香椎(練習巡洋艦) 単語

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香椎(練習巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した香取練習巡洋艦3番艦である。1941年7月15日工。南遣艦隊の旗艦や団護衛任務を務めた。1945年1月12日キノン湾北方航空攻撃により撃沈。

概要

艦名の由来は福岡県福岡市香椎宮から。

大日本帝國海軍では、旧式化した装甲巡洋艦戦艦少尉補生の教育実習に充てていたが、1930年には5隻あった旧式艦が、1935年になると磐手と八雲の2隻だけに減ってしまい、また志願者の増加や技術の進歩で旧式艦の設備では物足りなくなりつつあった。このため球磨軽巡洋艦練習艦にして急場をぎつつ、予算承認を経て練習用艦艇を新造する事にし、香取練習巡洋艦4隻の建造が決定。香椎はその3番艦にあたる。

今まで帝國海軍に「練習艦」の組みはく、香取の登場によって初めて制定された前例のい艦種だった。このためか、本来であれば巡洋艦の基本計画番号「C」を使用するところを、水上機母艦や潜水母艦等と同じ「J」が使われ、基本計画番号J-16となっている。練習艦なので戦闘は度外視で設計され、建造費は1隻あたり僅か660万円陽炎型駆逐艦の建造費が900万円なので如何に予算が切り詰められていたのかが分かる。兵装に関しては軍部からの要く、「戦闘に使用しない」「予算の範囲内で収める」との条件付きで、設計者の大園大輔少佐に一任された。

設計は水母艦を参考。艦首を採用し、体強度こそ高いが装甲防御が皆無であり、言うなれば商同然の防御力しか持っておらず、また体が軽いので、バラスト587トンを装備して重心を下げつつ復元性を維持。士官補生275名の居住区と諸訓練施設を確保する的で高い艦舷を有し、全幅も15.95mと幅広く取って、艦尾に至るまで広い全幅を維持する事で訓練スペースを確保、艦内には座学を行うための講堂まであったという。機関科の訓練を行うため、蒸気タービンディーゼルエンジンを併用したしい機関構造となっており、低燃費化にも貢献している。この強みは燃料が枯渇しかけた戦争末期で大変重宝された。

訓練航で外の港を巡航する関係上、多くの人々のに触れる事から、の代表として恥ずかしくないよう、簡略化された内部とは対照的に外見は威容を誇り、賓客や要人が訪れる室等の重要施設は特に、前例がいほどに着飾った。練習用とはいえ巡洋艦すなわち軍艦なので艦首には菊花紋章を戴く。

香取鹿島には練習の機会があったが、際情勢逼迫により香椎は一度も航を行っていない。

排水量5890トン、全長133.5m、線長130m、全幅15.95m、最大速力18ノット、航続距離は12ノットで7000里、乗員315名と補生275名。武装は50口径14cm連装2基、40口径12.7cm連装高1基、25mm連装機4基、53.3cm魚雷連装発射管2基。カタパルト水上偵察機1機を保有する。

格安軍艦奮闘記

開戦前

1939年に策定された第四次海軍軍備充実計画(通称マル四)にて、巡洋艦101号艦の仮称で建造が決定。香取は2隻のみの建造で終える予定だったが、日事変の長期化や、を始めとする諸外との関係悪化により海軍士官の拡充が必要と判断され、追加でもう1隻建造される事になった訳である。

1940年5月30日三菱重工横浜渠で起工。横浜渠はの建造ノウハウに富み、軍艦ながら詳細設計の大部分を三菱重工側に一任するというしい体制が取られた。同年8月30日軍艦香椎と命名、1941年2月14日し、4月2日より装員事務所渠内に設置して事務を開始するなど、着々と建造が進んでいく。

しかし対関係の急速な悪化で内は臨戦態勢に突入。もはや練習巡洋艦として運用する機会はく、戦闘と旗艦任務を見越して、礼を4門から2門に減らして25mm連装機2基を増備、磁気機雷対策用の舷外電路も装備された。そして1941年7月15日工を果たした。初代艦長に岩渕三次大佐が着任するとともに佐世保鎮守府へ編入。

南部仏印進駐

7月31日南部印進駐と進駐後の東南アジア方面警備のため、帝國海軍南遣艦隊を新編。香椎海防艦占守、特設砲艦金剛山丸、特設掃海艇音羽丸、留萌丸、第81警備隊、第81通信隊が編入され、8月2日香椎は南遣艦隊平田中将が座乗する旗艦に定。

中華民国の補給路(援ルート)が通るインドシナ南部部隊を上陸させる「ふ」号作戦に後詰めとして、8月4日、艦隊を率いて佐世保を出港、イギリスシンガポール巡洋艦2隻を回航して日本側を威嚇したものの、事前に宗ヴィシーフランスと話がついていたので、進駐は平和的に進み、8月11日午前7時サンジャックに到着して第2遣支艦隊から揮権を継承。香椎の到着を以って「ふ」号作戦部隊は解散となった。

