フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Фёдор Михайлович Достоевский)とは、ロシアの文豪で世界的大作家である。
フョードル・ドストエフスキーと、ミドルネーム(父称)が省略されることが多い。
というかそもそも基本的にドストエフスキーだけで通じるし、古典文芸ファンは更にドストなどと略す。
「ドストエフスキイ」「ドストイエフスキイ」「ドストエーフスキー」などの表記ゆれがあったが、これらは現在ではほとんど使われない。
原語 “Достоевский” を忠実に読むと「ドスタイェーフスキイ」になる。 → 参考(forvo.com)
概要
19世紀ロシアを代表する文豪であり、日本で最も有名なロシア人作家の1人。
レフ・トルストイなどと並び、世界に与えた文学的・思想的な影響は計り知れない。
人の奥底にある心理を巧みに描き出しており、後の時代の心理学などにも影響している。
人間が持つ暗い欲望・本能と、キリスト教的人間愛との衝突(そして後者による前者の超克)を描くことが多かった。両者は度々、2人の登場人物に仮託された(『罪と罰』のソーニャとラスコーリニコフなど。わかりやすく言えば、「自然に対して贖罪せねばならん」と言うシャアと、「エゴだよそれは!」とそれを止めるアムロのような関係)。
その一方、個人としては、貧しい育ちな上に無類のギャンブル好きという破滅的な人物だったことでも有名。
実際には破産などの大事故を起こすことはなかったが、代表作と呼ばれる『罪と罰』にすら、借金の返済のために無謀なスケジュールで契約した末に必死で書いていたという、身も蓋もない制作背景があったりする。同作や『賭博者』などは、あまりにも時間がないため、口で話したのを速記係に書かせており、ドストエフスキーはその速記係と結婚している。
キャリア後期に著した、五大作品と呼ばれる『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』が特に有名。その他、処女作『貧しき人々』や、『地下室の手記』、『賭博者』などが知られる。
堅苦しく難しいイメージがまとわりついているが、そのイメージから彼の作品を敬遠している人には、『鰐』がお勧めである。
一般的に、中学生~高校生の辺りから、「成人するまでに(大卒までに)読んでいないと恥ずかしい」といったような文句で周りの大人が勧めてくるようになる。恥ずかしいかどうかはともかくとして、実際、読めば大きな感動や衝撃を受けることができるので、多少ドストエフスキー作品を勧める声に胡散臭さを感じても、読んだほうがよい。
一部作品は青空文庫でも公開されている。中山省三郎訳の『カラマゾフの兄弟』など、五大作品も一部登場しており、ゆくゆくは他の作品も読めるようになるはずだが、どれもかなり古い訳なので、本を入手したほうが良い。
また、原語版や英語版の多くは、ネット上で丸ごと公開されている。
訳者
日本には、非常に多くの訳が存在し、全集も個人訳から共同訳まで幾つも出版されている。
有名な訳者に、米川正夫、中山省三郎、小沼文彦、江川卓(えがわ・たく。元投手の野球解説者とは別人)、亀山郁夫などがいる。
米川はドストエフスキー作品を日本語に訳した先駆者であり、河出書房新社より戦中から戦後に掛けて2回の中断を挟んで個人訳でのドストエフスキー全集(作品集全18巻、論文・記録集2巻、別巻研究書1巻)を世に送り出している。彼の訳は古典的名訳として後の時代の日本人ロシア文学者の多くに愛好されており、今でもドストエフスキー作品の研究会をはじめとして「ドストエフスキーを読むなら米川訳で!」と言う人々が多い。ただ文章や台詞回しが文語調で現代語とはかけ離れており、人によっては読みづらく感じるかもしれない。
中山は三笠書房より戦前に完結した唯一のドストエフスキー全集(全24巻)の訳者であり、彼の訳は米川訳同様日本人に親しまれていた。しかし戦後に広く普及した米川訳の陰に隠れてしまい、現在は刊行されておらず、古いものが図書館か古本屋に置かれてのみである。ただし、最も古い訳であるため著作権が切れており、現在段階的に青空文庫に追加されているので、ゆくゆくは彼の訳した五大作品は無料で読めるようになる。こちらは旧仮名遣いなどが直されているため、非常に読みやすい。
小沼は『罪と罰』に感銘を受けて政府からの支援を受けてソ連邦ブルガリアに留学し、一からロシア語とロシア文学を修めたもののそのまま終戦を迎えてしばらく抑留され、帰国後に30年を費やして独力で筑摩書房から念願のドストエフスキー全集を出版したという、かなりの変わり種。そのため日本のロシア文学界ではほぼ無名の存在だったが、半生を捧げて育まれた平易かつ丁寧な逐語的訳文と註釈は現在でも一定の支持を得ている。
