香椎(練習巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した香取型練習巡洋艦3番艦である。1941年7月15日竣工。南遣艦隊の旗艦や船団護衛を務め、小型商船、油槽船、小型輸送船、曳船等を拿捕する戦果を挙げた。1945年1月12日にキノン湾北方で撃沈される。
艦名の由来は福岡県福岡市に所在する香椎宮から。
大日本帝國海軍では旧式化した装甲艦や戦艦を候補生の教育に充てていた。しかし1930年には5隻あった旧式艦が、1935年には磐手と八雲の2隻だけになってしまい、また志願者の増加や軍艦の進化により旧式艦の設備では物足りなくなりつつあった。一時は球磨型軽巡洋艦で急場を凌いでいたものの間に合わなくなってきたため、予算承認を経て練習用の艦艇を新たに新造する事にし、香取型練習巡洋艦4隻の建造を計画。香椎はその3番艦にあたる。今まで帝國海軍に「練習艦」の枠組みは無く、香取型の登場によって初めて制定された前例の無い艦種であった。このため本来であれば巡洋艦の基本計画番号であるCが使用されるはずが、水上機母艦や潜水母艦等と同じJが使われ、基本計画番号J-16となっている。練習艦ゆえに戦闘度外視で設計されており、建造費は1隻あたり僅か660万円。陽炎型駆逐艦の建造費が900万円なので予算が切り詰められていた事が分かる。
設計は迅鯨型潜水母艦を参考にして艦首楼船型を採用。船体強度こそ高いが装甲防御が皆無であり、商船同然の防御力しか持っておらず、また船体が軽いためバラスト587トンを装備して重心を下げている。士官候補生275名の居住区と諸訓練施設を確保する目的で高い艦舷を持ち、全幅も15.95mと幅広く取って艦尾に至るまで広い全幅を維持する事で訓練スペースを確保。艦内には座学を行うための講堂まで持っていた。機関科の訓練を行うため蒸気タービンとディーゼルエンジンを併用した珍しい機関構造となっており、低燃費化にも貢献している。この強みは燃料が枯渇しかけた戦争末期で重宝された。訓練航海の名目で外国の港を巡航する関係上、多くの人々の目に触れるため国の代表として恥ずかしくないよう、簡略化された内部とは対照的に外見は威容を誇っていた。他にも賓客や要人が訪れる司令室等の重要施設は前例が無いほど豪華に着飾り、巡洋艦という事で艦首には金色に輝く菊の御紋も備える。兵装に関しては軍部からの要求は無く、「戦闘に使用しない」「予算の範囲内で収める」との条件付きで設計者の大園大輔造船少佐に一任された。
姉の香取と鹿島には練習航海の機会があったが、国際情勢逼迫により香椎は一度も機会に恵まれなかった。
要目は排水量5890トン、全長133.5m、水線長130m、全幅15.95m、最大速力18ノット、航続距離は12ノットで7000海里、乗員315名と候補生275名。武装は50口径14cm連装砲2基、40口径12.7cm連装高角砲1基、25mm機銃4丁、53.3cm魚雷連装発射管2基、カタパルトと水上偵察機1機を保有する。
1939年に策定された海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、巡洋艦101号艦の仮称で建造が決定。予定では香取型は2隻のみ建造で終わるはずだったが、日華事変の長期化や米英を始めとする諸外国との関係の悪化により海軍士官の拡充が必要と判断され、追加でもう1隻建造される運びとなった。
1940年5月30日、豪華客船の建造ノウハウに富む三菱重工横浜船渠で起工。軍艦ながら詳細設計の大部分は三菱重工側に任されているという珍しい体制が取られた。8月30日に軍艦香椎と命名され、1941年2月14日に進水し、4月2日に艤装員事務所を設置する。順調に工事が進む中、対米関係の急速な悪化により国内は臨戦態勢に突入し、もはや練習巡洋艦として運用する機会は残されていなかった。このため戦闘と旗艦任務を見越して礼砲を4門から2門に減らして25mm機銃2門を増備し、磁気機雷対策用の舷外電路も装備された。建造中から運命に翻弄されながらも香椎は7月15日に竣工を果たし、初代艦長に岩渕三次大佐が着任するとともに佐世保鎮守府に編入された。
