衆人に訴える論証とは、詭弁になりうる論証法の一つである。
多数が支持していることを根拠に、自らの説を正しいとする論証一般を言う。基本的には多数が支持していることは実際に正しい場合が多いのだが、多数が支持していることの「全て」が「常に」正しいわけではない。よって、多数が支持しているというだけでは自らの説を「必ず正しい」と保証することはできない。ただし、多数決による選択そのものや、あるいは自然言語の用法のような社会慣習のように、「多数の人々が支持しているかどうか」自体が論点となっている場合、「衆人に訴える論証」は妥当である。
わりと出現頻度の高い誤謬や詭弁の一つで、2ちゃんねるの有名コピペネタ「詭弁の特徴のガイドライン」では第五条に挙げられている。
衆人に訴える論証以外にも「正しい場合が多い」ものを「絶対に正しい」にすり替えて根拠とする詭弁は多い。
類似のものとしては、権威に訴える論証や伝統に訴える論証、新しさに訴える論証がある。
以前は多数に支持されていたが、間違いであったという反例で歴史的にも有名な話としては以下の2つがある。
かつて人々は天動説を定説として信じていた、ガリレオは地動説を説いて宗教裁判にまでかけられたが、現在では天動説は間違いであったとされている
アインシュタインは相対性理論で、速く移動するものは時間の進みが遅くなるといった。また、重力で空間は曲がるとも言った。
時間空間は普遍と思っていた当時の人々は全く理解できず、当初彼を支持するものは学者の中でも数人しかいなかったが、後の実験によってこれらは正しいことが証明された。
上記以外にもモンティ・ホール問題など事例は多数存在する。
たとえば「売れ筋No.1の商品だから他の製品より性能が優れている」というような主張に対しては、「売上と性能は必ずしも一致しない」ことを指摘したいわけだが、問題はその議論の場における多数派が衆人に訴える論証によって不当な意見を通そうとした場合に発生する。
制度上、少数派でも正しい主張を述べれば認められる環境がなければならない。公正かつ正確な判断力をもつ審判が存在して強制力を発揮できる環境でなければ、いくら正論を述べたところで実際の議論の場では結局のところ数で押し切られてしまうことが多い。ただし、制度として多数決制が採用されている場合は、そもそもが意志決定の場であり、初めから論理的に正しいかどうかは争点にされていないと理解するべきだろう。
現実的には、衆人に訴える論証に対して反論するとしても、その場の「衆人」というのが偏った利害関係者で構成され、多数決の結果が信頼できないということを主張するのが関の山かもしれない。どちらかというとノイジーマイノリティの問題である。
相手がただのノイジーマイノリティではなく本当に多数説である場合は、本気で反論するにはかなり覚悟がいる。勢力の多寡によって決められる種類の問題ではない根拠から論理を積み上げて自説の正しさを証明しなければならない。ただし、一つ忘れないで欲しいのは、あなたが傑出した天才などの特別な存在でない限り、確率論上は多数が支持していることの方が正しい場合が多いということである。いかに反論するかばかりにとらわれず、自分に見落としはないのか、本当は何が正しいのか、と自問することを忘れてはならない。
また、単純に「多数が支持している命題は正しい」という主張を、その形式が衆人に訴える論証になっていることを指摘しただけで否定してしまっては、それこそが必要条件と十分条件のすりかえによる詭弁であり、こちらがただのノイジーマイノリティに成り下がってしまう。これは、衆人に訴える論証で命題が「正しい」ことを保証できなかったのと同様、衆人に訴える論証であることを理由に命題が「間違っている」ことも説明できないからだ。
また、反証に使う根拠に間接的にでも「多数が支持しているから」というものが混じっているとブーメランになってしまう。対等な対抗意見にすることはできる可能性は残るものの、相手を否定することはできなくなってしまう。
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最終更新:2025/12/11(木) 07:00
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