江川は新潮文庫の「謎とき」シリーズによるドストエフスキー作品解説でも人気を博したロシア文学者であり、米山と比べて幾分読みやすい文体で訳している。長年NHKの「ロシア語講座」の講師を務めていただけあり、彼の本は解説書も訳本も読みやすく、若いロシア文学入門者にとっては最適であろう(ちょっとのめりこんでいくと、彼の解説にもいろいろ穴があることが判ってくるのだが、そこからは趣味の範囲なので自由に研究書を探すと良い)。
亀山の訳が最も新しく、現代の日本人には最も親しみやすい文章で書かれている。読みやすさにおいては頭一つ抜けており、事実『カラマーゾフの兄弟』は、既に何度も訳されたり映像化・舞台化されてストーリーもよく知られた作品であり、しかも光文社古典文庫というややマイナーな新規レーベルであるにも関わらず、業界の予想を超える100万部超え(全5巻合計)という異例の大ヒットを飛ばした。現在、大概の書店には彼の訳本が置いてある。ただし、いくらなんでも誤訳が多すぎるとして、他のロシア文学者およびロシア語の解る一部ファンからの強い批判もある。
結局、どれも一長一短である。ロシア文学にちょっとはまってきてこれらの違いを感じるようになってきた人ならともかく、初めてドストエフスキーに触れるような人ならばどれをとってもそう変わりはないかもしれないので、まずは読みやすくて途中で投げる可能性が低いという点で優れている亀山訳や江川訳を入門篇として一通り読んでみて、もっとしっかり読み込んでみたくなったなら他の訳にもチャレンジしてみる、といった方法もアリだろう。
五大作品
罪と罰 (Преступление и наказание, 1866)
五大作品の中でも特に有名な作品。個別記事あり → 罪と罰
独特な思想に染まった青年ラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺して金を奪うが、思いがけぬ巻き添えを出したり、苛酷な環境でも高貴に生きる娼婦の姿を見たりして苦悩し、その考えを変えていく。
世界各国で、合計10回以上は映画化されている。手塚治虫等による漫画作品も多い。
ドストエフスキーの代表作であるが、前述の通り、当の本人はかなりギリギリの状態でこれを書いていた。この頃の彼は、最初の妻と兄に相次いで先立たれ、新しい恋人には不倫された上に愛想をつかされ、その寂しさから原稿料を全てギャンブルで散在して一文無しになるという、まさにどん底の状態だった。
白痴(Идиот, 1868)
完全無欠と言っても良い善人であり、ドストエフスキー自身が「白痴」と呼ぶほどに純粋なムイシュキン公爵を主人公として、彼を愛する美女達と、彼女達への愛に狂う男たちとが巻き起こす騒動を描く。
日本人にとっては、あの黒澤明が映画化した作品として馴染み深いだろうが、これが、当初4時間以上あったはずが2時間30分にカットされてしまったせいで微妙な出来になり、結果として彼のフィルモグラフィの中では評価が低い方になってしまったことは有名である(残念ながらカットされる前のオリジナル版の行方は今でもわからない。一説には、松竹の倉庫で今でも眠っているとか、黒澤自身が持ち出したのではないかとかいろいろ言われているが、真偽は不明)。
しかし、大幅に内容をカットされてもなお、黒澤明の手腕は健在である。のみならず、彼のドストエフスキー作品への愛情が半ば暴走気味に込められているため、やはり必見の名作であることは間違いない。
悪霊 (Бесы, 1871)
革命組織の内ゲバの末に構成員が殺された「ネチャーエフ事件」を基にした作品。
タイトルの悪霊とは、聖書に登場する、豚に取り付いて湖へ身投げさせる霊のことを指す。
重篤なニヒリズムに染まった青年スタヴローギンを祭り上げようとした革命組織が、彼を失った末、結束力を高めるために仲間を殺し、壊滅していく。
ニヒリズムや、無神論、社会主義がテーマになっており、強い信仰心の持ち主であったドストエフスキーはこの作品で、当時ロシアに流入しはじめた社会主義思想の無神論ぶりを痛烈に批判している。とにかく社会主義者の皮肉が強烈で、もちろん、スターリンの政権下においては真っ先に封印された。
そしてそれ以上にこの作品において重要なのが、ニヒリズムの権化のようなスタヴローギンのキャラクターである。彼は近代文学史上最も注目を集めたキャラクターの1人であると言っても良い。
本来は、彼の「告白」が終盤に導入される予定だったのだが、12歳の少女を陵辱する場面があったために掲載拒否の憂き目を見ている。後年になって別冊刊行されている。悪霊を読む上では、こちらも合わせて読んだ方が良い。
未成年 (Подросток, 1875)
ドストエフスキーの作品の中でも特にハードルが高い難解な作品。
主人公アルカージイの手記の形をとり、彼が父ヴェルシーロフの過去を追ったり、ロスチャイルドのような富と名声を手に入れようと苦悩したりする姿が描かれる。
あらすじを要約しようとしても難しく、作品の主軸も、アルカージイの若い苦悩や暴走であったり、ヴェルシーロフの破滅であったりと1つにはまとめられない。五大作品の中で間違いなく一番人気がない。
