マーケット・ガーデン作戦とは、第二次世界大戦中の欧州戦線において、1944年9月に行われた連合国軍側の作戦名である。この作戦を題材にした映画『遠すぎた橋』が作られたことでも有名である。
概要
作戦開始に至るまで。
1944年6月から行われたノルマンディー上陸作戦(作戦名『オーバーロード』)が行われた。
結果として、フランスに駐留していたドイツ軍に多大なる損害を与えることに成功した。ファレーズ・ポケットと呼ばれた包囲網から逃れた数少ないドイツ兵も重装備を失い敗走しており、この機会を逃さず追撃に移ろうとしていた連合国軍は順調にパリも解放しベルギー領内にまで達していたが、その足は9月上旬には止まってしまう。補給が続かないためであった。
理由はノルマンディー上陸作戦の最優先目標であった欧州大陸側の補給拠点確立に失敗してしまったためでもある。
初期目標であったコタンタン半島最北にある港湾都市シェルブールは奪取に手間取り、その間に港湾施設が破壊されてしまう。大戦劈頭に英国軍、残存フランス軍が脱出したもうひとつの港湾都市ダンケルクにはドイツ軍が立てこもり(これはドイツ軍降伏まで続く)、世界有数の良港と知られたベルギー領アントウェルペン(アントワープ)の奪取には成功していたものの、完全制圧には程遠かった。
こうして補給集積所から前線の距離が長くなる一方で、前線に物資を送り届けるトラック部隊の多くを、ロンドンからパリへと連合国司令部を移すことや、パリ市民に対する物資搬入等に振り分けざるをえなくなってしまっていた。
物資補給はノルマンディー上陸作戦時に設置された人工埠頭などが使われていたが、あくまで急場しのぎであり、本格的な港湾都市を確保し、英国-欧州間の兵站を早急に確立する必要が生じていた。
ここに、英国第21軍集団指揮官であるバーナード・モントゴメリー元帥が連合国軍司令部内である作戦プランを主張しだしていた。
ベルギーからオランダへと進み、港湾施設を奪取。兵站を確立する一方、ドイツの主要工業地帯であるルール工業地帯を突破。ドイツの継戦能力を失わせ戦争の早期終結を目指す、といったものだった。
これは多大なる損害を受けた英国にとって早急な戦争終結が望まれていたこと、また英国が戦後における発言権(ルール工業地帯を英国側が掌握すれば、終戦後の賠償等などについても色々と優位に立てる)などのメリットがあった。
なにより、9月頭からロンドンにはV2ロケットによる攻撃をうけており、発射地点であると思われるオランダのハーグ周辺を奪取する必要性が生じていたなど複数の要因が複雑に絡み合ってもいた。
だが、それ以上にモントゴメリー元帥自らがドイツ軍領内一番乗りという功名にはやったものではないかとも言われている。
作戦計画と蹉跌。
こうした様々な理由にたいして、連合国軍側最高司令官であるアイゼンハワーも抗いきれず、結果的に作戦にGOサインを出すことになった。
基本計画はオランダの各都市、南からアイントホーフェン、ナイメーヘン、アーネム(アルンヘム)の奪取が目的とされた。これにより北海までの沿岸部を掌握、ドイツ軍ジークフリードラインを北側から迂回するという戦略を実現できるとされた。
そのために空挺部隊による降下作戦『マーケット』作戦により、第1空挺軍(3個空挺師団)が河川部の多いベルギー-オランダ領内の橋を押さえるためにそれぞれ分散して降下。
一方、『ガーデン』作戦によりアントウェルペン東方にあるロンメルより第30軍団(機甲師団を中核とした3個師団)が前進、アーネムまで4日間で進出する。といったものだった。
第30軍団策源地となるロンメルからアーネムまでおよそ200kmであり、これを4日で突破する。決して無理ではない距離であった。そう平時であるのなら。
しかし、これは非常にアラが目立つ作戦計画だと言わざるを得ない点が多々あった。
