アドルフ・ヒトラー(独:Adolf Hitler)とは、オーストリア出身のドイツの政治家である。ナチスの党首であり、第二次大戦の中心人物。名前の表記ゆれには「アドルフ・ヒットラー」がある。(日本人にはhitlerはヒトラーにもヒットラーにも聞こえる。)
概要
国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)党首として1933年にドイツ首相に就任。翌年、ヒンデンブルク大統領の死去に伴い、国民投票を経て「指導者(フューラー)兼首相」として国家元首の座に就く。この地位を日本語では慣例的に「総統」と呼んでいる。後、1945年4月30日に赤軍攻囲下のベルリンで自殺するまでその地位にあった。
彼が政権にあった時期のドイツを指して「ナチス・ドイツ」「ドイツ第三帝国」と呼ぶことがある(第三帝国については第一は神聖ローマ帝国、第二はドイツ帝国の事を指す) 。
生い立ちから死亡まで
1889年生まれのオーストリア国籍の民族ドイツ人。後にドイツ国籍を取得。
本来は芸術家志望であったが、美術学校(ウィーン美術アカデミー)に落第し挫折を味わう。(ヒトラーの描いた絵はニコニコ動画にもアップされている⇒sm6558112)
第一次世界大戦ではドイツ(バイエルン)軍に志願し、叙勲された経験も持つ。負傷もしている。大戦の最期には一級鉄十字章を受賞したが、最終階級は伍長止まりであった。その為、ニコニコ動画などでは伍長閣下と呼ばれる場合がある、またこの一級鉄十字章は、ヒトラー自身が名誉と思っていたのか、総統になった後でも肌身離さず付けていた。
戦後は軍の反共宣伝活動に従事していたが、成り行きからとある政党の集会に参加。やがて演説の才能から頭角を現し、党の指導者(フューラー)となる。この政党がNSDAP(ナチス)である。
ヴェルサイユ体制への反感、世界恐慌、排外主義・反ユダヤ主義などを背景に、決起(ミュンヘン一揆)の失敗に伴う逮捕などを経つつもヒトラー率いるNSDAPは勢力を伸ばして行き、1933年の選挙でヒトラーは首相となる。全権委任法を制定して一切の政党を禁止し、国際連盟を脱退。1934年に「長いナイフの夜」と呼ばれる大粛正を行い国防軍を掌握。同年、大統領と首相を兼任し国家元首(フューラー)となり、独裁体制を確立させる。
政権取得後はヴェルサイユ体制の破棄(再軍備・ドイツ領土の回復)、大ドイツ主義政策を推進。国内では福祉や公共事業を推進すると同時に、有名なユダヤ人敵視政策も進めている。
1936年にはベルリンオリンピックを開催し、近代オリンピック初の聖火リレーを導入した。この映像は試験的だったテレビを導入した為、レニ・リーフェンシュタール監督によって記録映像を残した初めての大会となった。この時に使われたカメラはツァイス製のSonnar 180/2.8(通称オリンピア・ゾナー)であった。また、この大会でドイツは大会一番の33個の金メダルを取るなど大成功を収めた。主要スタジアムとして建造されたベルリン・オリンピアシュタディオンは2009年の世界陸上でも使われた。
英仏はチェコスロバキアからのズデーテン割譲あたりまでは融和的な態度を取ってきたが、ドイツがソビエト連邦と秘密協定を結びポーランドを分割するに至り態度を変更。ここに第二次世界大戦が勃発する。
戦争初期、ヒトラー率いるドイツは電撃戦と呼ばれる戦術によって速やかにオランダ、ベルギーを通りフランスを下すが、英派遣軍の殲滅には失敗。ドーバー海峡の航空・海上優勢も確保できずじまいに終わる。
英本土上陸作戦を断念したヒトラーは、独ソ不可侵条約を破りバルバロッサ作戦を発動し対ソ戦に突入する。対ソ戦開始の背景は、イデオロギー対立とも「東方生存圏」とも「ソビエトの西進に対する予防」とも言われている。まことに欧州情勢は複雑怪奇。
やがて独ソ戦は当初のドイツ優位から赤軍の反攻に転じ、南では独伊軍を北アフリカから駆逐した英米軍がイタリア本土に上陸し、1943年9月にイタリアが無条件降伏。そして1944年6月、それまで膠着していた西部戦線にノルマンディーに連合軍が上陸し、石油もついたドイツは悪夢の内線作戦を強いられる事態になった。
この間、ヒトラーは現場の状況を無視した無茶な死守命令を出し、現場の軍を何度となく危機にさらしている。そのため軍内部で幾度となくヒトラー暗殺計画が立案され、実行に移されたが、ことごとく失敗している。
連合軍の手に渡さないが為にパリやベルリンなどの生産施設を爆破させる計画を提案するが、軍需大臣のシュペーアに止められ断念。ベルリン市街に迫る赤軍の砲声が響く中、1945年4月30日ヒトラーは地下壕で結婚したばかりの秘書エヴァ・ブラウンを伴って自殺。遺骸は焼却されたとされる。
