薬研藤四郎とは、ブラウザゲーム「刀剣乱舞」のキャラクターである。
CV:山下誠一郎 / 絵:石商
粟田口吉光作の短刀。藤四郎兄弟のひとり。
名の由来は、石で出来ている薬研を切るほど
「切れ味抜群だが、主人の腹は斬らない」と評判になったことから。
戦場育ちのため、少々医術の心得あり。
(刀剣乱舞絢爛図録より)
刀種は短刀。刀派は粟田口。
戦装束のデザインは、刀派共通の軍服風の洋装。太腿がとても眩しい。
現在身長がわかっている短刀の中ではそれなりに高い部類。太ももが眩しい。
黒髪に紫色の瞳が特徴的な細身の美少年の姿をしている……のだが、主である審神者の事を「大将」と呼ぶほか、口を開くと非常に漢気溢れる言動を端々に見せる。お前のような短刀がいるか。
放置ボイスでは「大将居眠りか? 体冷やすなよ」と審神者を気遣い、鍛刀で仲間が増えると「おっと新入りか。その辺、案内しとくよ」と気さくに引き受けるなど、面倒見のいい気質が伺える。
これら言動の端々から伝わる包容力の高さから、俗に「柄ラー」と呼ばれるファンからは「兄貴」の称号を授かった。薬研兄貴→薬研ニキ→ニキという異名も。
他にも審神者を「大将」と呼んで慕う厚藤四郎(刀剣乱舞)・後藤藤四郎(刀剣乱舞)・信濃藤四郎(刀剣乱舞)らで、非公式ながら「大将組」と呼ばれていたりする。
長く戦場にいた事もあり、医術の心得を持つ。腰に下げた薬籠や包帯、鋏が入ったポーチを見るに、応急手当に用いるものかと思われる。
また内番衣装では、粟田口共通のデザインとは異なり、灰色のシャツに半ズボン、白衣を纏って眼鏡をかけている。「さあ……治療の時間だ」(ログインボイス)と囁かれて陥落した柄ラーは相当数に上る。
戦場育ちということもあり、出陣すると血が滾る模様。隊長に指名すると「面倒みりゃいいんだな?わかった」と頼れる台詞を放ち、会心の一撃では「柄まで通ったぞ!」、追い詰められて一騎打ちともなると「さぁ……地金を見せろやぁ!」と吠える。
一方で内番において馬当番をさせると、馬に舐められるのが苦手な様子。かわいい。畑仕事も「うーん、まぁ、うまいメシのためと思えば……」と言いながら楽しんでいる模様。
また、手合せにおいて一期一振(刀剣乱舞)との間で特殊会話が発生する。
性能としては、統率が短刀内5位とやや高め。偵察(全体18位・短刀内12位)・隠蔽(全体15位・短刀内5位)が高い一方で、生存・打撃が低めである。
生存に関しては畑当番をこなして地道に上げるしかないが、短刀の本領を発揮する夜戦においては充分な働きを見せる。
一周年を迎えて公開された記念イラストではデカい鯛をどこからともなく調達、審神者(と柄ラー)を驚かせた。
これに触発されたMMDerにより、盛大にデカい鯛をぶん回す動画が作られてしまった。だが……
詳細は薬研フィルターを参照。
2016年東京ゲームショウにて「極(きわめ)」のシルエットが公開。2016年10月4日、実装された。
戦装束のデザインも変わり、左腕だけだった鎧袖が両肩になり、大幅に大きくなっている。また左胸には鳩尾板(きゅうびのいた)と呼ばれる外装が増えている。
更に黒と白の布をマントめいて装備しているが、これは信長が重用した「黒母衣衆」に由来するものではないかと思われる。
修行先は、薬研の最期の主であった魔王・織田信長その人の許。冷静に信長の本質を見極め、自身にとっても運命の地である本能寺に向かう姿を見送ってから、審神者の下へと帰還を果たす。守り刀としての己ではなく、自らの意思で動ける今の身を、審神者の為に役立てる決心をしたようだ。
また、ステータスも極前よりも格段に伸びているが、必殺と衝力は控えめ。とは言え(極全般に言える事だが)スロット数の増加、高いステータスにより、昼夜を問わず第一線でその力を振るえるようになった。
漢気溢れる物言いは健在。むしろ増した。
中傷を負っても「なぁに向う傷は誉れだ。問題ない問題ない」と言ってのけ、(来歴にかけて)「大将の守りは俺に任せてくれ。自殺なんかしたくてもさせないよ」など、頼もしい台詞を言うようになった。
鎌倉時代中期の刀工・粟田口吉光作の短刀。
短刀作りの名手として知られており、兄弟が多いのはこの為。
室町時代の守護大名にして室町幕府管領・畠山政長(はたけやままさなが)が所有していた。
明応2年(1493年)、明応の政変と呼ばれるクーデターにおいて、政長は敵軍に包囲され追い詰められる。覚悟を決めた政長が自害しようとした際にこの短刀を用いたが、どういう訳かなかなか腹に刺さらなかった。
怒った政長が短刀を投げ捨てると、傍にあった薬研(薬を磨り潰すのに使う道具)を表裏に貫いたという。これが攻撃時の台詞「柄まで通ったぞ!」の元ネタである。その後、政長は別の差料を用いて自害した。
この逸話から「切れ味が鋭くとも主の腹を切らない忠義の刀」と賞賛され、薬研通(やげんとおし)の名で呼ばれる事となった。
その後足利将軍家に伝来したが、十三代将軍・足利義輝が殺された折に、かの梟雄・松永久秀に奪われる。この短刀を久秀は織田信長に献上し、これを気に入った信長は本能寺の変で命を落とすまで傍においたという。
本能寺の変において薬研藤四郎は焼失したという説が一般的だが、異説ではその後豊臣秀吉の手に渡ったとも、更に徳川将軍家に伝えられたともある。「享保名物帳」には焼身として名を記載されているが、現在、その所在は解らない。
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最終更新:2025/12/06(土) 23:00
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