- もともと欧州低地諸国内というきわめて狭い戦域内で軍隊を動かすことの問題性(つまり電撃戦のように敵重要拠点を迂回して進撃するという地理・空間的余裕がない)。
- 空挺部隊による進出が長距離になることによる展開・補給・支援の確立の問題(空挺部隊が意図した場所にすべての装備・人員を展開できるのか否か、ノルマンディー上陸作戦時には広範囲に降下してしまった問題もある。また軽装備主体の空挺部隊が持ち込める対装甲兵器も弾薬も少ない中で4日間アーネムで戦線を維持できるのか。また補給は行えるのか)。
- 河にかかる橋を落とされた場合には第30軍団の進撃が手間取ることは容易に想像され、特にナイメーヘン=アーネム間にあるワール川にかかる橋は、工兵部隊による架橋もできない。これらの対策の無さ。
以上の問題は作戦立案当初から軍司令部内でも指摘をうけていた。
が、モントゴメリーはそういう指摘について問題なしとして返答していた。ドイツ軍がオランダ領内に展開している部隊はどれもノルマンディー上陸作戦で敗走した部隊のみであるから、というのがその理由のひとつでもあった。つまり、たいした抵抗もなく進出できるだろうと考えていたのである。
ところが現実はそうではなかった。
オランダ領内にあるドイツ軍は敗残兵も多かったが、待ち構えているドイツ軍将官は経験豊富・能力も高い二人の元帥がそれぞれ部隊を率いていた。
ルントシュテット元帥はオランダ領内に展開しているドイツ軍をかき集め8万5千の兵力を再編中であったし、モーデル元帥はもともとのB軍集団に加えフランス領内から敗走していた旧A軍集団残存兵力および数は激減(2割ほど)していたもののSS装甲師団も臨時に指揮下に加えていた。かつベルギー-オランダの運河沿いにはドイツ軍空挺部隊創設者でもあるシユトウデント上級大将が配置され、敗残兵だけでなく精鋭の降下猟兵(空挺兵)3千を手元に掌握していた。
連合国軍はおそらくドイツ軍がその時点で望み得ることが出来る最良の兵力・指揮官が待ち構える場所へと進軍する羽目なっていた。
このような齟齬が発生していただけではなく、作戦開始直前、連合国軍偵察により最北のアーネム郊外にSS装甲師団が配置されていることが確認されてはいたのが、この写真は破棄され事実を伝えられることはなかった。
また空挺部隊を運ぶグライダーの輸送量は必要とされる半分の輸送量しかないことも直前に判明するだけでなく、降下ポイントにも問題があることが判明。アーネムにかかる橋から遠い場所が選ばれるなど、まともな作戦開始前とは思えない不手際、泥沼が生じていた。
作戦開始後の経緯
案の上作戦は第1日目から混乱を生じはじめていた。
グライダーなどで降下した空挺部隊はノルマンディー上陸作戦とは異なり、兵力をまとめることに成功していた。が、降下場所が目標である橋から遠かったり、装備を失ったり、ドイツ軍の抵抗にあい橋の確保に失敗した部隊もあった。極めつけは本当に考えられない理由(適切な周波数で通信するために必要な水晶を間違って通信機に入れたため通信できない、近距離用の無線機は原因不明の故障)から無線機が使用できなかったため、部隊間の通信はままならず、作戦司令部との連絡もままならなかった。まともに戦争する気があるか問われても致し方ない準備の杜撰さだった。
ともかくも最北のアーネム確保に英国第1空挺師団は成功した。が、肝心の中央、ナイメーヘンの確保には失敗していた。英国第1空挺師団にしても降下した部隊は相互に連絡することも出来ず、司令部からの連絡もままならない中、当初作戦に従いアーネム橋の確保に動く。
作戦の肝となる『ガーデン』作戦を行う第30軍団も似たり寄ったりで、作戦開始時刻に進軍を開始しなかったり、進軍を開始したとたんドイツ軍の妨害を受けて停滞し、1日目の進軍距離は15kmで野営するなど、まともに戦争する気があるか問われても致し方ない悠長さだった。