7月31日、南部仏印進駐と進駐後の東南アジア方面警備のため帝國海軍は南遣艦隊を新編し、香椎、海防艦占守、特設砲艦金剛山丸、特設掃海艇音羽丸、留萌丸、第81警備隊、第81通信隊が編入され、8月2日に香椎は南遣艦隊司令平田昇中将が乗艦する旗艦に指定。8月4日、中国国民党の補給路(援蒋ルート)となっているインドシナ南部に部隊を上陸させて遮断すべく、佐世保を出港。事前に宗主国ヴィシーフランスとの話がついていたため上陸作戦は円滑に進み、8月11日午前7時にサンジャックへ入港して第2遣支艦隊から指揮権を引き継ぎ、仏印方面を作戦範囲に定めた。こうして援蒋ルートの遮断には成功したものの、逆に米英を刺激して対日石油禁輸という手痛い経済制裁を招く結果となった。
戦争の足音が迫り来る10月15日、二代目艦長に小島秀雄大佐が着任し、10月18日には南遣艦隊司令に小沢治三郎中将が着任、対米英戦争に備えて10月21日に南遣艦隊は大本営直轄から連合艦隊直轄となり、10月24日、サイゴンで停泊中の香椎に小沢中将が乗艦。11月5日、香椎は南方部隊馬来部隊に編入され、これに伴って翌日南遣艦隊司令部は地上に移動。11月23日、海防艦占守とともにサンジャックを出港し、11月25日に艦艇の集結地となっている海南島三亜港へ移動。帝國海軍は南方作戦を見越して南遣艦隊の規模を拡充し続けており、練習巡洋艦に過ぎない香椎では指揮能力が心もとないため、小沢中将は陣頭指揮用に重巡洋艦を要求。これを受けて山本五十六司令は第4戦隊から鳥海を抽出し、11月27日に鳥海へ旗艦を移した。
12月2日、連合艦隊から「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を受信。これは日米外交交渉を打ち切り、12月8日以降に軍事作戦を開始する事を意味した。もはや対米英開戦は避けられない。帝國陸海軍はイギリス東洋艦隊の一大拠点があるシンガポールを攻略するためマレー作戦を策定。シンガポールはその堅牢さ故に海路からの攻略が困難なため、マレー半島のコタバルとシンゴラに第25軍を上陸させ、そこから南下して陸路でシンガポールに向かうのである。香椎には第25軍を乗せた船団を無事上陸地点まで送り届ける任が与えられた。
12月4日午前7時30分、コタバルとシンゴラに上陸する山下奉文中将の第25軍先遣兵団を乗せた7隻の輸送船を護衛して三亜を出港し、船団は第一警戒航行隊形を組む。香椎には第5師団長松井太久郎中将が乗艦していた。輸送船団にはバンコク方面に向かう船舶も含まれており、それらを全て合わせると17隻に及んだ。波はとても静かであったが、大本営にとってマレー半島沖に到着するまでの4日間は非常に気を揉んだ。ひとたび敵の攻撃を受ければ上空援護中の味方航空隊の奮戦に任せるしかないのである。12月6日19時に船団はタイ湾に向けて変針、翌7日午前10時10分には小沢中将の「上陸は予定の如く決行する」という旨の信号が旗艦鳥海から放たれ、その20分後に輸送船団は小船団に分かれて各々の上陸地点に向かう。幸いこれまでの航海で敵襲は無く、敵に発見された予兆も確認されなかった。後は作戦を決行するだけである。
1941年12月8日午前2時30分頃――真珠湾攻撃よりも前――、香椎は山浦丸を護衛してバンドン川河口の北約23海里に入泊し、第25軍の上陸支援を行う。迅速な上陸が功を奏して英印軍の迎撃が始まる前にバンドン飛行場の占領に成功した。午前7時には上陸成功したシンゴラに山下中将の戦闘指揮所が開設し、英印軍の迎撃を受けながらも上陸作戦は順調に推移。12月9日、第二次マレー上陸船団を護衛するため第3水雷戦隊の一部とともに第1護衛隊に編入され、船団が待つカムラン湾へ回航。
