中田英寿(Hidetoshi Nakata, 1977年1月22日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。
現在は旅人兼実業家。現役時代のポジションはMF。元サッカー日本代表。愛称は「ヒデ」、「ナカータ」、「中田氏」。
概要
山梨県甲府市出身。175cm72kg。ポジションはMF。攻撃的MF(トップ下)が本来のポジションだが、セリエAやキャリアの終盤はボランチとしてプレーすることが多かった。利き足は右足。
三浦知良に続いて日本人2人目として、当時世界最高峰のリーグだったイタリア・セリエAでプレー。広い視野と速く的確なパス、強靭なフィジカルによって国際的な評価を確固たるものとし、イタリアで純粋に実力を認められた初めての日本人ジョカトーレである。セリエA1年目で昇格組のペルージャで二桁得点を記録する活躍を見せており、2000年には、ASローマの一員としてスクデット獲得に貢献。近年では増加した日本人の欧州移籍の道を開いたパイオニアとも言われている。
FIFA主催の全てのカテゴリーの国際大会並びにオリンピックでゴールを決めたことがある唯一の日本人選手でもある。FIFAワールドカップには1998年、2002年、2006年の3度出場しており、いずれも日本代表の中心選手として活躍。アジア最優秀選手賞に2度選ばれたこともある。
日本代表には1997年に20歳でデビューしており、その年の1998 FIFAワールドカップアジア最終予選では司令塔に定着。ジョホールバルの歓喜と呼ばれたイランとの第三代表決定戦では2アシストを含めた3ゴール全てに絡む大活躍によって日本の初のワールドカップ出場に大きく貢献している。
現役当時の日本では頭一つ抜けた存在であり、サッカー界のカリスマとして知られている。その一方、周囲と溝が生じることが多く、2006 FIFAワールドカップではチームメイトとの間に対立が生じたことがグループリーグ敗退という結果に少なからぬ影響を及ぼしている。
2006年ドイツW杯を最後に29歳で現役を引退。以降は、旅人となりながら実業家としても活躍している。サッカー界とはずっと距離を置いている状態が続いているが、未だに日本サッカーの要職に就くことを望む声が多い。
経歴
プロ入り前
小学3年生のときに、兄の影響でサッカーを始め、北新サッカースポーツ少年団に入団する。当時連載されていた漫画「キャプテン翼」がサッカーを始めたきっかけと語っており、小学生の頃に漫画のプレーのほとんどを試したらしい。中学校は甲府市立北中学校に進み、この頃U-15日本代表に選ばれるなど、すでにサッカー関係者からは注目される選手となっていた。
高校は山梨県の強豪校である韮崎高校に進学。中学時代から全国的に有名な選手だったため、県外の高校からもスカウトを受けていたが、県内有数の進学校として知られる韮崎にあえて一般試験で合格。在学中の成績も学年でトップクラスであり、文武両道を実践していた高校時代だった。
サッカー部では1年生の頃からレギュラーを掴んでおり、この頃から上級生相手にも物おじしないスタイルを見せていた。全国高校サッカー選手権には2年生のときに出場。全国大会の実績は目立ったものはないが、アンダー代表での活躍もあって超高校級のMFとしての評価を受けており、高校3年生のときには当時のJリーグ12チーム中11チームからのオファーを受け、神奈川県の3チームの練習にも参加している。
ベルマーレ平塚時代
1995年、Jリーグのベルマーレ平塚に入団。入団の決め手となったのは、自分を即戦力として必要としてくれたこと、そして将来の海外移籍を視野に入れた留学を認めてくれたことだった。
1995年3月25日Jリーグ1stステージ第3節ジェフ市原戦において途中出場でプロデビューを果たす。デビュー戦で試合の流れを変える働きを見せたことが評価され、以降出場機会を増やし、5月2日の第12節鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決める。プロ1年目は怪我で離脱した時期があったものの、チームの主力として定着するようになり、26試合8得点という前評判通りのルーキーイヤーとなった。12月27日には、アジアカップウィナーズカップ決勝のアル・タラバ戦に出場し、後半36分に決勝ゴールを決め、自身にとってのプロ初タイトルを自らの手で引き寄せている。
