艇釣島と特設掃海艇第六玉丸の協力により呉に帰還。8月3日まで大規模な復旧工事が行われ、未成となった清月以降の型の設計図を流用したといわれる特徴的な船型となった。

1944年(昭和19年)

1944年(昭和19年)1月1日、秋月は前述の損傷を受けた阿賀野に変わり第十戦隊旗艦となる(ただし、秋月はカビエン輸送任務中のため実際に旗艦に就くのはもう少し後である)。このころより、連合艦隊司令部はトラック島が戦場になることを懸念し、艦艇をリンガ泊地に移すことを決定。秋月は戦艦長門を初めとする敷島部隊に加わり、パラオを経て2月21日にリンガ泊地に到着した。一方、初月と若月は軽巡洋艦矢矧と共に翔鶴型や筑摩を護衛して洲本から2月13日にシンガポールを経由しリンガ泊地に到着。直前に阿賀野が轟沈していたため、第十戦隊旗艦は秋月から矢矧に変更された。

初月と若月は呉への輸送任務を行い、空母大鳳を護衛してリンガ泊地に再び到着。その間、第一機動艦隊が新編成され、第十戦隊第六一駆逐隊の所属する第三艦隊もその一員となる。5月11日、あ号作戦準備発令に従って秋月、初月、若月は大鳳らと共にタウイタウイ泊地に進出。6月13日、あ号作戦決戦用意発動に呼応して第一機動艦隊はタウイタウイ泊地を出撃。秋月は6月15日にギマラスで合流、若月は第一補給部隊を護衛した後6月17日に合流した。

6月19日のマリアナ沖海戦1日目、秋月、初月、若月の第六一駆逐隊は、第十一水雷戦隊を出て間もない7番艦霜月と共に第三艦隊所属として大鳳の直衛を勤める。まず、米駆逐艦アルバコアの魚雷1本が大鳳に直撃するが、この時点では異常は見られていなかった。次に、米潜水艦カヴァラの魚雷4本が翔鶴に直撃し轟沈。秋月は矢矧や駆逐艦浦風らと協力して救助を行った。その後、大鳳が漏洩したガソリンへの引火で大爆発を起こし沈没。小沢治三郎中将以下第一機動艦隊司令部は若月に移乗して重巡洋艦羽黒に移るまでの臨時旗艦となり、初月は駆逐艦磯風らと共に大鳳の乗員の救助を行った。第六一駆逐隊と霜月は、2日目も第三艦隊所属として瑞鶴を護衛し、海戦後は6月22日に中城湾に入港するまで瑞鶴に随伴し、その後柱島泊地へ帰投した。

秋月と初月はそのまま7月20日まで呉海軍工廠で整備と装備追加改修を受ける。一方、若月と霜月は連合艦隊旗艦大淀を横須賀まで護衛し、横須賀海軍工廠で装備追加改修を受けた。7月5日、若月と霜月は横須賀から呉へ移動して遊撃部隊乙部隊に加わり、戦艦長門、金剛、重巡洋艦最上を護衛して中城湾、マニラ(このとき、霜月は8番艦冬月と共に第四一駆逐隊を編成する)を経由して7月20日にリンガ泊地まで輸送を行った。秋月と初月は7月30日、瑞鳳らと共に父島への輸送任務を行った後、秋月は長崎で、初月は佐世保海軍工廠で再度入渠。出渠後は対潜訓練の後に瀬戸内海で待機するが、秋月は呉でまた入渠し、さらに10月11日まで日立因島造船所で水中聴音機の修理を行った。若月は9月12日にリンガ泊地を出港して9月19日に呉へ戻り待機した。

8月に長期の修理から復帰した涼月は、瀬戸内海での訓練後、若月と共に高雄への輸送任務に付くが、10月16日、米潜水艦ベスゴからの雷撃を受け(ベスゴは両艦を重巡洋艦と認識していた)、すぐに呉へと引き返し、11月11日まで呉海軍工廠で修理を受けることとなった。

10月17日、捷一号作戦(レイテ沖海戦)警戒が発令。秋月、初月、若月からなる第六一駆逐隊と霜月の第四一駆逐隊は囮部隊である小沢治三郎中将が指揮する機動部隊に編入される。第六一駆逐隊と第四一駆逐隊は、松田千秋少将指揮の第四航空戦隊の戦艦日向、伊勢と共に機動部隊前衛を勤め、23日にエンガノ岬へ進出。

25日午前7時、機動部隊本隊と合同。午前8時、エンガノ岬沖海戦が勃発する。ハルゼー大将指揮の米第3艦隊からの第1次攻撃隊による空襲で、秋月はSB2Cヘルダイバーによる急降下爆撃により艦中央部に被弾。それが酸素魚雷へ誘爆し、8時56分、真っ二つに割れ沈没した(最後の爆発の原因は瑞鳳を狙った米潜水艦ハリバットの雷撃から身を挺してかばったからという説もあるが、信憑性に疑問がある)。秋月の生存者は駆逐艦槇、霜月の他、米軍に1名救助された。9時37分、千歳も沈没する。他にも、多摩が大破、瑞鳳と旗艦瑞鶴も被弾し、無電が打てない状態となった。

