宮本恒靖(みやもと つねやす 1977年2月7日-)とは、オサレな事で有名な日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。現・日本サッカー協会会長。
現役時代のポジションはDF。176cm72kg。効き足は右足。愛称は「ツネ」「ツネ様」。
概要
大阪府富田林市出身。現役時代のポジションはセンターバック。センターバックとして体格があまりよくないがライン統率や、カバーリングに優れる。またキャプテンシーがありクラブ、各年代の日本代表でキャプテンを多く務めていた。日本代表には2000年にデビューし、2002 FIFAワールドカップと2006 FIFAワールドカップに出場し、キャプテンを務めている。
ガンバ大阪のユース出身。そのまま1995年ガンバ大阪でプロとしてのキャリアをスタート。7度Jリーグオールスターに選ばれている。2006年にオーストリアのレッドブル・ザルツブルクに移籍。移籍したそのシーズンに優勝を経験。その後ヴィッセル神戸でプレーし、2011年に現役を引退。
現役時代は、端正で知的なルックスで人気が高く、「ツネ様」という愛称で呼ばれるなど女性ファンが多かった。CMにも多く起用されたことがある。英語が堪能であり、2004年のAFCアジアカップでPK戦で審判にピッチについて英語で抗議し、PK戦を行うゴールを変えさせたエピソードが有名。
引退後はFIFAマスターを卒業し、2024年3月24日より日本サッカー協会の会長に就任。
経歴
プロ入りまで
父の恒明は東大卒の元関西電力常務取締役で、独立行政法人造幣局監事を経て、一般財団法人関西電気保安協会理事長、母は元英語教師で、元堺市市民人権局理事・教育委員会学校教育部というエリート一家で生まれ育つ。3つ上の姉がいる末っ子。
幼少期は意外にも野球好きで、ソフトボール少年団では強肩自慢の捕手だった。大阪府出身ながら巨人ファンで、「青い稲妻」こと2度の盗塁王を誇る松本匡史のファンだった。7歳のときに母親に野球をやりたいと告げたが、「宮本家の血筋でそんなんなるやつはおらん。無理やからやめとけ」と反対される。小学校4年生のときに1986 FIFAワールドカップでのディエゴ・マラドーナのプレーを見たのをきっかけにサッカーに目覚める。
小学5年生になった1987年に地元の桃山台FCに入団。小学校の頃はFWとしてゴールを奪い続けていた。中学生になると、地元の富田林市立金剛中学校に進学し、サッカー部に所属。この頃は中盤でプレーするようになっていた。サッカーを始めてから約3年後の中学2年生時「第14回全日本選抜中学生大会」(現・14歳以下ナショナルトレセン)、日本ジュニアユース代表候補(現・U-15代表候補)合宿に招集。全国的にも注目されるようになる。
高校生になった1992年にガンバ大阪ユースに入団。ガンバユースの一期生にあたるため、当時は先輩がおらず、1年生の頃から3年間キャプテンを務めていた。1年生の夏にDFとしてプレーするようになり、当時の上野山信行監督「自分が動かなくても守備できるのが究極の守備だ」と指導され、後のプレースタイルを確立するようになる。1994年12月にJユースカップで優勝し初めてのタイトルを獲得。U-17代表として世界大会も経験し、将来の日本代表として嘱望されていた。
ガンバ大阪
1995年にガンバ大阪のトップチームに昇格。宮本がガンバユースからの昇格第一号となった。5月24日のJリーグ1stステージ第18節柏レイソル戦でプロデビューを果たす。しかし、プロ1年目でレギュラー獲得にまでは至らず、11試合の出場にとどまった。また、高校卒業と同時に同志社大学経済学部に進学。当時は珍しいプロサッカー選手と大学生の両立ということで注目された。
1996年も当初は出場機会に恵まれず、プロの壁に悩むことになる。ヨジップ・クゼ監督からはボランチとして起用され、出場機会も徐々に増えるようになる。1997年も引き続きボランチでのプレーが多くなっていたが、パトリック・エムボマの大活躍やガンバユースの後輩である稲本潤一と比べると慣れないポジションで悪戦苦闘していた。10月4日の2ndステージ第17節ジェフユナイテッド市原戦でJリーグ初ゴールを記録。U-20代表の活動でチームを離れることが多かったこともあり、絶対的な地位を築けてはいなかった。