1996年1月には、入団時の約束通りイタリア・セリエAの名門ユヴェントスの練習に参加する短期留学を実現させる。このときの経験により、視野を世界に向けて海外移籍を実現させることを目標に置くこととなる。1997年は、シーズン後半はフランスW杯アジア最終予選出場のためチームを離れることになるが、1stステージでは優勝争いを演じたチームの中心選手として活躍。この年のJリーグベストイレブンに選ばれる。1998年6月のフランスW杯出場後、かねてからの目標だった海外移籍を実現させる。
ペルージャ時代
1998年7月22日イタリア・セリエAのペルージャへの移籍が発表される。背番号は「7」。フランスW杯での活躍が名物オーナーとして知られるルチアーノ・ガウチ会長の目に留まっての移籍実現となった。高校生の頃から将来の海外移籍を見越して語学を学んでおり、入団会見ではすでに流暢なイタリア語を披露。そのため、チームメイトとのコミュニケーションにも困らず、チームに溶け込むのも早かった。
9月13日セリエAでも当時最強と言われたユヴェントスとの開幕戦にスタメンとして出場。3点のビハインドを背負った後半7分にセリエA初ゴールを決めると、14分にもゴールを決める。試合には3-4で敗れたが、セリエAデビュー戦でユヴェントス相手の2ゴールというセンセーショナルなデビューを飾った21歳の日本人選手の名前は一気にイタリア中に知れ渡ることとなる。その後は、チームの不動のエースとして存在感を増すようになり、1年目にして33試合出場10得点4アシストという記録を残し、シーズン前は厳しいと見られていたペルージャのセリエA残留の立役者となる。
1年目の大活躍で数々のクラブから獲得オファーが殺到したが、2年目となる1999-00シーズンもペルージャでスタートすることになる。この年、2年連続となるアジア年間最優秀選手賞も受賞。そして1月の移籍マーケットで次のステップへと進むことになる。
ローマ時代
2000年1月13日セリエAの強豪クラブであるASローマへの移籍が決定。背番号は「8」。当時ローマの監督だった名将ファビオ・カペッロが自ら獲得のために中田と会談するほど強く希望したことで実現することになった。しかし、トップ下の位置には絶対的なエースであるフランチェスコ・トッティが君臨していたため、ボランチでの起用となった。だが、慣れないポジションでペルージャ時代ほどの活躍を見せることができず、徐々にスタメンを外れることが増え、トッティの控えという立場に落ち着いた。
2000-01シーズンはローマが大型補強をおこない、ガブリエル・バティストゥータやマルコス・アスンソンといった実力者が加入したことで当時の外国人枠の関係からベンチを温めることが多くなる。さらに、チームは大型補強が実って首位を走り、チームに入り込む隙はないように思われた。それでも、第27節ウディネーゼ戦でトッティの出場停止によりスタメンのチャンスが巡ってくると、この試合でゴールを決めるなど、腐らずにアピールを続けていた。すると、これまで出場の妨げとなっていたEU外国籍選手の出場制限規定が2001年5月4日に撤廃される。スクデットを争っていた5月6日の第29節2位ユヴェントスとの天王山に、2点リードされた後半15分トッティとの交代で出場すると、後半34分に豪快なミドルシュートを叩き込み、反撃の狼煙をあげる。さらに後半ロスタイムに放ったミドルシュートのこぼれ球をヴィンチェンツォ・モンテッラが押し込み、同点に追いつく。この試合を引き分けに持ち込んだことがローマの18年ぶりのスクデット獲得の決め手となる。日本人選手が初めてスクデットを経験した歴史的な快挙となった。
パルマ時代
2001年7月6日出場機会を求め、セリエAのACパルマへの移籍。移籍金は約33億円と当時アジア人最高額にまでのぼり、背番号は「10」を与えられるなど、大きな期待を背負っての入団となった。しかし、2001-02シーズンのパルマは大きく低迷してしまい、自身も期待通りのプレーを見せられず、批判に晒されるようになっていた。二度の監督交代という混乱に陥る中、自身もプレー機会を与えられない時期を過ごし、まさかの残留争いに巻き込まれかけるほど苦戦をしたが、終盤にレギュラーに返り咲き、10位でシーズンを終える。一方、コッパ・イタリアでは決勝まで進出。ユヴェントスとの第1戦では1ゴールを決め、結果的にこのアウェイゴールが優勝に結びつき、イタリアでの2つ目のタイトルを獲得する。
2002-03シーズンは、アドリアーノ、アドリアン・ムトゥと共に「三本の槍」と称されたトリオを形成する。だが、この年就任したチェーザレ・プランデッリ監督から与えられた役割は、右サイドで守備に奔走する本来のプレースタイルと異なる役割であった。自らの仕事を忠実にこなし、1年間主力としてプレーし続けることはできたが、アドリアーノとムトゥが好き勝手にプレーするツケを払わされるような格好となり、不満を募らせるシーズンとなった。