12月13日午前8時15分に軽巡川内と39隻からなる大規模船団を護衛して出港。先の上陸作戦の折、泊地内もしくは帰投中の輸送船が敵潜水艦に襲われる事態が多発したため、海軍の護衛艦艇を集めるべく2回に分けて送るはずだった船団を一纏めにし、総計39隻に及ぶ大規模船団が組まれたのだった。駆逐艦と掃海艇に先導された船団は二列縦隊を作り、その前後に巡洋艦2隻(香椎、川内)、駆逐艦3隻、駆潜艇1隻を配し、更に第4駆逐隊が前路哨戒を担当。14時30分、カモウ岬沖で陸軍輸送船東山丸が敵潜の雷撃を受けて擱座したとの報告が入り、17時10分に小沢中将より対潜警戒を厳重にするよう命じられる。マレー沖海戦によって目下最大の脅威された英新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが撃沈され、連合国海軍はしばらく立ち直れないと判断されたものの、未だ潜水艦の脅威は健在であった。
道中の12月15日に船団は二手に分かれ、香椎、川内、浦波、夕霧、朝霧、天霧、海防艦占守、第四号掃海艇の8隻はパタニ方面に上陸するグループの護衛についた。翌日船団はパタニ泊地に到着して航空関係者を揚陸。シンゴラ泊地を拠点にし、シンゴラ、パタニ、コタバルの海岸60海里圏内を警戒する駆逐隊に協力した。12月16日午後12時30分、香椎はシンゴラの25度54海里の沖合いで潜水艦らしきものを発見するが、正体は掴めなかった。偵察の陸攻から敵潜2隻の侵入が報告されていた事もあり、この日のうちにカムラン湾へ引き揚げる予定だったものの、橋本少将の命で引き続き警戒任務を続行する。しかし翌17日22時15分、パタニ灯台沖で特設駆潜艇長江丸が浮上中の敵潜3隻を発見して交戦したとの情報が入り、泊地を警戒する艦艇に衝撃が走った。特にシンゴラ方面は第4駆逐隊と掃海艇2隻の別方面抽出により警戒するのが香椎、占守、掃海艇3隻だけになっており、急遽コタバル方面で活動していた川内と浦波が派遣されたが、これでも対潜能力に不安を残していた。そこでパタニ方面の揚陸を中止してコタバルに移動させ、護衛戦力を集中する事で増大する敵潜水艦の脅威に対抗。12月17日13時、カムラン湾への回航を指示する馬来部隊電令作第50号が発令され、12月19日20時に駆逐艦敷波を伴ってシンゴラを出発、翌朝川内や駆逐艦朝雲と合流して帰路につき、12月21日にカムラン湾へ帰投した。
東南アジアの制海権を握った事で各種進攻作戦が前倒しとなり、12月24日正午、小沢中将は馬来部隊に新兵力部署を発布。香椎は第5水雷戦隊指揮下の第2護衛隊へ転属し、同日中に占守や第19駆逐隊と黒潮丸を護衛してカムラン湾を発つ。12月27日午前10時43分、華南の仙頭沖で野島丸が米潜水艦に雷撃されて大破したため香椎と駆逐艦2隻が現場に急行。駆逐艦に対潜制圧を任せ、香椎は野島丸を護衛して香港まで護送したのち、台湾西南西の馬公へ移動。現地でシンゴラ及びバンコクへ向かう第25軍と第15軍の一部を乗せた輸送船団と合流。
12月31日午前8時、先導の第8駆逐隊が出発したのを皮切りに続々と護衛艦艇と船団が出発し、港外で第一警戒航行隊形を組む。陸軍輸送船56隻を重巡1隻、軽巡1隻、練習巡洋艦1隻、駆逐艦16隻、海防艦1隻、特設艦船1隻が護衛、香椎は船団の中央に占位しながらバンコクに向かう第15軍の船団護衛を担当する。空は何処までも続く灰色の雲に覆われていた。まるで日本の行く末を暗示しているかのように…。
香椎は1942年の年明けを洋上で迎えた。フィリピン方面を担当する第3南遣艦隊が新設された事で、護衛任務の途中で南遣艦隊は第1南遣艦隊に改名。