1998年もチームが4バックを採用したときはボランチやサイドバックで使われることが多かったが、それでもスタメンで使われる機会は増えていた。ただ、チームは不安定な戦いが続いており、メディアから辛辣な評価を受けることもあった。1999年シーズンの後半に早野宏史が監督に就任すると、3バックを採用したこともあって本職のCBで固定されるようになる。
2000年には背番号が5に変更され、同時にチームのキャプテンを任される。23歳でのキャプテン就任は異例の若さではあったが、当時のチームには宮本よりも年下の若手が台頭するようになっており、若いチームのリーダーとして牽引する役割を担うこととなった。すると、2ndステージになってチームは快進撃を見せるようになり、優勝争いに加わるようになる。結局、タイトル獲得には至らなかったが、チームにとって欠かせない存在となっていた。なお、この年のJリーグオールスター戦では全選手の中でトップの投票数で選出されている。
2001年1月に海外移籍を希望し、イングランド・プレミアリーグのウェストハム・ユナイテッドFCへの移籍話が浮上する。交渉はまとまりかけていたが、イギリス政府から労働ビザが発給されずに断念。このゴダゴダによってチームへの合流が遅れ、背番号も35に変更となり、キャプテンからも降りることに。また、この年に同志社大学を卒業している。
2002年に監督に就任した西野朗は当初は4バックを採用したこともあって開幕からしばらくは代表選手にも関わらず控えに甘んじることになっていた。それでもワールドカップの中断期間明けからは3バックを採用することが多くなり、DFリーダーとして活躍するようになる。
2003年に背番号が5に戻り、2004年には再びキャプテンに就任。西野監督が就任して以降、チームは司令塔の遠藤保仁を中心とした攻撃的なスタイルにシフトしており、宮本はシジクレイ、山口智と3バックを形成し、後方から前がかりになるチームを支えていた。そして、2005年は強力攻撃陣を得たチームはリーグ随一という得点力を武器に優勝争いを繰り広げ、最終節の川崎フロンターレ戦ではフェルナンジーニョのCKからヘディングシュートを決める。そしてこの試合の勝利によって悲願であったガンバ大阪のJ1リーグ初優勝が決定。普段はクールな宮本もこのときはピッチ上で号泣していた。
2006年のシーズン終了後、もうすぐ30歳を迎えるタイミングで14年間在籍していたガンバ大阪を退団。5年前に実現できなかった海外移籍の夢を叶えるのだった。
レッドブル・ザルツブルク
2006年12月26日、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍する。ちなみに日本代表でのチームメイトである三都主アレサンドロと同時に加入することとなった。
2006-07シーズンは後半戦からの加入となったが、左右のセンターバックで起用されるなど9試合に出場。イタリアの名将ジョバンニ・トラパットーニからの信頼を得たことで移籍1年目でリーグ優勝を経験する。
2007-08シーズンの前半戦もレギュラーとして起用され、自身が10年ぶりにやったと語った左サイドバックでの出場も見られた。2007年12月には1年半の契約延長に合意し、順調かと思われたが、2008年1月に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、長期の離脱を強いられる。現地で手術、リハビリに務めることになり、本格的に練習を再開できたのは6月に入ってからだった。
2008-09シーズンになってからの2008年8月7日に8か月ぶりの公式戦出場を果たす。しかし、前シーズンをもってトラパットーニ監督が退任し、攻撃的なスタイルを好む新監督の戦術にマッチせず、出場機会が大幅に減ってしまう。
ヴィッセル神戸
2009年にJ1リーグのヴィッセル神戸に完全移籍。他国のクラブからのオファーも届いていたが、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心にオファーを出した神戸入りを決めた。加入してすぐにキャプテンを任されると、シーズン前半戦はCBを務めるが、監督が三浦俊也に代わった後半戦はボランチで起用される。7月18日のJ1リーグ第18節川崎戦では自身初となるバイシクルシュート(オーバーヘッドキック)を決めている。
しかし、2010年になると北本久仁衛と河本裕之をバックアップする控えのセンターバックになってしまい、リーグ戦6試合のみの出場になる。2011年はさらに出場機会が減少。そして同年12月に34歳で現役引退を表明。最終節のベガルタ仙台戦が現役最後の試合となった。