2003-04シーズンも守備的な役割を要求するプランデッリ監督との確執が悪化するようになり、とうとう試合に出るよりもベンチに座っている時間のほうが長くなってしまう。次第に、パルマでの日々に見切りをつけ、自分を必要とするチームを探すようになる。
ボローニャ時代
2004年1月3日ペルージャ時代の恩師でもあるカルロ・マッツォーネ監督が率いるボローニャFCに半年間のレンタル移籍で加入。背番号は「16」。中田の実力を高く評価するマッツォーネ監督からIHとして起用されると、水を得た魚のように本来のプレーを取り戻し、ペルージャ時代を思わせるような高いパフォーマンスを発揮。加入してからの半年間で全試合フル出場を果たし、チームをセリエA残留に導く。シーズン後、チームも本人もボローニャへの完全移籍を望むが、金銭面でパルマとの折り合いがつかず断念することに。
フィオレンティーナ時代
2004年7月18日チーム破産から復活してきたACフィオレンティーナへの移籍が発表される。背番号は「10」。しかし、ボローニャ時代に代表戦も含めての過密日程をこなしていた影響によってサッカー選手の職業病といえるグロインペイン症候群を発症。その治療のためシーズン前の合宿に参加できず、コンディションも整っていなかったため低調なプレーを披露し、現地ファンに酷評される。結果、出場機会が減ってしまい、居場所を失ってしまう。さらに次のシーズンからパルマ時代に確執のあったプランデッリ監督が就任することが決まり、またも新天地を探すことになる。
ボルトン時代
2005年8月、7年間過ごしたイタリアの地を離れ、イングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍を果たす。背番号は「16」。加入当初はレギュラーとして起用され、10月29日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦でフリーキックから直接ゴールを決め、プレミアリーグ初ゴールを記録。しかし、代表戦への合流を続けていたことがサム・アラダイス監督の不信感を募らせ、徐々に出場機会が減少。加えて中盤を省略してロングボールを多用するアラダイス監督の戦術にプレースタイルが合致していなかった。終盤の5試合は連続してスタメンで起用されるが、初のプレミアリーグ挑戦は不完全燃焼に終わる。そして、これが中田の現役生活最後のクラブとなるのであった。
日本代表
最初に代表チームに呼ばれたのは、1991年の中学生時代のU-15日本代表。2年後に日本で開催されることが決まっていた世界大会に向けての中心選手と見込まれていた。1993年8月に日本で開催されたFIFA U-17世界選手権に出場するU-17日本代表に選出される。ガーナ、イタリア、メキシコといった強豪国と同居したグループリーグを2位で突破すると、準々決勝でナイジェリアと対戦。この試合でゴールを決めるものの、圧倒的な身体能力を持つナイジェリアの前に完敗。このときのヌワンコ・カヌを擁したナイジェリアの強さから中田は世界を見据えたサッカー生活に取り組むようになる。
1994年9月にインドネシアで開催されたAFCユース選手権に出場するU-19日本代表に、当時高校3年生にして飛び級で選出される。松田直樹と共に下の世代の選手ながらチームの中心としてプレーすると、グループリーグ第3戦のクウェート戦、準決勝のイラク戦でMOMに選出され、日本の21年ぶりの準優勝とワールドユース出場権獲得に貢献。自力でアジア予選を突破しての出場は初となった。
1995年4月、カタールで開催された1995 FIFAワールドユース選手権にU-20日本代表として出場。グループリーグ初戦のチリ戦で決勝ゴールを決め、第2戦ではラウール・ゴンザレスを擁したスペインを相手に敗れたもののゴールを決めるなど、2試合連続ゴールで史上初の準々決勝進出に貢献。準々決勝では強豪ブラジルを相手に善戦したものの、逆転負けを喫している。
1996年3月には、アトランタ五輪アジア最優秀選手を戦うU-23日本代表にまたも松田直樹と共に飛び級で選出される。前年の大怪我で欠場となった小倉隆史の穴を埋める存在として期待通りのプレーを見せ、28年ぶりとなるオリンピック本大会出場権獲得に貢献する。