ルートの遮断には成功したが、の三ヵ政府及び大本営が予想した以上に態度を硬化させ、特にアメリカは対日石油禁輸という強経済制裁を加えるのだった。

対米英開戦準備

戦争の足音が迫り来る10月15日、二代艦長に小島雄大佐が着任、続いて18日、南遣艦隊小沢三郎中将が着任し、21日より南遣艦隊は大本営直轄から連合艦隊直轄となる。

10月24日サイゴン停泊中の香椎小沢中将が乗艦。

11月5日香椎南方部隊部隊に編入。マレー作戦に参加する事になり、これに伴って、翌日南遣艦隊部が退艦して地上に移動する。11月23日海防艦占守を率いてサンジャックを出発、11月25日部隊参加艦艇の集結地となっている海南島三亜港に進出。翌26日部隊作戦打ち合わせを行った。

大本営南方作戦に備えて南遣艦隊を増強し続けており、香椎力では足りないと感じた小沢中将連合艦隊揮用の重巡洋艦を要山本五十六長官は第4戦隊から重巡鳥海を抽出してあてがい、11月27日に旗艦を香椎から鳥海へ移した。

12月2日柱島泊地連合艦隊旗艦長門が発した「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電文を受信。日交渉決裂、12月8日以降に軍事作戦を開始せよ、という意味である。もはや対開戦は避けられない。部隊にはマレー半島のコタバルシンゴラに陸軍第25軍を上陸させる任務が与えられた。イギリス軍の重要拠点シンガポール路からの攻略困難なので陸路で半島を南下する必要があったのだ。

香椎占守と第2護衛隊を編制。タイ南部に上陸予定の宇野支隊(第15軍第55師団の一部)が待つサンジャックへ移動する。

サンジャック出撃とバンドン上陸支援

12月5日19時45分、宇野支隊を乗せた山丸、浄宝縷丸、伏見丸、良洋丸を単独護衛してサンジャックを出撃。三亜を出撃した団と合流するべくタイ東方フコク方面に向かう。香椎が護衛する団は「香椎団」と呼称され、艦内には第5師団長松井太久郎中将が乗艦していた。

翌6日正午香椎団は団と合流して北東約35里を同航。13時45分頃、西南西方向よりイギリス軍機が出現、団上を何度か旋回したのち、香椎団上陸にも飛来して旋回を始める。どうやら敵機は護衛艦艇の射撃圏外行動しながら偵察しているらしい。15時小沢中将は第1、第2航空部隊に撃墜を命じ、直ちに特設水上機母艦から水上機が発進したが、いずれも捕捉に失敗、やがて敵機も姿を消した。

波はとても静かであったが、大本営にとってマレー半島に到着するまでの4日間は非常に気を揉んだ。ひとたび敵の攻撃を受ければ上援護中の味方航空部隊の奮戦に任せるしかないのだから。

12月7日午前10時10分、小沢中将は「上陸は予定の如く決行する」と鳥海から信号を送り、香椎は輸送3隻を護衛しつつバンドン及びチュンポン方面に向かう。中で2回敵潜を探知したものの回避に成功。21時頃、タウ東方約30里でバンドン・チュンポンの両方面に分離し、香椎と山丸の2隻はバンドンへと進む。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日午前2時30分――真珠湾攻撃よりも前――、バンドン河口北方約23里に入泊。山丸から降りた宇野支隊が舟艇でシーラット河口を遡行していくのを見届けた。彼らは午前10時バンド地へ突入して飛行場を占領した。タイ軍の抵抗を受けたチュンボンとは対照的な血占領であった。

翌9日、第二次マレー上陸部隊(第5師団、宇野支隊の後続部隊、佗美支隊)を護衛するべく、香椎と第3戦隊の一部で第1護衛隊が編制され、団が集結中のカムラン湾へ回航する。

第二次マレー上陸作戦

12月13日午前8時15分、軽巡川内とともに39隻からなる大規模輸送団を護衛してカムラン湾を出港、湾外にて警航行隊形を制形した。先の上陸作戦では、泊地内もしくは帰投中の輸送連合潜水艦に襲われる事態が多発したため、2回に分けて送るはずだった団を一めにした結果、総計39隻に及ぶ大団が組まれたのだった。

14時30分頃、カモ陸軍輸送東山丸が敵潜の雷撃を受けて擱座したとの報告が入る。小沢中将17時10分に対潜警を厳重にするよう示を出す。3日前のマレー沖海戦で、下最大の脅威とされた戦艦2隻を撃沈し、連合海軍はしばらく立ち直れないと判断されたものの、未だ潜水艦の脅威は健在であった。入ってきた情報を統合するに敵潜はシンゴラ周辺に集中しているようだった。

12月15日14時20分、コタバルの50度95にて団は二手に分かれ、巡洋艦香椎川内駆逐艦浦波、夕朝霧海防艦占守、第4号掃海艇の8隻はシンゴラ、パタニ方面に上陸する輸送31隻の護衛につく。翌16日に団はそれぞれ的地に到着して第5師団と安藤支隊を上陸。敵潜の出現により予定を前倒ししての上陸となった。その後、香椎シンゴラ泊地を拠点とし、搭載機を飛ばして川内搭載機、相良丸水上機6機とともに団護衛と泊地周辺の対潜警を実施、シンゴラ、パタニ、コタバル海岸60里圏内を警する駆逐隊に協力した。