ドイツ軍も似たり寄ったりの状態だったが、経験豊富な指揮官らが現場現場でよく状況を把握していた。なにより降下に失敗したグライダーから連合国軍側の作戦書類をゲット。1日目夜には『マーケット・ガーデン』作戦の全貌を把握することに成功していた。ドイツ軍モーデル元帥がナイメーヘン、アーネムにある橋を(今後のことを考えて、ということもあるが囮としての目的もあったと思われる)爆破をしないことを選択。これにより連合国軍側は西側に迂回するという手立てを思いつくものの、最初の目標である橋が無傷であることから橋の奪取に固執してしまう結果となった。
2日目から3日目。アントホーフェンの奪取には成功した連合国軍だったが主力である第30軍団の進撃スピードは落ちていた。解放されたことを喜ぶ市民に道をふさがれていたためでもあるが、もたついている間にも米国第82空挺師団によるナイメーヘンの確保はままならず、最北のアーネムに立てこもる英国第1空挺師団はドイツ軍により包囲下にあり満足な補給を受けられないまま絶望的な戦いを繰り広げていた。
特にアーネム南側のアーネム橋北岸(つまりアーネム側)を守るフロスト中佐率いる旅団は橋の南側の確保も出来ずドイツ軍の猛攻にさらされていた。降下作戦に経験の深いシユトウデント上級大将が執拗に連合国軍側の空挺補給を邪魔しつづけていたのも連合国軍側に不利に働いていた。
作戦は4日をすぎてなお継続されていた。もはや誰の目にも当初目的を達せられないことがありありとしていた。
孤立した空挺部隊を救出するために必要な第30軍団およびその他空挺部隊もナイメーヘンの確保に手間取るだけでなく、アイントホーフェン=ナイメーヘンの回廊はドイツ軍と一進一退の戦いを繰り広げており、随所にドイツ軍戦車などが進出、これを分断していたため、連合国軍の兵力移動はままならない始末だった。
中央のナイメーヘンでは、米国第82空挺師団は昼間、敵機関銃および迫撃砲による攻撃が行われた中でボートによる渡河作戦を決行。これに成功する。(この戦いは戦史におけるもっとも勇敢な行動の一つとして評価された)
これによりナイメーヘンを確保した連合国軍だったが、もっとも遠いアーネムに続く道は見通しの良い道であり、戦車がすすむには危険がありすぎたため英国軍主体の第30軍団はナイメーヘンに到着するものの進軍を拒否。
米国第82空挺師団はこれに激昂するものの手がなかった。何しろ、最南部のアイントホーフェンすらドイツ軍の攻撃をうけ第101空挺師団が必死に守っており、連絡路はドイツ軍戦車などにより寸断されるという形だったのである。
作戦開始から5日目、とうとうアーネム橋の確保もままならない中、フロスト中佐率いる部隊は弾薬が尽きて降伏することを選択する。作戦はいかにアーネムに立てこもる兵士たちを脱出させるかに焦点が移っていた。増援で送り込まれたポーランド義勇空挺も有効にならず、結果的に英国本土から送り込まれたボートなどにより救出作戦が始まる。結果からいうと、アーネムに降下した英国空挺師団1万名のうち、無事に撤退できたのは二千名であり、作戦全体でみると7千名の人員を失い、7千名を捕虜としてドイツ軍が得たことになった。
これによりアーネムに降下した英国第1空挺師団は兵力の70%以上を失い全滅判定を受けることになる。
作戦終了後
作戦失敗には様々な理由があげられている。
- 当初から作戦目標だけでなく作戦計画および事前準備が杜撰であったこと。また偵察情報が正しく伝わらなかったこと。
- 作戦中の状況変化に正しく判断できず硬直した作戦指揮に固執してしまったこと、やることなすこと結果的に誤った結果が出てしまったことがあげられる。