7月に開催されたアトランタオリンピック本大会のメンバーにも選ばれ、初戦のブラジル戦では後に「マイアミの奇跡」と呼ばれた歴史的勝利に貢献する。しかし、続くナイジェリア戦では、戦い方を巡って西野朗監督や他の選手との軋轢を生んでしまい、チームは完敗。メディアに自身の発言が監督批判のように書かれてしまったこともあり、第3戦のハンガリー戦はスタメンを外され、出場機会を与えられないままになる。
1997年5月21日に開催された韓国との親善試合に挑む日本代表に初めて選出され、加茂周監督からスタメンに抜擢され、20歳でフル代表デビューを果たす。チーム最年少ながら堂々と司令塔としてチームを引っ張るプレーが評価され、以降代表の主力に定着。6月22日のフランスW杯アジア一次予選のマカオ戦で代表初ゴールを記録。
9月からスタートしたアジア最終予選のメンバーにも選ばれると、初戦のウズベキスタン戦でゴールを決め、6点を奪っての快勝に貢献。しかし、ここからチームは苦戦することになり、疲れが見えてきた中田も徐々にパフォーマンスを落としてしまう。加茂監督が更迭され、岡田武史監督が就任した最初の試合ではスタメンを外される。その後、勢いを取り戻した日本はプレーオフに回ることになる。11月16日にマレーシアで開催されたイランとのアジア第3代表決定戦では、前半39分にスルーパスから中山雅史の先制ゴールをアシスト。一度逆転を許した後の後半30分にはピンポイントのクロスで城彰二の同点ゴールをアシスト。さらに、延長後半13分に放ったミドルシュートが岡野雅行の決勝ゴールを呼び込む。3点全てに絡む活躍で日本のワールドカップ初出場という悲願を呼び込み、後に「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる歴史的な出来事の主役として、国内外からの注目度が飛躍的に上がる。同時に三浦知良から日本代表の顔が中田に移った瞬間でもあり、12月にはフランスで開催されたW杯組み合わせ記念のエキシビジョンマッチに世界選抜の一員として招待されている。また、この年のアジア年間最優秀選手賞を史上最年少で受賞している。
1998年6月にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。大会前に髪の毛を金髪に染め、自身は自分を海外のクラブに売り込むために目立つよう策を練っていた。日本の初のワールドカップの舞台での戦いはアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカ相手に3戦全敗という結果に終わったが、3試合をフル出場し、億することなく1人クオリティの違うプレーを見せていた中田に対し、海外のクラブからのオファーが殺到。もくろみ通り、直後のイタリア移籍へと繋がった。
1999年10月には、U-22日本代表のメンバーとしてシドニー五輪アジア最終予選を戦うこととなる。前回の五輪ではチーム最年少だったが、今回はイタリアで世界を経験していることもあり、中村俊輔や稲本潤一といった年下のタレントを引っ張る立場となった。所属チームとの兼ね合いで出場できる試合は限られたものとなったが、期待通りチームをリードし、シドニーオリンピック出場権監督に貢献。
2000年9月には、自身二度目のオリンピック出場となるシドニーオリンピックのメンバーに選出される。このときのU-23代表は、黄金世代と呼ばれた下の世代が名を連ね、オーバーエイジの選手も入ったことでフル代表と遜色のないメンバー構成となり、本気でメダルを狙いに行ったチームとなった。グループリーグ初戦の南アフリカ戦では、絶妙なスルーパスで高原直泰の決勝ゴールをアシスト。第2戦のスロバキア戦では、左からのクロスをダイビングヘッドで合わせてゴールを決め、グループリーグ突破に貢献。しかし、準々決勝のアメリカ戦では2度のリードを追いつかれてPK戦に持ち込まれ、4番手としてキッカーを務めるもこれをポストに弾かれてしまい、ベスト8で姿を消すことになる。
2001年から日本代表での背番号が「8」から愛着のある「7」に変更される。3月24日にサンドゥニでのフランスとの親善試合では、当時世界最強と言われたチームに日本は成す術なく完敗を喫するが、その中で1人だけ互角に渡り合うプレーを見せ、あらためて特別なプレイヤーであることを証明する。6月に日本で開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2001には、所属するローマからグループリーグ限定という条件で出場が認められる。グループリーグを2勝1分で突破すると、フィリップ・トルシエ監督は準決勝にも出場するように要請する。当時、ローマのスクデット獲得という歴史的快挙に立ち会うことになっていたため、中田の決断に注目が集まったが、準決勝出場後すぐに帰国するという条件で折り合いをつける。豪雨の中で開催された準決勝のオーストラリア戦では、キャプテンマークを巻き、グラウンダーのフリーキックによって決勝ゴールを決め、日本を決勝進出に導いてすぐにイタリアへ戻る。当時日本では、所属チームよりも代表のほうが大事という考え方が根強かったこともあり、決勝を欠場した中田の選択は賛否両論別れることとなり、一時的にトルシエ監督との間にも軋轢が生じることになる。