翌16日午後12時30分シンゴラの25度54里の合いで潜水艦らしきものを発見。しかしその正体は掴めなかった。偵察の陸攻から敵潜2隻の侵入が報告されていた事もあり、当日中にカムラン湾へ引き揚げる予定だったが、橋本少将の命で引き続き警任務を続行する。

12月17日22時15分、パタニ灯台で、特設駆潜艇長江丸が浮上中の敵潜3隻を発見・交戦したとの報告が入り、泊地を警する各艦に衝撃が走る。特にシンゴラ方面は、第4駆逐隊掃海艇2隻が別方面転戦のため撤収済みで、同地を守備するのが香椎占守掃海艇3隻のみとなっており、急遽コタバル方面から川内浦波派遣するが、それでも対潜力に不安を残していた。そこでパタニ方面の揚陸を中止してコタバルに移動させ、護衛艦艇を集結させる事で増大する敵潜への対策とした。

敵潜の脅威が去った12月19日20時駆逐艦敷波の護衛を伴ってシンゴラ出発、翌川内駆逐艦朝雲と合流して帰路につき、12月21日ムラン湾へ帰投した。

シンゴラ、バンコク上陸支援

マレー沖海戦勝利で、東南アジアの制権を一気に奪取した事から、各種進攻作戦が前倒しとなり、12月24日正午小沢中将部隊に新兵力部署を発布。香椎は第5戦隊揮下の第2護衛隊に部署。同日中占守、第19駆逐隊、タンカー黒潮丸を伴ってカムラン湾を発ち、に向かう。

12月27日午前10時43分、華南の仙頭で、給炭艦野島潜水艦に雷撃されて大破したとの急報が入り、香椎綾波磯波の3隻が救援のため現場に急行駆逐艦が対潜掃討を行っている間に野島香港回航を援護した。到着後はシンゴラ及びバンコクに向かう第25軍と第15軍の一部を乗せた輸送団と合流。

12月31日午前8時、先導の第8駆逐隊が出発したのを皮切りに、続々と護衛艦艇や団が出港し、港外で第一警航行隊形を組む。陸軍輸送56隻を重巡1隻、軽巡1隻、練習巡洋艦1隻、駆逐艦16隻、海防艦1隻、特設艦1隻が護衛し、香椎団中央に占位しながらバンコクに向かう第15軍の団護衛を担当する。は何処までも続く灰色に覆われていた。

1942年

1942年明けを南シナで迎えた。フィリピン方面を担当する第3南遣艦隊が新設されたため、南遣艦隊は第1南遣艦隊に改称。

順調に航を続けていた1月3日15時30分、海南島陸軍徴用丸が焼夷弾の自然発火で火災を起こし、香椎駆逐艦綾波荒潮吹雪宮丸が救援に向かった。だが弾薬に燃え移って次々に誘爆が起こり、救援むなしく18時43分に爆沈してしまう。風速8mの強が吹き荒ぶ中、各艦の奮戦により、員と第1挺進団第1連隊約1500名全員が救助され、陸軍側が指揮官の原少将に謝電を送っている。

翌4日午後、カムラン湾南南西約80里で、小西丸が敵潜の雷撃を受けたとの報せが届き、16時17分より団は回航路を取る。

1月7日正午カモ南方50里に到達。香椎占守綾波吹雪と第15軍団11隻を護衛して本隊から分離、バンコク方面に向かい、1月9日19時に入泊を了。他の護衛艦艇はシンゴラ方面に向かったが香椎のみ現地での待機を命じられた。1月11日付の機密部隊作第15号シンゴラ基地部隊に編入。同地の警備を担う。翌12日には鳥海から第1南遣艦隊の旗艦を継承する。

1月13日シンゴラにPBYカタリナ飛行艇が襲来して爆撃を仕掛けてきた。間もなく迎撃の九七式戦闘機が駆け付け、約15分間の戦の末、カタリナを発火させて上へと墜落せしめる。友軍の高射砲部隊から誤射を受けつつも見事着陸した九七式戦闘機の搭乗員に小島艦長は賞詞を贈っている。1月24日17時にはシンゴ灯台で浮上中の敵潜水艦を発見・撃している。

L作戦

2月1日小沢中将マレー作戦の総仕上げとなるL作戦を発動。これは日本海軍にとって重要な、南部スマトレンバン田地帯を確保する作戦で、また2月に入っても連合艦隊の巡洋艦が健在だったため、部隊のほぼ全力を投じる事になり、香椎アナバス基地部隊に転属。旗艦として補給基地の確保とアナバス航路付近の掃を命じられる。2月2日サイゴンへ回航。

小沢中将は数日来のバンカ方面の敵水上部隊の動静を鑑み、今次L作戦では有力な敵水上部隊と会敵する可性が高いと判断、支援水上兵力を強化するべく第2護衛隊の軽巡由良隊に編入、入れ替わり香椎アナバス基地部隊から第2護衛隊へ編入し、2月8日に兵力部署の変更を行った。

2月11日18時駆逐艦海防艦占守、第9号駆潜艇とともに陸軍輸送14隻を護衛してカムラン湾を出撃。輸送団にはスマト攻略を担当する第38師団が分乗していた。プロコンドル東方面を南下してパレンバンのムシ河口をす。