日本代表
1993年8月、日本で開催されたFIFA U-17世界選手権1993に出場するU-17日本代表に選出。中田英寿、松田直樹、戸田和幸という顔ぶれが集まったチームのキャプテンを任されることになる。初めての世界大会の舞台で全試合に出場し、初のベスト16進出という結果を残す。
1997年6月には、U-20日本代表としてマレーシアで開催されたFIFAワールドユース選手権1997に出場。この世代でもキャプテンを務め、チームには中村俊輔や柳沢敦がいた。大会では5試合全てにフル出場。準々決勝でPK戦の末にガーナに敗れたものの、過去最高成績を大幅に更新するベスト8進出を果たした。
1998年からはU-23日本代表(シドニー五輪代表)に選出され、フィリップ・トルシエ監督から戦術のキーとなるフラット3の中央を任される。五輪代表でもキャプテンとなり、1999年には圧倒的な強さでのアジア予選通過を決める。
2000年6月には日本代表に初めて招集され、6月18日のボリビア戦で後半から出場し、フル代表デビューを果たす。9月からのシドニーオリンピック本大会のU-23代表メンバーに選出されるが、オーバーエイジで選出された森岡隆三にポジションを奪われ、オリンピック本番では控えとなってしまう。グループリーグ第3戦のブラジル戦は森岡が累積警告で出場停止のため代わりに起用されるが、これが唯一の出場となった。
オリンピック後はフル代表の常連メンバーとなるが、フラット3の中央は森岡が絶対的なレギュラーとして君臨しており、控えという立場が続いていた。森岡が負傷離脱していたワールドカップ前の親善試合では不安定なプレーを繰り返してしまい、代表メンバー入りを疑問視する声も出始めていた。
2002年6月、2002 FIFAワールドカップ 日韓大会のメンバーに選出。直前の練習試合の接触プレーで鼻骨を骨折してしまう。初戦のベルギー戦ではこれまで通り森岡が出場し、ベンチからのスタートとなったが、後半26分に森岡が負傷したことで出場。しかも森岡に代わってキャプテンマークを巻く。この試合で同点ゴールを許したことで宮本の出場を不安視する声も出るが、第2戦のロシア戦以降はDFリーダーとして獅子奮迅の活躍を見せたことで一気に評価を覆してしまう。結局第2戦以降はフラット3の統率役として全試合フル出場し、日本の初のベスト16進出に貢献する。
ジーコ監督が就任してから最初のうちは控えだったが、2003年6月8日のアルゼンチン戦で大敗して以降にDFラインの総入れ替えをおこなったことで、FIFAコンフェデレーションズカップ2003からはCBのレギュラーとなる。2004年2月7日のマレーシア戦では代表初ゴールを記録する。2004年後半にジーコJAPAN発足からキャプテンを務めていた中田英寿が負傷によって離脱してからは代表のキャプテンを任される。
2004年7月には中国で開催されたAFCアジアカップ2004に出場。準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、中村俊輔と三都主アレサンドロが外したことで窮地に陥ると、マレーシア出身のスブヒディン・モハマド・サレー主審に、「これはフェアじゃない。ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れ、前代未聞のPK戦途中でのサイド位置を実現させた。この結果、川口能活のファインセーブもありこのPK戦を制する。この大会では中国人からの激しい反日感情が爆発し、毎試合激しいブーイングを浴びながら試合をこなすことになったが、チームリーダーとしてうまくまとめあげることに成功。日本代表はアジアカップ連覇を果たし、大会のベストイレブンにも選出される。高いキャプテンシーが評価された宮本は中田が復帰して以降もキャプテンを引き受けることになる。
ドイツワールドカップのアジア予選では2004年9月8日の一次予選インド戦で代表2ゴール目を決める。だが、この頃の代表チームは海外組をスタメンに重用するジーコ監督の方針によって控え組から不満が漏れるようになり、さらに2005年3月に中田英寿が1年ぶりに代表復帰したことでチーム内の不協和音はさらに加速するようになる。難しいマネージメントを強いられる中、どうにか話し合いでチームをまとめ、ワールドカップ出場権獲得を果たす。だが、その後もライン設定の高さを巡って中田と意見が対立するなど、チームは最後まで一丸岩となっていなかった。