順調に航海が進んでいるように見えた1月3日15時30分、海南島沖で陸軍徴用船明光丸が焼夷弾の自然発火が原因の火災を起こし、直ちに香椎、駆逐艦綾波、荒潮、吹雪、辰宮丸が救援に向かった。だが弾薬に燃え移って次々と誘爆が起こり、18時43分に爆沈してしまう。海上には風速8mの強風が吹き荒んでいたが、各艦の奮戦により船員と第1挺進団第1連隊約1500名全員が救助され、陸軍が船団指揮官の原少将に謝電を送っている。翌日午後、カムラン湾南南西約80海里で小西丸が敵潜の雷撃を受けたとの報を受け、16時17分に迂回航路を取る。1月7日正午、船団はカモウ岬南方50海里に到達。香椎、占守、綾波、吹雪と第15軍の船団11隻は船団から分離してそのままバンコク方面に向かい、1月9日19時に無事到着。他の護衛艦艇はシンゴラ方面に向かっていったが香椎のみ現地に留まった。
1月11日、機密馬来部隊命令作第15号によりシンゴラ基地部隊に編入、同地の警備を担う事に。翌12日には第1南遣艦隊の旗艦を鳥海から継承して旗艦任務に復帰した。1月13日夜、シンゴラにPBYカタリナ飛行艇が出現して銃爆撃を加えてきた。間もなく迎撃の九七式戦闘機が現れ、約15分間の空戦の末にカタリナが発火して海上に墜落。友軍の高射砲部隊からの誤射を受けながらも見事着陸した九七式戦の搭乗員に、小島艦長は賞詞を贈っている。1月24日17時、シンゴラ灯台沖で浮上の敵潜水艦に向けて砲撃。
2月1日、小沢中将はマレー作戦の総仕上げとなるL作戦を発動。パレンバンの油田地帯を確保するという非常に重要な作戦で、また2月に入ってもなお連合国艦隊の巡洋艦が健在だったため馬来部隊のほぼ全力が投じられる事となり、同日中に香椎もバンコクを出発して翌2日にサイゴンに回航。2月4日、陸軍部隊を乗せてサイゴンを出発し、2月6日にボルネオ島に揚陸した後、2月9日にカムラン湾へ入港。2月11日、スマトラ島の攻略を担当する第38師団を乗せた輸送船14隻を護衛して出撃、バンカ海峡で陥落寸前のシンガポールから脱出してきた敵艦艇群や空襲に遭遇するもこれを排除し、迎撃の連合国艦隊をも航空攻撃で撃退(ジャワ沖海戦)、2月16日にバンカとパレンバンへの上陸に成功する。その後、香椎はアナンバス諸島に向かい、3月1日に船団を護衛して出港、翌日占領したばかりのシンガポールへ入港した。
3月8日16時、北スマトラのサバン及びクタラジャに上陸する陸軍近衛師団小林支隊を乗せた輸送船8隻を、巡洋艦香椎と由良、駆逐艦6隻、掃海艇4隻、駆潜艇2隻で護衛して出港(T作戦)。3月11日午前6時30分、船団は二手に分かれてそれぞれの上陸地点へ向かい、翌日午前1時より上陸を開始。連合軍の抵抗は無かった。上陸に成功させて帰路の途上にあった3月12日午前8時50分、バチー島近海で香椎はオランダの小型商船を発見して拿捕。続いてクタラジャ沖で曳船、油槽船、小型輸送船、ダルマ船11隻を拿捕する。更に翌13日20時30分、シグリ灯台沖でオランダ商船ザバンバイを拿捕し、22時に第1号掃海艇と第8号駆潜艇に引き渡してペナンに回航させた。3月14日20時、タミアン岬灯台沖で護衛任務を完了し、ペナンを経由してシンガポールに帰投。
予想以上に早いシンガポール陥落とジャワ島のオランダ軍降伏により、アメリカ軍が頑強に抵抗を続けるフィリピンを除いて東南アジア一帯は日本の勢力圏に収まった。そこで宙に浮いた第56師団をビルマに向かわせて同方面の援蒋ルートを遮断する計画が立てられた。3月19日、第56師団を乗せた32隻の輸送船団を護衛して出港、翌日ペナンから出発してきた野島丸が合流した。敵潜の妨害もなく3月24日正午に船団はラングーンに到着。護衛任務を終えた香椎は輸送船を護衛して帰路につき、ペナンを経由してシンガポールに向かっていたが、4月1日、通り道のマラッカ海峡にて英潜水艦トルーアントの雷撃を受けて空荷の八重丸と春生丸が撃沈されてしまった。同日午後シンガポール到着。4月2日、今度は第18歩兵師団の輸送船46隻を駆逐艦旗風、敷波、海防艦占守、第8号駆潜艇とともに護衛してケッペル西泊地を出発。2日後ペナンに寄港した際に任務から外されて急設網艦初鷹と交代し、反転、同日中にシンガポールへ帰投した。4月14日、激しい戦闘が起きなくなったため第1南遣艦隊の旗艦に返り咲き、小沢中将が乗艦。馬来部隊に参加していた艦艇はミッドウェー作戦参加のため次々に内地帰投していったが香椎はシンガポールに留まり、旗艦任務をこなしながら南西方面の防衛を務める。