2月15日重巡鳥海率いる隊がムントク東北東約100里を行動中、鳥海所属の偵が「敵巡洋艦3隻、駆逐艦5隻がガスパル峡を北上中 〇九三八」「敵は駆逐艦6隻の直衛を配し戦艦1隻を伴う」と報告。第4航空戦隊からも同様の発見報告が寄せられた。

この時、第2護衛隊は隊から僅か北東45里の近接域にいて、このまま艦隊決戦を挑めば戦闘に巻き込まれる可性があるとして、午前11時25分、小沢中将は第2護衛隊に対して北上退避を命。10分後に北上への反転退避を始めた。16時頃、度重なる爆撃を受けて敵艦隊が退避しているとの報告が味方陸攻から入り、危険は去ったとして小沢中将は退避中止を示、予定の航路に戻る。

2月16日18時45分、第2護衛隊に護送された陸軍輸送14隻がムシ河口泊地へ到着、占守の手で第38師団部がパレンバンまで移送され、L作戦事成功へと導かれたのだった。上陸成功を見届けた後、小沢中将香椎、第7戦隊、第19駆逐隊に「次期ジャワ作戦に備えて補給の上待機」と命アナバス方面へと回航する。3月1日団を護衛してアナバスを出港、翌2日占領したばかりのシンガポールに進出。

北部スマトラ島攻略作戦

3月5日、北部スマトラ要地攻略、アンダマン諸攻略ビルマ攻略部隊ラングーン上陸を的としたT、D、U作戦シンガポールで発香椎は第3戦隊や第1掃隊等と第1護衛隊に部署する。後に西部ジャワ島より帰投した軽巡由良も第1護衛隊に加えられた。

3月8日16時香椎由良駆逐艦6隻、掃海艇4隻、駆潜艇2隻からなる第1護衛隊は、サバン及びクタラジャに上陸する近衛師団小林支隊が分乗した輸送8隻を護衛してシンガポールを出港、マラッカ峡を北進して上陸点へ向かう。3月12日未明より上陸を行い、サバン、クタラジャ、ラブハンルク、イヂを血占領せしめる。

帰投の途上にあった午前8時50分、バチー(名不明)を発見・拿捕、次いでクタラジャ輸送ダルマ11隻を拿捕し、翌13日20時30分にはシグ灯台ザバンバイを拿捕、22時、クタラジャとサバンで掃作業中の第1号掃海艇と第8号駆潜艇に引き渡してペナンへと回航させる。3月14日20時ミア灯台で護衛任務を了、3月16日シンガポールへ帰投した。

ラングーン上陸支援

予定よりシンガポールジャワ島攻略により、軍が頑強に抵抗を続けるフィリピンを除き、東南アジア一帯は日本軍の勢力圏下に収まった。そこで余った第56師団をビルマに上陸させ、同方面の援ルートを遮断する計画が立てられた。3月15日午前0時ラングーン上陸を企図するU作戦が発動。

3月19日、第56師団を乗せた32隻の輸送団を護衛してシンガポールを出港、翌日ペナンから出発してきた野島丸が合流し、3月24日正午ラングーンまで事送り届けた。その後、香椎団を護衛して帰路につき、ペナンを経由してシンガポールに向かっていたが、4月1日マラッカ峡プラウ・ペヤにて潜水艦ルーアントの雷撃で荷の八重丸と生丸が撃沈される。同日午後シンガポールに到着。

4月2日、今度は第18歩兵師団の輸送46隻を駆逐艦敷波海防艦占守、第8号駆潜艇とともに護衛してケッペル西泊地を出発、2日後、ペナンに寄港した際に任務から外されて急設網艦初鷹と交代、同日中シンガポールへ帰投した。

U作戦陸軍二個師団以上の戦力をラングーンに輸送。被害八重丸と生丸以外はく、成功作戦は終わった。

東南アジアでの活動

4月14日に第1南遣艦隊旗艦に復帰。再び小沢中将香椎に乗艦した。部隊参加の艦艇は、ミッドウェー作戦参加のため続々と内地に帰投していったが、香椎シンガポールに留まり、旗艦任務をこなしながら南西方面の防衛に努める。

6月3日より14日までケッペル港のドックで入渠整備を受ける。6月25日三代目艦長の重永大佐が着任、また7月14日には第1南遣艦隊の官が大川内伝七中将に交代した。

同盟ドイツから強い要請を受け、帝國海軍は、7月下旬から8月下旬にかけてインド洋とベンガル湾で通商破壊を行うB作戦を企図、香椎は第1南遣艦隊直轄の隊に部署し、7月28日シンガポールを出港、7月31日に集結地のメルギーまで進出する。8月1日午前8時50分より駆逐艦村雨に横付けして応急修理を行った。

ところが8月7日アメリカ軍ガダルカナル島とツラギに来襲。予想よりい敵の反攻を受け、翌8日にB作戦は中止、集結していた艦艇は一部を除いてソロモン方面へ駆り出され、香椎も僚艦の後を追うように8月9日メルギーを発った。「アンボン東方50里に敵の有力な艦隊が出現」との報を受け、一時ラングーンやペナンに退避する一幕があったものの結局誤報と分かり、8月20日シンガポールへ帰投。急ぎ南西方面の警備任務に復帰した。