5月2日に総統官邸を占拠したソ連軍によって遺体を発見され、永きの間にわたり遺体の場所は秘匿されてきたが、ヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になることを恐れ、後にソ連指導者となる当時KGB議長だったアンドロポフの命令によってヒトラーとブラウン、ゲッベルス夫妻とその子供6人の計10人の遺体は完全焼却された上でエルベ川に散骨された。(ソ連崩壊後の1993年に、KGB/FSBが、KGBの元メンバーによる公的検死記録その他の報告書を公表した。)
評価
第一次世界大戦後当時、ドイツは敗戦直後という事もあり経済的にも落ち込んでいた。ヒトラーはその根本的な原因だったヴェルサイユ条約の打破、また当時からドイツの中では浮いた存在だったユダヤ人を敗戦の原因として悪に仕立て上げ、排除を訴えた。もともと飛び抜けた演説の才能があったヒトラーはその見事な演説でドイツ人民の心を掴み、小規模な地方労働者の政党にすぎなかったナチ党を1200人の巨大政党に成長させて政権を掴んだ。(ちなみにヒトラー入党時ナチスは7人だった、というのは誤りで55名の党員がいた。委員がヒトラー含め7人である)
ユダヤ人をはじめ多くの人々の殺害命令を下した独裁者とされる。虐殺されたユダヤ人は500~600万とされているが、ドイツではナチタブーがあり検証が進んでいない[要出典]。戦勝国の常として過剰な報道がなされたためで、実数はここまで多くなかったのではないかという説もある。尚、ホロコースト否定罪が存在する為真偽の追求は実質不可能。(被告を弁護する弁護士も刑罰対象の為)また、当時のソ連でもホロドモール、スターリンの大粛正、カティンの森事件など数多くの虐殺事件が存在する。
同様に戦後ドイツの地位回復の為に旧ドイツの戦争責任を背負い込まされた指導者という側面もある。
ゲルマン人の語源にはアーリア人種があるとし、ドイツ人を纏める為のプロパガンダの一側面にも使われたが、ヒトラーは自身が理想とする金髪碧眼のアーリア人では無かった。
健康に気を使い、ベジタリアンでタバコも酒もたしなまず、動物愛護法を制定し、子供や女性に優しく、紳士的な人物であったと言われている。 実際彼の地下壕ではタバコは厳禁であった。(さすがにベルリンの戦いの末期になると恐怖から逃れるためにヒトラーの目の届かないところで飲酒するものがいたようだが。)大戦末期に一緒に地下壕で暮らしていたゲッベルスの子供たちなどからは「アディおじさん」、姪のアンゲラ(通称ゲリ)からは「アルフおじさん」と呼ばれて親しまれていた。だが末期には過度のプレッシャーからか精神に異常をきたしたかのような言動も増え、現場の状況を無視した非現実的な命令を度々下し、ヒステリーを起こして部下に当たり散らす事も多かったという。自律神経失調症や何らかの精神疾患になっていた可能性も高い。
ヒトラーの父がユダヤ人である可能性があった為、ヒトラー自身が1930年にハンス・フランクに調査を命じたが、調査は彼自身が中止を命じたため中止になった。ちなみに、ヒトラーの祖父はユダヤ人ではなかった。
また、彼は19世紀の音楽界に影響を与えたリヒャルト・ワーグナーの信仰者だった(ニーチェ、マーラー、ドビュッシーなどもワグネリアンだった)。その為、映像記録などでは好んでワーグナーが作曲した音楽が多数添えられている。ナチスのイデオロギーの象徴として使われたワーグナーの作品は、現在もイスラエルでは公衆の前で演奏することを禁止されているほどの抵抗が根強く残っている。
外国(特に欧州とイスラエル)でヒトラー擁護的な発言は冗談でもしない方が身の為である。いやマジで。
尚、日本と同盟を結ぶ際には日本の歴史を徹底的に調べさせたとされている。彼は日本の歴史、ルーツに何か見出していたのかもしれない。
総統閣下シリーズ
日々極東の同盟国の体たらくに心を痛めている様子であるが、詳細は当該項目に譲る。国民啓蒙・宣伝大臣ゲッ“ベ”ルス博士の演説も一読されたい。
映像・音声メディアを活用した宣伝技法、そしてプロパガンダの有用性が21世紀の現在でもまったく色あせていないことの証左であろう。
関連動画
関連項目
- 総統閣下シリーズ
- チャールズ・チャップリン
- 閣下は総統閣下しております
- ナチス
- ドイツ
- 第二次世界大戦
- ホロコースト
- ヨシフ・スターリン
- ヒトラー 〜最期の12日間〜
- ワルキューレ(映画)
- 帰ってきたヒトラー
- Cross of Iron
- アドルフに告ぐ
- アウトバーン
- ニュルブルクリンク
- フォルクスワーゲン
- エホバの証人(あまり知られていないが信者達をユダヤ人と一緒にホロコーストで大量にポアしたことがある)
- 美大落ち
- プトラー
- 腐った納屋
- 111
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