6月3日から14日にかけてケッペル港の乾ドックで入渠整備を受け、6月25日に三代目艦長重永主計大佐が着任、7月14日に第1南遣艦隊の司令官が大川内伝七中将に交代した。
同盟国ドイツからの強い要望を受け、帝國海軍はインド洋及びベンガル湾方面で通商破壊を行う「B作戦」を実行する事とし、作戦参加の駆逐艦や潜水艦にメルギーへ集結するよう命令。7月28日、香椎もまた作戦に参加するべくシンガポールを出港し、7月31日にメルギーに到着、8月1日午前8時50分より駆逐艦村雨に横付けして応急修理を行った。後は作戦開始を待つばかりだった8月7日、突如として凶報が駆け巡る。アメリカ軍が予想より早い反攻に転じてガダルカナル島と対岸のツラギに大挙襲来してきたのである。こうなってしまっては通商破壊どころではない。翌日B作戦は中止となり、集結していた艦艇は一部を除いてソロモン方面に派遣。8月9日、香椎も僚艦の後を追うようにメルギーを発ったが、間もなく「アンボン島東方50海里に敵の有力な艦隊が出現」との報告が入ったためラングーンやペナンに退避するも、結局誤報と分かり8月20日にシンガポールへ移動。急ぎ南西方面の警備任務に復帰する。
ガダルカナル島争奪戦は激化の一途を辿ったため、大本営は瀬戸内海と南西方面にいる部隊をソロモン方面へ送る「沖輸送」を企図し、香椎も一時的とはいえ激戦地に赴く事になった。このためアメリカの重巡洋艦に見えるよう、射出機支柱の前方に偽装煙突を立てて2本にするという工作が施されている。9月24日、香港に寄港して陸軍部隊を乗艦させ、9月26日に軽巡球磨や水雷艇鵲とともに輸送船日枝丸、萬光丸を護衛して出発。シブヤン海とサンベルナルジノ海峡を通過して太平洋に進出し、10月4日にパラオに到着。ここで球磨、鵲、萬光丸と別れ、先行する形で香椎と日枝丸はラバウルに向かい、途中で駆逐艦有明を護衛に加えて10月8日にラバウルへ到着。第23軍独立山砲第10連隊と独立工兵第19連隊を揚陸した。帰りはダバオを経由して10月19日にシンガポールへと帰投。11月11日にパレンバンへ寄港して燃料補給。
激闘が行われているソロモン方面とは正反対に東南アジアは平穏そのもので、連合軍の潜水艦が嫌がらせ程度の攻撃を仕掛けてくる程度だった。しかしニコバル諸島、アンダマン諸島、ビルマ方面に連合軍反攻の予兆が見られたため、アンダマン諸島を防衛拠点化すべく陸軍近衛第3連隊第3大隊を増派が決定。12月4日、香椎はシンガポールを出港し、12月10日にポートブレアに入港して増援部隊を揚陸。12月14日にムンタワイ諸島シボルカに寄港、同島の陸軍を支援するため香椎の乗組員58名を抽出し、翌日臨時の陸戦隊を上陸させている。
1943年1月7日、高田俐大佐が四代目艦長に就任。
1月16日にシンガポールへ戻ってきた香椎は乾ドックに入渠。1942年末から敵潜水艦の活動が活発化してきた背景もあり、前後マストを短縮するとともに前部マストへ対潜見張り所を新設し、羅針艦橋に防弾板を設置する等の小改装を行い、1月21日に出渠。
