織田信重とは、戦国武将の1人である。
1 織田信長の長男、のち織田家当主。勘九郎信忠。(1555?~1582)
2 織田信包の庶長子。三十郎信重。(????~????)
3 津田信澄の長男。三左衛門昌澄。(1579~1641)
4 織田信次の孫。津田左馬允盛月。(信次は織田信長の叔父、別名に織田信勝)(1534~1593)
同姓同名がやけに多いが、本稿では1について言及する。
織田信長の長男として1555年または1557年に誕生。幼名は奇妙丸。元服後は勘九郎信重、のち信忠と改める。
実母は諸説あり、確認できる史料では「久庵慶珠」とされているが、これが誰なのかはっきりしない。
生駒氏(生駒吉乃)から、美濃系の女性(濃姫の縁者または女中)、はては濃姫本人とまで言われている。
生駒氏である場合は織田信雄と同母兄弟となるが、生駒氏の葬儀において
茶筅丸(織田信雄の幼名)が喪主を務めているので、織田信雄とは異母兄弟であった可能性が高いとも。
(信忠の実母が生駒氏なら、生駒氏の葬儀喪主は信忠がやる可能性が大)
1572年または1573年に元服。ここで勘九郎信重と名乗る。織田氏は代々織田信定、織田信秀、織田信長と
「三郎」を名乗っているが、信重は「勘九郎」であった。なおかつて美濃を治めた斎藤道三の系統は
「庄九郎」「新九郎」と「九郎」を名乗っており、信重自身も濃姫の養子になった逸話があり、斎藤家とは
強い縁があったと指摘されている。なおのちに側近となる斎藤利治は斎藤道三の息子である。
1573年、浅井長政、朝倉義景との戦いで初陣を果たし、前線基地である虎御前山砦を守備した。同年父である
織田信長は両氏を滅ぼした。1574年は東濃における武田勝頼との戦い、伊勢における長島一向一揆に従軍。
1575年、信重は河尻秀隆らを率い、武田勝頼に奪われた東濃を奪い返すべく出陣。岩村城で武田重臣である
秋山虎繁(秋山信友)を攻める。秋山は夜襲を仕掛けるもこれを見抜かれて撃退され、降伏。
織田信長の意向により、秋山信友、そしてその妻である遠山夫人を処刑。遠山夫人は信長の叔母であった。
1575年11月、織田信重こと織田信忠は尾張美濃を父である信長から譲られ、また織田信長の隠居により
織田家家督を継承、織田家当主となった。実権はまだまだ信長が握っていたが、これで便宜上信忠は
織田家当主となる。織田信長は安土城、織田信忠が岐阜城という二頭体制がここに始まった。
織田信忠が織田家当主となったのち、織田家では新体制が続々と出来上がっていた。
それにはいくつかのきっかけがある。まず、1576年5月、織田家重臣であった原田直政が
石山本願寺勢と戦い敗死。天王寺砦に織田軍武将であった明智光秀らが孤立無援で取り残された。
この戦いで織田信長はわずか3000で15000もの大軍を退ける奮戦を見せる。しかし、敵の鉄砲によって
信長本人も負傷するに至った。信長公記では「薄手」とするも「天道照覧」とあり、薄氷の勝利であったといえる。
次に1577年11月、織田信長は能登畠山氏を救援するため軍を編成。柴田勝家を総大将とし、
北陸衆や羽柴秀吉、丹羽長秀らも加えた大掛かりな布陣で畠山氏を救援させる。これには畠山氏を
攻略せんとする上杉謙信への牽制もあった。しかし、作戦立案を巡って秀吉・勝家が対立。羽柴秀吉は
独断で離陣し、残った武将は柴田勝家を中心に目的達成しようとするも、上杉謙信によって敗退させられる。
後世様々な説や史料研究の対象となる、世にいう「手取川の戦い」である。
この時期の織田家は、足利義昭によって編成された、俗に言う信長包囲網により多方面に敵を抱える
状況であった。上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺、武田勝頼、北条氏政らが協調して信長に当たるよう、
足利義昭は策を巡らしていたわけである。一方織田家は、当主である織田信長が率いた織田軍は精強無比であり
かつての桶狭間、刀根坂、天王寺のような劣勢であっても跳ね返せる強力な軍団を率いることができた
ものの、信長のいない戦場では家臣の不協和音や独断専行などを招き、思うような戦果をあげられない状況で
あった。すなわち「信長不在でありながら、まるでそこに信長がいるような一元的軍隊」が求められたわけである。
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最終更新:2025/12/08(月) 17:00
最終更新:2025/12/08(月) 16:00
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