結構長い戦争の一覧 単語


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ケッコウナガイセンソウノイチラン

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本記事『結構長い戦争の一覧』では、国際法上長期化してしまった戦争について述べる。

結構長いというだけでは編集者・読者諸賢らの間でも感覚に差があろうと思われるため、本記事では『30年を超える戦争』を『結構長い』と定義する。

概要

結構長い戦争として本記事にて定義するのは「30年を超える戦争」であるが、多くの場合は戦争しているからといって戦闘行為自体が続いているわけではない。

そもそも戦争というのは国際法という概念ができる前ならいざしらず、「相手を殺し合っているから戦争」とか「相手国の国土を焼きまくっているから戦争」といったものではなく、基本的にはどちらかの国がもう片方の国に宣戦布告をしたら戦争がはじまり、その後講和条約を締結して終わるというのが国際法上の戦争である (ただしロシアのウクライナ侵攻のように「宣戦布告」をしない戦争も例がいくつかある) 。

このため、「宣戦布告をした後、戦闘をやめた・あるいはそもそも戦闘行為をしていないが講和条約を締結していないので一応戦争は続いている (ことになっている)」ケースもあるのだ。

なお、戦争を起こした政権がその後国内の政体の変化でなくなった (=国が変わった) としても、後に成立した国家は前国家の条約などの義務・権利を引き継ぐ (継承国) 。よって、宣戦布告を起こした政権に対して反旗を翻しそれを打ち倒して新国家を樹立させたとしても、きちんと相手国との間に終戦ということにしない限り戦争は終わらないし、前政権に対する賠償請求なども当然引き継ぐこととなる。ただしドイツやモンテネグロなど、歴史上の一時期において「継承国が存在していなかった時期がある」ケースも有り、ややこしいことになっているケースもある。


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ザクセン戦争 (32年)
グアテマラ内戦 (36年)
ペルシア戦争 / グレコ - ペルシア戦争 (50年)
第二次世界大戦 (51年)
朝鮮戦争 (74年・継続中)
八十年戦争 (80年)
日黒百年戦争 (102年)
第一次世界大戦 (106年・継続中)
百年戦争 (116年)
クリミア戦争 (171年・継続中)
スペイン独立戦争 (172年)
三百三十五年戦争 (335年)
アラウコ戦争 (347年)
ポエニ戦争 (2249年)
ペロポネソス戦争 (2427年)


ザクセン戦争

当事者 開戦 終戦 期間
フランク王国 ザクセン人 772年 804年 32年

フランク王国のカール大帝が、ザクセン地方の編入と、その一帯に住むザクセン人のキリスト教への改宗を目的に10度の遠征を行った戦争。ザクセン人も当初こそ抵抗を行っていたが、フランク王国との軍事力の差を前に開戦当初から続々とザクセン貴族はフランク王国に恭順。

カール大帝サイドも長期化した戦争のなかで当初こそ「キリスト教を信じない者は死刑」としたり、ザクセン人捕虜4500人を虐殺したりしたものの、後に罰金刑に留めたり、有力な抵抗者にも「抵抗をやめてくれるなら公国の君主とする」と譲歩した条件を出して降伏させ、戦後もザクセン人の社会組織そのものは存続させつつ、当地の有力者を伯爵 (グラーフ) に任じるなどして32年に渡る征服戦争を終えている。

この地域にキリスト教が浸透したことは後々の欧州におけるキリスト教文明成立の基礎となることとなる。

グアテマラ内戦

当事者 開戦 終戦 期間
グアテマラ民族革命連合 / URNG
(←武装反乱軍 / FAR)
(←武装人民革命機構 / OPRA)
(←貧民ゲリラ軍 / EGP)
(←グアテマラ労働党 / PGT)
ニカラグア
キューバ
グアテマラ軍事政権
アメリカ
アルゼンチン
メキシコ
1960年 1996年 36年

アメリカの支援を受けて反共政権による独裁を強めていったグアテマラ軍事政権に対して、社会主義勢力がソビエト連邦の支援の元1960年に反乱を起こす。1962年にはゲリラ戦による徹底抗戦を宣言した。双方の組織・内情が変わりながらも、20万人の死者と数万人の行方不明者、100万人以上の避難民を出すほどの大きな戦争となったが、最終的には冷戦の終結に伴い米ソ双方が支援しなくなったことで1996/12/29に和平合意が成立した。

なお、和平合意のもと制定された和解法では政治的犯罪は免責されるが、虐殺・拷問・失踪に関する罪は免責されない内容となっており、2000年代に入ると当時の政治指導者や軍艦部は訴追されるようになっている。