2002年6月に日本と韓国で共同開催となった2002 FIFAワールドカップに出場。すでにチームの顔として、世界中に名が知れ渡った選手となっていた中、期待通りチームの大黒柱としての役割を果たす。第2戦のロシア戦の試合中に足を打撲しながらも奮闘。グループリーグ第3戦のチュニジア戦では、後半30分に右からのクロスをダイビングヘッドで合わせ、追加点を奪い、日本史上初のグループリーグ突破に貢献する。だが、足の負傷を抱えたままだったこともあり、ラウンド16のトルコ戦は不完全燃焼のままに終わってしまう。それでも4試合全てに出場し、開催国としての最低限の目標を果たすことはできた。
日韓W杯後に就任したジーコ監督からはキャプテンを任され、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一と共に黄金のカルテットの一角として期待される。ただしこの4人が揃ったことはほとんどなく、この当初の構想は頓挫することとなる。2003年6月には、フランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003に出場。初戦のニュージーランド戦でゴールを決め、勝利をもたらすが、続くフランス戦とコロンビア戦では輝くことができず、グループリーグ敗退に終わっている。
2004年後半になると、グロインペインの影響と所属するフィオレンティーナで出場機会を失っていたこともあり、代表からしばらく遠ざかることになる。その間にキャプテンの座を宮本恒靖に譲ることとなり、中田不在の1年の間に日本代表はアジアカップ優勝を経験しており、一部メディアからは中田不要論が飛び交うようになる。しかし、2005年3月のドイツW杯アジア最終予選第2戦のイラン戦で1年ぶりに代表に復帰。メディアからは試合勘が不安視されるが、ジーコ監督は百戦錬磨の経験を買い、主力として起用する。ポジションを一列下げてボランチに移す。この頃、代表チーム内でも軋轢が生じていると報道されることもあったが、6月3日の大一番となったアウェイのバーレーン戦ではイタリアで培った経験とフィジカルの強さでチームを支え、W杯出場権獲得に貢献。不要論を一蹴することとなる。
2006年6月ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップに出場。自身は3度目となるW杯となったが、「このままでは日本は本大会を勝ち抜くことができない」と発言していたこともあり、どこかチーム内でも浮いた存在となっていた。だが、中田の警笛は的中することとなり、日本は初戦のオーストラリア戦の後半に足が止まり、逆転負け。続くクロアチア戦もスコアレスで終わり、第3戦のブラジル戦では格の違いを見せつけられて大差を付けられる。終盤試合の行方はすでに決してしまい、気持ちの折れてしまった選手もいた中、試合終了の笛が鳴るまで全力で走り続け、試合後ピッチに倒れ込み、10分近く起き上がることができずに悔しさに満ち溢れた表情のまま上空を見上げていた。
日本のグループリーグ敗退から11日後の7月3日自身の公式サイトにおいて、突然の現役引退を表明する。29歳での若すぎる引退に日本のみならず、世界中でも衝撃が走ったが、以前から引退は決意していたものであり、1年ほど前に所属事務所の次原悦子社長には引退の意向をすでに伝えていた。また、監督のジーコにもブラジル戦の試合前に引退することを伝えていた。引退の理由については、「サッカーを好きな部分が長きにわたって楽しめなくなったから」と答えている。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1995 | ベルマーレ平塚 | Jリーグ | 26 | 8 | |
1996 | 26 | 2 | |||
1997 | 21 | 3 | |||
1998 | 12 | 3 | |||
1998-1999 | ペルージャ | セリエA | 33 | 10 | |
