精神現象学とは、G・W・F・ヘーゲルによる哲学書である。1807年に刊行された。
原題は「学の体系」(System der Wissenschaft)。意識・自己意識・理性が、弁証法によって絶対知に発展してゆく過程を叙述したもの。精神という主人公が様々な寄り道をしながら自己成長をとげていく物語とも形容される。
ヘーゲル哲学においては、『大論理学』『エンチクロペディー』『法哲学』に先立つヘーゲルの初の著書であり、ヘーゲル哲学の導入として位置づけられる。
なお、『精神現象学』を、カント『純粋理性批判』やフィヒテ『知識学の基礎』に並ぶ「難解書」と呼ぶことがある(『知識学の基礎』ではなく、ハイデッガー『存在と時間』が入れられることもある)。
CだけAA・BBというややこしいナンバリングがされているが、これには理由がある。元々Cについては「理性」と「絶対知」のみが叙述される予定であったが、後から「精神」「宗教」が追加されたのである。
他にも序論が二つあったり、同じ単語であっても前と後で違う意味で用いられていたりと、整理されていない書物であることはヘーゲル自身が認めていたようである。
詳しいことは専門家が書いた概説書を参照してもらうとして、ここでは簡単に内容の雰囲気だけ書いておく。
本書で問題にされるのは認識論である。つまり「真理をどうつかむか」という古代ギリシャから伝わる哲学の一大テーマだ。ヘーゲルに先立つカントは「真理と私たち人間には超えがたい溝があり、決して真理そのものを認識することはできない」と考えていた。ヘーゲルはこの真理(客体)と人間(主体)の対立を否定し「真理とは私たちそのものなのだ(矛盾する客体と主体の綜合)」と考えた。これを本著の中では「実体は主体である」と表現されている。実体とは真理のことであり、実体が自分を保つために自分ならざるものになった形態を主体と呼ぶ。
この考えはキリスト教の神、イエス、聖霊の三位一体がモチーフになっている。神=真理、人間=イエスと考えてみると、天上におわす神が地上に降り立ったとき、神ならざる人間イエスとして受肉する。私たち人間は神を崇めているつもりが、実は私たち自身が神であったのだ。精神現象学はドイツ語での原題がPhänomenologie des GeistesというがこのGeistes(英語でいうとghost)は三位一体の聖霊のことである。私たち人間(認識主体)が実は神(認識対象)であることを自覚するための聖霊の旅路。それこそが精神現象学のメインテーマである。
主観的存在である私たち自身が真理であるならば、客観的な世界の全てもまた私たち自身なのである。絶対的な他在のうちに自己を見出す境地を絶対知と呼ぶ。しかし絶対知には一足飛びに到達できるものではない。そこで精神現象学ではまず、ただ「ある」という最も基礎的な意識(感覚的確信)からはじめ、知覚、悟性、自己意識、理性と色々な寄り道をしながらゆっくりと絶対知へと進んでいく。その多様な内容から「精神現象学は小説のような哲学書だ」と評する専門家もいる。精神の旅路の果てには人倫と呼ばれる自由の国がある。人倫の国がいかなるものであるかはヘーゲルの別著『法哲学』に詳説されている。
『精神現象学』について解説した本は多いが、特に有名なのは、アレクサンドル・コジェーヴという20世紀の哲学者のものである。彼が行った講義は『ヘーゲル読解入門』にまとめられ、フランス現代思想に大きな影響を与えた。
ちなみに、東浩紀が提唱する「動物化」という概念はコジェーヴが元ネタである。
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最終更新:2025/12/07(日) 06:00
最終更新:2025/12/07(日) 05:00
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