「織田信長」(おだ・のぶなが 1534 ~ 1582)とは、日本の戦国時代の武将・大名。説明不要の戦国時代の天下人であり、三英雄の一人。「第六天魔王」にして「覇王」な「尾張のうつけ」である。
織田信長の詳しい事績については、Wikipediaや信長フリークの本、ないし当時の史料など参照にされたし。
尾張の武将織田信秀の子。幼少の頃は行儀が悪かったりしたので「大うつけ」と呼ばれた。(演技だったが)。当時織田信秀は今川義元、斎藤道三と戦うも劣勢が続き、斎藤道三の娘である斎藤氏(濃姫)を信長の正室に迎える。その後、織田信秀が病によって病没すると、織田信友、織田信清、織田信勝といった尾張での抗争を経て、隣国の大大名今川義元を桶狭間の戦いで破り、義元を討ち取った。その後も戦い続け、尾張平定を成し遂げた。
元今川家臣であった徳川家康との同盟を経て、織田信長は美濃攻略へと向かう。美濃は斎藤道三を敗死させた斎藤義龍やその子斎藤龍興が治めていた。当時の美濃は武田信玄などがその勢力を伸ばさんとしていたが、織田信長は7年かけて大国美濃を攻め取る。家中の不穏分子も取り払い、この時点で120万石を領する大大名となった。
一方当時中央では、足利義輝を弑逆した三好三人衆と、三好義継・松永久秀らが抗争を続けていた。信長は足利義昭の依頼を受け、上洛。浅井長政に妹(または従妹)とされるお市の方に嫁がせ、その麾下に加えた(と本人はそう思っていたらしい)。道中六角義賢を破って南近江を取り、見事足利義昭を上洛に成功させる。
しかし、信長の躍進を快く思わない三好三人衆らは、朝倉義景、浅井長政、六角義賢、石山本願寺らと語らって挙兵。信長は多方面に敵を抱えるようになり、後世信長包囲網と呼ばれる反信長勢力との戦いの始まりである。ことに浅井長政の離反は、信長自ら「虚実あるべし」と述べたとされるほど、信じがたい話であったという。
しかし織田信長は持ち前の戦術采配を発揮し、朝倉義景・浅井長政らを打ち破っていく。しかし、戦争のうまい信長との直接対決を避け、志賀の陣で浅井朝倉は比叡山に籠城。長期の戦争で他方面の敵を不安視した信長と、朝倉景鏡をはじめ家中統制が不安視される朝倉義景の間で和睦が成立。機を見るに敏とされ、戦況不利とあらばなりふり構わず戦争を終らせる信長の、また1つの真骨頂であった。
そしてもう1つの真骨頂といえば、その怒涛の如き殲滅性であった。桶狭間の戦いで今川義元本陣を強襲し、義元以下重臣を数多く討ち取った戦術的采配は、以後も真価を発揮していく。1572年、浅井長政や朝倉義景を追い詰め、翌1573年に反信長勢力が期待していた武田信玄が病没すると、いよいよ後世魔王と言われる織田信長の躍進を止められるものはいなくなった
織田信長は同年、足利義昭を速攻で攻めて降伏、追放させると、8月には朝倉義景を一気果敢に攻めてこれを滅ぼす。この時信長は自ら馬廻とともに先頭に立ち、暴風雨の夜の中大軍の朝倉勢を散々に打ち破った。同時期に羽柴秀吉に命じて浅井長政を攻め、これも滅ぼす。翌年、織田信長は伊勢長島を攻め、2万人を焼き殺した。これには降伏しようとした一揆勢が一門衆を急襲したことや、織田信興を自刃させたことに対する報復と言われている。
1575年、織田信長は徳川家康と組んで長篠の戦いで武田勝頼を撃破。精強武田軍を数多討取り、多数の武田重臣が戦死した。武田家の資料と言われる甲陽軍鑑では「長篠で勇士100人中98人が死んだ」とまで言われるほどであった。翌年は天王寺において3000の兵で15000の本願勢を撃破。内政面では絢爛豪華な安土城を築き、その後も荒木村重、松永久秀、別所長治、武田勝頼といった多くの勢力を滅ぼした。
1582年、織田信長は朝廷から太政大臣、関白、征夷大将軍のいずれかに就任するように要請を受けた。既に織田信長の直轄勢力は日本の過半を占め、東北・九州などの遠隔地でも信長と通じ、その影響を受けた勢力を含めれば日本のほぼ全てが彼の勢力下にあった。もはや織田信長の天下は定まり、新しい時代が来ると皆が思った。織田信長へ徹底抗戦を続ける上杉景勝も「冥土の土産」と述べるほどであった。だが、織田信長は朝廷の要請を保留[1]。
そして、信長の返答が来ることはなかった。1582年6月2日、京の本能寺にて、明智光秀の謀叛にあい自刃。息子である織田信忠も自刃した。その後、織田家は勢力を縮小させたが、織田信雄らによって命脈を保ち、江戸時代ひいては近現代までその子孫が続いている。
織田信長がやり残した新時代への体制構築は、その後豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれた。
ニコニコ動画では、織田信長を直接扱った動画いくつかと織田信長を題材とした作品(ゲーム、ドラマ、…)をもとにした動画が投稿されている。