香椎の最初で最後のラバウル進出

ガダルカナル島争奪戦は化の一途を辿った。このため大本営瀬戸内海西部と南西方所在部隊ソロモン方面に輸送する「輸送」を計画し、これに伴って香椎戦地に赴く事となる。作戦に先立ち、アメリカ重巡洋艦に見えるよう、射出機支柱の前方に偽装煙突を立てて、2本にする工作を施している。

9月24日香港にて陸軍部隊を積載。9月26日軽巡球磨雷艇鵲と輸送日枝丸、丸を護衛して出発、シブヤンとサンベルナルジノ峡を通過したのち、10月4日パラオに入港した。ここで球磨、鵲、丸と別れ、先行する形で香椎と日枝丸はラバウルに向かい、途中から護衛に加わった駆逐艦有明とともに、10月8日ラバウルへと到着、第23軍独立第10連隊と独立工兵第19連隊を揚陸した。

帰りはダバオを経由して10月19日シンガポールに帰投。11月11日レンバンで燃料補給を受ける。

アンダマン諸島への輸送任務

戦が行われているソロモン方面とは対照的に、後方地域だけあって東南アジア穏そのもので、連合軍の潜水艦嫌がらせ程度の攻撃を仕掛けてくる程度であった。しかしアンダマン諸ニコバルビルマ方面に連合軍反攻の予兆が見られたため、アンダマンを防衛拠点化すべく近衛第3連隊第3大隊を増が決定。

12月4日、増援部隊を乗せた香椎シンガポールを出港、12月10日、ポートブレアに入港して部隊揚陸を行ったのち、次は12月14日スマトラ北西部・ムンタワイシボルカへ寄港、同陸軍支援するため乗組員から58名を抽出して臨時の陸戦隊を編制、翌日シボルカに上陸させ、タンクバンカル両での陸軍作戦に協力した。

1943年

1943年1月7日高田大佐四代目艦長に就任。

1月16日より21日までシンガポールで入渠整備を実施。1942年末から敵潜水艦の活動が活発化してきた背景もあり、前後マストを短縮するとともに、前部マストに対潜見り所を新設し、羅針艦には防弾を設置する等の小改装を行った。

3月9日、第1南遣艦隊遠藤喜一中将に変更。5月20日には現状視察のため、遠藤中将を乗せてシンガポールを出発、スマトラ方面やアンダマン諸を巡航している。

インド洋方面の連合軍に、新機が配備される等の不穏な動きが見られたので、アンダマンへの増援輸送任務を再開、7月24日第8特別陸戦隊を乗せた特設運送屏東丸を第7号掃海艇と護衛してシンガポールを出港、7月28日ポートブレアまで到着して陸戦隊を降ろし、7月31日シンガポールへ帰投した。

8月17日部隊と軍需品を積載してシンガポールを出港、8月22日ニコバルに兵力と積み荷を揚陸する。今度はサバン行きの第331海軍航空隊の整備員を乗せて8月27日シンガポールを出港。サバン入港を前に控えた8月29日プロウェ潜水艦トライデントに雷撃され、8本もの魚雷白線を引いて香椎に伸びてきたが、幸い回避に成功、8月31日シンガポールに帰投する。

9月1日から11日まで入渠整備。

9月21日増援部隊と軍需品を積載してシンガポールを出港。まずマラッカ峡のベラワンで積み荷と兵の一部を降ろし、残りはポートブレアに輸送した。以降11月30日までシンガポール・アンダマン間を往来して増援輸送に励む。

内地での練習艦任務

12月1日香椎、装甲巡洋艦八雲、磐手の3隻で練習戦隊を新設。第1南遣艦隊旗艦から外れた香椎には内地帰投が命じられ、12月26日シンガポールを出港。12月31日には呉鎮守府部隊練習戦隊に編入。警備艦兼練習艦となる。

1944年

1944年1月1日から3日まで高雄に寄港、そして1月6日佐世保へ到着して入渠整備。南部印進駐以来実に2年以上ぶりの内地であった。

2月1日出渠。佐世保港内で兵団の居住ハルクに使われていた、中華民国巡洋艦平海航するよう命じられ、同日中平海航して佐世保を出港、2月4日まで送り届けた。その後は江田島に移動して練習艦任務を開始。補生たちに艦実習の場を提供する。

3月5日、五代艦長に松村大佐が着任。

機密呉鎮守府第88号に従い、3月13日から18日まで砲術学校生徒の艦務実習に協力、3月20日江田島海軍学校卒業した少尉補生を乗せて出発、彼らを大阪まで移送する。しかし香椎練習艦でいられた時間は短かった。

船団護衛任務の始まり

3月25日上護衛総部に編入。上護衛隊では前々から「海防艦だと揮が執りにくい」との不満が噴出しており、香椎の編入はその不満を解決するための措置だった。

3月30日よりで対潜掃討艦への改装工事に着手。使わない煙突両舷の魚雷発射管を撤去し、代わりに12.7cm連装高2門を装備、単装機は38基にまで増やされ、九四式爆雷投射機を左右に2基ずつ装備すると同時に、艦後方の部居住区を改造して爆雷300個を搭載出来るようにした。爆雷庫は対雷防御の的でコンクリート防御が施されている。貧弱な防御力にも改良が加えられ、艦内の密区画を強化しつつ、舷窓も下段のものは閉塞されて不沈対策とし、更に兵器の充実が図られている。4月29日改装了。