2006年6月からの2006 FIFAワールドカップ ドイツ大会で二度目のワールドカップ出場。初戦のオーストラリア戦では先制した後、運動量が落ちたチームは次第にペースが落ちてしまう。試合終盤までは何とか踏ん張っていたが、終盤に立て続けの3失点を喫して守備の崩壊を食い止めることができなかった。続くクロアチア戦でもフル出場するが、この試合で警告を受けたことによって第3戦のブラジル戦は出場停止となった。チームは1勝もできないままグループリーグ敗退となる。
イビチャ・オシム監督が就任して以降は一度も代表に呼ばれることはなかった。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1995 | ガンバ大阪 | Jリーグ | 11 | 0 | |
1996 | ガンバ大阪 | Jリーグ | 13 | 0 | |
1997 | ガンバ大阪 | Jリーグ | 26 | 1 | |
1998 | ガンバ大阪 | Jリーグ | 32 | 0 | |
1999 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 30 | 0 | |
2000 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 29 | 0 | |
2001 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 24 | 0 | |
2002 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 20 | 1 | |
2003 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 26 | 1 | |
2004 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 24 | 0 | |
2005 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 30 | 3 | |
2006 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 30 | 1 | |
2006-07 | ザルツブルク | Aブンデスリーガ | 9 | 0 | |
2007-08 | ザルツブルク | Aブンデスリーガ | 12 | 0 | |
2008-09 | ザルツブルク | Aブンデスリーガ | 0 | 0 | |
2009 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 32 | 1 | |
2010 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 6 | 0 | |
2011 | ヴィッセル神戸 | J1リーグ | 4 | 0 |
個人タイトル
現役引退後
現役引退後は、FIFAマスター入学に向けての準備に励む傍ら、サッカー教室などを開催したり、NHKやWOWOWのサッカー中継にゲスト解説者として登場していた。
2012年4月17日に自らの公式サイト内のブログで、FIFAマスター第13期生への合格を公表した。日本人の元プロサッカー選手では初めての合格で、2012年9月17日に入学。2013年7月19日に卒業している。
ロンドンオリンピック開幕直前の2012年7月16日には、ホームズスタジアム神戸で引退試合を開催。ガンバ・ヴィッセル・日本代表時代のチームメートが多数参加したほか、中田英寿や宮本の長男もサプライズで登場した。
2014年4月4日、2014 FIFAワールドカップのテクニカルスタディーグループ10名のうちの1人に内定したと発表される。
指導者時代
2015年、ガンバ大阪のアカデミーコーチングスタッフに就任。
2016年にS級ライセンスを取得したことで、ガンバ大阪ユースの監督に就任。
2017年、J3リーグに所属するガンバ大阪U-23の監督に就任と着実にステップアップ。3月12日の開幕戦のガイナーレ鳥取戦では、代表でチームメートだった森岡隆三との監督対決が実現する。