三英雄とも言われる。織田信長と、豊臣秀吉、徳川家康と戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代の天下泰平に至る、日本の中世から近世にかけての重要人物としてこの3人が挙げられる。
三名の天下の取り方はそれぞれに個性があり、信長は他の二人と比べて苛烈な政策で天下を取ったといわれることが多い。これは戦国時代に滅亡した大名家のほとんどが信長によって滅ぼされたものであることから明らかである。
この三名を比較したものとしては「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」「鳴かぬなら ○○○○○○○ ほととぎす」などの唄も有名である。
1567年に岐阜城に本拠地を移してから使い始めた印文(ハンコの文字)。「天下に武を布(し)く」=天下を武力で支配する、といった意味だと言われているが、ハンコ以外で使われた形跡が見当たらないため、本当の意味は良く分からない(そもそも「天下」を指す範囲は日本全国ではなく畿内の事だという説もある)。「信長は他の大名全員にケンカを売ったというのか」「他の大名に対しては天下布武の印判状(ハンコを押した書状)は出していない」などなど、いまだ議論が続いているネタの一つ。
信長は天下統一直前で本能寺の変に没したといわれているが、味方によっては彼は『天下』統一を達成している。
戦国時代の中世から近世にかけての「天下」とは天皇および足利将軍がいる京都と、その周辺地域を主に指しており、そしてこれは信長の直轄勢力圏にすっぽり含まれている。つまり、本能寺の変が起こる前にすでに織田信長は(当時の価値観での)天下を掌握していたのである
また、信長は朝廷からも右大臣の官位を受けており、さらに上記されている通り太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかへの就任も打診されている。平清盛、源頼朝、足利義満などをはじめ、歴代天下人が叙任されたものであり、これは朝廷からも信長が天下人として認められていたことの証拠である。このあたりの官位の重要性については三好長慶の記事の「天下人議論」の項を参考にされたし。
信長に残されたミステリーのひとつ。信長を「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」のどれか希望するものに任じよう(三職推任)という話が持ち上がったが、直後に本能寺の変が起こり、信長自身がどう対応したのかは永遠の謎となってしまった。
詳細は三職推任問題の項を参照。
既存の常識や価値観などを片っ端からぶっ壊そうとしたと思われがちだが、実際はそういうわけでもない。壊したもの有り、変えたもの有り、そのままにしたもの有り・・・といった感じで、一口には言えないのが実情である。強いて言うなら「それぞれを天下統一のために適切に扱っていた」くらいだろうか?ちなみに朝廷からは中興の祖のように思われていたようである。
1573年、武田信玄が同盟を破棄して攻め込んできた際、信玄は一通の書状を信長に送りつけてきた。これに対し、信長も信玄の書状を送り返した。この書状に使われていたという署名が「第六天魔王 信長」。ちなみに信玄の方は「天台座主沙門信玄」と署名していたという。
・・・と当時来日していたキリスト教宣教師ルイス・フロイスが書き留めているが、この2つの書状は実在が確認できず、内容も全く不明。よって、こう名乗った信長の意図も推測するしかない。
字面のインパクトが凄いためか、創作では信長を表す単語として多用される。
信長が若いときに使用していた名乗り。『介』とは律令制において朝廷から派遣される分国の次官級の役職の事。上総介だと上総国の次官であるということになる。他の大名や武将の名乗りによくある「○○守」の『守』も分国の長官のことを指す。
ちなみにこの名乗りは朝廷から正式に与えられたものではなく、自称である。この時代では各地の武将が役職を勝手に名乗ることはよくあった。また、ごく初期には「上総守」を名乗った事もある。が、上総国は特例で守が存在しない国だった[2]。つまり信長は存在しない役職を名乗っていたわけで、上総守の使用は短期間ですぐやめている。
使用していたのが若い時期ということもあり、ある意味第六天魔王以上に信長の黒歴史である。
恐ろしげな異名、苛烈な逸話で知られる信長だが、人間らしい話も多く伝わっている。
信長が岐阜と京都を頻繁に行き来していた頃、美濃と近江の国境の山中という場所に、体が不自由な乞食がいた。雨を凌ぐ術もなく濡れ鼠になっている男を見た信長は、土地の者に尋ねる。
土地の者は「あれは山中の猿と呼ばれております。かつて先祖が常盤御前(源義経の母)を殺した為、天罰として代々あのように体が不自由なのです」と答えた。これを哀れんだ信長は、次に山中を訪れた際、土地の者を集めて木綿20反を与え、こう言った。