5月2日第1上護衛隊に部署。瀬戸内海西部で訓練を従事した後、5月24日にヒ65団が集結中の門へ回航する。十分のスペースと通信力を持つ香椎は、まさにからの贈り物だったようで、さっそく第7護衛松山光少将が旗艦に定している。

1回目の船団護衛

5月29日午前6時陸軍特種神州丸や11隻からなるヒ65団を護衛して出港。護衛兵力は香椎、商改造空母海鷹海防艦淡路、千振、第19号、第60号駆潜艇の6隻であった。翌日に機雷敷設艇鹿児島で護衛に加入。およそ5000km離れたシンガポールす。

しかし6月1日の日後よりが降り始めて視界が悪化、その降りしきるに紛れるように団にび寄る。

6月2日午前2時45分、高雄東方を航行中、潜水艦ギターロが2本の魚雷を発射、タンカーに向かって白線が伸びていくのをいちく発見した淡路が、自らとなるべく射線に飛び出して撃沈される。淡路の撃沈はヒ65団に混乱をもたらして一時散り散りとなる。次にピクーダが有馬山丸に向けて魚雷2本を発射。辛くも回避に成功するも、神州丸と衝突事故を起こし、搭載爆雷誘爆で神州丸が大破してしまった。

香椎は、千振と第19号海防艦の護衛を受け、大破航行不能に陥った神州丸を航しつつ、有馬山丸に付き添い、翌3日正午へ入港した。6月4日に基から高雄へ移動。幸い有馬山丸も神州丸も致命傷には至らず団の同行が可だった。

6月8日午前9時6分、インドシナでガンネルに発見される。団で最も大海鷹を狙っていたが、レーダーが34マイル先の航空機を探知し、焦った甲士官が急速潜航を示、潜航中にヒ65団との接触が途絶えて雷撃機会を逸した。これで厄が落ちたのか以降は敵襲もトラブルく、6月12日13時50分シンガポールに到着する。


6月17日午前4時、高速4隻で編制されたヒ66団を護衛してシンガポールを出港。護衛兵力に若干の変更があり、第19号海防艦と第60号駆潜艇が離脱、代わりに第7号、第11号海防艦が加入した。敵潜水艦が待ちせしにくい浅瀬が多く、味方の支援を受けやすい大陸航路を使い、大陸沿いに北上していく。

敵潜の襲撃が相次いだ往路と違って穏な航となり、6月26日13時団は門へ到着。香椎6月28日へと回航した。

7月1日から10日にかけてで入渠。マリアナ沖海戦の戦訓により更なる対力強化が図られ、単装機、22号水上電探、逆探装置を装備、また7月12日に第5護衛・吉富説三少将が座乗する旗艦となる。

2回目の船団護衛

7月13日16時20分、14隻からなるヒ69団を護衛して六連を出港。今回の護衛戦力は香椎海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、商改造空母神鷹海鷹大鷹の計8隻。空母が3隻参加していたが、大鷹海鷹マニラ向けの航空機を満載した輸送艦扱いだったため、対潜用の九七式艦攻を持つのは神鷹ただ1隻のみだった。上中の九七式艦攻が何度か敵潜発見を報じたものの雷撃は受けず、7月17日19時45分に高雄の左営泊地へ到着して仮泊、翌18日午前2時45分に出発するが間もなく潜水艦ロックタイルフィッシュ、ソーフィッシュウルフパックに捕まってしまう。午前6時、浮上中のロックが2TL戦時標準タンカーはりま丸を狙って魚雷4本を発射。この雷撃自体は外れたが、これを皮切りにウルフパックが一斉に牙を剥く。次にソーフィッシュ機関不調で団から落したはりま丸掛けて9本の魚雷を発射、遂に1本が命中して高雄への退避を強いられる。度重なる敵潜の襲撃を受けて第17号海防艦が対潜掃討に移るも、午前10時55分、タイルフィッシュの雷撃で第17号海防艦艦首が大破し、高雄へ退避。団から2隻の艦が脱落する被害と引き換えにウルフパックを振り切り、7月20日20時11分に中継地のマニラヘ入港、7月22日海鷹大鷹が持ってきた航空機を揚陸する。ここで団の再編成が行われ、輸送任務を終えた大鷹はヒ68団とともに内地帰投、海鷹はマモ団護衛のためマニラに留まる事になり、最終的地シンガポールまで同行する空母神鷹のみとなる。新たな護衛艦艇として第13号と第19号海防艦が参加。

7月25日午前5時45分、ヒ69団とともにマニラを出港。今回はウルフパックに捕まらず穏な航となり7月31日17時36分にシンガポールへ到着。団の出港準備が整うまで休養する。帰路はヒ70団(中身はヒ69団)の護衛をする事になり、新たな護衛戦力として内地帰投が命じられている駆逐艦霜月が参加。8月4日21時香椎駆逐艦霜月空母神鷹海防艦佐渡、千振、第13号、第19号でタンカー8隻を護衛してセレター軍港を出発。太陽が昇っている間は神鷹から飛び立った九七式艦攻がらせる。中で内地帰投する軽巡北上(中破)が合流し、攻撃を受ける事8月14日18時20分に有湾へ到着。だが引く手数多な香椎に休息の時間などく、8月19日から24日までで入渠整備を受けた後、を出発してヒ73団が待つ門へ回航。