インド洋方面では再び連合軍が反攻の兆しを見せたため、アンダマン諸島に続々と増援が送られる事になった。7月24日、呉第8特別陸戦隊を乗せた特設運送船屏東丸を第7号掃海艇と護衛してシンガポールを出港。4日後に無事ポートブレアに入港して輸送任務を成功させ、7月31日にシンガポールに戻った。続いて8月17日、部隊と軍需品を載せてシンガポールを出港し、8月22日にニコバル諸島へ到着して揚陸。8月25日にシンガポールに帰投するが、既に次の輸送任務が待っていた。今度はシンガポールからサバンに移送する第331海軍航空隊の整備員を乗せ、8月27日に出港。サバン入港直前の8月29日、英潜水艦トライデントから雷撃を受け、8本の魚雷が伸びてきたが回避に成功。虎口を脱して8月31日にシンガポールに戻った。9月1日から11日まで入渠整備。9月21日、シンガポールを出港してベラワンとポートブレアに部隊を輸送する。以降、11月30日までシンガポールとアンダマン諸島を往来して増援部隊を送り続けた。12月26日、シンガポールを出港して内地に向かう。
1944年1月1日から3日まで高雄に寄港。そして1月6日に佐世保へ入港して工廠に入渠。実に2年以上ぶりの内地であった。1月17日に機密呉鎮守府命令第24号が発令され、鹵獲艦の軽巡平海を呉に回航するよう命じられる。2月1日に出渠した後、佐世保に係留されていた軽巡平海を曳航して佐世保を出港。2月4日に呉へ到着した。姉妹艦鹿島と旧式艦磐手、八雲で編成された呉練習戦隊に編入され、練習艦となる。3月5日、艦長が松村翠大佐となる。翌6日、機密呉鎮守府命令第88号を受領。3月13日から18日まで砲術学校の生徒艦務実習に協力した。3月20日に江田島へ移動し、海軍兵学校を卒業した少尉候補生を大阪まで移送。3月25日、香椎は海上護衛総司令部部隊に編入。
3月30日より呉工廠にて対潜掃討艦へと改装される。使わない煙突両舷の魚雷発射管を撤去して12.7cm連装高角砲2基を装備。単装機銃は38丁と大幅に増やされた。九四式爆雷投射機を左右に2基ずつ装備し、艦後方の司令部居住区を改造して爆雷300個を搭載できるようにした。爆雷庫は対水雷防御のためコンクリート防御が施された。貧弱な防御力にも改良が加えられ、艦内の水密区画を強化するとともに舷窓も下段のものは閉塞されて不沈対策とした。他にも水測兵器の充実が図られている。4月29日改装完了。5月2日に第1海上護衛隊所属となり、船団護衛任務に臨む。瀬戸内海西部で訓練に従事した後、5月24日に門司港へ回航。
5月29日、第7護衛船団司令松山光治少将が香椎に乗艦して将旗を掲げ、陸軍特殊船神州丸や油槽船11隻からなるヒ65船団を護衛して出港。護衛戦力は香椎、商船改造空母海鷹、海防艦淡路、千振、第19号、第60号駆潜艇、敷設艇燕であった。6月1日の日没後より雨が降り始めて視界が悪くなる。降りしきる雨に紛れるかのように黒い影が船団に忍び寄る。6月2日午前2時45分、高雄東方を航行中に米潜ギターロから雷撃を受け、淡路がタンカーに向かっていく雷跡を香椎に報告。盾となるべく自ら雷跡に割り込んで撃沈された。淡路の爆発で船団は混乱状態に陥り、一時分散。回避運動のさなか神州丸と有馬山丸が衝突。搭載爆雷の誘爆で神州丸が大破してしまい、香椎は神州丸を翌日基隆まで曳航した。その後、ヒ65船団に追いついた香椎は護衛任務を続け、6月11日にシンガポールまで到着。6月17日午前4時、高速船で構成されたヒ66船団を護衛して出港。船団は敵潜を警戒し、なるべく大陸に沿って本土を目指した。今回は平穏な航海で終わり、6月26日13時に門司へ帰投。6月28日に呉へ回航された。マリアナ沖海戦の戦訓を受け、対空装備を強化する目的で7月1日から10日まで呉工廠に入渠。単装機銃、22号電探、逆探装置を増備した。7月12日、第5護衛船団司令の吉富説三少将が座乗する旗艦となる。