「これをそなたらに与えるので、半分を売った金で山中の猿の為に家を作ってやってほしい。米や麦が実ったら、そなたらの負担にならない程度に少しずつ与え、飢え死にしないように面倒を見てやってくれ。そうしてくれたら自分はとても嬉しく思う」
これを聞いた山中の猿はもちろん、土地の者や信長の家臣らも等しく感激し、涙を流さぬ者はいなかった。
またある時、出陣の為に領内を通りかかったおり、農民が道端でいびきをかいて寝こけていた。
家臣が「けしからん」と切り捨てようとしたのを信長は制し、「兵は戦いが仕事、農民は土を耕すのが仕事だ。ああして土の上で眠っているのは良い事だし、俺は好きだ」と笑ったという。
安土城でも庶民との触れ合いを楽しみ、自ら茶を点て、踊りつかれた人の汗を拭いてねぎらったという話が伝えられている。
また目をかけていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の妻・ねね(高台院)に対し、次のような手紙を送っている。
実際にはかな文字が多く、ねねでも読みやすいように配慮した内容となっている。
仰せの如く 今度はこの地へはじめて越し 見参に入り 祝着に候
殊に土産色々美しさ 中々目にも余まり 筆にも尽くし難く候
祝儀は仮に この方よりも何やらんと思い候はば その方より見事なる物 持たせ候間
別に心さしなくのまま まずまずこの度はとどめ参らせ候
重ねて 参りの時 それに従うべく候就中 それの見目ぶり 形まで いつぞや見参らせ候折節よりは 十の物廿ほども見上げ候。
藤吉郎 連々不足の旨申のよし 言語同断 曲事候か
何方を相尋ね候共 それさまの程のは 又二度 かの禿ねずみ 相求め難き間これ以後は 身持ちを良う快になし いかにもかみさまなりに重々しく悋気などに立ち入り候ては然るべからず候
ただし 女の役にて候間 申すものと申さぬなりにもてなし 然るべく候尚 文体に羽柴には意見 請い願うものなり
又々 かしく
藤吉郎 女ども
のぶ(意訳)
このたび、安土に初めて訪ねてきてくれて嬉しく思う。
更に土産の数々も美しく見事で、筆では到底表せない程だ。
返礼に私の方からも何をつかわそうかと思ったが、そなたの土産があまりにも見事で、一体何をお返しすれば良いか思いつかなかった。
そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。そなたの美しさも、前に会った時よりも、十のものが二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が何やら不足を申しているとの事だが、言語道断、けしからんことだ。
どこを探しても、あのハゲネズミ(秀吉)はそなたほどの女性を二度と見つける事は出来ないだろう。これよりは身持ちを良くし、奥方らしく堂々と振る舞い、やきもちなど妬かぬようしなさい。
ただし女房のつとめとして、言いたい事は全部言うのではなく、ある程度に留めておくと良いだろう。
言うまでも無く、公式でチート。野望は流石の100。ただし、能力値が総合1位になるのは実は創造が初めてであり[3]、天下三英傑にして同作主役という地位にありながら、見ようによってはなかなか不遇な人物であった。特に嵐世記では統率75と凄まじく能力を下げられている。流石に評価が是正され、元の地位に戻っていった。とはいえ、特技面や戦闘バランスでも恵まれており、最強の一角であることは間違いないだろう。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 93 | 政治 | 99 | 魅力 | 98 | 野望 | 100 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 87 | 政治 | 95 | 魅力 | 97 | 野望 | 100 | 教養 | 80 | ||||
覇王伝 | 采配 | 97 | 戦闘 | 89 | 智謀 | 84 | 政治 | 96 | 野望 | 100 | ||||
天翔記 | 戦才 | 190(A) | 智才 | 192(A) | 政才 | 198(A) | 魅力 | 98 | 野望 | 100 | ||||
将星録 | 戦闘 | 94 | 智謀 | 95 | 政治 | 98 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 94 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 93 | 政治 | 98 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 75 | 智謀 | 85 | 政治 | 89 | 野望 | 100 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 82 | 知略 | 88 | 政治 | 90 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 82 | 知略 | 86 | 政治 | 90 | 教養 | 76 | ||||||