ペルシア戦争 / グレコ - ペルシア戦争

当事者 開戦 終戦 期間
ギリシア アケメネス朝ペルシア B.C.499年 B.C.449年 50年

アケメネス朝ペルシアがギリシアに影響力を強めたことに対して、アテナイ・スパルタなどのギリシア各ポリスが連合を組んで抵抗したもの。結果的にペルシアはギリシアにおいて強い影響を及ぼすこともできず、ギリシアサイドも押し返しはするものの強大なペルシアの信仰を留めることしかできず、最終的にカリアスの和約によって和睦した――と伝えられている。

ただしその後のペロポネソス戦争でペルシア - アテナイ間、ペルシア - スパルタ間で結ばれた条約にカリアスの和約について触れられていないためにカリアスの和約の実在を疑う者も多い。

また、ペルシアの遠征で雨降って地固まると見えたギリシア各ポリスも、水面下ではアテナイとスパルタの有力ポリス同士の権力闘争があったとされている (これは後のペロポネソス戦争に繋がる)。

第二次世界大戦

当事者 開戦 終戦 期間
連合国 ナチス・ドイツ
(→消滅)
(→ドイツ連邦)
1939年 1990年 51年

第二次世界大戦で最後に降伏したのは、御存知の通り我が国日本である。――しかし、最後に平和条約を締結したのはドイツである。

日本とイタリアは終戦後政体こそ変わったが、中央政府自体は残された。しかしドイツはベルリン宣言によってヒトラーに後継指名されたフレンスブルク政府が連合国によって承認されず、連合国によってドイツの主権を掌握し、中央政府を失う形になった。更にその後ソ連がベルリン封鎖を行ったことでついにはドイツが西ドイツと東ドイツに分裂してしまう。これによって「ナチス・ドイツの継承国」が存在しなくなってしまった。つまり、連合国との間で平和条約を結ぶ相手がそもそもいなくなってしまったのである。

1989年にベルリンの壁が崩壊すると、1990年にドイツ再統一が成し遂げられた。ここにおいてようやく「ナチス・ドイツの継承国」が現れたので、1990年に第二次世界大戦の精算を行う目的でドイツ最終規定条約が締結され、第二次世界大戦は「終わった」と言える。

なお、ドイツは後述の通り、コスタリカとの間で第一次世界大戦の講和条約を結んでいないため、第一次世界大戦より先に第二次世界大戦が「終戦」したという奇妙なことになってしまっている (最も第二次世界大戦も冷戦より1年前にギリギリ終わったことになるわけであるが) 。

ちなみにポーランド亡命政府も1941年に日本にとりあえず宣戦布告をしていたが、その後ソ連の占領下だったためにサンフランシスコ講和条約に署名できず、1957年にようやく日本と国交樹立に伴う平和条約を締結して16年近く別に戦ってもいなかったのに「敵国」であった。

朝鮮戦争

当事者 開戦 終戦 期間
北朝鮮 韓国 1950年 - 74年
(継続中)

第二次世界大戦後日本から独立した朝鮮半島だが、その後北朝鮮と韓国に分裂し主権を巡る国際紛争となってしまった。

戦闘そのものは1953年に停戦しているため続いているわけではないが、現在も北緯38度線が軍事境界線として存続しており、分断状態が続くこととなる。

これによって南北朝鮮は大きく文化が変わり、韓国は韓流ドラマやK-POP、韓国料理、コスメなどの文化を発信し海を超えて日本でも人気を得る一方で、北朝鮮は金日成・金正日・金正恩によって築かれた独裁体制のなか、2010年に発表された楽曲『攻城戦だ (공격전이다 / コンギョッチョニダ)』がやはり日本でも人気を得る。逆説的に2010年になってなお金一族の独裁体制を称え、「稲妻のように攻撃」などと軍事力を誇るような楽曲を発表しているわけであるから、認識としてはなお「南の米国傀儡政権」と戦争を続けているというわけである。2010年代といえば、2012年にはPSYが『江南スタイル (강남스타일)』を発表したころであり、魅力的な女性としてのシンボルも北朝鮮の『喜び組 (기쁨조)』と江南スタイルのPVに登場しPSYを誘惑している元・4Minuteのキム・ヒョナ (김현아) を比較するとかなり大きく異なることが推察できる。