午前10時ごろ、米軍の第2次攻撃隊が到着し、千代田が大破し航行不能となり落伍する。小沢司令長官は旗艦を通信不能となった瑞鶴から大淀に移す。午後1時過ぎには第3次攻撃隊が到着し、午後2時14分に瑞鶴が沈没。午後2時20分、五十鈴も被弾して操舵不能となった。午後3時27分には瑞鳳が沈没。千代田もデュボーズ少将指揮の巡洋艦部隊の攻撃により午後4時55分に轟沈し、小沢機動部隊の空母4隻は全て失われた。午後5時過ぎには第4次攻撃隊による空襲を受ける。

初月、若月と駆逐艦桑は瑞鶴および瑞鳳の救助を続けていたが、そこへ千代田を曳航しに来た五十鈴が合同する。五十鈴は初月に千代田の行方について尋ねるが不明であったため、五十鈴が燃料不足でもあったことから初月と若月に千代田の探索を依頼する。午後7時25分、追撃してきたデュボーズ部隊と遭遇し、初月は煙幕を張って交戦中と打電し、五十鈴と若月も煙幕を張りそれに続いた。初月は単艦で敵巡洋艦部隊(重巡2、軽巡2、駆逐艦9)に突撃し、集中砲火を浴びて午後8時59分に爆発を起こして艦首から沈没した。この奮闘により五十鈴と若月は無事北方への脱出を成功したが、戦闘に参加した初月の乗組員は天野司令を始め、救助された瑞鶴乗組員を含めて全員が戦死した。唯一、瑞鶴救助中に降ろしていた内火艇に乗っていた初月8名、瑞鶴17名だけが21日後に台湾へ流れ着き生還を果たした。

小沢中将は初月の交戦報告を受けて夜戦を決意し南下を命じたが、ほとんどの艦が損傷していたため時間を要した。五十鈴と若月とは合流できたが、デュボーズ部隊は既に撤退していたため遭遇できず、燃料も乏しくなったため26日朝に捜索を打ち切った。その間、大破した多摩は単艦で退避していたが、米潜水艦ジャラオの雷撃により23時5分に沈没していた。26日の夕方、五十鈴は中城湾に、29日の深夜、霜月は日向、伊勢、槇らと共に呉に帰港した。

10月27日、若月は奄美大島にて大淀とともにマニラへの進出を命じられ、霜月から弾薬を供給された。マニラに到着後、多号作戦(オルモック輸送作戦)部隊に加えられ、11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を護衛してマニラを出撃し、9日夕方オルモック湾に到着。10日にオルモック湾を立つが、輸送船が米航空隊の攻撃を受けて沈没。輸送部隊の指揮官である第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の命により先行する第三次輸送部隊と合流。11日、第三次輸送部隊と共にオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊の艦載機347機による空襲を受け沈没した。

秋月、初月、若月が相次いで失われたことにより、第六一駆逐隊は修理でレイテ沖海戦に参加できなかった涼月1隻となったため、解隊となった。涼月は後に、秋月型で構成されたもう一つの駆逐隊である第四一駆逐隊に編入された。

よって以降は第四一駆逐隊の項を参照。

駆逐隊司令

時期 役職 名前 備考
1942年(昭和17年)10月7日 司令 則満宰次大佐(海兵46期)
1943年(昭和18年)2月3日 司令 大江覧治大佐(海兵47期)
1943年(昭和18年)12月12日 司令 泊満義大佐(海兵46期) 1944年(昭和19年)1月16日戦死
1944年(昭和19年)3月20日 司令 天野重隆大佐(海兵47期) 10月25日戦死

年表

日付 出来事
1941年(昭和16年) 12月8日 (太平洋戦争開戦。)
1942年(昭和17年) 6月11日 (舞鶴工廠で秋月竣工。横須賀鎮守府籍に編入。)
7月31日 (三菱長崎造船所で照月竣工。横須賀鎮守府籍に編入。)
10月7日 秋月、照月で連合艦隊(旗艦:戦艦大和)第三艦隊(旗艦:空母翔鶴)
第十戦隊(旗艦:軽巡洋艦長良)隷下に第六一駆逐隊を新編。
12月12日 照月沈没。
12月15日 (舞鶴工廠で初月竣工。)
12月29日 (三菱長崎造船所で涼月竣工。)
1943年(昭和18年) 1月15日 初月、凉月を編入。
1月19日 秋月が被雷大破。
1月20日 照月除籍。
5月31日 (三菱長崎造船所で若月竣工。)
6月30日 秋月を第六一駆逐隊から除籍し、予備艦に指定。
8月15日 若月を編入。
10月31日 秋月を再編入。
1944年(昭和19年) 1月16日 凉月が被雷大破し泊司令が戦死(少将に進級)。
8月3日 涼月修理完了、戦線復帰。
10月16日 涼月が被雷大破。
10月25日 レイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)にて、秋月、初月沈没。
初月沈没時に天野司令が戦死(少将に進級)。
11月11日 オルモック作戦にて、若月沈没。
涼月の修理完了、戦線復帰。
12月1日 解隊。涼月は第四一駆逐隊に編入。
1945年(昭和20年) 8月15日 (太平洋戦争終戦。)

 関連項目

  • 大日本帝国海軍
  • 連合艦隊
  • 戦隊(日本海軍)
  • 駆逐隊
  • 駆逐艦
  • 軍事関連項目一覧
  • 第四一駆逐隊
  • サボ島沖夜戦
  • レイテ沖海戦

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