革新 | 統率 | 92 | 武勇 | 89 | 知略 | 96 | 政治 | 105 | ||||||
天道 | 統率 | 100 | 武勇 | 89 | 知略 | 94 | 政治 | 97 | ||||||
創造 | 統率 | 99 | 武勇 | 87 | 知略 | 94 | 政治 | 100 |
「俺達で、新たな世を作るのだ!」
戦国大戦での信長は五枚存在するが、四枚のみ紹介する(残り一枚はスターター専用のため割愛)。一枚目は1560 尾張の風雲児の副題通り若かりしころの姿。高武力・高統率な織田家の顔であり、計略の「天下布武」は各軍の大名采配で最もスタンダードな計略と言えるだろう。織田家の武力と統率を上げるため、自軍部隊の制圧力が大幅に上がる。
「屁のつっぱりはいらんですよ!」
もう一枚は、戦国傾奇(漫画とのコラボ枠)で登場したどう見てもキン肉マンな信長。
コスト3.5で武力9統率2(肉のゴロ合わせとのこと)と一見寂しいスペックに見えるが、特筆すべきはその特技「肉」。
「気合」とは比べ物にならない兵力回復速度により驚異的なしぶとさを持ち、まさに要塞と言えるレベル。計略「火事場のクソ力」は兵力が少ない程武力が上がり(ちなみに最大値は29とこちらも肉である)、発動中は異様な硬さとなり弓や瞬間的に兵力を減らせる計略でもない限り撃破はほぼ不可能なレベルとなる。
「鉄砲隊、三段に構えよ!」
そして舞台は1570年に移り、信長包囲網の時代に追加された新カードの彼は、まさに「魔王」と呼ばれるに相応しい貫禄を持った風体になった。計略の「三段撃ち」は、長篠の戦いでの逸話の通り、計略中は味方の武力が上がると共に鉄砲隊のリロード速度が大幅に向上し、三発目を撃ち終わってすぐに装填が完了する有様である。まさに相手に反撃を与えずに蜂の巣にすることが可能な計略といえよう。
「紅蓮の炎に包まれるは貴様か、はたして俺か……!」
ver.2.0で遂に本能寺の変の彼が参戦した。イラストはとてもこれから自刃するとは思えない程のすさまじい迫力で、歴代信長の中でも最も魔王らしいイラストとなっている。
スペックは武力11統率11に制圧魅力と全武将中最高クラスのスペックで、コスト4に加えて槍兵という組み合わせ故に全武将中最強の攻城攻撃力を持つ。計略の「是非に及ばず」は範囲内の味方の武力と統率を大幅に上げる代わりに効果時間中徐々に統率力が低下するというもので、統率が一定以下になると撤退する。消費士気8という重さの割に武力上昇地は一般的な采配と同レベルで派手さには欠けるものの、効果は撤退するまで続くため計略の効果時間は長く、扱いは難しいが強力な計略である。
初代からPCとして参戦。身長190cm(声優:小杉十郎太)
武器は紫色の妖気をまとった西洋風の刀で、振るたびに「ブン」という音が鳴る。
アクションは特殊技タイプ。この特殊技を使うと、チャージ技が強化されたり、バリアが張られたりする。
能力値はすべての能力値がほぼ平均以上という、信長らしい値。
少しトリッキーな動きをして攻撃するスタイルなので、初心者が使うと少し難しいが、慣れるとめちゃくちゃ強い。
見た目はどの作品でも黒を基調とした西洋風の鎧を着ており、黒い羽やオーラが体から出ている。…お前本当に人間かよ…
どの作品でも、上の記述にもあるように革命的な思想をもっており、既存の道徳概念や思想を否定していく。
それゆえに苛烈な性格をしており、カリスマ性と哲学的な考え方をもった人物である。
しかしながら、ナンバリングによって少し性格が違う。1ではかなり冷酷で「魔王」といった性格。2では少し優しくなり、武士として「死」を受け入れている人間を嫌う性格。3では時代を進めることを第一に考えている。4では1のように苛烈で冷酷だが、「己の決意を大事にする奴は最後までがんばれ」という少し変わったタイプの性格。共通しているのは、どれも普通の人間には理解することが難しい性格をしているということである。
しかしながら、家臣たちには恐れられつつも、信頼はされている。
史実通り、秀吉を「さる」、元親を「鳥なき島の蝙蝠」と呼んでいるシーンもある。
織田信長(戦国BASARA)の記事を参照
織田信長を題材とした作品、及び、メインキャラクターとして登場する作品
その他多数。「信長枠」の記事も参照。 |
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最終更新:2024/04/25(木) 05:00
最終更新:2024/04/25(木) 05:00
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