1999-2000 |
15 | 2 | |||
ローマ | 15 | 3 | |||
2000-2001 | 15 | 2 | |||
2001-2002 | パルマ | 24 | 1 | ||
2002-2003 | 31 | 4 | |||
2003-2004 |
12 | 0 | |||
ボローニャ(loan) | 17 | 2 | |||
2004-2005 | フィオレンティーナ | 20 | 0 | ||
2005-2006 | ボルトン(loan) | プレミアリーグ | 21 | 1 |
個人タイトル
- Jリーグベストイレブン(1997年)
- 日本年間最優秀選手賞(1997年)
- アジア年間最優秀選手賞:2回(1997年、1998年)
- 日本プロスポーツ大賞・大賞(1997年)
- 日本プロスポーツ大賞・殊勲賞(1998年)
現役引退後
その後数年間、世界中を旅して見聞を広めた。
現在はTAKE ACTION財団を設立し、サッカーを通じた社会貢献活動などを中心に、幅広い分野で活躍している。
しばしば、日本人として世界的に最も大きな成功を収めたプロサッカー選手と目され、ファッションや言動など、パーソナリティの面でも常に注目を集める存在である。
2017年初頭、アジア・フットボール連盟枠で国際サッカー評議会(IFAB)内のルール変更案に対してサッカー面とスポーツ面についての助言を行うFootball Advisory Panelに入っていたことが判明する。
2023年11月、DAZNで配信された『22YEARS』で、ローマ時代にチームメイトだった元イタリア代表MFのフランチェスコ・トッティとの対談が実現。
2023年12月17日におこなわれた中村俊輔の引退試合にサプライズで登場。試合には出場しなかったものの、ベンチに座り、試合を観戦していた。
2024年3月11日には元ラグビー日本代表の五郎丸歩らと共に小型車両系建設機械の運転資格を取得。数日後には、能登半島地震による被災地の復旧支援活動に参加。小型のショベルカーを操縦し、がれき撤去に尽力している。
2024年10月1日より、現役時代からマネージメント契約を結ぶ株式会社サニーサイドアップグループ(次原悦子代表取締役)の執行役員に就任。
プレースタイル
視野の広さ、キック精度の高さを活かした司令塔タイプのMFであり、ドリブルをしながら顔を上げて首を振りながらパスコースを探り、一撃必殺のスルーパスで相手の急所を突くプレーを得意としていた。中田のパスはスペースを狙って出して味方を走らせるパスであり、メディアからは「キラーパス」とも呼ばれているほど厳しいところにパスを出していた。そのため、味方が追いつけないこともたびたびあった。
最大の強みは、若いころから日本人離れしていたフィジカルの強さにある。屈強な外国人選手に当たられても倒れずに力強くドリブルで推進することを得意とし、中村俊輔や小野伸二よりもテクニックでは劣るが、プレス耐性は彼らよりも高い。フィジカルの強さに加えて、低い姿勢で体のバランスを保ち、重戦車のようなドリブルで突き進むのが特徴的であった。
また、パンチ力のあるミドルシュートも武器であり、バイタルエリアに侵入してくると、DFはシュートかパスかの判断で迷うことになる。
守備は一発を狙うインターセプトなどは得意としていたが、対人守備やポジショニングの甘さがあり、うまいほうであるとは言えない。晩年はボランチとしてプレーすることが多くなったが、どうしても前への意識が強くて自分の守るべきエリアを空けてしまい、守備陣に負担をかけてしまうこともあった。
エピソード・人物
ファッションが独特(背中にサソリの刺繍が入ったベストなど)で、ファッションアイコンとして日本のみならず、海外からも注目されていた。三浦知良、後の本田圭佑と続く空港でのファッションショーは当時注目を集めた。サングラスを愛用することが多いのも共通している。当時、中田のマネをしたモード系ファッションも流行り、アムラーを文字って「ヒデラー」と呼ぶ人もいた。
クールで冷静な性格として知られ、公の場ではあまり感情の起伏を見せない選手だった。日本中が歓喜の渦に包まれたジョホールバルの歓喜の際も、最大の功労者であるにもかかわらず「次はJリーグに注目してください」と冷静なコメントを残している。ただし、アトランタ五輪代表の時期には、前園真聖と共に日清の「ラ王」のCMに出演し、今では考えられないコミカルな演技を披露していた。本人的には黒歴史だろう。