7月13日、ヒ69船団を護衛して門司を出港。14隻からなる船団を海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、商船改造空母神鷹、海鷹、大鷹で護衛する。7月18日午前10時55分に第17号海防艦が被雷小破する災難に見舞われたものの、7月21日に中継地のマニラへ到着。空母が運んでいた航空機を揚陸する。ここで船団の再編成が行われ、香椎は神鷹とともにシンガポールを目指すグループに含まれた。7月25日にマニラを出港。目立った敵襲は無く、7月31日に目的地のシンガポールへ入港できた。8月4日、ヒ70船団を護衛して出港。タンカー8隻を空母神鷹、駆逐艦霜月、海防艦千振、佐渡、第13号、第19号とともに護衛する。道中でマニラから出港してきた軽巡北上(中破)を護衛対象に加えた。8月15日、門司に到着。8月19日より呉工廠に入渠して船体と兵器の整備を受ける。8月24日、呉を出港して門司に回航。
8月25日、ヒ73船団を護衛して出港。加入船舶12隻を空母雲鷹と海防艦7隻で護衛する。翌26日13時、五島列島沖で陸軍配当船音羽山丸が敵潜を探知して爆雷攻撃。8月28日午前11時40分にも海防艦千振と九七式艦攻が対潜攻撃を行うなど緊迫した航海が続く。8月29日、高雄に寄港して同日中に出港。8月31日14時35分、九三式中間練習機が敵潜を発見して2発の発煙弾を投下し、千振と第21号海防艦が対潜制圧に急行する。15時30分に雲鷹所属の九七式艦攻2機が攻撃したのち、2隻が爆雷を投下。しかし敵潜の脅威は留まる所を知らず、20時には音羽山丸が敵潜を探知して爆雷攻撃している。9月1日午前9時、マニラに向かう護国丸、香久丸、吉備津丸、伊良湖が第21掃海隊の護衛を受けて離脱。香椎は残りの船団を率いてシンガポールを目指す。その後も敵潜の探知が続き、夜遅くに九七式艦攻が潜航中の米潜タニーに2発の60kg爆弾を投下。損傷を与えてタニーを撃退した。タニーを退けた後も第19号海防艦や音羽丸が潜水艦を探知して対潜攻撃を実施するなど、気の休まる暇が無かった。幸い大した被害は出ず、9月6日午前9時に解列してシンガポールに入港した。
9月11日、ヒ74船団を護衛して出港。翌12日午後12時45分、雲鷹所属機が海面に浮かぶ油面を発見。潜水艦からの漏油と判断して航空機、第13号、第27号海防艦が爆雷を投下した。だが、ここから悲劇の幕開けだった。9月16日22時31分、米潜クイーンフィッシュが御室山丸を雷撃。幸い命中こそしなかったが、香椎は敵潜襲撃を知らせる赤色弾を打ち上げた。翌17日午前0時34分、バーブが放った魚雷が特設運送船あづさ丸と雲鷹に直撃して大火災が発生。16分後にあづさ丸は爆沈し、雲鷹も船団から落伍したのち午前7時55分に沈没。空からの援護を失った。千振や第27号海防艦等が救助活動を行い、761名を救い上げた。以降の敵襲は途絶え、9月23日に門司へ到着。大損害を受けながらも香椎は生き残った。9月24日から佐世保工廠で入渠整備を行い、10月19日に出渠。瀬戸内海西部で整備と訓練を行う。
10月26日、ヒ79船団を護衛して出港。翌27日に第17号海防艦が、10月28日14時に第21号掃海艇が護衛に加わった。10月29日19時30分、基隆に向かう陸軍徴用船めるぼるん丸が海防艦鵜来と第17号を伴って離脱。翌30日午前7時30分に鵜来が護衛に復帰し、同日中に高雄へ寄港。10月31日に出発する。フィリピン方面では激戦が繰り広げられていたが、11月9日にシンガポール到着。11月15日、海上護衛総司令部第101戦隊が新編され、香椎は海防艦6隻を率いる旗艦となる。11月17日18時、ヒ80船団を護衛してシンガポールを出港。11月20日午後12時40分に第17号海防艦がサンジャックに向かう目的で離脱。翌日から視界不良に悩まされる事となり、衝突を避けるため船団を一時分散させている。11月28日午前9時30分、高雄行きの特設運送船良栄丸、陸軍徴用船有馬山丸、敷設艇新井埼が船団より離脱。残った船舶は12月2日に伊万里湾へ到着し、翌日六連沖まで辿り着いた。