一方韓国では男子は徴兵制が行われており、これも北朝鮮との戦争中であるという認識ゆえであるがそれ故に受験や就職でインセンティブを設けるという「軍加算点制度」が存在していた。しかし1999年にこれが違憲判断され廃止されたことをきっかけに、男女間で「男性は徴兵の分社会進出が遅れるため不利だから復活させろ」「女性は男性より就職機会に恵まれないため、加算制度まで復活させれば二重差別だ」として論議を巻き起こしている。2010年代には上野千鶴子の著作が韓国の女性の間でブームになり、一層フェミニズムの波が女性の間に巻き起こるとともに、それに対する男性側の反発は強まるばかりであり、「女性にも徴兵制を」と求める声も絶えないという。

八十年戦争

当事者 開戦 終戦 期間
ネーデルラント諸州 スペイン 1568 1648 80年

ネーデルラント諸州がスペインに対して起こした反乱であり、元々オランダ育ちでオランダ寄りだった神聖ローマ帝国カール5世が、息子のフェリペ2世にスペイン国王位を譲位したことがきっかけとなる。カール5世はネーデルラントのフランス語・フラマン語を話せたが、スペイン語しか話せないフェリペ2世がスペイン語が話されていないネーデルラントの盟主になってしまったのである。また、ネーデルラントではカルヴァン派プロテスタントが信仰されていたが、フェリペ2世がカトリックであり異端審問を行うなどしてネーデルラント諸州の支持を失っていった。こうしてネーデルラント諸州はスペインからの独立を求め戦争を起こす。

この頃ネーデルラントが実質的に独立すると、オランダ東インド会社を設立し出島に貿易でやってくるようにもなる。1648年にはスペインはようやくネーデルラント諸州の独立を認める。この頃には既に戦争の発端となったフェリペ2世も亡く、フェリペ2世期に黄金時代を迎えていたスペインも衰退が決定的といえる状態であった。

日黒百年戦争

当事者 開戦 終戦 期間
日本 モンテネグロ 1904年 2006年 102年

1904年に日本とロシアの間で日露戦争が起きると、ロシアと同盟国であったモンテネグロはロシアへの義理立てで日本に宣戦布告し、義勇兵を満州に派遣。しかし実際に日本との間に戦闘は一度も起きず、そのまま日露戦争は終結した。

しかし戦闘が実際に起きなかったために日本も世界もモンテネグロの日本への宣戦布告を無視しており、モンテネグロは講和会議に招かれることはなかった。このため日本とモンテネグロは国際法上は敵国である関係が継続された。更に1918年にセルビアに併合されてしまったので、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国、後ユーゴスラビアの領土となり、モンテネグロは存在しなくなってしまった。つまり、日本は存在しない国と戦争をしているというこれまたよくわからない状態になってしまった。

当然モンテネグロは日本に宣戦布告していた事実を忘れており、日本も宣戦布告を受けた事実を忘却したまま大日本帝国は日本国に生まれ変わり、そしてユーゴスラビア崩壊により2006年にモンテネグロが復活。日本もモンテネグロを独立国として承認しようとしていた矢先のこと。

二 一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。


一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書, 2024/03/11閲覧

鈴木宗男衆院議員 (当時) が「モンテネグロが日本に宣戦布告してませんか、そしてまだ終戦してないんじゃないですか」と質問主意書を国会で提出したのである。これに対し当時の政権は「日本としてはモンテネグロが宣戦布告した事実はないと思う (参考)」と回答。しかし一応は特使を派遣して停戦状態を確認した、ということが報道されている (参考) 。

これだけ聞くと「一回も戦闘してないどころか途中で片方は政体が変わり、片方は存在しない時期すらあった」というわけがわからない戦争で笑い話にになるのだが、ゆはるは動画『【日黒百年戦争】実は日本は2006年まで戦争状態にあったという話』において、日本は日英同盟を結んでいたことからモンテネグロの宣戦布告が国際的に認められていた場合イギリスが参戦していた可能性があり、更にロシアも露仏同盟を結んでいたことから (露仏同盟の仮想敵国ではないものの) フランスも戦争に突入する可能性があった。そうなるとこの宣戦布告が認められていた場合世界大戦になる可能性すらあったということで笑えない展開になっていた可能性もある。

ちなみに102年も『敵国』だった割に両国に蟠りは一切ない。というかあるわけもない。

第一次世界大戦

当事者 開戦 終戦 期間
ドイツ コスタリカ 1918年 - 106年
(継続中)