ただし、いくつかドストエフスキー作品を読んだ後で挑戦してみたところ、評判に反してそこまで難しくはなかった、という人も多い。
カラマーゾフの兄弟 (Братья Карамазовы, 1880)
ドストエフスキーの最後の長篇。一般にドストエフスキーの最高傑作と呼ばれ、ひいては世界文学史上最高の作品の1つとしてさえ評価されることもある傑作。
大地主の家に生まれた、ドミートリイ、イワン、アリョーシャの3人のカラマーゾフ兄弟を中心とした物語。三男のアリョーシャを主人公として、彼らの父フョードルが殺害された事件と、その裁判を巡る様々な人間模様と出来事が描かれる。
兄弟と父の複雑な関係を描く家庭小説でもあり、ドミートリイとその恋人などの恋愛を描く恋愛小説でもあり、父を殺した犯人を追う推理小説でもあり、そしてドストエフスキーが生涯にわたって描いてきた宗教的社会的思想を描いた思想小説でもあるという、まさに集大成的作品。
その分、文量は非常に多く、登場人物も多いため、「最高傑作」「必読」と言う風に勧められて読んだは良いが途中で挫折した、という人も少なくない。しかし、人間の内面への深い洞察についてもエンターテインメントとしても、苦労してでも読む価値のある完成度を誇っており、「これを読んだ後ではしばらく何も面白く感じられない」とまで絶賛する人もいる。
ちなみに、それだけの文章量と完成度にも関わらず、ドストエフスキーにとってはこれはあくまで二部構成作品の前編であった。彼はこの13年後を舞台とした続編を執筆するつもりだったが、残念ながら執筆に取り掛かる前に死んでしまった。その内容は、友人などに出した手紙の中にわずかながら記されているが、どういうものだったのかはわからないままである。
その他の作品
貧しき人びと (Бедные люди, 1846)
処女作(厳密には、これ以前に書かれた数作品は散逸して現存せず)。
善人だが周りからはバカにされまくっている小役人のジェーヴシキンと、天涯孤独の少女ワルワーラが交わした手紙という体裁で、貧しいながらもワルワーラを助けようとして身を持ち崩すジェーヴシキンと、彼の力になろうとするが体を壊してしまうワルワーラの哀れな暮らしを描く。
ドストエフスキー自身が貧乏な状態で書いただけあって、貧困者の叫びがそのまま作品になったかのような雰囲気を持つ。
地下室の手記 (Записки из подполья, 1864)
アンドレ・ジイドが重要な作品として掲げ、その研究自体が有名になったほどの作品。
自意識が肥大化しまくった末に地下室に閉じこもってしまった元役人の独白であり、自分を認めない外の世界への恨みつらみや、自らの過去の回想などが詰め込まれている。
「五大作品の思想すべてを内包している」と言われる作品で、実際、後の彼の作品の思想の断片が数多く含まれている。あらすじだけ見れば痛い男の痛い独白にしか思えないが、人間が非理性的な存在であることを暴き立てる内容でもある。
そして、今日の引きこもり問題を予言した作品としても知られる。
賭博者(Игрок, 1866)
ギャンブル狂のドストエフスキーが書いたギャンブル小説。
家庭教師の青年アレクセイが、賭博と美女にのめりこんで破滅していく様を描く。
ドイツへの旅行中にギャンブルで金を失ったドストエフスキーが、出版社に泣きついて、いわば借金のカタに書いたという、執筆背景からして賭博一色の作品。『罪と罰』連載中の作品だが、当時最新の速記技術を利用して、わずか26日のうちに書き上げた。
鰐(Крокодил, 1865(未完))
ドストエフスキーとしては非常に珍しい、不条理喜劇短編。
見世物小屋に鰐を見に来た男がこの鰐に丸呑みにされてしまうが、何と腹の中で彼は生存する。それどころか、快適だからここに住みつくと言い出し、見世物小屋の管理人と、どこかずれた言い合いを鰐の中と外ではじめる。
ドストエフスキーの作品らしいテーマは確かに込められているが、作風としては陰鬱さなどがなく読みやすい。ドストエフスキーの作品の中でも異色を放っており、これを読むと彼のイメージが変わるかもしれない。
青空文庫で公開されている。
関連動画
ドストエフスキーの作品は幾度となく映像化されているが、登場人物や出来事の量がそもそも大きいため、映画では描ききれないことが多い。先述したように、黒澤版『白痴』などは、長すぎたためにカットの憂き目を見ている。
その中でも、イワン・プイリエフによる1968年の『カラマーゾフの兄弟』は、4時間近い長尺で、原作をかなり忠実に再現しており、評価が高い。
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残念ながら全集は全て絶版、そのうち小沼による個人訳版が2014年からオンデマンドで復刊しているが、総じて2015年現在のニコニコ市場では満足に取り扱われていない。
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