12月19日、香椎は第101戦隊を率いてヒ85船団とモタ38船団を護衛して門司を出港。ルソン島へ増援として送る第23師団(残余)、第19師団、第10師団を乗せていた。敵潜と敵機の襲撃を避けるため大陸沿いの航路を選択し、対馬海峡を通って朝鮮半島西岸を北上。仁川沖から西進して黄海を渡り、山東半島に沿って南下。翌20日21時15分、海防艦対馬と大東が護衛に参加。12月23日に高雄沖に到着。しかしこの高雄も安全ではなく、敵機動部隊接近の報を受けて一時洋上に退避している。12月25日午後、ようやく高雄港内に入った。現地で船団の再編成が行われ、ルソン行きの輸送船4隻が護衛艦艇を伴って先発。12月27日午前、香椎はヒ85船団を護衛して出発する。12月29日17時25分、香港からやって来た第101号掃海艇が護衛に協力。12月30日と31日にB-25爆撃機が触接に現れ、攻撃こそ無かったが不穏な空気に包まれた。
1945年1月1日17時20分、キノン湾に到着。対潜監視に不利な夜間を避けるべく仮泊し、夜が明けた翌2日午前7時に出港。ナトラン沖で仮泊したのち、1月4日にサンジャックへ到着した。ここでシンガポールへの航行を断念し、13時10分にヒ85船団の編成が解かれた。輸送船は生ゴム、石油、ボーキサイト等の貴重な天然資源を積み込む。
1月9日正午、新たに編制されたヒ86船団を護衛して出港。タンカー極運丸、さんるいす丸、大津山丸、昭永丸、貨物船永萬丸、予州丸、辰鳩丸、健部丸、第63播州丸、優清丸からなる船団を第101戦隊の香椎、海防艦鵜来、大東、第23号、第27号、第51号が護衛する。1月11日にバンフォン湾とキノン湾に仮泊して帰国を目指すが…。
1945年1月12日午前9時、少数の敵艦上機が出現して交戦し、これを撃退。だが香椎の命運はここまでだった。敵に発見された事を悟った渋谷司令は接岸航路に変更して船団を二列縦隊にした。陸地側を輸送船を、沖合い側を第101戦隊が航行。香椎は戦隊の先頭に立った。もし敵潜からの雷撃があれば第101戦隊が身を挺して船団を守り、万が一輸送船が被雷しても陸地へ座礁しやすくしていた。
午前11時6分、第38.3任務部隊の敵艦上機16機が出現。香椎と海防艦は12.7cm連装高角砲で対抗し、輸送船も25mm機銃を撃って対空砲火を打ち上げる。まず最初に予州丸が被弾沈没させられた。敵の第二波が現れると、渋谷司令は沈没の時に備えて機密書類を処分するよう命じた。午後12時20分、永萬丸が3発の命中弾を受けて沈没。続いて大津山丸も被弾炎上する。絶望的戦況の中、香椎は決死に輸送船を守り続けた。
13時45分に香椎は2発の直撃弾を受ける。右舷へ2本の魚雷と、艦尾に3発の爆弾が叩き込まれ、弾薬庫に誘爆して艦尾部分が粉砕される。14時5分に総員退艦命令が出され、艦首を突き上げながら沈没。沈む瞬間まで香椎の機銃は火を噴いていたという。右舷に傾きながら沈む香椎の姿は写真として残っており、現在手も見る事が出来る。乗組員621名が戦死し、19名は続航していた鵜来に救助された。14時16分、第26号海防艦が撃沈。14分後に大津山丸が操舵不能となって座礁。護衛が無くなった極運丸は最大の船舶だった事もあって集中攻撃を受け、黒煙を噴き上げながら沈没。最後まで生き残っていたさんるいす丸が16時頃に自ら座礁したのを最後に輸送船団は全滅。生き残ったのは運良くスコールに隠れられた海防艦鵜来、大東、第27号の3隻だけだった。この日だけで33隻の船舶と13隻の戦闘艦が撃沈され、香椎らの沈没は即ち南方航路の閉鎖を意味していた。
1945年3月20日、除籍。
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最終更新:2025/12/12(金) 04:00
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