古巣である湘南ベルマーレがJ2に降格し、資金的に危機に陥っていたとき、自らが資金を出資してスポンサーになることでチームを救済。このとき湘南のユニフォームには「nakata.net」という自らの公式HPのロゴが掲載されていた。
イタリアのビッグクラブで活躍していたこともあり、海外のスター選手と交友関係を持っている。アレッサンドロ・デル・ピエロ、エドガー・ダーヴィッツ、ルイス・フィーゴ、ガブリエル・バティストゥータなどとの交友関係が明らかにされている。特にデル・ピエロとは大の親友同士であり、中田が現役引退を表明したときには、「僕が引退をやめるように電話する」とコメントしている。また、日本の芸能界においても、木村拓哉、工藤静香夫妻と交友関係がある。また、交際の噂があがった女性も豪華な顔ぶれであり、ハリウッド女優であるミラ・ジョヴォビヴィッチとのデートをパパラッチされたこともある。日本の女優でも、かつて宮沢りえと噂になったこともあり、近年では柴咲コウとの交際が報道されている。
偏食であることも有名であり、大の野菜嫌いであり、食べられるのは潰したじゃがいもとトマトケチャップだけ。一方で大のお菓子好きであり、2003年には株式会社東ハトの非常勤執行役員CBOに就任し、キャラメルコーンなどのヒット商品のパッケージをリニューアルしたことで話題となった。
現役時代は日本のマスコミと確執があり、自分が信頼できるライター以外の取材は受け付けず、インタビューなどでの不愛想なキャラがそのまま流れされていた。中田=不愛想のイメージもメディアとの確執によるイメージ先行が発端となっている。原因は1996年のアトランタ五輪でのナイジェリア戦での発言が監督批判として報道されたこと、1998年W杯の際に君が代を批判したと報道され、右翼団体から脅迫まがいの抗議を受けたことなどがあげられている。そのため、早くから自分の公式HPを立ち上げ、メディアの前に現れない変わりに、web上からファンにメッセージを伝えていた。現在浸透したSNSを使った情報発信の先駆者的存在とも言える。現役引退後は、マスコミとの関係性も緩和されており、日本の番組に出演する機会も増えている。
イタリアでの成功によって他の日本人選手との距離が年々広がるようになり、晩年は日本代表において孤立することが多くなっていた。ユース時代から一緒にプレーしていた松田直樹は、数少ない中田に本音をぶつけられる人物であり、2006年W杯ブラジル戦後、倒れている中田にチームメイトが誰も近寄らないのを見て、「俺がいたらヒデに声をかけたのに」と語っていた。また、当時ボランチでコンビを組んでいた福西崇史との確執が報道されていたが、これについては近年福西が自身のYouTube番組で「よくあるチーム内での意見のぶつかり合いであり、個人的にはヒデの言いたいことも理解している」と語り、確執を否定。現在でもたまに連絡を取り合っているとも語っている。
関連動画
関連書籍
- 中田英寿 編集長 アッカ!!(1998年、新潮社)
- 中田語録(1999年、文藝春秋)
- nakata.net/en 98‐99(2000年、新潮社)
- nakata.net〈2000〉(2001年、新潮社)
- nakata.net〈2001〉(2002年、新潮社)
- nakata.net〈2002〉(2003年、新潮社)
- 文体とパスの精度(2003年、集英社文庫)※村上龍との共著
- nakata.net ITALY WALK(2003年、角川書店)
- nakata.netTV 2003-2004(2004年、扶桑社)
- お菓子を仕事にできる幸福(2004年、日経BP社)
- NAKATA 1998-2005 ~ 中田英寿 イタリア セリエAの7年(2005年、エクスナレッジ)
- nakata.net Italy walk (2005)(2005年、角川書店)
- ドイツW杯への道 nakata.net(2005年、新潮社)
- 教えて!ヒデ(2006年、小学館)
- すべてはサッカーのために nakata.net 05-06(2006年、新潮社)
- nakata.net 06-08 the journey(2008年、講談社)
- に・ほ・ん・も・の(2018年、角川書店)
関連項目
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- 本田圭佑
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- 中澤佑二
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