3回目の船団護衛

8月25日午前6時30分、加入船舶12隻からなるヒ73団を空母雲鷹海防艦千振、第1号、第3号、第13号、第19号、第21号、第27号と護衛して六連を出発し、同日20時5分から翌26日午前4時35分まで有湾に仮泊。8月26日午前9時エンジントラブルによるものか吐き出す煙の量が通常より多い瑞穂丸、あらびあ丸、黒龍丸は敵潜水艦に見つかりやすくなるとして残留を命じられ、丸は機関不調により九州反転。同日13時五島列島陸軍配当音羽山丸が敵潜を探知して爆雷攻撃し、8月28日午前11時40分にも海防艦千振と九七式艦攻が協同で対潜攻撃を行うなど緊迫した航が続いたが、8月29日高雄へ寄港、同日中に出発する。

9月1日午前9時マニラに向かう護丸、香久丸、吉備丸、伊良湖が第21掃隊や海防艦屋代の護衛を受けて離脱し、香椎は残りの団を率いてシンガポールす。16時に第19号海防艦潜水艦を探知して爆雷投下しているが効果不明。同日深夜、ルソン峡にて雲鷹所属の九七式艦攻が急速潜航中の潜水艦タニーを発見、すかさず2発の60kg爆弾を投下して損傷を与え、撃退した。タニーを退けた後の9月2日午前1時30分にも音羽丸が潜水艦探知をしており気の休まる暇がかった。9月3日20時23分にサイゴン南方海軍配当東亜丸が触雷するも大した被害は出ず、9月6日午前9時に解列してシンガポールへの入港を果たした。

9月11日午前11時、内地に向かうヒ74団を護衛して出発。だが度の航には恐怖と悲劇が待っていた。翌日午後12時45分、九七式艦攻が面に浮かぶ面を発見、潜水艦からの漏と判断して航空機、第13号、第27号海防艦爆雷を投下した。これからヒ74団が向かうルソン方面では潜水艦クイーンフィッシュバーブが不時着機からパイロットを救助する任務に就いており、自ら虎口に飛び込む形となってしまう。

9月16日香椎雲鷹に「敵潜発見」の報を送った。22時31分、クイーンフィッシュが御室山丸を雷撃。幸い命中こそしなかったが香椎から敵潜襲撃を知らせる赤色弾が打ち上げられて恐怖が幕を開けた。翌17日午前0時34分、今度はバーブが放った魚雷が特設運送あづさ丸雲鷹に直撃して大火災が発生、16分後にあづさ丸は爆沈し、雲鷹団から落しながら午前1時42分に被雷を伝える電文を発した。そして午前7時55分に艦尾より沈没。48機の艦載機ごとしてからの援護を失った。団は危険なルソン域を突破、9月18日18時から翌19日正午まで高雄に寄港し、近くて遠い本土に向かって走り続ける。手痛い犠牲を払いながらも9月23日17時に門へ到着した。

9月24日から10月19日まで佐世保で入渠整備を行い、出渠後は瀬戸内海西部で整備と訓練を行う。

4回目の船団護衛

10月26日18時海防艦来や能美等とともにヒ79団を護衛して門を出港。海防艦への被害が甚大なのか護衛には機雷敷設艦が多く見られた。翌日第17号海防艦が、10月28日14時に第21号掃海艇が護衛に加わる。10月29日19時30分、基に向かう陸軍徴用めるぼるん丸を護衛するため海防艦来と第17号が一時的に離脱するが22時50分に2隻とも復帰、10月30日19時50分から翌日15時30分まで高雄に寄港。11月2日14時32分、海南島東部でB-24爆撃機1機から高高度爆撃を受けるも被害なし。フィリピン方面ではアメリカ軍の猛攻が続いていたが航海自体は意外なほど穏に進み、11月8日午後12時30分、ヒ79団はシンガポールへ入港した。

入港中の11月15日上護衛総部第101戦隊が新編され、香椎海防艦来、大東、対馬、第23号、第27号、第51号を率いる旗艦になる。

11月17日18時海防艦新井崎、三宅、満珠、能美来、第17号、第51号とヒ80団を護衛してシンガポールを出港。11月20日午前6時サンジャックから来た第23号海防艦が護衛に加わるが、入れ替わる形で午後12時40分に第17号海防艦サンジャックに向かう的で離脱。翌日から視界不良に悩まされる事となり衝突を避けるため団を一時分散させる。11月28日午前9時30分、高雄行きの特設運送良栄丸、陸軍徴用有馬山丸、海防艦新井埼が団より離脱し、残った団は12月2日17時10分に万里湾へ到着。