1本道を進軍することの危険性を考えれば、橋を迂回するか近くにあったフェリーを用いて渡河する方法もあったし、わずかなりとはいえアーネム橋南側に空挺を送り込めればフロスト少佐の増援になりアーネム橋奪取に成功し、それにより第1空挺師団への援護、あるいは脱出が容易になった可能性も高かった。現場指揮官からの進言に上層部が許可を出さなかった点も指摘されている。 - 空挺師団に有効な対戦車兵器および重火器の手配が出来なかったこと。空挺部隊は基本的に軽歩兵であり、敵側に装甲車両や重火器があった場合対抗するのはきわめて難しい。
- 英国第30軍団の動きは作戦を通して低調であり、進撃スピードが作戦の要点になるのであれば歩兵師団の移動により重点をおくべきであった。また積極果敢さを極めて欠いておりナイメーヘン確保時、アーネムまでの道はドイツ軍の防衛体制が整っていない状態であったにも関わらず装甲車両のみでの進出を恐れ、歩兵部隊を待つことに終始してしまった。米軍兵士たちが激高するにも理由はあった。
これらはモントゴメリーの硬直した作戦指導に起因するものもあったし、作戦目的が間違っていたこともある。橋を渡れなかった場合、川を渡河する方法についての代替案がなかったのも大きい。
ドイツ軍も判断を誤った点も多かったのだが、結果的には連合国軍側に多くの誤判断があり、戦いはミスを多くしたほうが負けるという自明の理が証明されたものといえるだろう。
ただしモントゴメリーは作戦終了後もこの作戦は90%成功したと発言している。彼の言葉は以下の通りである。
「私の偏見的な見方では、もし作戦が当初から援護され、十分な航空機、地上兵力、そして遂行するのに十分な資材が与えられていたなら、私の失敗や悪天候、アーネム地域に存在した第2SS装甲軍団にもかかわらず成功していたであろう。私はマーケット・ガーデン作戦を擁護することを後悔していない。」
無論、後悔しないのは自由だが投入した3万5千の将兵のうち、半数を戦死・捕虜で失った作戦が成功と言い張れるとしたら、それはそれで才能といえるだろう。
彼は戦後、「名将」と称されて戦後は英軍総参謀長、欧州連合軍最高副司令官を歴任しているが、現在では彼の評価は玉虫色…どちらかというとあまり良い評価をされていない。
一方、アイゼンハワーは作戦結果および損害を知ってモントゴメリーを信用しなくなった。最低限、当初の目的であったアントウェルペン周辺の確保を命じるのみであった(スヘルデの戦い)。
またこの戦いにより、連合国軍側は貴重な物資を失い進撃を停止。その間、兵站路の確立に時間を必要とした。
かくして、1944年12月、ドイツのヒットラーによる唐突な思いつきを具現化した、『ラインの守り』(ルントシュテット攻勢)作戦、連合国軍側のいうところの『バルジの戦い』を行うまで欧州西部戦線は停滞することになる。
ちなみにアーネム橋は作戦失敗後、連合国軍の手により爆破されたが、戦後勇戦したフロスト中佐の名前をとり、「ジョン・フロスト橋」と名前をかえて再建されている。ジョン・フロスト中佐自身は捕虜収容所送りとなったものの、翌年3月に米軍の手により解放。1968年まで軍に在籍。少将として退役している。
映画『遠すぎた橋』と『バンド・オブ・ブラザーズ』
と、失敗に至った『マーケット・ガーデン』作戦を描いたのが映画『遠すぎた橋』(原題:A Bridge Too Far = 原作では「遥かなる橋」)である。映画俳優でかつ監督であるリチャード・アッテンボローが映画化し、各有名どころの俳優がそれぞれの指揮官役を演じている。戦争映画でも不朽の名作と言ってもいいだろう。偏屈・頑固・諧謔・勇敢極まりない英国紳士な将兵たちを見れば、誰しも英国面に落ちる…あれ?
またTVドラマ『バンド・オブ・ブラザーズ』では、第101空挺師団第4旅団戦闘団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊の隊員たちを題材としているドラマだが、第4話および第5話がこの『マーケット・ガーデン』作戦を取り上げている。
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