イギリス・アメリカはコスタリカの1917年に成立したフェデリコ・チノコ・グラナドス政権を承認しなかった。チノコ政府はコスタリカの経済のため、融資や外国投資の呼び水としてアメリカに承認させようと、第一次世界大戦において1918年にドイツ帝国に宣戦布告をしかけたが、結局アメリカには振られてしまうことに。そのため、パリ講和会議にコスタリカは招請されることもなく、その後チノコ政府は崩壊。新政府はチノコ政府の諸決定を無効とした。

しかし国際法上はコスタリカとドイツが個別の和平合意を行っていないので戦争状態は継続していることになっている。コスタリカは2024年現在国軍を廃止しており、仮に戦争をするなら警察隊が戦うことになる。

百年戦争

当事者 開戦 終戦 期間
イギリス フランス 1337 1453 116年

英仏2ヶ国が争った戦争なのだが、当時イングランドを統治していたのはプランタジネット朝、後ランカスター朝とフランスの王朝であり、したがって一応これは『内戦』ということになる。しかしこの戦争がきっかけでイギリスとフランスの国境が確定し、「イギリス」という国が成立した戦争ということもあり、歴史上重要な位置づけを持つ。

戦争そのものは間歇的であり、休戦時期もあったため、100年間ずっと戦争中というわけでもなかったが、対立はずっと続いている。

ジャンヌ・ダルクが登場したのもこの戦争であり、それ故に創作のモチーフになったりすることもある。

クリミア戦争

当事者 開戦 終戦 期間
ベリック=アポン=ツイード ロシア 1854年 - 171年
(継続中)

ベリック=アポン=ツイードはスコットランドとの境にあるイングランドの町であり、しかし奇妙な立ち位置を獲得していた。16 - 17世紀には「ベリック=アポン=ツイードは王国のものであるが王国には含まれていない」とされていた。後に「ベリック=アポン=ツイードはイングランド王国またはグレートブリテン王国の一部がイングランドと呼ばれるすべての場合において、これはウェールズ自治領とベリック=アポン=ツイードを含む」と宣言するウェールズ・ベリック=アポン=ツイード法が1746年に制定されたが、それ以降もベリック=アポン=ツイードを記述に含める慣習は継続されていたのである。実際、ベリック=アポン=ツイードの人々はイングランドよりはスコットランドの方に親近感があるらしい。

後にイギリスがロシア強硬論に傾いてフランスと共同でロシアに宣戦布告をした際には当然、ベリック=アポン=ツイードもロシアと戦争状態に入ったはずであった。なにしろ、当時のヴィクトリア女王は1854年3月28日にイギリスがロシアに宣戦布告した際、ヴィクトリア女王は「ヴィクトリア、グレートブリテン、アイルランド、ベリック・アポン・ツイード、海の向こうのイギリス自治領の女王」と署名していたのだから。しかし、1856年のパリ条約では、「ベリック=アポン=ツイード」という記述は抜け落ちていた。よって、今でもベリック=アポン=ツイードはロシアと戦争している――と言われている。流石にジョークの領域だが。

スペイン独立戦争

当事者 開戦 終戦 期間
ウェスカル市 デンマーク 1809年 1981年 172年

スペイン独立戦争は1808年にスペインがポルトガル・イギリスとともにナポレオン率いるフランスに対する反乱を起こしたものである。このときデンマークはフランスを支援していたため、スペインのウェスカル議会は1809年にデンマーク=ノルウェーに宣戦布告した。しかし1981年に地元の郷土史家が宣戦布告を発見するまではこのことは忘れられていた。片方はスペインの一都市にすぎず、片方はスペインから遠く離れた北欧であり、宣戦布告をしかけたはいいがそもそも交戦することもなかったのである。

とはいえ宣戦布告を無碍にするわけにもいかないので、ウェスカル市で駐スペインデンマーク大使とウェスカル市長の間で平和条約が締結されて終結した。172年間武器を交えることもなく、1人も死なずに終わったという点では日黒百年戦争と似ている。

三百三十五年戦争

当事者 開戦 終戦 期間
オランダ シリー諸島 1651年 1986年 335年

無血長期戦争という点では、上には上があることを示すのがこの三百三十五年戦争。一般に「無血最長戦争」とまで称される。

この戦争はピューリタン革命において、イギリスの王党派と共和派が対立し争っていたことが発端である。王党派の軍隊 (国王軍) は共和派の軍隊 (議会軍) に徐々に追いやられ、シリー諸島が最後の砦となっていた。