5回目の船団護衛

12月19日13時30分、香椎は第101戦隊の大東、第23号、第27号、第51号を率いてヒ85団とモタ38団を護衛して門を出港。団はルソンへ増援として送る第23師団(残余)、第19師団、第10師団を乗せていた。もはやシンガポール行きも危険に満ちた航に成り果てており、敵潜と敵機の襲撃を避けるため大陸沿いの航路を選択し、対馬峡を通って朝鮮半島西北上仁川から西進してを渡り、山東半島に沿って南下する。翌20日21時15分、海防艦対馬が護衛に参加。12月23日23時10分に高雄外港で一旦停泊するが、敵機動部隊接近の報が入ったため翌24日午前0時30分に高雄を脱出、幸い誤報だったようで約20時間後に高雄へ戻った。ここでルソン行きの神州丸、吉備丸、日向丸青葉山丸と別れ、護衛艦艇を伴って先発していった。

12月27日午前10時香椎はヒ85団を護衛して高雄を出発する。翌日海南島の楡へ向かう北丸と対馬が分離、12月29日17時25分に香港から来た第101掃海艇と南シナで合流。しかし12月30日と31日、ヒ85団の上B-25爆撃機が触接に現れる。撃退には成功したが大規模攻撃の前触れだとして不穏な空気に包まれた。

1945年

対潜監視に不利な間を避けるべく、1945年1月1日17時20分にキノン湾へ入って避泊し、が明けた翌日午前7時に出港。1月3日午前0時50分から午前7時30分までナトラで仮泊した後、南に向かって出発するが、団後方よりエンジンを停止してグライダーのように滑してきたB-24の爆撃を受け、左列最後尾の北丸に爆弾1発が直撃。海防艦対馬に付き添われて海南島の楡へ退避した。

1月4日18時30分、ヒ85団はサンジャックへ到着。同日14時25分に出発して18時20分にサイゴンに回航されるも、ここでシンガポール行きを断念し、ヒ85団の編成が解かれた。輸送は本土に持ち帰るための生ゴム石油ボーキサイト等の重な天然を積み込み、1月6日午前9時25分、サイゴンを出発してサンジャックに移動。しかし停泊中にアメリカ軍がルソンへ上陸したとの報が入る。これは本土とインドシナが分断された事を意味していたが、少しでも危険度が低いうちに強行突破する事になり、急ぎ出港準備を整える。

1月9日正午、新たに編制されたヒ86団を護衛して出港。タンカー極運丸、さんるいす丸、大津山丸、昭永丸、貨物船丸、予州丸、丸、健部丸、第63播州丸、優清丸からなる団を第101戦隊香椎海防艦来、大東、第23号、第27号、第51号が護衛する。敵潜水艦の襲撃を極力回避すべく沿から僅か2km合いを航行する接航法を採用。また視での警困難間航行は避け、1月11日午前2時30分にバンフォン湾で、同日21時20分にキノン湾で仮泊。

だが全てを葬り去る魔手はすぐそばまで来ていた。第38任務部隊はグラテテュード(感謝の意)作戦を発動し、サンジャックにいるされた伊勢戦艦2隻と軽巡大淀を撃沈するべく今まで水上艦艇が侵入していなかった南シナへ堂々と侵入してきたのである。そしてインドシナ方面をくまなく捜索。最終的に伊勢日向を発見出来ず攻撃は失敗に終わったが、その巻き添えを喰らう形でヒ86団が狙われる羽になる。

最期

1945年1月12日、ヒ86団はキノン湾を出発。午前9時、少数の敵艦上機と交戦して撃退に成功するが、敵に発見された事を悟った渋谷は接航路に変更して団を二列縦隊に変更。陸地側を輸送を、合い側を第101戦隊が航行し、香椎戦隊の先頭に立った。もし敵潜からの雷撃があれば第101戦隊が身を挺して団を守り、万が一輸送が被雷しても陸地へ座礁しやすくしていた。

午前11時6分、第38.3任務部隊の敵艦上機16機が出現。香椎海防艦は12.7cm連装高で対抗し、輸送も25mm機を撃って対空砲火を打ち上げるも、抵抗むなしくまず最初に予州丸が被弾沈没させられた。敵の第二波が現れると渋谷沈没の時に備えて機密書類を処分するよう命じた。午後12時20分、永丸が3発の命中弾を受けて沈没、続いて大津山丸も被弾炎上する。絶望的戦況の中、香椎は決死に輸送を守り続けた。

13時45分、ヘルダイバーアベンジャーに襲われて香椎は2発の直撃弾を受け、更に右舷へ2本の魚雷と艦尾に3発の爆弾叩き込まれて弾薬庫に誘爆し、艦尾部分が爆砕されてしまう。14時5分に総員退艦命が出され、艦首を突き上げながら沈没していく中、沈む間まで香椎の機は火を噴いて抵抗したという。乗組員621名が戦死、19名は続航していた来に救助された。

香椎沈没した後もヒ86団は攻撃を受け続け、14時16分に第26号海防艦沈没、14分後に大津山丸が操不能となって座礁してしまい、護衛がくなった極運丸は最大の船舶だった事もあって集中攻撃を受けて煙を噴き上げながら沈没。最後まで生き残っていたさんるいす丸が16時頃に自ら座礁したのを最後に輸送団は全滅。生き残ったのは運良くスコールに隠れられた海防艦来、大東、第27号の僅か3隻だけだった。この日だけで33隻の船舶と13隻の戦闘艦が撃沈され、香椎らの沈没は即ち南方航路の閉鎖を意味していた。

1945年3月20日、除籍。

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