2018年も引き続きガンバ大阪U-23の指揮を執っていたが、シーズン途中からガンバ大阪のトップチームの監督に就任。就任後は、一人一人の役割についても分かり易く細分化して選手に伝え、仕事に全うできる状況を作り上げることで低迷していたチームの立て直しに成功。就任時の16位から9位にまで順位を浮上させる。就任2年目の2019年は若手選手を大量に起用したが、その若手がシーズン途中で欧州へ移籍するなどし、7位となる。
3年目となった2020年シーズンはさらに世代交代を進め、長年クラブのアイコンであった遠藤保仁をメンバーからは外し、堅守からパトリックを狙ったロングボール主体の戦術に切り替えたことで夏以降にチームは12試合連続無敗と快進撃を見せる。首位・川崎フロンターレの独走は許したが、2位でシーズンを終える。また、天皇杯では決勝まで進出するが、決勝で川崎に敗れ、準優勝となる。
2021年はパトリックのロングボール戦術意外に引き出しが無いことが露呈されてしまい、大きく低迷することに。開幕から10試合で1勝4分5敗の18位に沈み、5月14日に監督解任が発表される。
日本サッカー協会
2022年3月、日本サッカー協会の理事に就任。新設の会長補佐と国際委員長を兼務。2023年2月1日には専務理事に就任。
2023年12月23日には、任期満了が近づく田嶋幸三会長の後任として次期会長に内定。
2024年3月24日、第15代日本サッカー協会会長に戦後最年少となる47歳で就任。
プレースタイル
ポジションはディフェンダー(センターバック)。センターバックとして体格があまりよくないがライン統率や、カバーリングに優れる。またキャプテンシーがありクラブ、代表でキャプテンを多く務めている。
フィジカル面のハンディを読みの鋭さや判断力、ポジショニングで補うタイプであり、頭脳的なDF。味方へのコーチングも的確。背は高くないが、ヘディングの技術自体は高く、意外とセットプレーからゴールを決めている。本人も尊敬しているDFとして名前を挙げている元イタリア代表のフランコ・バレージと似たプレースタイル。
一方、高さ不足と競り合いでの1対1に持ち込まれたときの強度不足は弱点であり、4バックのCBを務めたときには特に露呈されてしまう。そのため、3バックの中央としては重宝されていたが、4バックでセンターに起用しようとしない監督もいた。
人物・エピソード
2004年のアジアカップ準々決勝でヨルダンとPK戦までもつれこみ、日本の二人が連続で外したあと、主審と(英語で)交渉してPK戦を行うサイドを替えてもらったのは、キャプテン宮本の知性と冷静さを表す有名なエピソードである。
ちなみに、留学経験はなく中高の教育で英語を学んだのみだが、英語教師である母親から指導を受けている。
2001年に高校時代の2つ上の先輩と結婚。長男と長女がいる。
2012年にFIFAマスターに入学し翌年無事卒業。日本人の元プロ選手では初の合格。
彼が大きく注目されたのは2002年ワールドカップの時のあの『黒いマスク』だろう。あれはフェイスガード(ノーズガード)であり、ワールドカップ前に鼻骨を骨折したことから顔面保護のために付けていた。海外メディアからは「バットマン」と呼ばれ、日本でもレプリカが作られるほど評判になった。もともとは白かったのだが、マジックで黒くしたらしい。
端正なルックスでも知られ、前述のバットマンと呼ばれていた際には試合終了時や練習時にガードを取った姿がイケメンすぎると女性ファンを中心に話題になり、「ツネ様」と呼ばれたりもしていた。
若手時代は、TBSの「スーパーサッカー」に出演した際、フィリップ・トルシエ監督のモノマネをコミカルにこなしていた。やはり、彼も大阪人だったようだ。
知的で理論派と言われてきた宮本だが、監督時代はロッカールームのミーティングで「何で先に失点すんなって言ったのに失点するんや!!」と選手に激怒している映像が映し出された。どうやら、意外と根性論・精神論の人らしい。
関連動画
関連商品
- 主将戦記 宮本恒靖(2006年2月10日、小学館)
- 宮本恒靖写真集 Walk On(2007年9月1日、アスリートプラス)
- 主将論(2010年10月14日、幻冬舎)
- 宮本式・ワンランク上のサッカー観戦術(2012年6月13日、朝日新聞出版)
- 宮本式・ワールドカップ観戦術(2014年5月13日、朝日新聞出版)
- 日本サッカーの未来地図(2014年5月15日、KADOKAWA)
- リーダーは自分の役割を問い続ける(2019年12月19日、ダイヤモンド社)
外部リンク
関連項目
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