そんな最中、オランダは八十年戦争の仮定でイングランドに援助を受けていたことから、イングランドとの同盟を維持したいと考えており、内線で有利な方と同盟を締結しようと考えていた。そのため趨勢を見たオランダは議会軍と同盟を締結したが、そのためかシリー諸島から度々被害を受けていた。これに苛立ったオランダ海軍のマールテン・トロンプ提督は1651年にそのシリー諸島に宣戦布告 (議会軍は同盟なので、イングランドの大半はオランダの『味方』であり、したがって唯一のオランダの『敵』はシリー諸島だけだったわけである) 。

しかしその宣戦布告のわずか2ヶ月後、国王軍は議会軍に降伏。オランダはシリー諸島で一発の銃弾も発砲することさえなく撤退した。こうなると一応オランダの勝利、ということになるが、「国家が、別の国家の特定の一地域にだけ宣戦布告をする」という妙な事態であることもあり、しかもそれを行ったのがオランダ議会でもなく海軍提督ということもあってか終戦宣言も出されず、次第に忘れ去られてしまっていた。

しかし1985年、シリー諸島の議長で歴史家であったロイ・ダンカンが、ロンドンの駐英オランダ大使館に「シリー諸島がオランダと戦争を継続している」可能性を説明。オランダ大使館もこれが事実であることを確認し、ライン・ハイデコペルオランダ大使 (当時) がシリー諸島に招かれ、平和条約に調印された。ハイデコペルは「シリー諸島の人々はオランダからいつ攻撃されるか分からず不安だったでしょうね」とジョークを飛ばしている。

アラウコ戦争

当事者 開戦 終戦 期間
チリ共和国
(←スペイン帝国)
マプチェ族 1536年 1883年 347年

日黒百年戦争・スペイン独立戦争 (ウェスカル市 - デンマーク) ・三百三十五年戦争が実際には一人も死んでいないのに対して、このアラウコ戦争は347年に渡って殺し合いが続き、更に終戦してなおも2024年現在チリ政府・多数派のチリ国民とマプチェ族の間に対立と差別をもたらしてしまっている。

1536年にスペイン帝国がマプチェ族にしかけた征服戦争。チリ共和国がスペインからの独立を勝ち取った後はチリ共和国がやはり版図拡大のためにマプチェ族に戦争を継続し、347年の長期戦争となった。

インカ帝国・スペイン帝国の侵略に長く抵抗を続けてきたが、チリ共和国が成立すると、チリの経済発展に伴う人口増加から居住地確保問題が浮上し、マプチェ族の地はチリのものだという思想もあった。このときフランス人冒険家のオルリ・アントワール・ド・トゥナンがアラウカニア・パタゴニア王国の建国を宣言したことで、かえってチリ共和国は「非合法国家の打倒」という口実を得ることができ、正当な理由でマプチェ族を抑え込むことができるようになってしまった。マプチェ族の間では長引く戦争によって飢餓と病気の蔓延により人口は著しく現象してしまい、チリに恭順する他なかった。こうしてマプチェ族はかつてインカ帝国・コンキスタドールに抵抗した勇猛な民族から一点、チリにおいて迫害され、動産・不動産問わず接収され貧困に晒される少数民族に成り下がってしまった。今なおチリにおいてマプチェ族は差別に晒され続けており、かつマプチェ族の土地はシェールガスが豊富に取れるという事実により、マプチェ族が権利を回復する日は遠い。

ポエニ戦争

当事者 開戦 終戦 期間
ローマ カルタゴ B.C.264年 1985年 2249年

「ともあれ、カルタゴ滅ぶべし」で有名な戦争。ローマがカルタゴを征服し、徹底的に滅ぼしたことで知られている。流石に塩をまいたというのは後世の創作であるが……。

こうして戦争そのものはB.C.146年には終了していたはずだったが、しかし徹底的に滅ぼしたことで逆に互いに平和条約を締結することはなかった。

1985年、ようやくローマとカルタゴの両市長は平和条約と友好協定を締結。これによって2249年に及ぶポエニ戦争はようやく終わった。しかしこれより長い戦争が実は存在する。

ペロポネソス戦争

当事者 開戦 終戦 期間
アテナイ スパルタ B.C.431年 1996年 2427年

アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の間に発生した戦争。古代ギリシア全土を巻き込んだ大きな戦争となったが、B.C.404年にアテナイの降伏を持って終戦した。――はずだった。

しかし両ポリスは平和条約を締結していなかったので、ポエニ戦争以上の長期戦争になっていたのであった。25世紀が経過することを期に、「平和協定」を締結し、ここにペロポネソス戦争は終戦したと公式に宣言された。

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